罪のない嘘

 

 もうすぐ雪が溶ける。だけど、五代さんは帰ってこない。
 あの日、最後にあの笑顔を見た日に約束をした。一条さんに妙な虫がつかんように、よおく見張っとくって。
 そのときにはまだ、一条さんが長野県警に戻ってしまうなんて、考えもしなかったから。そして自分自身が、端役とはいえ名前のある役をもらえるようになるとか、そのせいで多忙な日々を過ごすことになるとか、そんなあれこれも、とても想像つかなかったから。
 新幹線あさまに乗れば東京―長野間はわずかに2時間足らずの距離だ。だけど、往復で移動に4時間、そのほかに約15000円の交通費も駆け出しの役者の身には辛いものがある。半年に一度とか、せいぜい二度ほどのことであれば、たいしたことはないかも知れないけど、そんなんじゃ、とても五代さんとの約束を果たせない。
 だから中古でバイクを手に入れた。格安なのにそのうえ24回ローンを組んで。そうして稽古が一日でも休みになれば、長野に通った。あのひとが、常日頃の一条薫そのままであるならば、そこまですることなんかなかっただろう。ただ刑事としての仕事に忙殺されて、慌しく日々を過ごしているというだけなら、僕などが度々お邪魔しては迷惑なのが解るから。
 あのひとは、僕がこの距離をものともせずに通いつめることに、戸惑っているようすだった。迷惑というほどのことはないにしても、なか二日やそこらでまた訪ねたときなどは、きっと辟易していたことだろう。
 それに気がついていながら、やめられなかった。あんな状態のあのひとを、ひとりで放っておくことなんか、出来るはずがなかった。
 僕と五代さんは、顔の造作が似ているとよく言われる。けども、喋り方とか仕草とかは、全然似てない。恐らく雰囲気が違うということなんだろう。だから、誰も間違えない。顔がそっくりでも、誰にでもすぐに見分けがつく。
 なのにあの日。僕が初めてバイクで長野を訪ねた日。一条さんはヘルメットを手にした僕を見て、ほんの一瞬だけど、すごく嬉しそうな表情を見せた。そして、すぐに思い違いに気がついて、表情を凍らせた。
「あー、一条さん今僕のこと五代さんと間違えたんやないですか?」
 気まずい沈黙を破るには、ギャグにしてしまうほかないって思った。
 だけど一条さんは、すごく真面目な顔で首を振った。
「いや、しばらく会わないうちにちょっとおとなっぽくなったな、と考えていただけだよ。久し振りだね、七緒君」
 そう言って、やさしく微笑んだ。
 何故だかその微笑は、儚げで切なくて、胸が痛くなった。無理して笑っているのがありありと解る表情。なのに、本人にはその自覚すらないようだった。
 どうして五代さんは、こんなひとを独りにしておくことが出来るんだろう?
「一条さん、まだ仕事残ってはるんですか?」
 そこは長野県警のエントランス脇で、僕は通りかかった婦警さんに一条さんを呼び出してもらったところだった。まだ寒さを感じる夕暮れ時で、普通のサラリーマンであればそろそろ家路に着こうかという頃合だった。本来なら一条さんの非番に合わせて訪ねて来たい所なのだけれど、その日と自分の休みが偶然一致するのを待っていたら、いつ会えるか解らない。だから、早めに稽古が切り上げられて明日はスタジオの都合で休みになったチャンスを逃さず、高速をかっとんできたのだった。
 小脇に抱えたヘルメットと、僕の勢いでそれを察してくれたらしい一条さんは、すまなさそうな顔をする。
「ああ、もうしばらくかかりそうだな」
 そんな台詞は当然予想の範疇だったから、僕はにっこり笑ってあたりを見回した。
「そしたら僕、そこらのファミレスにでも行って、待ってます」
 実は以前、五代さんが桜子さんと一緒に入ったファミレスもチェック済みで、バイクで行けばそれほど遠くないことを知っている。最初から、すぐに一条さんの仕事が終わるとは思っていなかったので、そこで時間つぶしをすればいいと考えていた。
 けれど、一条さんは、とんでもない、というように大きな目で僕を見る。
「君をそんなところで独り待たせておくわけにはいかない。あまり居心地はよくないかも知れないが、なかで待っていてくれないか?」
 と、一条さんは長野県警を振り返りながら言った。
 ここが、今の一条さんの職場だと思うと興味があった。僕に否やのあるはずがなかった。
 
 
「どーぞ、熱いから気をつけてね」
 小さな応接セットのある部屋に通された。一条さんは、なるべく急いで仕事を片づけるからと約束して足早に出ていってしまった。
 そうして、しばらくすると、湯気の立つコーヒーカップをトレイに載せて、さっき外で会って一条さんに取り次いでくれた婦警さんが入って来た。よく見ると、それなりに整った顔立ちでちょっと気の強そうな美人だったけど、さっきまで一条さんの顔を見ていたせいか、あんまりインパクトが感じられない。
 なんて、失礼なことを考えて顔を見ていた僕に、婦警さんは微笑みかける。
「東京からバイクに乗った青年が訪ねてきたって一条さんに伝えたら、すごい勢いで出てったけど、なんで名前を名乗らなかったの?」
 婦警さんはトレイを胸に抱え込んだままで、立ち去る気配もなくそんな質問をぶつけてくる。
「ほんの茶目っけです」
 僕の本名を名乗るよりも、勝手に誤解した一条さんが速攻で出てきてくれるって解っていたんです。とは説明出来ずに、笑っていると、婦警さんはなおも身を乗り出すようにして僕の顔を覗き込んできた。
「彼ね、東京から帰ってきてから雰囲気がやわらかくなったって評判なの。だからきっと、東京で恋人でも出来たんじゃないかって、最初はみんな大騒ぎだったのよ。でも、その割には相変わらずのワーカホリックで、遠距離恋愛してるようすなんか欠片も見られないから、若い子たちが想像力をたくましくしちゃってねぇ」
 一番たくましそうなのは、あまり若そうには見えませんが、あなたでは? と聴くわけにもいかず、僕は黙って拝聴している。
 婦警さんは立っているのに疲れたのか、僕の目の前のソファにどっかりと腰を下ろして、長期戦のかまえだ。
「一条さん、まえよりはずっとよく笑顔を見せてくれるようになったし、話しかけやすいんだけど、時折ふっと、切なげな表情を見せるのよ。それがまた、見ているこっちが居たたまれなくなるような・・・犯罪級の色っぽさで」
 このひと、日本語の使い方間違ってるよ。とは思うものの、なんとなく言いたいことは解る。
「もしかしたら、ひとに言えないような恋をしてるんじゃないか、とか。一条さんのあの美貌につりあう相手となるとやっぱりモデルや女優で、しかもかなりの大物だからマスコミに隠れてこっそりたまにしか会えないのかも知れない、とか。相手はきっと人妻で、しかもその旦那は警視庁の偉いさんの誰かかも知れない、だとか。挙句の果てには、いや、その恋の相手自身が警視庁の上司かも知れない、なんて言いだす子までいてね」
 確かに、たくましい想像力だ。けど、ひとに言えないってところだけは当たってるところが、女の勘は侮りがたいところかも。
「わざわざ東京から訪ねてきた一条さんのお客さんって君が初めてなのよね。もしかして君、東京での彼のこと知っているんじゃないかな? ほら、このままだといい加減な噂話ばかりが一人歩きしちゃって、一条さんのためにもならないでしょう? なにか知ってることがあるなら、教えてくれないかな?」
 婦警さんの長広舌の行き着くところが、その質問であるだろうことは、最初から解っていた。そして、僕はその質問に対する答えもしっかり準備万端で、にっこり微笑み効果的な間をとってからわざと声のトーンを下げた。
「実は、これ、ここだけの話にしといてもらいたいんですけど」
 ここだけの話、と前置きして、皆さんにお伝えくださいな、という意味を正確に把握してくれたらしい婦警さんは息を飲んで、大きく頷き期待に目を輝かせた。どういうわけか、こう前置きすると情報伝達速度は倍くらいに跳ね上がることと、相場は決まっている。
「実はその恋人、僕なんです」
「は?」
 婦警さんは、ぽかんと口をあけたままで固まってしまった。
「さすがに児童福祉法に触れるような歳やありませんけど、一応まだ僕未成年やし、しかも男やから、それで一条さん内緒にしてるんですわ」
「本当に?」
「婦警さんも見はったでしょう? さっきの一条さんのようす。僕に会うために、仕事中断してすっ飛んできてくれたやないですか」
 日頃の一条薫らしからぬ慌てぶりだったはずだ。婦警さんは、頭のなかでそのシーンを再生してみているようにしばらく考えこんで、やがて納得したように頷いた。
「もしかしたら、とは思ったんだけど、そっか。君がねぇ」
「一条さん真面目だから、色々と悩んでるみたいなんですけど、僕は本気ですから。一生大事にしますから。だから、協力してくれませんか?」
「協力?」
「はい。婦警さんみたいに柔軟な思考の持ち主で、聡明なかたにしかお願い出来ないことなんです!」
 そこで僕は、この長距離恋愛がいかに苦しいものか、そしてずっとそばにいたいのにようやく役者としてのチャンスを掴みかけたところでは、そうも出来ない事情、それでも四六時中一条さんのことばかり考えてしまうこと、などを切々と訴えた。純度50パーセントくらいの告白には、それなりの説得力がある。
「そうよねぇ。彼、真面目だから個人的な理由で非番増やしたり絶対しないものね」
 と、婦警さんはいたく同情してくれた。
「そうなんですよ。せやから、一条さんになにかあったら真っ先に僕に連絡ください。なにかなくても、一条さんのことならどんな些細なことでも教えてもらたら嬉しいです」
 僕が差し出した『ポレポレ』の電話番号入り名刺を、婦警さんは快く受け取ってくれた。
「朝日奈七緒君、ね。了解したわ。お姉さんに任せなさい!」
 そうして僕らは握手して、共犯者のように微笑みあった。
 
 
 五代さんが知ったら、僕の嘘に憤るだろうか? でも、毎日通ってくるわけにもいかない僕が、五代さんとの約束を果たすには、なかなか素晴らしい手段だと思う。どこまで信じてくれたかは解らないけど、婦警さんがやたらと乗り気なのも有り難い。恐らくは、一条さんがどこぞの女性と結婚なんて事態になるよりは、彼の相手が僕あたりであったほうが、彼女にとっては歓迎すべきことなのだろう。
 そうして一条さんには僕がいる。彼が時折見せるあの切なげな表情は、すべて僕のことを考えているせいだ。ということにしておけば、そこに割って入ろうなんて考える身のほど知らずがそうそう現れるとも思えない。非常に都合のよい虫除け効果を発揮することだろう。
 僕のついた嘘には罪がない。
 だけど、一条さんの嘘は・・・きれいすぎて悲しい。
 その一条さんが仕事を終えて僕の待ってる応接室に来てくれるまで、まだ数時間のときを要した。
 
 

To be continue.2001.2.10
 続き『きれいな嘘』