天への階
天羽ひかり
「今夜、開いてる?」
12月24日、朝7時。掛かってきた電話での第一声が、これであった。相手の名は、尋ねるまでもない。
「……全く、唐突な奴だな」
呆れたように、征士は溜息を吐いた。
「で?」
図太く答えを促す声に、素直に従うのも癪に思えて、あえて遠回しな物云いをしてみる。
「開いていない、と云ったら?」
「ちょっと残念。……だけど、今夜は開いていると、俺はふんだのだがな?」
「根拠は?」
「明日、仙台に帰るという前日の夜に、伊達征士が予定を入れるとは思わない」
断言する声に、征士は苦く笑った。
「……知っているのなら、判るであろう? 今日は、帰宅準備があるのだ」
「俺の知る限り、伊達征士という奴は、出掛ける3日前には支度を整え終わっているような奴だと思っていたんだがな」
違ったかな? と、空惚けて、声の持ち主、羽柴当麻は告げた。
「……好きな時間に来い」
諦めたように苦笑した征士に、電話の向こうからも笑いが漏れる。
「じゃ、6時頃でいいか?」
「何もかまわなくてよいなら、好きにしろ」
「ああ、それは俺に任せてくれよ」
「判った。寝過ごすなよ?」
からかうように告げた征士の言葉に、電話の向こうで一瞬の間があった。
「……お前なぁ、俺が朝早い時は徹夜だ、と決めてかかってるだろう?」
「違うのか?」
「違う。たまたま、昨日は夕方の4時から15時間寝ただけだ。今から寝たりはしない」
いたって大真面目な口調の当麻に、征士は疲れたように息を吐いた。
「当麻、少しはまともな生活をしろ」
「……じゃ、またあとでな」
小言を打ち切るように、当麻はそう云って、掛けてきた時と同じように、一方的に回線を断った。
午後5時58分。室内の一瞬の空白に、風が舞い込んだ気がした。
「いいか?」
インターフォンと同時に玄関の扉は、外から開かれた。
「ああ、入れ」
微かに苦笑して、征士は椅子から立ち上がる。
振り返った先に当麻は居た。黒のコートに身を包み、手袋までしていて、尚且つその眸は、寒いと告げている。マフラーの鮮やかなロイヤルブルーを瞳に残像としてちらつかせながら、征士は慣れた客を迎えた。
「なぁ、知ってた? 今日は、満月なんだぜ」
「……そうなのか?」
唐突な物云いに、僅かに間をおいて征士は、さして興味も無さそうにいらえを返す。
「イヴと満月が一緒に来るって、でかでかと新聞に出てたんだぜ。何だか、得した気になりませんか? だとさ」
苦笑しながらもどこか楽し気に、当麻はずかずかと見慣れた部屋に上がり込んだ。
「知らんな」
憮然と一言。
「ま、いいけどな。なぁ、支度できてるんだろ? どっか行こうぜ。折角だからさ」
二人は外で食事をすませ、その帰り道を歩きながら当麻はふいに呟いた。
「星が見たいな」
「……月、ではなくてか? どこへ行きたいのだ?」
「そうだなぁ……。でも都内でも休日とか、空気の綺麗な日ならまぁまぁ見えるんだぜ」
見えない時はほとんど駄目だけど、と呟いて。見えるべき星々の見えない都会の空。それが、少し悲しい、と。
「……だったな」
小さな征士の呟きは、語尾しか当麻に伝えなかった。
「え? 何?」
「いや、何でもない」
苦笑して首を振る征士を、当麻は不服そうに引き止めた。
「気になるじゃないか、云いかけたら云えよ」
「本当にたいした事ではない。ただ、昔仙台で見ていた星は綺麗だったと、云っただけだ」
「そっか。……行こうか?」
ちょっと近くへ買い物に出掛けるかのような気軽さで、当麻がそれを口にするのには一瞬の間すらなかった。
「は?」
「だから今から行こうぜ。いいだろ、どうせ帰るんだから」
「そうだが、しかし、」
「新幹線の予約しちゃったとか?」
「いや、明日帰ることがはっきり判らなかったので、それはまだだが」
「なら、問題ないだろ。送ってやるよ、空を翔けて」
軽く片目を閉じてみせた当麻に、征士は呆れたような視線を投げ掛けた。
「本気か?」
「勿論。まぁ、走るのは別に空じゃなくても構わないけど?」
悪戯っぽく向けられた眸から意図を察する。
「…………」
「たまにはいいだろう? 夜のデートと洒落こもうぜ。征士とドライブなら、仙台なんて近いだろ」
軽く片目を閉じて、当麻はフッと笑う。
征士は、何も云わずに天を見上げて、ただ小さく苦笑した。
「車を変えたのだな」
マンションの裏に停めておいた当麻の車に乗り込みながら、征士は問い掛けた。
「ああ、云ってなかったな。前のやつ、駐車場に停めといたら、思いきりぶつけられてさ、かなり酷かったんだ」
「それは、災難だな」
「そうなんだ。で、当然修理代は相手持ちなんだけど、その頃俺も纏まった金が入ってたんでな、取り替えたんだ」
「そうか」
当麻の車は、ダークブルーのVOLVO。当麻はニヤッと笑って告げた。
「相手を壊しても自分は助かるような車がいいかなぁ、と思ってさ。なんたって元々戦車作ってた会社だからな」
「……実にお前らしい発想だな」
征士は、助手席で呆れたように呟いたが、当麻は意に介さず車を走らせた。
その後も二人は、たわいもない話をしながら、高速道路に入りひたすら北へ向かった。
「そろそろ、交代するか?」
「いや、いいよ。そんなに疲れてないから」
「ならば、次のサービスエリアで休憩しよう」
「別に俺は無理しちゃいないぜ。云っただろ? 昨夜は15時間睡眠だったんだから」
「それでも疲れたら遠慮せずに云ってくれ」
「しないって。お前こそ気なんか遣うなよ」
「別に、気など遣ってはいない。ただ、疲れたら云えと云っている」
少々憮然としたような征士に、当麻はちらりと一瞬だけ視線を向けた。
「それが、気遣いっていうんだろ?」
「そうなのか?」
「そーだよ!」
当麻はムッとしたように云いきる。少しの間、沈黙が降りた。
やがて、訊きにくそうに当麻は切り出した。
「お前さぁ、……俺と親しいと思ってる?」
征士は、驚いたように、運転する当麻の端正な輪郭を持つ横顔を見つめた。碧の瞳は、夜を映してより深い色を灯している。そこから、当麻の感情は読みきれない。
判らないままに、けれど、ふいに脳裏をよぎった記憶があって、征士はくすりと笑った。
「そうだな、少なくとも誕生日に電話をかけたくなるぐらいには、な」
「……ホントにそう思ってる?」
「当たり前だ。そもそもいつからの付き合いだと思ってるんだ? お前は」
「判ってる。判ってるさ。それでも、気になるんだよ。俺は光輪みたいに真実の見える睛なんて、持っていないからさ」
そう当麻は、微かに困ったように笑った。何でも見通せる魔法の睛が欲しいわけではないけれど。本当に困ったときに、迷ったときに、それは救いになるのだ。征士のまっすぐな睛は。
「……やっぱり、さっき運転代わってもらえばよかったかな」
征士の瞳を見られないのが少しだけもどかしく思えて、失敗したかな、と当麻は笑った。
「何故だ? 急に」
疲れていないと云い張っていた当麻の発言に、征士は軽く首を傾げた。
「お前の睛を見れないから。凄く見たいのに、今」
前に気を付けながら、ちらりと視線を流して、当麻はぼやいた。
「……前だけ見ていろ、莫迦者」
くだらないことを、と云わんばかりに征士は抑揚の無い声で返す。
「信号もねぇしなぁ」
しかし、こちらは至って本気であった。
「さすがに仙台は、寒さが違うな」
二人は、河岸の草の上に腰掛けて、空を眺めていた。既に月は中空を回り、当然ながら辺りには他に人影など見当たらない。どこか高いところがよいのだろうか、と征士は訊いたのだが、当麻がここがいいと云ったのだった。
「それはそうだろう」
いつもと変わらないようでいて、征士は少し機嫌がいい。そう当麻には見えた。
「やっぱり、故郷ってことかな」
「何だ?」
小さな呟きは、征士の耳には届かず、当麻は静かに首を振った。
「いや、別に」
「お前は、星にも詳しかったな」
「ん? まぁ、そこそこな」
「私などは、オリオン座ぐらいしか判らぬが」
「日頃、東京からはっきり見えるのはオリオンぐらいだもんな」
苦笑した征士に、当麻は残念そうに云った。本当に、空気の汚染度と星の見え方は比例するのだ。都内では、数えられそうなくらいの星しか見えないのに、ここでは星座板そのもののような星々が瞬いている。寒さは確かに違うけれど、冷えた空気は、どこか汚れ無きもののように思える。真夜中に、強く美しくきらめく星達。それは、静謐な感すら見る者に与える。
凍てついた星々はどこか当麻自身こそを思わせて、懐かしい仙台の夜空を征士も新たな感慨と共に見つめた。
「よく見えるなぁ。たださ、」
「ただ?」
「少し、月が輝きすぎかな?」
月色に輝く征士の髪を見つめながら、当麻は嬉しそうに笑った。
「贅沢だね、俺も」
「全くだな」
顔を見合わせて、二人は同時に吹き出した。河辺の空気は、吹き込む風も手伝って、酷く冷たい。それでも、当麻は暖かな車内に戻りたいとは思わなかった。冷たさを感じるのに、何故かそれほど寒さに意識はいかない。そんなことよりも、はっきりと強く輝く星々や、隣で今にも内から光りだしそうな彼の方に興味はあった。それとも、寒くないのは、光の近くにいるからなのだろうか。
笑い収めて、当麻はふいに真顔になって征士を見つめた。
「なあ、話、戻るけどさ。さっき車の中でお前は、いつからの付き合いだ?、と怒ったけどさ。それじゃあ、お前の中で、俺ってどこにいる? 俺の存在ってどんな感じ?」
気になっていたのだ。征士にとっての自分が、どんな存在であるのか。
10年も前にいわゆる『正義の味方』をしていた。確かにそれによる心の絆は、皆の中に一様にあるだろう。戦いに悩み、苦しみ、そして共に勝利を得た。平凡な日常では、まずありえない体験だったし、それゆえに特別な仲間なのだと思った。だからこそ今尚、頻繁ではなくともかつての仲間同士で集まり、騒ぎ、語らうことも出来ている。どこまでも自然な『仲間』という特別な関係。中でも、征士とは一番会う機会も多い。それでも、いや、だからこそ、気になってしまうことはあるのだ。
抽象的な当麻の問い掛けに、征士は困ったように考え出した。
「随分、言葉を見つけにくい訊き方をするな」
暫く沈黙していた征士が、突然くすりと笑った。
「……なに?」
「いや、何となくな」
「判んねぇよ、で、どこなの?」
「ありきたりかもしれんな。でも今は他に適切な言葉は探せなかったのでな。……天だ。空に居るぞ、お前は。……いや、もっと高いところかもしれんな」
考え込むように征士は視線を天へと向ける。
「空か。それは、お前にとってどんな感じ? 近いのか? 遠いのか?」
「どうだろうな……」
僅かに首を傾げるようにして征士は曖昧に呟いた。
「勿体ぶらないで、教えてくれよ」
「別に勿体ぶっているわけではない。何より近いような気もするし、何より遠いような気もする」
はっきりしない答えに、当麻は大きく溜息をついた。
「なぁ、……なぁ、征士」
どことなく困ったような顔で当麻は、天を仰ぐ征士の視線を降ろさせた。
「何だ?」
「お前の、お前にとっての、特別な位置に居たいと願うのは、俺の我儘か?」
「我儘だな」
間を置かずの即答に、当麻はがっくりとうなだれてみせた。
「……そんなきっぱりいわなくても」
「これ以上の特殊な位置など、何処にあるのか、こちらが教えてもらいたいぐらいなのだがな?」
「……あのー、どうせなら、もう少し具体的に」
「お前が抽象的なことを云いだしたのではないか」
「うん、だけど征士の言葉で聞きたい」
「さっきから云っているではないか。天を見上げて、見たいものは自ら見える。それは、夜空に輝く名月かもしれんし、小さな星座かもしれない。ひょっとしたら、名すらない星かもしれない。星すら見えぬただの闇の中にとて、見えるものはある。そういうことだ」
それは、決して消えない存在感。意識もないままに、そこに在る、ということ。
「……もっと判りにくくないか?」
「これだけ云って、まだ判ろうとしないのならば、もう知らんぞ」
釈然としない顔付きの当麻に、征士は仕方ないな、と呟いて続けた。
「空など、わざわざ見にくる必要はない、ということだ」
「それって、どこにいても俺が解るってことか?」
「……そのようなものかもしれんな」
話しながら思うところがあったのか、征士は小さく頷いた。
「まぁ、いっか」
「納得したか?」
「一応。やっぱりお前は少し特別だな、と思ったよ」
どこか安堵している自分を、当麻は自覚していた。
「そうか? あまり考えすぎるな」
ぽんぽんと、当麻の肩に手を置いて征士は笑った。
「お前の睛が、やっと見れたな」
まっすぐに、強く輝く睛。この瞳は、変わらない。きれいな、笑顔も。
「そんなに綺麗な顔で笑うなよ。切なくなるからさ」
勝手なことを云って、当麻は立ち上がった。
きれいなものなら、たくさんあるのだ。それでも、何よりもきれいだと、思うのだ。
世の中、きれいなだけじゃ生きられないけれど。でも、一人くらいこんなまっすぐな奴がいたっていいじゃないか。無論、征士だって、昔とは違うだろうし、純粋無垢だなんて、思ってやしない。それでも本質的な何かが、彼には備わっている。そんな気がした。
征士を『特別』の具現だと思っているわけじゃない。ただ、自分にとっては、意味がある。そう確信した。
空を、仰ぐ。真夜中の空。当麻にとって身近なミッドナイトブルーの空が、何だかとても深いような気がすることに気付いた。
「今日の空は、何というか……とても深い感じがするな。本当に吸い込まれてしまいそうな空というのは、こういう空のことかもしれんな」
隣で、同じように天を見上げていた征士が、感慨深気に呟いた。
「そうだな。お前なんて、このまま光になって消えちまいそうだよ」
莫迦なことを、と呆れられるかと思ったのに。くすりと笑って、征士は意外な台詞を口にした。
「それが、一番近く、かもしれんな」
驚いて視線を向けた当麻の眼前で、征士は何事もなかったかのように踵を返し、促した。
「さぁ、そろそろ帰ろう。寒くなってきた」
「なぁ、こんな夜中に、大丈夫なのか? お前の家。連絡してあってもまずいんじゃねぇの?」
大きな旧家は、いかにも征士の家らしく礼儀に煩い。以前に訪れたことが何度もあるといっても、こんなに非常識な時間に直接来たことはなく、当麻は尤もなことを訊ねた。
「いや、連絡は入れてある。離れならば構わない」
「左様ですか。全く、これだからでかい家の坊っちゃんは」
「何だ、その云い方は、」
「おっと、着いたぜ」
外戸の脇に停車させた当麻を、征士は怪訝そうに見つめた。
「……まさか、このまま帰る気か?」
「もともとそのつもりだったんだけど」
「何か、用事でもあるのか?」
段々と、征士の声音が低くなっていく。
「何、怒ってんだよ」
「怒ってなどいない。……まだな」
「……声が怖いんですけどー。俺、臆病だからさー」
怖いなどという感情とはさらさら無縁の男が、しらっと云ってのける。征士は、怒るより先に呆れてしまいそうになったが、当麻の手には乗らず、命令口調で告げた。
「もういい。用があっても駄目だ。とにかく朝までは家で休め」
「そんな怖い顔すんなよ。小姑かよ、お前は」
「お前の手になど乗らん。いいから、車を中へ入れろ。ここでお前とくだらん話をしていても埒が開かん」
ぴきっと征士の額に青筋が出たが、幸か不幸か真夜中の車内の明るさでは、当麻には到底見えなかった。
「仕方ないなぁ」
諦めたように、ようやく当麻は中へ車を進めた。
敷地に車を停めて、離れに入った。
屋敷に入ってすぐ、無言で隣を歩く当麻に、征士は何か奇妙な違和感を覚えた。一見、何も変りは無いのに。
(瞳か?)
どこか視点が定まっていないように見えた。
「どうした?」
「あ、判るか? たいしたこと無い。ちょっと目の前が真っ白になってるだけだから」
何でもないことのように歩きながら、当麻は首を振った。
「莫迦者。何故、もっと早くに云わない? ほら、座れ」
少々慌てたように征士は、肩に手を貸して畳の上の座布団に当麻を座らせる。
「何だかドキドキするな」
蒼い顔で、当麻はふわりと笑った。
「……少し、横になった方がいい」
肩に置かれた手を掴んで、当麻は突然強く征士を引き寄せ、口付けた。
「珍しく、隙だらけだぜ? 病人には優しいんだな」
「蒼い顔をして、莫迦か貴様は。とにかく、」
呆れたように云いかけた言葉は、再び当麻の唇に塞がれた。
「酸欠になってもしらんぞ」
怒ったように大真面目にそんなことを云う征士に、当麻はくすりと笑いを零した。
「そりゃ困るな。でも征士が酸素分けてくれるだろ?」
「本当に、大丈夫なのか?」
まっすぐに向けられる心配そうな眸。それが、とても嬉しくて。
「軽い立ち眩みだよ。まったくムードの無い奴だな」
ケタケタと笑い出した当麻を、征士は軽く睨んだ。
「人を驚かせておいて、何を云っている」
「何? そんなに心配してくれた?」
喜色が窺えそうなほどの声と共に、向けられた碧の瞳は、やはり征士に空を連想させた。
「……当たり前だ。お前は、昔から妙なところで無茶をする、」
一端、言葉を切って、征士は意味有り気な微笑を浮かべた。
「とても、智将とは思えないくらいにな、天空殿」
「…………そんな昔のことを……」
思わぬ報復に、当麻は頭を抱えた。
「莫迦なことばかりしているからだ」
甘さの破片も無い声。
「ったく、かわいくないんだから」
不満そうな呟きに、征士はぞっとしたように当麻を睨み据えた。
「やめんか」
「ホントのことだろ」
征士の整った唇に、指先を触れさせて。
「そこが、いいんだけどさ」
まったく適わねぇな、とぼやきながら、当麻は嬉しそうに笑った。
「……とにかく、休んでいけ」
「判ったよ、そうさせてもらう。別に用事も無いし」
「……ならば、何故素直に来ないのだ?」
理解できないと云わんばかりに、首を傾げた征士に、当麻は渋々答えた。
「いや、絶対お前が怒ると思ったから」
「倒れるのが判っていて、莫迦か、貴様は」
「ほら、怒っただろ」
「…………」
どこかズレた会話に疲れて、征士は呆れたような視線を向けたまま黙り込んだ。
「そんな莫迦莫迦云うなよー」
「何も云っていないぞ」
「いーや、絶対その眸は、『莫迦者』って云ってる」
「自覚があるのなら、自重するのだな」
つきあっていられん、とばかりに立ち上がって、征士はさっさと当麻の近くから消える。 当麻はつまらなそうにその姿を目だけで追って、視界から消えてしまうと、ずるずると這うように窓辺に近付いて障子を開けた。
西へ傾いた月が、先刻と変わることなく輝いていた。
「当麻、布団の用意は出来ているようだ。いつでも休んでくれ」
背後から掛けられた声に、軽く頷く。話しながら征士も隣に来て、窓の外を覗いた。部屋にさしこむ静かな月明かりが、征士の顔を照らす。
「綺麗だな」
「ああ、いい月だ」
「違う、月を映したお前の髪。きれーな杏色になってるぜ」
さらりと月光を浴びる髪に触れた。
苦笑しながらも戯れを咎めるでもなく、征士はそこにいる。それだけのことが、いや、そのことこそが何よりも大切であるように思える。
くすりと、急に当麻は笑みを浮かべた。
「どうした?」
「いや、今日は結構、得した気分になったかなーと思って。満月の効力も捨てたもんじゃないな。……違うか、月が一緒にいるのかもな」
幸せだと、思える時間が、嬉しかった。つまらない日常が、ひときわ輝きだす瞬間。そのきっかけは、案外簡単だ。
「天までの距離など、あってないようなものなのかもしれんな」
「光速なら0.01秒、なーんてな」
視線が、重なって、微笑が零れる。
「あーあ、今から眠ったんじゃ、昼になっちまうな」
「頼むから15時間も眠るなよ」
「……お前、俺のこと何だと思ってんの?」
「衛星軌道上で寝ていた奴が威張るな」
くすくすと揶揄うような笑いと共に云い切られて、当麻はとうとう返す言葉を見失った。
「…………」
情ない顔のまま固まっている当麻に、ふいに口付けは降りる。
「それでも、私は天を気に入っているのだぞ」
穏やかな微笑とともに、さらりと告げられる。
「……完敗」
参ったというふうに、当麻はお手上げのポーズを作ってみせた。
「くそー、もう少し早い時間ならいいのになぁ」
「……何故だ?」
「せっかく、征士がキスしてくれたのは嬉しいんだけどさ、今からやってたら朝になっちまう!」
間、髪を入れずに当麻の頭に拳が飛ぶ。
眸を見開いて、一瞬の後に当麻はげらげらと笑い出した。
「……頭の打ち所でも悪かったか?」
「いや、いわゆる殴られても幸せ、って奴だよ」
「……一人で笑ってろ、極楽蜻蛉が」
「ひでーな。お前なんか今日すげー口悪くない? いいんだ、いいんだ。世の中見える現実だけが、すべてじゃないからさ」
「何が云いたい」
察しのよい征士の僅かに低められた声に、当麻は軽く肩をすくめた。
「殴られそうだから、やめとくよ」
莫迦に拍車の掛かった当麻の上機嫌は、翌日まで続いたのだった……
ENDE
BACK HOME
|