光の灯る時間

By 天羽ひかり


ACT・1  SIDE SEIJI

「明日、10日、体育の日の天気です。東京は、午前6時から、12時までの降水確率は10%、午後6時までは30%と夜になるにつれ少し高くなっております。次に各地の……」
 ラジオから流れる天気予報に耳を傾けつつ、ゆっくりと新聞に目を通していた征士は、ふいにはっとしたように顔を上げた。
(10日、……そうか)
 ふいに見慣れた男の顔が、脳裏をよぎる。憎らしい程に淡々と、そして自然に。唇には皮肉めいた笑みを浮かべて……。
 反射的に時計を見上げていた。時刻は、午後11時55分。それを確認した途端、何だかとても電話をしたい気分になっていた。時報と共に電話を掛けるなんて、当麻自身こそが好んでしそうな行動だ。そのことに苦笑しながらも、征士は新聞をたたみ、ラジオのスイッチも切った。そうしながら妙に気分が明るくなっていることに、征士は気付いていた。高揚感とでもいうのだろうか。子供めいた嬉しさを、けれど否定することは出来なかった。 カチリ、と時計の針の重なる音が響くような静寂に包まれた部屋の中で、征士はそっとコードレス電話を取り上げた。日頃は、やはり11時を過ぎると誰が相手でもなるべく電話は控えている。夜型の当麻が寝ている筈は無いと確信しながらも、いつもならば次の日まで待っていただろう。そういった躊躇が僅かに思考を掠めたが、征士の指先は止まることなく記憶の中の数字を正確に辿った。一瞬の空白の後、無機質なコールが響く。3回鳴って、電話の繋がる音が聞こえた。
「はい、羽柴です。ただいま留守に……」
 征士の想像に反して、電話から聞こえてきたのは留守録のテープの声だった。
「居ないのか……」
 当麻がふらりと遠出して1ヶ月や2ヶ月居ないことは、珍しいことではない。けれど、この時それは思いつかず、征士は少々落胆した様子で取り敢えずテープにメッセージを残すことにした。
「私だ。留守とは知らず、こんな時間に申し訳ない。いや、たいした用では無い……、いや、こう云ってはお前に失礼だな。……その、だが、緊急の用というわけではなく……」 
話しながら、留守番電話相手に何故私は謝っているのだ、などと思いながらも、あまりうまく言葉に出来ず、テープにおめでとう、と入れておくのも味気無いような気もして、征士は少々困っていた。
 その時、カチャリと電話の向こうで音がした。
「……おいおい、何留守録相手に謝ってんだよ、お前」
 忍び笑うような声が、響いた感じで征士の耳に届いた。
「当麻、居たのか?」
「今、風呂入ってたんだよ」
「それは、すまん。後で掛け直すので、ゆっくり入ってくれ」
 すまなそうに謝る律義な征士に、当麻は苦笑しながら答えた。
「いや、出るとこだったんだ、いいよ」
「だが、」
「いいって、どうせ俺は烏なんだから。それより、何? お前がこんな時間に電話くれるなんてさ。夜のお誘いかな?」
 揶揄うような声音が、明るく響いて征士を苦笑させた。
「どうやら、お前の性格でも移ったようでな。どうしても電話を掛けたくなってな」
「珍しいな。嬉しいこと云ってくれるねぇ」


ACT・2  SIDE TOHMA

 急に涼しいを越えて寒くなってきた夜に舌打ちしながら、当麻は少し厚手のトレーナーを引き出しの奥から引っ張りだしていた。そして、それを着込んでコンピュータに向かうこと3時間。一区切りついたので、少し早くに風呂に入ることにしたのだった。
 風呂から上がろうとシャワーを浴びている時に、電話は鳴った。
(誰だ?)
 遅れた仕事を抱えているわけでもなく、電話を掛けてきそうな女も思い当たらず、首を傾げながらもとっとと浴室から出て、脱衣場に移動する。
 手早くバスタオルを取ったところで、開け放した扉の隣にある電話から聞き慣れた声が流れ出した。
「私だ。留守とは知らず、こんな時間に申し訳ない……」
 留守電にこんな時間もないだろうに、と思いながらも何となく征士らしく思えて、当麻は小さく笑いを漏らした。ずぶ濡れの全身から主な水気だけ拭きとって、タオルを巻き付けた恰好のまま、濡れた髪にはもう一本のタオルを引っ掛けて、急いで電話に向かう。すぐに切られては困る。折角、珍しくも征士がこんな時間に電話をくれたのだ。一瞬、何か悪いことでもあったのかという考えも頭をよぎったくらいだった。
「……いや、たいした用では無い……、いや、こう云ってはお前に失礼だな。……その、だが、緊急の用というわけではなく……」
 どうやら、悪いことの類ではないらしい。だが、生真面目に謝りつつも、征士にしてははっきりしない話し方に、当麻は僅かに首を傾げつつ、笑いを噛み殺して受話器を取った。
「……おいおい、何留守録相手に謝ってんだよ、お前」
「当麻、居たのか?」
 意外そうな声音の裏に、少しだけほっとしたような感情が聞き取れる。
「今、風呂入ってたんだよ」
「それは、すまん。後で掛け直すので、ゆっくり入ってくれ」
 即座にすまなそうに謝ってくる律義な征士が、あまりにもらしくて、当麻は苦笑しつつ声を掛けた。
「いや、出るとこだったんだ、いいよ」
「だが、」
「いいって、どうせ俺は烏なんだから。それより、何? お前がこんな時間に電話くれるなんてさ。夜のお誘いかな?」
 冗談めかして問い掛ける。緊急の用でもなく、征士に夜中に電話を手に取らせるだけの話というやつに、興味があった。
「どうやら、お前の性格でも移ったようでな。どうしても電話を掛けたくなってな」
 困ったような、苦笑うような口振りで。それでも機嫌がいいのは自分だけじゃない、と当麻は確信していた。
「珍しいな。嬉しいこと云ってくれるねぇ」
「そうか?」
「そうさ。あ、ちょっと、待っててくれ。今、裸なんでな。せめてパジャマを着させてくれよ」
 髪から落ちる水滴が、当麻の肩に掛かったペールブルーのタオルの色を濃くさせていた。受話器を手にしながら、くしゃくしゃと、髪を乱雑に拭いていたものの、それでも落ちてきた僅かな滴が、彼の身体のラインを辿り落ちていく。着痩せするタイプの当麻は、それ程がりがりに細くはない。弓を引くせいかある程度筋肉がついている上半身に、ぽとぽとと滴が伝い落ちていく。
「すまん。後で掛け直すぞ、やはり」
「あー、待て待て。上だけな、電話しながらだと着れないからさ、30秒くらい待ってくれたっていいだろ? 短気な奴だな、」
 当麻に、せっかくの電話を切る気は、髪の先程も無かった。
「すまんな」
 まだ謝る征士に、当麻は笑いながら手早くパジャマを羽織って、すぐに会話に戻った。
「悪い悪い。それでさ、征士の話は何?」
「ああ。一言だけ、伝えたかったのだ」
 柔らかな声音を聞いて、当麻は彼の表情が見られないのが少し残念になった。こんな時の征士は、綺麗な眼差しを真っ直ぐに向けて、微かに笑ってくれている筈だから。
「何を?」
「誕生日、おめでとう」
「…………」
 思いがけない一言だった。征士がこんなにも機嫌良く電話を掛けてきた理由が、自分にあったということが、どうしようもなく嬉しく、さあっと、色々な感情が渦巻いて、一瞬当麻は言葉に詰まった。
「ありがとう。すっげー、嬉しい。まさかお前が、12時ジャストにわざわざ電話くれるとは思わなかったよ」
「いや、その、本当に云いたかったのはそれだけで、お前にはかえって悪かったかと思っていたのだが。ただ、10日と気付いたら、じっとしていられなくなってな。子供じみたことをしたくなったのだ」
 少し慌てたような征士の、言動の一つ一つがたまらなく嬉しかった。
「ありがとな、何かさ、暖かくなったぜ」
「?」
「心がさ」
 本当だった。さっきまで、寒いと思っていたのが嘘のように。沸上る感情というのは、こんなにも心を暖かくするものなのか。
「…………」
「……もしかして、照れてる?」
「いや、何と云ったらよいのか……。とにかく、お前の声が聞けて良かった」
 ほっとしたような、優しい声音。いくら見ても見飽きることのない端麗なその顔が、脳裏にちらつく。
「……くそー、悔しいな。目茶苦茶顔が見たくなった。お前、今日も仕事あるんだよな?」
「ああ、すまんな。だが、お前も忙しいのだろう?」
「そう。だから、悔しい」
 いつもなら、すっとんで会いにゆくのに。
「今度の日曜は、開いているか?」
「ああ、どこか行こうか」
「かまわんぞ」
「それなら、今日は我慢する」
 仕方ないよな、と子供のように当麻は呟く。
 それにくすりと笑みを零して、征士は最後にもう一度告げたのだった。
「本当に、おめでとう」

  EPILOGUE

 その日、俺は一日、上機嫌で仕事をした。
 色々なプレゼントが届き、多くのメッセージが留守電にしておいた電話から流れ出た。けれど、そのどれよりも、何よりも、深夜に掛かった一本の電話だけが嬉しかったのだ。どんなプレゼントも、メッセージも、俺の心には届かない。
 そうだろう? あんなに笑える留守電なんて、滅多に聞けるもんじゃない。
 あんなに俺の心を暖かくしてくれる声なんて、他には無い。
 だから、俺にとっての、最高のプレゼント。
 さて、来年の奴の誕生日には、何をしようか? 不意打ちは俺の十八番なのだ。俺以上に奴を驚かせてやりたいじゃないか。
 ちょっとやそっとのことでは驚かない奴だけれど。
 それでも、あの綺麗な瞳が輝くのなら、それだけでもいい。ただ俺は、心が踊るような嬉しい一日を、あいつにも分けてやりたいだけだから――――

Ende

初出 1997.3発行「A Special Day In The Life」



 

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