特効薬

 別に瑞から思われるような、人間不信だったわけではない。単独行動が多いとか、無愛想であるとかは、よく言われることだが、意識してそうしてきたわけではなかった。合理的に、効率的に、なによりも一般市民の安全を優先して考えて行動していたら結果的にそうなった、というだけのこと。他人を信じないできたわけでなはないのだ。それでも、誰よりも自分自身の実力を頼みにしてきたことだけは、認めなければならないだろうが。
 口に出して言ったことはなかったが、一条はそう考えていた。刑事としての実績に対する上司の評価を鼻にかけてきたつもりもないし、そんな自分に酔って肩肘張ってきたわけでもない。
 それでも少々誤解を生みやすいのは、容姿も刑事としての実力も出来すぎているのに、本人にその自覚がないせいで、時折その言動が凡人にとっては厭味と聴こえてしまったりするところ。
 雄介には、なんどもそんなことを指摘されたけれど、一条はいつも笑って聞き流していた。
 だから、その会話をあとからなんども思い返すのは、一条にとって意外なことだった。
 あの日、雄介が最後の戦いを終えて、これから冒険に出ようという、そのときになって真顔で言ったのだ。
「俺、ちょっと心配です。一条さん、犯人が拳銃持ってても、冷静さをなくして狂気にとらわれてるような奴でも、誰よりも一番最初に向かっていくでしょう?」
「なんの話だ?」
「相手が奴らじゃなくても行動パターンはきっと一緒なんだ。だから、ひたすら日本の平和を祈ってますよ」
 雄介は、極力気軽そうなようすを装いながら言った。
「ホントはずっとそばにいて、一条さんの盾になりたい。一条さんがあんまり無謀な行動をとらないように、怪我したら泣く奴がいるんだって、ちゃんと解っててもらえたらいいと思う」
 しかし、そう語る瞳は真剣で、深刻だった。
「余計な心配だな。俺は、君と出会うよりもまえから、ずっとこの仕事を続けてきたんだ。無事に、勤めてきた。これからも、それは変わらないさ」
 その言葉を聴いて、雄介は頬をこわばらせた。
「昨日までの幸せが、明日も続くと信じてる。だけど、現実はそうじゃないんです。父が他界したときは、あんまり実感湧きませんでした。もう長い間、そばにいないことが常態になっていたから。でも、母が病死したときには、思わずにいられませんでしたよ。昨日まで、どころか、ほんの数時間まえまでは、やさしく笑いかけてくれたひとが、ふいに逝ってしまうこともある。今まであったから、今この手にあるから、それが永遠に続くなんてことは有り得ないんだなって」
「五代」
 一条は、ただその名前を呼ぶだけで精一杯だった。案外、心配性なところもあるんだな、と笑いとばせない自分を悔しく思いながら。
「ごめんなさい。一条さんにそんな顔させたくて言ったんじゃないんです。それに、一条さんだって、お父さん亡くしたとき、同じことを思ったでしょう? わざわざ言うことじゃないですよね」
 雄介の声は段々小さくなっていった。俯いて、唇をかみしめる。
「いいんだ。君にとってお母さんを亡くされたときの記憶は、俺の父のときよりもずっと最近で生々しいものなんだろう」
 雄介は、かぶりを振る。やさしく微笑んで、真っ直ぐに一条を見る。
「大切なひとを亡くした記憶に、時間なんか関係ないです。どんなに時間が経っても、哀しい気持ちが薄れるなんてことはありませんよ。ただ、平気そうなフリを覚えるだけです。なんでもないようなポーズがうまくなるってだけのことです。一条さんも、そうじゃありませんか?」
「そうだな。そうかも知れないな」
「でも俺、もし一条さんになんかあったら。怪我したってだけでも、平気なフリさえ出来ませんから。お願いですから、あんまり無謀なことしないでくださいね!」
 雄介は、自分のことを棚にあげて、一条のことばかりを気にしている。これから、久し振りに冒険の旅に出ようというときになって、一条の心配ばかりを口にする。
 勝手なものだな、と一条は思う。死んでしまったのではないかと、なんど心配させられたことか。胸が塞がれるような思いに、押し潰されそうになったことも一度ならずあったというのに。そう思っても、必死な瞳で懇願されて、無碍にあしらうことも出来ない。
「大丈夫だ。無茶はしない」
 雄介は、その言葉にとても嬉しそうな笑顔を見せた。心からの、あたたかくて明るい笑顔を。


「一条さん。一条さん」
「ん?」
「まーた、五代さんのこと考えてはったんでしょう?」
 七緒はそう言って、盛大な溜め息をつく。勿論、一条に聴かせるために大袈裟に。
「・・・そんなことはない」
 回想から現実に引き戻された一条は、いつものポーカーフェイスで答えるのに、少しだけ遅れてしまった。
「駄目やね。嘘つくなら、そんな間あけたら。バレバレやないですか。もう、一条さんらしくない緩んだ顔してるし」
 鋭く指摘されて、一条は頬に手をあてる。
「動機・息切れ・眩暈。龍●散くらいで治るようなら、いくらでも買うてきますけど、無理でしょうね」
 七緒に言われて、考えてしまう。
 そうだ。気ままな冒険が似合うなどと言いながら、自分のほうこそ解ってなかった。一条に向けられるあのあたたかでやさしい笑顔が、昨日までと同じように、今日も、そしてこれからも、ずっと変わらずに傍らにあるものだと、何故だか信じていた。いや、信じたかっただけなのだろうか? 冒険に旅立ってしまえば当分その笑顔に会うことも出来ないのだと、頭では理解していたつもりなのに、感情は少しも納得出来ていなかった。
 だから、ことあるごとに、思い出す。なにかの拍子に、頭は簡単に回想モードに突入してしまう。
「大袈裟だな。ちょっと、考え事をしていただけなのに」
 それでも一条は、取り繕うように言った。俳優の仕事で役もついて、稽古で忙しいのに合間をみつけては、わざわざ東京から長野までバイクを飛ばしてやってくる雄介の弟分に余計な心配をかけたくない。七緒が、今でもまだ雄介を好きで、なのにずっと会えなくて辛い気持ちでいることも知っている。
「一条さん、えらい綺麗やのに、自分のこと鏡で見たりしてます?」
「それは、勿論、毎朝鬚を剃るし、髪だってとかしているが」
「そしたら、部分的にしか見とらんのでしょうね。そんなに、げっそりしてることにも気ぃつかんくらいなんやから」
 警視庁に異動になったときとは逆に、同僚から東京に彼女を置いてきたんじゃないのかと、冷やかされたことはなんどかあった。確か、飯を作ってくれるひともいないので、痩せたのではないか、などという類の冷やかしだったと記憶している。
 だが、それは単に冷やかすネタとして言われただけで、実際にはそれほどやつれてなどいないはずだ。
 少なくとも、自分で見た限りでは、普段通り、別に変わりはない。
「偏食など、今に始まったことではないし。今まで嫌いなものを食べずとも、これだけ育ってきたんだ。やつれてなんか、いないんじゃないか?」
 雄介を思っている七緒だから、彼の不在が一条に影を落としているのだと、そう思いたいだけなのではないか。一条は、そんな風に解釈していた。
 けれど、七緒は切ない瞳で一条の頬に触れる。
「やせ我慢も、男の甲斐性やと思ってはるのかも知れないけど。もう限界ですわ。今の一条さんは、見てるこっちが辛い。あんまり痛々しい。無意識の溜め息の数が、どれだけ増えたかなんてことも、ちっとも気ぃついとらんのでしょう?」
「溜め息なんか・・・」
「ついてますよ。ほんまに、こっちの胸がぐさっとくるような、ふか〜いのをね」
 自覚はなかった。だが、そう言われてしまえば、そうなのだろうと思うしかない。
「すまない」
「誤解しないでください。別に、責めてるのとちゃいますわ。ただ、ほんまは癪やけど、しゃあない。一条さんにとっての特効薬。知ってて黙っとくことも出来ませんから」
「特効薬?」
 怪訝そうに聴き返す一条に、七緒は特上の微笑みを見せる。ひどく、雄介に似た表情だった。
「これから、成田に行きましょう。何時の便かまで連絡してこなかったけど、朝から張ってれば、会えるはずです」
「それは、そうだろうが」
 一条のもとへも、帰るという連絡はあった。明日、帰国する。呆れるほどに、簡略な知らせ。
 そのせいで、出国するまえのあれこれを、いつもよりもよけいに思い出していたのだ。別段、四六時中雄介のことばかり考えていた、というわけではない。と、一条は心のなかでだけ、七緒に言い訳をする。
 そうして躊躇している一条の腕を、七緒は強引に引っ張った。
「ほんまに、むっちゃ腹立つわ。僕が、どれだけ頑張っても、一条さんどんどん壊れてって。せやのに、五代さんが帰ってくる。それだけでもう、すっかり元気になれるんでしょう?」
「俺は、今だって充分元気だろう?」
「あかんわ。ほんまに、どこまでも無自覚なんですね。でも、会えばはっきりします。一条さんにとっては、五代さんの笑顔ひとつが百万の薬よりもよく効く特効薬なんやって」
 押さえても、押さえてもあふれる想い。
 一分でも、一秒でも早く会いたいと願う心。
 今時、女子高校生でもこんな純な気持ちで誰かを恋焦がれたりなどしないだろう。
 だから、そっと隠しておいたはずなのだ。普段通りに、なにも変わったことなどないように。ずっと平静を装って、変わらず過ごしてきたはずだ。
 それでも、七緒には見抜かれてしまっている。もう、これ以上恰好つけても意味がない。
「51分だって、待っていられないな」
 一条は、笑って上着に袖を通した。
「一条さん、長野からじゃスカイライナーには乗れませんよ」
「そうだったな」
 そうして二人は、成田まで七緒のバイクで向かうのだった。
 これ以上、心が擦り切れてしまうまえに、最強の特効薬を手に入れるために。


 

fin.2001.3.20