彼はとても淋しそうな横顔をしていた。
お日様が少しだけ傾きかける頃にやってきて、夕陽が沈むまでそこに足を投げ出している。
ただ、寝転んでいるだけのときもあれば、スケッチブックになにか描いているときもある。
姉が、あれは「日本人」というのだと教えてくれた。白っぽいけれど白人とは明らかに違うやわらかな色合いの肌に、黒い髪。黒い瞳で、頭が小さくて、手足が長い。
「嘘でしょう、お姉ちゃん。だって、日本人って出っ歯でメガネをかけてて、いつだってせこせこ働きまくっている人種のことでしょう? 彼は出っ歯じゃないしメガネもかけていないし、いつものんびり海を見てる」
と言ったら、大笑いされてしまった。
「なにを読んだか知らないけど、それは大昔の単なるイメージよ。あなたの髪は栗色でくせがない。私のは銀色で巻き毛。瞳の色も少し違うけど、同じ国の人間でしょう? それと同様に、日本人にも色んな種類がいるのよ」
姉の説明は、いつだって解りやすい。それだから彼は、あんまりイメージじゃないけど、やはり「日本人」なのだ。
この国にはあんまり日本人はこない。何故かというと、彼らの大好きな「商売」になるような産業もないし、レジャーを楽しむような観光名所もないからだ。あるのはただ、綺麗な海と、白い砂浜だけ。ダイビングの設備もなければそれ用のボートもないし、サーフィンをやるような波もない。地形の関係らしいのだけれど、とにかくほとんど毎日、海はただ凪いでいる。
それでもこの国の人間にとっては、それが当たり前だ。漁をするには、海は凪いでいてくれたほうがいいのだし、騒がしい観光地にしたてあげてまでお金を稼ぎたいという考え方をする者もいない。食べられる分だけを稼ぎ、贅沢を望まない。
彼は「日本人」には用がなさそうなこんな田舎の国に、なにをしに来たのだろう?
単なる旅行者にしては軽装で、異国の地にいるという緊張感がまるで感じられない。
ただ、淋しそうなのだけは、毎日変わらない。
いつだって、海のとおくを眺めているその瞳が、頼りなく揺れているように見える。
その日彼は、スケッチブックにむかって熱心にクレパスを動かしていた。好奇心を押さえきれなくなって、後ろからそっと覗き込んだ。彼は、夢中で描いているせいか振り返らない。
描いていたのは、海面にはじけるお日様の光だった。
とても、抽象的な線の連なり。その場にいなければ、なにを描いているのか解らなかったかも知れない。
けれど、彼の視線の先はまぶしくて、とても美しい。だから、描いているものがあるとすれば、それはあのはじける光にほかならない。
海に向かって、ただ海を描くのではなく、一番美しく見える部分を切り取ろうとするかのような、そんな題材の選び方が新鮮だと思った。見慣れないエキゾチックな雰囲気とあいまって、ますます彼への興味を深めていってしまった。
翌日、彼はこんどは変な形の雲を描いていた。空を見上げると、なるほどそっくりな形の白い雲がぽっかりと浮かんでいる。ただ、ちょっと心配になってしまったのは、空にはたった一つしかないその形の雲を、彼はスケッチブックにいくつもいくつも描いていたこと。一心不乱にクレパスをふるう彼の姿は、なんだか痛々しい。なにかに追い詰められているような、ひどく焦っているようなようすが伺える。
どうして、そんなに淋しそうなの?
なにに、そんなに苦しんでいるの?
訊きたいのに、かける言葉が解らない。姉が教えてくれた。「日本人」は「日本語」で話すけれど、最近では「英語」も話せるひとが増えているのだと。なのに、日本語も英語も解らない。
だからとっても気になるけれど、見ているだけ。そう思っていたけれど、あんな辛そうなようすを見てしまっては、放っておけない。姉に英語を教えてもらおう。少しでもいいから、言葉をかわしたい。頑張って英語を覚えたら、笑いかけてくれるだろうか?
繊細そうな細面で、やさしい瞳をしているから、あれで笑ってくれたら、どんなに素敵な顔になるだろうかとわくわくする。
一度でいいから、笑顔が見たい。
必死で英語を勉強して、挨拶くらいは出来るようになった。
今日こそは、彼に話しかけよう。そう決意して海辺に行くと、彼はいつものように長い足を投げ出して砂浜に座りこみ、いつもとは違ってなにかを読んでいた。
近寄ってみると、白くて薄い紙・・・多分、便箋・・・だった。
恋人からの手紙だろうか? ならばもう、彼は淋しい顔をしなくてすむのだろうか?
それは、とても喜ばしいことのはずなのに、何故だか胸がざわめいて、手放しで祝福したい気持ちにはなれない。
そんなことを考えながら、失礼だと思いながらも足はどんどん彼のほうに近寄っていってしまう。
近くで見ると、やはり手紙を読んでいるらしいことが解った。そして、それはあまり彼にとって喜ばしい内容の手紙ではなかったらしい、ということも。
神妙な顔をして読んでいる彼の瞳は、いつもよりも暗い影がさしているようだった。
もしかしたらあの手紙は、恋人からではなくて、恋人のお母さんかお父さんからで、恋人の死を知らせるものだったりするのだろうか? 彼の暗い表情を見ていると、それくらいのことが書いてあってもおかしくないような気がしてくる。
どうしよう? 挨拶しか出来ない英語では、とても彼をなぐさめることなんか無理だ。
歌でもうたってみようか? メロディーの美しさならば万国共通のものかも知れない。けれど、いきなりなんの説明もせずに歌い出したりしたら変すぎる。彼に異常者と間違えられて、逃げられてしまうかも知れない。
どうしたらいいだろう?
迷っているうちに、彼は手紙を読み終わったらしい。
「わーっ」
と、叫んで便箋をくしゃくしゃにまるめると、それを握ったまま海に向かって走り出した。
もしかして、入水自殺? やっぱり、あの手紙は恋人の死を知らせるものだったの? それとも、恋人からの別れの言葉でも書いてあった?
今日も暖かい陽射しが降り注ぐ昼間だから、海に入ったくらいで死ねるとは思えないけれど。でも、彼は今までここに佇むばかりでいつも海には入らなかった。もしかしたら、泳げないのかも知れない。そう疑いたくなるほど砂浜にばかりいた。
だいたい、泳ぐなら服を着たままというのがおかしいし、あの奇妙な叫び声も怖い。
そこまで考えて、慌てて走り出した。
一生懸命走って、走って、ようやく彼に追いついた。バシャバシャと水に入っていく彼の腰にしがみつく。
「STOP! NO! STOP!」
ほかの単語は思い浮かばなかった。だから、やめてと繰り返して、あとはただ実力行使あるのみ。
「ごめんね。違うんだ。大丈夫だから、でも、ごめんね」
とても優しい声で、謝られ、その意味がすっかり理解出来ることに、愕然とした。彼は、この国の言葉を喋れるらしい。
「自殺しようとしたんじゃないの?」
「違うよ。ただ、頭冷やして考えたいことがあっただけだよ」
「ごめんなさい。勘違いだった」
「俺が挙動不審なことしたのが悪いよね。ごめんね。心配してくれて、ありがとう」
彼はそう言って、安心させようとするかのように笑ってくれた。けれどその表情は、まだどこか淋しそうで、見ていると胸が苦しくなるような気がした。
それから二人で、砂浜に座り込んで話をした。
「俺ね、五代雄介って言うんだよ。ゴダイ・ユウスケ」
ユウスケは、ゆっくり区切って解りやすいように教えてくれた。
「君は?」
「カール」
名乗ったら、ユウスケは目を見開いて硬直した。大丈夫かな? と、心配になるような間のあとで、呆然とした顔で言う。
「かおる? じゃないよね。ごめん。カールって言ったんだよね」
「カヲルっていうのは、ユウスケの恋人の名前?」
いつも考えていると、ちょっと似ているだけの言葉も全部それに聞こえたりするものでしょう?
「うーん。俺は、そう思ってるんだけどね。今でも、大切な恋人だって。でも、むこうはどうかなぁ」
淋しそうな目をして、ユウスケは頭をかいた。おどけてみせようとしたのだろうけど、完全に失敗してる。
「もしかしたら、さっきの手紙、そのひとから?」
「違うよ。そのひとの、近くにいる俺の弟から。もう、帰ってこなくていいって」
「それで、海に入っていったの?」
「そう。なんだか、なにをどう考えていいのか、混乱しちゃってね」
せっかくやっと話が出来たのに、残念だな。でも、ユウスケが屈託なく笑っていられる場所は、ここじゃないんだ。大切なひとと離れたままで、ずっとあんな淋しそうにしているのは、やっぱり可哀想だよね。
「ユウスケ、ずっと淋しそうに海のとおくを見てたでしょう?」
「そうだった? 俺、そんなに淋しそうだった?」
無意識だったらしく、ユウスケは驚いたようすで訊き返してきた。
「もうね、思いっきり悲哀を背中に背負ってる感じだったよ。出っ歯でもないし、メガネでもないし、エコノミックアニマルでもないのに、勿体無いって、思ってたんだ」
ユウスケも、姉と似たような反応で、その言葉に大笑いした。もう、目から涙を流しそうな勢いで笑ってくれた。
「今は歯並びなんか矯正するひとが多いし、メガネよりもコンタクトレンズが主流だからね。でも、俺は最初から視力はいいんだよ。だから、コンタクトも入れてない。エコノミックアニマルなんて、随分古い難しい言葉を知ってるんだね?」
「ひとを身長と見た目で判断しないでよ。僕は、ユウスケよりも多分10歳くらい年上なんだからね」
病気で、成長が止まってしまった。身体が弱いから普通の仕事を持つことも出来ない。療養と称して、この静かな国に建てられた親の別荘にかくまわれるようにして育った。親は、姉に僕を任せたきりで、一度も会いにこない。だから、僕はこの国の言葉しか喋れない。この国の言葉に翻訳された本ばかりをたくさん読んできた。
でも、それはユウスケには関係ない。ただの通りすがりの旅行者に、そこまで説明する必要はない。なのに、つい勢いで言ってしまった。これを聴くと、みんな同情いっぱいの目で僕を見て、居心地悪そうに謝罪して去っていくって決まってるのに。
「なぁんだ、そっかぁ。じゃあ、人生の先輩だね。エコノミックアニマルくらい、知ってるよね。失礼しました」
だけどユウスケはそう言って、ぺこりと頭を下げた。
あまりに軽い反応に、唖然としている僕に構わず、また視線を海に転じて言う。
「だったら、その人生の先輩に相談しちゃおっかなぁ」
「なんだい。なんでも、聴きたまえ」
笑って軽口につきあうと、ユウスケは少しだけ表情を改めて背筋を伸ばした。
「実は、海を見ながらずっと考えてたんですけど、全然答えが見つからなくて。俺ね、日本で、長い間これをふるって悪い奴をやっつけてきたんですよ」
と、ユウスケは拳を握って見せた。
「だけど、暴力なんかよくないことは解ってて。でも、ほかに方法はないと思ったし、犠牲者を増やしたくなかったから。そう自分に言い聞かせてました。だけど、そういう悪い奴らへの対抗手段が結局奴らと同じ暴力だったってこと、悔やむ気持ちがあって、それじゃあ自分も奴らと同レベルじゃないかって、そんな風に思えてしまって、いたたまれないんです」
ユウスケの話は、ちょっと解りにくかった。悪い奴らというのも、どういう類のものたちなのか、いまひとつ想像出来ない。
そのうえ、ユウスケはあんまり強そうじゃない。暴力で他者をねじ伏せるようなタイプにはとても見えない。
「どういう状況なのか、ちょっと解りにくいんだけど。でも、解ってることだけ言うとね。ここで海を見てても無駄だってことだね。淋しい、淋しいって、全身淋しさの塊みたいな状態で、なにが考えられると思う? そんな状況で考えて、まともな結論が出せるはずないでしょう?」
「淋しさの塊・・・そんなにですか?」
「そうだよ。だいたい、人間には闘争本能っていうのが最初から備わってるんだ。戦争が、科学や文化を発展させてきた。歴史を紐解けばよく解る事実だよ。哀しいことだけれど、人は人と争うことで高みを目指してきた生き物なんだ。僕らはそうした悲しい歴史のうえに築かれた危うい平和と文化的な生活というやつを安穏と受け入れてきた。そうだとしたら、自らの手を汚さずに、ただその豊かな文化の恩恵だけにあずかっている人間のほうがよほど卑怯者だということにもなる。君がその拳をふるったことで、傷ついて、自分を許せなく思うのなら、それは君がそれだけピュアで優しい魂の持ち主だということだよ」
ついつい早口でまくしたててしまった。ユウスケの傷口の深さを覗き込んでしまったような気がして、それをどうしてもふさいであげたくて、必死に言葉を重ねた。
「そんなに哀しそうに海を見てるひまがあったら、早く恋人のところに帰りなさい。大切なひとのそばで、満ち足りた心で、もっと余裕のある状態でものを考えたほうがいい。どうせその帰ってくるなという手紙も、早く戻れという言葉の裏返しなんでしょう?」
「やっぱり、そう思います?」
「ほかに、考えようがないね」
自信たっぷりに言ってあげたら、ユウスケは泣きそうな顔で微笑んだ。なんだか、それはとてもイカシた笑顔で、こっちまで嬉しくなる。
「ありがとう、カール。俺、帰ります」
海のとおくばかりを見ていたユウスケの瞳は、今はしっかり自分の足許を見据えて生き生きと輝いていた。
fin.2001.3.13