『昭和60年のスキー』



記憶に残っている情景は途切れ途切れなのですが

その時みんなは大きなキスリングをかつぎ
一列で雪深い山道を歩いていました
目的地はマキノスキー場
電車とバスを乗り継いで歩いて現地まで向かいます
現地といってもスキー場わきの、ただの林の中です
スキーは雪中キャンプとのセット行事でした

ぼくは9月にカブから上進し、これがデビューキャンプでした
荷物はとても重く、そして寒く
なにより、靴の底が冷たく足の裏が凍りそうで
もう歩きたくない気持ちでいっぱいでしたが
そういうわけにもいかず必死で前の人に付いて行きました
しかも、当時は今と違って
サポートの車が荷物を運んでくれるようなシステムは無かったので
リーダーとスカウトで総ての備品を運んでいたと思います。

現地に着くとまず設営でした
荷物を雪の上に置き、みんなで雪を踏みしめ
そこに小さなドームテントをいくつか建てました
ただし、これは荷物置きの補助用なので
居住用のジャンテンを建てるのですが
新人と2年目はテントを建てるのに役にたたないことと
弱りきっていたことが原因で
ドームテントにまとめてほうり込まれていました
ドームの中はぎゅうぎゅうずめで
みんな肩をよせあってテントの中心に向かって三角すわりでした
「ここで寝たらしぬんかなー?」とかみんなで言い合いながら
心細い時間を過ごしていました。

ようやくジャンテンが建ち、次に記憶に残っているのは夜の風景です
班長会議から戻った班長は全員の手袋と靴をもってすぐに出て行きました。
リーダーが乾かしてくれるそうです。

そしてしばらくして就寝。
当時は、一班8〜9人でした。
それがジャンテンひとつで寝ていたのですから今思うとすごいです。
当然普通に眠れるわけはなく、新人は他の人の頭側と足側にできた隙間です。
ほんとは隙間なんてないし、あっても手荷物で埋まっているのですが
何とか見つけるんです。
寝袋の中で座って寝たかわいそうな人もいました。
そんな時でも班長だけはテントの1/3くらいを占領していたりします。
ひどいもんです

次の日の朝、焚き火の跡があり、その上と周りにはみんなの靴と手袋が
靴はなかなか乾きにくかったようで中は濡れていましたが
手袋はだいたい乾いていたようです。
しかし、スキー用の手袋はかたっぱしから焦げ目がついています。
ひどいのはすすだらけで黒焦げでした
この惨状をまのあたりにしたスカウトたちは
リーダーをあてにしたらあかんなーと口々につぶやいていました

そして、徹営していよいよスキーです。
しかし、このキャンプ、いっこうに楽しくなる気配がありません。
なにせ、スキーウェアは無く、全員普通の服の上に合羽か雨具をはおり
下もジーパンの上に雨具
スキーブーツには腕カバーを被せて雪が入らないようにして
極めつけに、さっきの黒焦げ手袋。
表面が溶けた手袋に防水効果なんてありません
寒すぎます。

もっと寒いのは、リフトを使わないことです。
まず、板を担いで上るんです。
上ったら隊長がみんなに板のつけ方を教えてくれましたが
板がついたら「行ってこーい!(滑れ)」と叫んでいます。
とってもワイルドです。言葉もありません。
みんな仕方なしに転びながらも滑っていきましたが
あちこちで誰かが のた打ち回っている悲惨な状態でした
結局ぼくはその日2本しか滑っていないと思います。
こうやってスキーキャンプは終わりを迎えました。

キャンプで楽しかったことといえば、
朝起きたらいつのまにかできていたカマクラを
みんなで殴ったり乗ったりして壊したことだけでしたね
今思えば、いい経験だったとは思いますけどね

あと、これを書きながら思い出したのですが、
ぼくがボーイの頃の流行語は「悲惨やー」でした
当時の状況からするとこんな言葉が流行るのも必然ですよね