地 平

 


 ミルクを温めて、少しだけ砂糖を溶かして、マグカップになみなみと注ぐ。それを大切そうに両手で持って、雄介はカウンターの定位置にどっかりと腰を据える。
 深夜、零時。冬の気配を感じさせる寒い夜。少しかじかんでしまった両手を、マグカップで温めてから、針金や色のついたガラスの欠片や薄いアルミ板などをカウンターに広げる。技というよりは、趣味に近いアクセサリー作りを始めようというのだ。こんな時間に、わざわざ店で。
 ほどよい温度になったミルクに口をつけ、身体のなかから寒さを追い出す。
「今日は、無理、だよね」
 雄介は、溜め息混じりの独り言を吐き出しながら、視線を電話に向けた。
 ―――大丈夫。一条さんだから、大丈夫。
 昼間、彼の同僚にはそう言いきった。けれど、ひとりになってみれば、一条の戦線離脱の現実が胸にせまる。切なげに、目を伏せる。
 そこへ、電話のベルがひそやかに鳴る。雄介が電話機を調整して、音量を最低にしているのだ。
 それでも辺りをはばかるように、1コールも鳴り終わらないうちに受話器をあげる。
「はい、オリエンタルな・・・・・・」
 深夜零時過ぎにかかってくる電話が、店の客である確率は大変低い。それでも、雄介がそんな風に電話に出るのは、律儀だとか真面目だとかいうよりも、単なる癖だ。癖、よりも、電話の相手の微かにもらす苦笑を聞きたいから、なのかも知れない。
 しかし、今夜ばかりは、相手はいつもの雄介の出方にくすっと笑うそのひとでは有り得ない。その、はずだった。
 なにせ、ほぼ毎晩のように電話をくれるかのひとは、今はバラのタトゥの女に怪我をさせられ全治三週間で入院中なのだ。
 なのに、受話器からはいつも通りの苦笑が、かすかに伝わってきた。
「一条さん! 駄目でしょう、まだ安静にしてなきゃ」
『どうして、解った?』
 驚いたような問いかけに、雄介は見えないのが解っていて地団太を踏む。
「だって、それはいつも通りに一条さんが笑ったから。って、そんなこと言ってる場合じゃないんです。まだ、具合が悪いんでしょう? ああ、だいたいこの電話、どこからなんです? 病室抜け出して、公衆電話使ってるんですか?」
 雄介の勢いに閉口したような一瞬の沈黙のあと、言いにくそうに小さな答えが返る。
『いや、ベッドにちゃんといる。携帯からだ』
「病院は携帯使っちゃいけないんでしょう? 刑事さんが、守らないなんてまずいじゃないですか!」
 電話で声を聞けただけでも、飛び上がりたいほど嬉しいくせに、雄介はそれを押し隠して一条の行為を責める。自分は嬉しいが、しっかり療養してもらいたいという気持ちも本当だった。
『昼間、椿に睡眠剤の点滴を打たれたんだ』
「だったら、寝てなきゃってことでしょう?」
『そう。だから今、俺の刑事としての常識も良心もみんな睡眠中なんだ』
 一条としては、ジョークのつもりだったようだ。しかし、どう聞いてもいっぱい、いっぱい。それがかえって日頃の一条を知る人間には笑える。雄介は、かくっと肩を落として、これ以上の文句をあきらめる。
「それで、常識や良心眠らせてまで、俺の声が聴きたかったんですか?」
 立ち直り早く、嬉しそうに問いかけた。けれど。
『そんなはずがあるか!』
 きっぱり、すっかり否定された。
「じゃあ、43号のことでなにか気がついたことでもあるんですか?」
 雄介は、そう聴きながら手許にある針金を無意味にぐるぐると指に巻きつける。
『いや、ただ誤解のないように、さきに言っておこうと思ったんだ』
「なんです?」
『昼間、椿とおまえのことを話した。俺と別れられる日が一日も早く来ればいいって』
「それは、一条さんが俺と早く別れたいって意味じゃなくて、ただ俺に平和な日常が戻ればいいって意味だから誤解するなってことですか?」
 雄介は、あっさりと結論を出して静かに答えた。けれど、一条は受話器の向こう側で、微かに息を飲む気配をさせた。
『それを言ったあとで、椿が俺に素直じゃないって言ったんだ。だから、椿からおまえにこのことがもれたら、今おまえの言ったままの伝え方をするだろうと思って。でも、そんなの誤解だから、さきに言っておこうと思ったんだ』
「俺の解釈が、誤解ですか?」
 まるで信じていないように、雄介が聞き返す。
『全部が、とは言わない。おまえには気ままな冒険が似合うと思う。ただ、俺はそれを心から言ってる。素直じゃない、なんてあいつの誤解だから』
 雄介は指に巻きつけた針金を伸ばして、もう片方の指に巻き取った。
「だけど一条さん。俺が冒険に出るのと、一条さんと別れるのは、全然イコールで結べない話ですからね」
 言って、ぬるくなったホットミルクを一口すする。
「以前、一条さん昔読んだ小説の話をしてくれましたよね。だから、今日は俺が昔読んだ物語の話をします」
 最愛のひとから別れるなんて言葉を聞かされた直後だというのに、雄介は楽しそうに語る。
「主人公は中近東の小国の王子様で、彼はあるとき数人のグループで砂漠を旅することになるんです。で、その仲間のなかに若い女性もいて、砂漠にはトイレがないと訴える。すると、その金髪で美形の王子様は砂漠の地平にうでを広げて『この大自然すべてが広大な便器だ!』って言うんですよ」
『五代・・・・・・その話は、いったい・・・・・・?』
 電話の向こうで、一条は額に手を当てているようだ。雄介が、その物語でなにを言いたいのかが、まるで見えない。
「俺は、感動しましたね。ものの見方を変えれば、こんなにも視野は広がる。人間は、しぶといって」
『それで?』
「上野から成田空港までは、スカイライナーで51分なんですけど。51分も、かかると思います? それとも、たった51分だと思いますか?」
『・・・・・・』
 微かな溜め息で、一条が呆れながらも取り敢えずまだ聴いているらしいことが解る。
「俺、今から宇宙飛行士にはなれませんからね。どんな冒険に出ていっても、たかだか地球のうえのどこかです。くだんの王子様が指摘した地平に広がる便器のどこかですよ。例え、海が間にあっても、そもそも海の底だって結局はつながっているでしょう。だから、地球のうえにいる限り、どこだって日本と地続きでしょう?」
『五代。俺はいま、どうしようもない屁理屈を聴かされてる気がするんだが』
「あーっ、一条さんっっっ!!」
 唐突に雄介は、大きな声をあげた。
『どうしたんだ?』
「すみません。やっぱり具合悪いのに、こんな長電話しちゃ、いけなかったんですよ。まだ、本調子には程遠いんですね。だから、きっとこんな非の打ち所のない正論が、屁理屈なんかに聴こえちゃうんです!」
『・・・・・・五代、ひとつ訊いてもいいか?』
「なんですか?」
『さっきの便器の話。出典は、なんだ?』
「内緒です」
『なんだ、このまえの仕返しのつもりか?』
「いいえ。出典が解っても、どうせ一条さんには探し出せないから言わないだけですよ。それより、ちゃんと聴いてくれたでしょう? 俺、もしもまた冒険野郎に戻れても、一条さんと別れる気はさらさらありませんからね!」
 そう宣言するのに気合いを入れすぎて、さっきまで手のなかで弄んでいた針金が、ぶつりと切れた。雄介は、苦笑してそれを燃えないゴミ箱に放り込む。
『五代・・・・・・』
「入院中まで、電話をくださってありがとうございました。今晩も一条さんの声が聴けて、すっごい嬉しかったです。でも、もう寝てください。寝て、いい夢を。そうだ、俺の夢、たくさん見てくださいね! それじゃあ、おやすみなさい」
 雄介は、言いたいことだけ言って、一方的に受話器を置いた。
 飲み終わったマグカップを流しに戻して洗いながら、闇に向かって小さく呟く。
「まさか、出典がみのりのとこにあった少女マンガだとはさすがに言えなかったなぁ」
 そして、カップを伏せて、大きくひとつ伸びをする。
「さてと、俺も寝よう。一条さんの夢が見れるといいなー」
 
 
 海も遮る川さえない、間違いなく地続きにある店と病院の距離で眠る恋人たちが、その夜、夢で会えたかどうかは、きっとこれをご覧の読者様の想像通りに。
 
 

fin.2000.10.31