知らぬが仏

 

 大阪某所で学会があり、その帰り道に友人で推理作家の有栖川有栖宅をふらりと訪ねた英都大学社会学部助教授の火村英生は、まったく歓待されないことに気分を害していた。招かれざる客、であるわけでもない。ただ、部屋の主がこの客に対して無関心でそっけない態度をとっていただけだ。
 アリスは、リビングのソファに浅く腰掛けた姿勢で、一心に手紙を読んでいたのである。自分が遊びに来たからと、いちいち玄関まで出迎えてくれないことが不満であるというわけではないが、それでも入っていった気配くらい感じているだろうに、顔も上げずに読み耽っているその顔があまりにも幸福そうなのが癪に障る。
「先生、何をそんなに熱心に読んでいるんだ?」
「ああこれ、ファンレターや」
 返事はしたものの、手紙から目を放そうとはしない。
「そんなにいいことが書いてあるのか?」
 そう訊いた火村に向かい、アリスは初めて顔を上げると、にんまりと笑む。
「別に、いいことってわけやない。ただ、こちらが照れるほど、作品や、その登場人物たちを美化してんのやな。察するに、夢見がちな少女という感じで」
「はぁ、さいですか」
 火村は気のない返事をした。ダイレクトに若い連中に接する機会の多い彼には、今時夢見がちな少女などという言葉は死語ではないかと思えてしまう。
「読んでみたいか?」
 アリスは薄桃色の便せんを振りかざして得意そうに訊いた。
「いや」
「そう、遠慮せんでもええやんか」
「読んでもらいたいなら、素直にそう言えよ」
「そうか、そうか。そんなに読みたいなら読ましたるわ」
 まったく噛み合わない会話の後で、アリスは数枚の便せんを火村に渡した。
 仕方なさそうに火村が受け取ると、手元で微かに何かの香りがした。
「なになに、親愛なる有栖川先生。今日は最新作の幻想運河の感想を述べたく思い、ペンを取りました。って、おい、これどう見てもワープロ文字じゃねぇか」
「決まり文句やないか、つまらんとこに拘るなや」
「有栖川先生の描き出されたアムステルダムの美しい風景に魅かれ、まだ一度も足を踏み入れたことのない土地なのに懐かしいような不思議な気持ちで読みました。また、主人公恭司さんの美鈴さんに対する純粋でひたむきな想いに心を揺さぶられ、あまりの切なさに涙が出ました」
「何も、そんな大声で朗読することはないやろ」
 アリスは照れくさそうに抗議したが、火村はますます声を大きくした。
「このような登場人物たちの繊細で優しい心の動きを、見事に文章で表現出来る有栖川先生は、創作することを愛し、ミステリを愛し、心から人間を愛していらっしゃる素敵な方なのでしょう。 あ〜あ、確かにこりゃあ、筋金入りの夢見る少女かもな」
 火村は耐えられなくなった、とでもいうように便せんを裏返してテーブルに投げ出した。
「まったく、こんな可愛らしいことを考える少女が夢見る有栖川有栖が、こんな普通のおじさんだなんて、知らぬが仏やな」
 アリスは照れ隠しのように言った。著者近影は公開されているし、作者の年齢も同様なのだから、ファンレターを書いた当人だって知っていることだろう。だいたい、彼女はアリスの人間性について夢を見ているだけなのだから、そこまで照れるほどのこともないのだ。とは、言わずに火村は他の問題点を指摘する。
「けど、手紙に年齢だの学年が書いてあるわけじゃねぇだろう? 写真を同封してきてるわけでもないようだし、けっこう、おばさんかも知れねぇぞ」
 アリスはその台詞にむっとして、封筒の裏を指し示す。
「真枝 裕子ちゃん。可愛い字やろ? この筆跡から想像してみても、香が焚きしめてあるピンクの便せんをみても、この文の印象から言っても、可愛い女の子に決まりや」
 アリスは胸を張って断言した。
 火村は天井を見上げて溜め息をつく。大学の助教授である彼にとってはめずらしくもない若い子の書く文字である。特別可愛い字にも見えないのだ。
「何が香だよ? これは、トイレの芳香剤と変わらないような独特に匂いじゃねぇか。故意につけたってよりゃ、たまたまハーブティーかなにかと一緒に置いてあってついただけみたいな香りだぜ。だいたい、名は体を表すという言葉はあるが、筆跡でどんな人間かなんて想像しても、外れることの方が多いぜ。いかついおっさんが、ものすごい達筆だったり、綺麗なお嬢さんが目を覆うような悪筆だったりするのはよくあることだ。結構夢見がちなのは、アリスの方なんじゃねぇのか? 手紙だけなら顔を見ることもないからいいが、そのうちひょっこりサイン会の時にでも現れて、それがまた周囲を蹴散らして一番に並ぶパワー全開の強そうな女だったりして、がっかりすることになるんじゃねぇのか? な〜んてことはそれこそ知らぬが仏。でもって、こんなことは言わぬが花だな」
「もう、全部言ってるやないか!」
「なんか聞こえたか? 独り言だったんだけどな」
 火村は意地の悪い笑顔を、アリスにむけた。
「あんまり大人げないこと言わんでもええやん。羨ましいなら羨ましいって、素直に認めたらええんや」
「おまえがどんな奴かあれこれ想像する余地のあるファンのことなんか羨ましいとは思わないぜ。俺は、想像してみただけじゃ解りっこないおまえのいいところを誰よりも知ってるから」
 火村は傲然と言い放った。アリスが羨ましいだろうと言った相手を故意に曲解しての発言である。
 さて、一番夢見てる奴は誰なのか?
 アリスはその問いを口に出さずにソファから立ち上がった。
「しゃーない、茶でも煎れてくるわ」

〈了〉

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