身から出た錆

 

 JR新大阪駅の二十番ホームまで、全力疾走してとある犯罪を未然に防いだ英雄が、その後どんな目にあったのか?

 原作で語られない部分を邪な妄想と自分の趣味、好みを最優先させた想像力ででっち上げることこそが、パロディの醍醐味であろう。

 

***

 

日本という国は義務教育であるから、ほとんどの人間は中学を卒業する十五歳まで、必ず体育の授業により運動させられる。そしてまた、十六歳以降も、高校に進学すれば普通高校ではなく商業科だろうが工業科だろうが、体育というやつはもれなくついてくる。だから、好き嫌いとは関係なく、学生であるうちは、身体を動かす機会はいくらでもめぐるものだ。

 やがて大人になって、就職し、もしくは結婚して家庭に入り、そんな機会などめったにないような生活を送るようになっても、現役の学生で、それなりに身体が自分の意志に忠実だった頃の記憶というのは、案外長持ちするものだ。

 だが、長持ちするのは、体力、瞬発力、筋力等の物理的な力ではなく、あくまでもその記憶だけだということに、気がつく者はあまりいない。何故なら、それが過去の栄光であって、今現在のものではないのだと、自覚させられる機会は、あまりめぐりこないものだからだ。

 夕陽丘のマンションの自室のベッドで天井を見上げながら、アリスはそんな物思いに沈んでいた。

 寝返りをうとうとして、動きを止める。

 身体のあちこちから同時に悲鳴が聞こえてくる気がする。

足の付け根も、腿も、ふくらはぎも、背中の筋も、思いっきり突っ張っていて、寝返りさえままならない。

 そこへ、ノックの音とともに、この全身筋肉痛の原因を作った、とアリスが信じる人物が現れた。

 このマンションに置きっぱなしにしているラフなシャツを脱いで、白いワイシャツに着替え首からネクタイをぶら下げている。

 アリスがベッドと仲良くし始めたのは一昨日の夜のことだ。こんな格好悪い話は内緒にしておこうとしたが、勘のいいこの男はよばれもしないのに様子を見に来た。それが、昨日、丁度日曜日だった。ならば当然、本日は月曜である。

「おまえ、まさか出勤するつもりやないやろうな?」

「まさかって。おまえこそまさか、俺に休めって言うつもりじゃねぇだろうな?」

 英都大学助教授の火村英生は、ベッドから身を起こすことも出来ずに、睨み付けてくるアリスを見下ろして聞き返した。

「そら当たり前やろ。誰のせいで俺が、こんな不自由しとると思うてんのや?」

 正確に公平に原因を追及するなら、それはこの世に禍をもたらす匣の蓋を開こうと構えていたある男のせいであり、火村に責任はない。だが、アリスに無茶な役をふったのは、火村であることに違いはない。そしてまた、その役が何故無茶だったのかは、冒頭のアリス自身の物思いに戻る。のだが、そんな物思いなど知らない火村は、平然と言い返す。

「そりゃ、身から出た錆ってやつだろ? 日頃の運動不足が祟ったんだぜ。敢えて言うならてめぇのせいだろ」

「身から錆なんて出るわけないやろ。おまえはどうか知らんけど、俺の身から出るのは血や涙くらいなもんやろ」

 身から出た錆。この言葉の指す身というのは、もともとは刀身のことなので、錆が出ることはあるのだが、火村は真面目に答える気などないようだ。笑って足を止めて振り返る。

「な〜にが血や涙ぐらいだよ。屁もクソも出るだろうが。それとももっと、他のもん出したいんなら手伝ってやってもいいぜ?」

 ベッドサイドまで戻って、アリスの顔を間近から見下ろす。

 かなり下品な切り返しに、アリスは動じることなく微笑んだ。

「どうせ手伝ってくれるんやったら、掃除に洗濯。そや、俺腹減っとんのや。食事の支度もよろしく頼むわ」

 火村は苦笑とともに、アリスの前髪を長い指で弄ぶ。

「食事の支度ならキッチンにしてあるぜ。洗濯物なんかおまえ寝てるだけなんだから、たいしてたまらないだろ? 掃除だって、いつも散らかす奴がベッドから出られないんだから、必要ない」

 アリスは不服そうな顔で押し黙る。

「くだらない揚げ足取りなんかしないで、素直に『今日は学校休んでそばにいてください』ってお願いしたらどうだ?」

「なんで、俺がそんなお願いせなならんのや?」

 

「身動き出来なくて、一人でいるのが退屈なだけなんだろ?」

「そんな身も蓋もない言い方せんでもええやろ」

 思わず口走ってしまってから、しまった、というようにアリスは両手で自分の口を押さえた。が、その急な動きで、また筋肉が軋む。

 火村は苦い表情のアリスに、意地の悪い笑みを見せた。

「身も蓋もない言い方ねぇ。そんじゃ、身も蓋もある言い方ってのは、どんなんだろうな? どうせ暇なんだろ? 宿題にしといてやるから、考えておけよ」

 と言い残し、火村は今度こそ部屋を出て行った。

「火村の薄情者! アホ! 人でなし!」

 部屋の外でアリスの悪態を聞きながら、火村がやはり大学を休んで、可哀想な相棒の世話を甲斐甲斐しく焼いてやることになるのか、それとも社会人たるもの仕事優先は当たり前とエコノミックアニマルぶりを発揮するのか、は、読者様のお好きに想像されるのがパロディの醍醐味ではなかろうか?

 了

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