きれいな嘘
(『罪のない嘘』の続き)

 

 その数時間後、一条さんは慌てたようすで応接間に入ってきた。
「遅くなってすまない」
「お疲れ様です。大丈夫ですよ、ちっとも退屈するひまありませんでしたから」
 つい数分前まで、何人目かの婦警さんがそのソファに座って、一条さんの話をしていてくれたのだ。最初に告白した婦警さんが、予想以上の働きを見せてくれて、僕のいる応接室には次から次へと一条ファンを自称する婦警さんたちが顔を出した。婦警さんばかりか、事務職のお姉さんまでやってきた。
 みんな本当に生き生きと嬉しそうに一条さんを語ってくれた。
 その瞳の輝きは、五代さんが一条さんの話をするときに酷似していた。誰しも、大好きなひとの話をするときというのは、ああいう表情で、あんな目をするってことなのかも知れない。それが、賛美する言葉にことかかない、一条薫のことであってみれば、なおさらなんやろう。
 この長野に来て、一番淋しそうで、元気がないように見えるのが今目の前にいるひとだ。そう思ったら、たまらなくて、僕は無意識のうちに一条さんの頬に手を伸ばしていた。
 一条さんは、さりげないフリをしてその手を避けた。
「顔面神経痛にならないかって、心配になったものやから」
「は?」
「一条さんが、あんまり無理に笑うから。それやから僕、さらって逃げたいような気持ちですわ」
 その言葉に、一条さんは苦笑をもらす。
「無理なんか、していない」
「なんでです? なんで、僕にまでそんなこと言わはるんです? あのアホ、なんで帰ってこない。早く会いたいって、どうして僕にくらい本音ぶつけてくれないんです?」
 傷つかないように、壊れないように、厳重に鎧っている心に、僕は残酷な言葉の爪を立てているのかも知れない。
 なにも気がつかないふりをして、一条さんのきれいな嘘に付き合ってあげることが思いやりってもんなのかも知れない。
 せやって、解ってたら出来るってもんやない。僕はまだ、そんなお利口なおとなにはなれない。
「いいんだ七緒君。あいつは、気ままな冒険が似合ってる。もう帰ってこなくても、あいつがそうしたいなら、それでいいと思ってる」
 ゆるぎない瞳を真っ直ぐに向けて、鮮やかに微笑んで一条さんは言った。
 その表情があまりにもきれい過ぎて、その口調にはなんの迷いも気負いも感じられなくて、僕にはそれが余計に嘘だと解ってしまう。このひとは、自分に言い聞かせるように、この言葉をなんど繰り返してきたのだろう?
 僕は唇をかみ締めて、言葉を探す。けど、どう反論しても、あまりにも虚しい。それが、いくばくかの本心を含んでいたとしても、心からの思いではないことくらい、一条さん自身がとうに気がついているはずやから。
「それより、こんな時間になっちゃったけど、晩飯いかないか?」
「どこかに食べに行くより、一条さんのマンションで食べましょうよ。僕、なんか作りますから!」
 この際だから、暮らしぶりもチェックさせてもらえ、と思って提案したんだけど、一条さんが眉を寄せる。
「いや、うちはちょっと・・・」
「もしかしたら、冷蔵庫が空っぽやとか?」
「ビールとバターくらいなら入っているんだが・・・」
「そんなん、そこらのコンビニで買うたらええやないですか」
「いや、問題はそれだけじゃないんだ。うちのキッチンには、やかんしかない。鍋も包丁もまな板もないから料理は無理だ」
 これには、びっくりした。確か、五代さんは東京の一条さんのマンションに料理作りに行ったりしてたはずなんや。2000もの技のなかには当然数々の手の混んだ料理も含まれていて、あの五代さんのことだから、かなりのこだわりを持って鍋釜フライパン、食器類からナイフやフォーク等々、レストラン並に揃えていただろう。
「五代さんがつこうてたのがあるでしょう?」
 一条さんは、よわりきった表情で手を振る。
「それが、引越しの荷物に取り紛れて、どこのダンボールだったか思い出せないんだ」
 僕はそれなりに一条薫というひとを知ってるつもりでいたんやけど、単なる思い込みやったのかも知れない。
 長野に引越してきてもう1ヶ月は経つというのに、まだ荷ほどきの終わっていないダンボールを部屋に放置してあるなんて、意外すぎる。だけど、それはもしかしたら・・・。
「五代さんがいないからですか? 東京のときと同じように部屋を片づけて、鍋や包丁や、そういったものをきちんとあるべき場所に整えても、使うはずの五代さんがいないことを、かえって意識するばっかりになるから、それでしまいこんだままなのと違いますか?」
 どこまでも厚かましく、一条さんの心に土足で踏み込んでいるような発言やった。これで一条さんが怒ってしまって食事どころではなく東京に追い返されることになっても仕方がない。そう覚悟のうえの言葉だった。
 なのに、一条さんは静かに笑みさえ浮かべて首を振った。
「考えすぎだよ、七緒君。俺も奴らとの戦いでそれなりに疲れたからね。長野に戻ってきてからは、プライヴェートではのんびり過ごしてたんだ。ちょっとだらしないかな、とは思うんだが、仕事が忙しいこともあって部屋には寝に帰るだけだから、さほど不便も感じないしね」
「でも、これからは不便やないですか。僕の料理の腕がふるえませんからね。これから一緒に帰って、ダンボールから鍋釜探すところから一緒にしましょう」
 そんな悠長なことをしていられない。空腹なんだから勘弁してくれという一条さんの意見を無視して、僕は言い張る。
「まさか、もう帰ってこなくてもいいなんて思ってる五代さんに操だてして、僕のこと部屋に入れられないって言うわけやないですよね?」
 上目遣いでそう聴くと、一条さんは僕のことなど、はなからそんな風に意識していないと言って笑う。
「そんなにうちに来たいというのなら、来てもいいよ。でも、本当にもうこれからダンボール探すなんていうのだけは、やめてくれ。出前でもコンビニ弁当でもなんでもいいから、すぐに食べられるものを食べよう」
 そうして結局、出前など間に合う時間ではなかったので、コンビニで適当に弁当と惣菜を買って一条さんのマンションに二人で帰ることになった。
 玄関をあがると、手前の部屋が広めのダイニングキッチンで、奥の扉の向こうが寝室であるらしい。
 キッチンの中央にはシンプルなデザインのテーブルが置いてある。そのテーブルの中央には、小さな鉢植えがのっていた。
 一条さんの言葉どおり、部屋の隅にはまだ未開封のダンボールが積んである殺風景な部屋のなかに、そこだけ異様に浮き上がって見える可愛らしい青い花。
「これ・・・ローズマリー・・・」
 以前、五代さんから聞いたことがあった。まだ激しい戦いが続いていた頃、奴らによって築かれた廃墟に、なんらかの手がかりを求めて、一条さんと二人で出かけたこと。そして、その焦土で、壊れたプランターから救い出したローズマリーの苗を、持ち帰って育てることにしたという話。ラテン語でロス・マリヌス。海のしずく。そして、古くは「記憶・思い出」という意味をも持っていたというハーブの一種。(注)
 記憶・思い出、だなんて、今となっては、なんという皮肉だろう。
 それなのに、五代さんと持ち帰ったハーブを、一条さんは忙しい日々のなかでも大切に育てて、花を咲かせていた。
「一条さん、こんど僕カメラ持ってきますから」
「え?」
「この花、写真に撮ってはがき大に現像して五代さんに送りましょう」
 一条さんは僕の唐突な提案に不思議そうな顔で首を傾げている。
「そんときは一条さん、是非、一筆書いてやってくださいね」
「一筆って?」
「『もう帰ってくるな!』って。ね!」
 一条さんは、ローズ・マリーの青い花と僕の顔を見比べるようにしてから、ふっと笑みを浮かべた。ずっと見せてくれていた、完璧で、きれいすぎる、嘘っこの笑顔ではなくて、今日初めて見せてくれる心からの笑顔だった。
「もう帰ってくるな! か。そうだな。いくらでも書こう」
 五代さんがそれを見て、慌てる姿が目に浮かぶ。
 けれど、それが本心とは逆の意味だってことは、すぐに気がつくだろう。五代さん自身が育てると言って持ち帰った花を、一条さんがひとりで育ててこんな綺麗に咲かせたのだ。五代さんをただ記憶のなかにしまっておくなんて、思い出になんかしないって意味やってこと、ちゃんと気がつくだろう。
 
 間に受けて本気にするようなアホなら、もう二度と帰ってくるな五代雄介。一条薫は、僕がもらったる。
 
 

(注:意味の解らないかたは、『焦土』参照のこと)
fin.2001.2.13