暁の熾天使

天羽

 

 月は、あますところなく光を注ぐ。
 こんな夜だけは、嫌いになってしまいそうだ。静かな光に、罪は無いと識りながら……
 この光に、惹かれなくなることなどありえはしないのに。
 こんなにも光に焦がれている。こんなにも苦しめられているというのに。
 苦しみ、憎んだ。それなのに、まだ憧れている。この欠けることのない月の下で、人の姿のままその光を浴びてみたいと……。叶う筈もない。
 この体内に巣くうもの、それが何よりも救い難い罪。清浄すぎる光を浴びることなど叶うわけもないのに。それなのに、願わずにはおれないのだ。所詮は愚かな獣の、儚い夢だと判っていながら――――



 白々と光る満月が、細胞の一つ一つを変化させていく。魂に刻まれた呪わしい記憶が、どこにいても光の波動を感じさせるのだ。
「くっ……」
 内部から沸き起こる激しい力を、トウマは自分で自分を抱き締めるように強く押さえ付けた。その行為がまるっきり無駄ではないことを、知っていたから。
 血液が流れる音さえも聴こえてくるような一瞬。加速度的に強まってゆく細胞の欲求。それはただひたすらに変貌を求めるもの。
「っ……」
 ドクンと、一際強く、心臓が跳ね上がる。それを無理やりに押さえ付けて、みしりと軋んだ細胞の音を聞いた。
「ぐあっ……」
 強烈な痛みに、吐き気すらしてくる。
 視界が狭まって、だんだんと世界の色彩が薄れていくのを感じていた。
 駄目だ、まだ、少し早い。
 意識が、薄れていく。内からも外からも圧迫されている。見えない力に押し潰されそうになりながら、必死で意識を保つ。変貌を無理に押さえ付けたまま。
 呼吸は荒く激しくなる一方だった。
 ぐらりと世界が傾いて、トウマは立っているのを諦めざるをえなくなった。
 長い夜が、はじまる。



 セイジは、深い怪我を負っていた。
「痛っ……」
 銃弾に撃ち抜かれた左肩を押さえながら、人目のつかない森の奥へと移動していく。
 セイジにとって人型をとっていたのが徒となっていた。肩からの出血は酷く、歩くたびに重くなる左腕が、激しい痛みを訴えていた。血は、傷口を強く押さえつけている右手の甲にまで流れ出している。もうこれ以上の移動は危険だと判ってはいたが、翼化を人に見られてはまずい。誤ってセイジを撃った男は、セイジの為に助けを求めるような良識があるようには思えなかったが、いかにせんまだここは人里に近すぎる。
 ふらつきはじめた足を叱咤し、出血によるめまいを振り切りながらセイジは更に奥へと進んだ。朦朧としてくる意識を鼓舞しながら歩くセイジの耳に、ふいに獣の遠吠えが聴こえた。
「……狼か?」
 だが、もはや引き返すことは更に困難だ。それに、あと少しのことだ。翼化したセイジに、肉体あるものが触れることは適わない。
 しかし、なんて寂し気な声なのだろう。独り森に住む狼だろうか。
 ぼんやりとそんなことを思いながら、セイジは僅かに周辺を見回した。低下しつつある五感のことを考慮に入れたとしても、この静けさは異常だった。森の奥へと進むほどに、生き物の気配が薄れていく。小さな動物の一匹や二匹、居なければいけないのに。そのくせ不穏な気配もない。ただ、静まり返っているだけだ。先程の狼の聲も、気が付けば止んでいた。満月の光の中で、草木の鼓動だけが聴こえる夜。この傷さえなければいい夜だと思えたに違いない。傷口を押さえながらセイジは苦笑する。
(悠長なことを考えているな、我ながら……)
 暫くはゆっくりと歩き続けたもののそのうちに視界が仄かに白く霞み始めてきて、セイジは決断を下した。
(そろそろ限界だな)
 一際背の高い木々に埋もれ、見過ごしてしまいそうな僅かな空間を見つけたこともあって、セイジはそこで漸く足を止めた。
「はぁ……」
 出血がセイジの体力を奪っていた。
 再び周囲を確認してから、セイジは木に寄り掛かるようにしてそのままずるりと滑り落ちて片膝をついた。片手を木の幹についてセイジは、意識を集中させるように深呼吸をしながら瞳を閉じた。
 ゆっくりと意識的に象っていた肉体が、そのかたちを変えてゆく。本来あるべき姿へと。偽りの細胞の数々がその精神に融合して、変化する。翼化は、一瞬だった。
 バサリとしなやかな六枚の翼が、立ちあがったセイジの背を覆う。僅かに届く月の光を浴びて、否、セイジの内からも発していたのだろう。夜闇に鮮烈すぎるほどの金色の光。何の迷いもなく天を見上げる凛々しいその姿は、神々しいほどに美しかった。
「くっ……」
 だが、本来ある筈のない痛みがセイジを再び襲った。消しきれぬ細胞の記憶が、その翼の付け根に大きな傷を残していたのだ。立っていられずに再び片膝をついてしまったセイジは、蹲るようにして痛みに耐えた。
「傷が、深すぎたのか……?」
 左の上部の翼の付け根から流れ出す血が、純白の翼を紅に染めている。
 これでは到底空など飛べない。幸いなことに天使であるセイジには、生死に関わる問題など無きに等しいのだが、完全なる精神体でいる時以外には五感はあり当然痛みも感じる。セイジの集中力を持ってしても完全な精神化が適わぬほどの怪我など初めてのことだった。
 瞳を閉じて少しでも治癒できるように背中へと意識を集中させる。
 その時だった。
 カサっと微かな葉擦れの音が、静まり返る世界に響いた。
「誰だ?」
 セイジは音のした方向へと、鋭く誰何の声を投げた。夜明けが近いとはいえ、こんな森の奥まで人が来るとは思えない。人どころか生き物の気配すら感じられなかったのだ、先刻は。かまえたセイジの前に、草木の隙間から姿を現したのは一頭の獣。
「さっきの狼か……」
 呟いたセイジの目に、僅かに入り込んだ月明りに照らされた艶やかな蒼い毛並みが見えた。迷いのない足取りでセイジに近付いてくる。不思議と恐怖はなかった。それよりもその獣の美しさに、視線が外せないでいた。
 セイジと一メートル程の距離をおいて蒼き狼はその足を止めた。攻撃してくるような素振りはなく、ただ凛と輝く深い青の瞳が静かにセイジを見つめていた。孤高の気高き獣の風情を漂わせる狼は、きっとこの森の主なのだろう。だから遠吠え一つで、こんなにも静かな空間を作りだせるのだ。夜に動きだす獣は少なくはない。明らかに何らかの意志、あるいは意図が働いているのだろうと思ってはいたのだが。この狼を見て溜飲が下がった。
 そんなことを考えながら、セイジもまた狼の瞳を見返した。吸い込まれそうに深く濃い青を湛えた瞳。ゆっくりと、更に近付いてくるその青。引き込まれてしまいそうだった。その刹那、傷の痛みすら忘れていた。その瞳に野生の荒々しさは無く、セイジは相手が人であるかのように錯覚しかけた。時間にしたらほんの僅かな間に、共有した何かが確かにあったようにセイジには思えていた。セイジの腕の届くほどの距離まで近付いて、狼はその場に座り込んだ。しなやかな体躯を覆う青銀の毛並み。悠然としたその足取りは、森の王者然とした雰囲気を醸しだしていた。

  

続いてます

初出 1999.10発行「天使の夜想曲」

 

 これも暗いなぁ……。サンプル代わりに序盤だけアップしてみましたが、全然羽柴のお祝いにはならんような(汗)

 

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