Walk
By 天羽ひかり
今日の気温は、当麻の体温を超えているらしい。
踏みしめるアスファルトの温度は、どこまで上がっているのだろうか。
ゆらりと陽炎が立ち昇っている。
暑い。
熱い!
(こんな日に、なんだって出歩かなきゃならないんだ……)
当麻は昨日から何度も繰り返した文句を、ぶつぶつと心の中で繰り返す。
せっかくの休みだってのに。忙しい征士の丸々の休みなんて久しぶりだったのに。
なんでこんなにタイミングが悪いんだ!
うんざりと左手におざなりにひっかかっているブツを見やる。
背広。
ネクタイ。
当麻が一年のうちで使うのは数えるほどなそんなブツが、いかにも暑苦しく腕に絡み付く。
もちろん、それらが必要だった部屋を出た途端に脱いではいたが、持っているだけでも邪魔だった。
(いっそ捨てちまうか。)
暑さに朦朧としたアタマがそんなことを当たり前のように提案してくる。
駅に入り、つい視線がゴミ箱を探してしまうが、どうも某事件の後からか大きい燃えるゴミ用の箱が無い駅が多い。目についたのは、空き缶用と雑誌用のゴミ箱のみで、到底背広の入る余地はない。
(使えんな……)
またイライラ度の上がったところで、ホームに汗をかいた電車が入ってくる。 一つ息をゆっくりと吐いて、諦めたように当麻は多少の涼しさを得られる箱の中へと入っていった。
最寄り駅に着いた時には、既に空は暗い積乱雲に覆われつつあった。
その暗さに眉を顰めて当麻は、空を仰いだ。雷光が少し先の空を走るのが見える。
夕立が近い。
少し間を置いて鳴り響く雷鳴の音。
走るのか。このくそ暑い中を?
(冗談じゃない。)
僅かに首を振って、溜息まじりに当麻は歩き始めた。
程なくして大粒の雨が降り始めた。
おそらくどこかで珈琲でも飲んでいれば、雨はやむのだろう。
それでも、どこかで待つ気はしなかった。
マンションまでは十五分ほど歩かなければならなかったが、濡れて困ることは何もない。今日は携帯さえ置いて出かけてきている。持っているのは僅かな小銭と邪魔な布だけだ。
ただ雨が降るにつれ、左腕の邪魔な重みは水を吸って増してきていた。
(やっぱり捨てときゃよかった)
忌々しく布の塊を見つめた時、ぱあっと辺りを明るくする程の稲妻が走った。
殆ど間をおかずに鳴り響く轟音。
近くに落ちたようだった。
そのいっそ清々しいほどの光と音の苛烈さに、当麻は懐しい記憶を呼び覚まされていた。
十年近くも前の記憶だというのに、それは驚くほどに鮮明だった。
また地を揺らがせるほどの勢いで雷が鳴る。
綺麗な光だと僅かに瞳を眇めながら当麻は、かつて見た雷光と目の前の光を重ね合わせていた。
思い出しただけで鳥肌が立つほど美しいその姿を、見ることはおそらく二度とないのだろう。
それでも、当麻がその姿を忘れることも決してない。こうして、こんなにも時が経ってなお、鮮やかに思い出せるのだ。
光輪のセイジ。
久しく口にしなかった懐しい呼び名が浮かんで、当麻の唇に笑みが浮かぶ。
そうしていつの間にか、不機嫌が消え去っていることを、その経緯を思って当麻は苦笑する。
激しい雷雨の中、当麻の心の中は嘘のように穏やかになっていた。
少女は、不思議な人を見ていた。
恐らくは一時的だと思われる激しい雷雨の中を、走ることなく、身をかがめることすらせずに、悠然と歩く青年。
夕立が止むのを待てないほど急いでいるのなら走ればいいのだし、急ぐ必要がないならどこかで待てばいい。雨宿りできる場所がないわけでもないのだ。 それなのにそのひとは、ただ歩いている。
背が高いから進みが遅いわけではないのだけれど、傘もないのにどうしてあのひとはこの雷雨の中を、好き好んで歩いているのだろう。
少女の雨宿りしている場所からは、だいぶ遠くから歩いてくるその姿がよく見えた。他にすることもなく、少女は気付けばじっと彼だけを観察していた。 殆どの人はあまりの酷い雨と恐怖を覚えるほどの雷に、一時の足止めを余儀なくされていたので、通りに人影は疎らだった。だからこんな中を雷の激しい音にさえ微動だにせず歩いているその姿は目立っていた。
彼が近付いてくるにつれてその外見がよく見えてきて、少女は首を傾げた。テレビに出てきてもおかしくないくらいに整った容貌、すらりと高い背に均整のとれた体躯。全身濡れた情けないそんな姿であっても、みすぼらしくなんて見えない。それでも少女の記憶に青年はいない。間違いなく初めて見る。だいたい、ドラマの撮影か何かにしては他に誰もいないのはおかしい。
その左腕には、水をたっぷり吸った重そうなスーツとネクタイがだらしなくひっついている。
(もしかしてこの人顔はいいけど、頭がちょっとおかしいのかしら?)
そんなことを思いかけていた。
彼の身体は、全く雨を避けようとしていない。
たまに通る人は殆ど、鞄を頭に乗せたり、殆ど意味をなさない傘をさしたりしながら足早に過ぎていく。
そんな中を彼だけが、まるで周りに見えないバリアーでもあるかのように悠然としている。無論、バリアーなどない。彼の身体は全身濡れているし、その髪の毛もシャワーを浴びた後みたいになっていて、たまに落ちかかる前髪を払いのけたりもしている。
ただ、顔を伏せることすらせず、静かに変わらぬ歩調で歩いている。激しい轟音も、突き刺すような雨もまるで関係なく。
ふいに、その顔に静かな笑みが浮かんだ。
それは不思議な微笑みだった。
およそ豪雨に打たれ雷鳴に地さえ轟くような中で浮かべる笑みではなかった。 雨に打たれて、自棄になったように笑い出すわけでもなくて、遠い何かを思い浮かべるひとが無意識に微笑むかのようなそんな笑みだった。
何が彼にあんな微笑をさせるのだろう?
その時、どこか刹那的な美しい光に続いて、世界を切り裂くほどの激しさで雷鳴が鳴り響く。すぐ近くに落ちたのだと感じた。
一際激しいその音に反射的に身を震わせ瞳を閉ざしていた少女のすぐ前を、彼は変わらないまま通り過ぎていく。
彼は全然怖くないのだろうか。その姿はとても無理をして歩いているようには見えない。驚くほど自然体だ。
彼は何を思い、何を感じて歩いているのだろう。
「ねぇ、危ないわ」
通り過ぎようとしたその背中に、気付けば声をかけていた。
彼は左右をざっと見てから、少女へと向き直った。
「……俺?」
向けられた彼の瞳は、青かった。
頷きながら、その色はとても彼に似合うと少女はぼんやりと思った。
「危ない?」
不思議そうに見つめられて、少女は戸惑いながら答えた。
「え、だってすぐ近くに落ちたみたいだから」
「……ああ、雷か」
その答えに少女は唖然としてしまう。頭がおかしいようには見えないと思ったんだけど……
困ったような少女に、青年はくすりと笑って続けた。
「そうだなぁ、日頃の行いが悪いから、俺の頭に落ちてくるかもな」
そう言いながら、彼はそんな可能性をまったく考えていないように見えた。
「……急いでいるの?」
「いや」
「じゃあどうしてこんな中を歩いているの?」
「どうしてだと思う?」
「わからない。さっきからずっと考えていたけど、わからないわ」
その返事にけらけらと笑いながら、青年は軽い口調で少女の問いを一蹴した。
「それは俺が変わってるから」
「…………」
「それじゃ納得してくれないかな? お嬢ちゃん」
困って黙りこんでしまった少女に、青年は優しい顔を見せた。
「……もうすぐ、雨がやんで虹が見える。気をつけて帰りな」
こくりと頷いた少女に、青年は思い付いたように言った。
「そうだ。今の返事。おれはとても雷が好きなんだ。だから歩いてた。これでいい?」
「雷が、好きなの?」
「だって、綺麗だろ?」
「きれい?」
少女は今度こそ知らない国の言葉を聞くかのようにぽかんとして、青年を見上げた。
「あの光が、とても好きなんだ」
そう笑った青年の顔が、なんだかとても優しげで、ああこんな顔もするのだと少女は感動にも似た思いで見つめていた。
「じゃあな」
ひらひらと手を振って去っていった青年の姿を、少女は見えなくなるまで追った。
雨は少しだけ弱くなったものの、まだ雷は鳴っていた。それでも何だか彼の上に落ちることなどありえないのだと、奇妙な確信が芽生えていた。
少なくとも彼にはなんらかの理由があるのだろう。だから、危ないなどとは露ほども思わずに彼は歩いていられるのだ。
やがて雷が遠ざかり、雨がやんだ後、彼の言葉通り美しい虹が見えた。
そして少し前の暗さが嘘みたいに綺麗な青空。
ああ、彼の瞳は、この深く澄んだ空の青に似ている。少女はそれに気付いてくすりと笑った。
まるで空が、雷に恋をしているみたいだと。
酷く雨に濡れた当麻が、幸せそうに帰ってきた。
なにかいいことでもあったのだろうか?
濡れ鼠のくせに、なんだか満たされたような顔をして笑っている。
「なにか、あったのか?」
朝はこれ以上ないというほど、不機嫌な顔をしていたのに。
「かみなりは、好きなんだ」
その一言に、征士は唖然とする。
まさかそれだけの理由で濡れて帰ってきたのだろうか? 悲しいことにそれをきっぱり否定できるような過去の当麻の言動を知らない。雑巾みたいになったスーツが玄関に固まっているのを見つめながら、征士はひとまずバスタオルを手渡した。
「さすがに頭上に落とされるほど悪いことしてないよなぁと思ったから、ゆっくり鑑賞してきた」
一瞬固まって、征士は爆笑した。
「な、なんだよ」
「ばかもの。かみなりは、お前が好きだと云ってお前を選んで落ちてくるかもしれんではないか」
征士は少し意地悪な視線を向けた。
「…………」
当麻はぽかんとして、征士を見つめて考え込むように唸った。
征士はまだ、笑いが止まらなかった。いくつになっても変わらない目の前の男のそんな姿を見るのは楽しかった。
「うーん、でもそれならそれで本望だなぁ」
ぽつりと告げられた言葉は、そのさり気なさのわりに冗談ではない。当麻がこんな言い方をする時ほど、本音に近かったりするのだ。
「……本気で云うな、全く。……ほら、とにかくシャワーを浴びてこい。そのままここにいては風邪をひく」
エアコンは、少し前に帰ってくる当麻のために涼しめの設定に変えてある。服ごとプールに飛び込んだような姿でいるには寒いだろう。
「そうする」
ワイシャツの裾を絞り、靴下を脱いで、当麻は苦笑しながら風呂場に消えた。
「ビール取ってよ、光輪のセイジ」
笑いを含んだ声音が降ってくる。
「……唐突だな」
シャワーを浴びてやっとさっぱりした格好になった当麻に、征士はビールを出してやった。
悪戯を見つけた子供みたいな視線が、じっと己へ向けられている。
「雷光斬みたいだと思ったんだ」
「雷か」
そう、と頷きながら当麻はぐいっと缶ビールを飲んだ。その向かいに座る征士の手にもビールが握られている。
「今まで雷をあんなふうに見たことはなかったんだな。すごく綺麗だったよ。あの感覚は歩いてなきゃ判らなかっただろうから、そう考えたら貴重な体験ができたかも、と思って」
「……そうか」
「たぶん俺はそうやって色々なものを見逃してきていたんだろう。そう思ったら、このまま暫く、歩いてみるのもいいかと思えてきてさ」
そう云って当麻はふっと静かに笑った。
当麻のその落ち着いた眼差しが、征士に『天空』を思わせた。
きっと伸辺りが見たなら『君、そうやって黙って座っていれば智将に見えるのにね』などと云うかもしれない。そして当麻はふて腐れて『黙ったままの智将が何の役に立つんだよ!』などと勝ち目のない言い争いをするのだろう。
そんな想像が頭をよぎって、征士を微笑ませていた。
「なに?」
「いや、皆とも暫く会っていなかったと思って」
「ああ、来週だよな」
トルーパーの皆が集まれる貴重な時間。今年の夏も僅かに三日だけだけれど、それでも全員揃うらしい。
「楽しみだな」
「のんびりしようぜ」
「……そうだな、ゆっくりいこう。私達にはまだまだ見えていないものがあるのだろう? 天空のトウマ」
からかうように告げた征士に、当麻はしかめ面をして頷いた。
夕立の後、気温はだいぶ下がったようだった。
征士の部屋の窓から爽やかな風が吹き抜けていく。
穏やかに更けていく夜に、征士は先刻の言葉を思い返していた。
当麻が雷を見て征士を想うように、征士は吹き抜ける風や高く澄んだ青い空に当麻を想う。
おそらく遥か遠い未来にも、きっとこの青い風は、どこからか吹いてきて傍らを自然に通りすぎていくのだろう。
自由に歩きながら、そんなふうに風がそばを吹き抜けていくときは、きっと征士も笑っていよう。
そして同じラインを歩く今の時間は、少しだけゆっくり歩いていけたらいい。 大切なものを、見落とさないようにしたいから……。
Ende
初出 2001.8発行「Walk」
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