By 天羽ひかり
静かな夜に、孤独は降りてくる。
人の気配の無い部屋は、寂しいものだ。静まり返った真夜中に響くのは時計の針の音だけで、機械的に届くその音は、かえって部屋の静寂を引き立てている。
その静けさにどうしようもなく苛ついて、当麻は突然立ち上がった。
眺めていただけの本を手荒く床に放り出して、一直線に玄関へ歩き出す。キーを片手に、着の身着のまま外へ出て、迷うことなく車に乗り込んでいた。エンジンを掛けて、何となく一つ大きく息を吐く。ライトを付けて、ギアを入れて……。
どこに行くつもりだ?、と走り出す前に自分の内から声がして、当麻は一呼吸分だけ行動を止めた。気の晴れそうな場所を探していくつかの景色が脳裏を走ったが、今の気分にぴったりのところはない。
「知るか」
行き先を考えるのすら面倒になって、投げ出すようにぼやいた当麻は、そのままアクセルを踏んだ。
午前3時に、主要道路でも無い道には車は酷く少ない。思い切りアクセルを踏み込んで、スピードを上げる。
「バイクにすりゃまだマシだったかな」
スピードを出してもあまり爽快な気分にはなれず、当麻は聞く者も居ない車内で舌打ちした。いらいらと煙草に火を点けて、大きく溜息をついていた。
20分程適当に走ったところで、当麻は見慣れた街並に気付いた。
「げっ」
何時の間に来たんだろ、と信号で止まりながら当麻はハンドルに突っ伏していた。
「情けねぇな」
何度目か判らない溜息と共に独りごちて、でも折角だからなぁ、と諦めたように、よく知った道へとハンドルを切った。
会いたい人が起きているとは思えなかった。我ながら莫迦をやっている、と自嘲気味に薄い唇が歪められる。
それでも目的地の前で車を止めて、取り敢えず外に出た。くわえ煙草のまま車に寄り掛かって、視線を上に上げる。マンションの殆どの部屋の明りは消えている。当たり前だ、灯っている方がおかしいくらいの時間なのだから。当然、目的の3階の角部屋も……、消えている。判っていたことだ。そんなに都合の良いことなんてそうそうない。
溜息と共に煙を吐き出して、荒い仕種で煙草を踏み消す。無駄足無駄足、と自身に納得させるように小さく呟いて、大きく伸びをした。
その時、ふと視線の片隅に光が現れて、当麻は再びマンションを見上げた。
「うそだろ」
間違えようもない部屋を、確認し直しながら当麻は、思い切り首を捻った。都合が良すぎるじゃないか。いくらなんでもこの距離で気配が判ったってことはないだろうし……。しかし、奴が起きたところで、こんな時間にどの面下げて、訪ねていくんだ?、そこまで考えて当麻は、所在無げに地を軽く蹴飛ばした。
だが、すぐ寝てしまうだろう、多分……。いくら征士でも、今が起床でこれから素振りを始めるってことも無いだろうから。なんといってもまだ3時なのだ。
(……待てよ……そっか、でもあと2、3時間くらいなら朝まで待つという手もあるな。そうだ、そうすりゃいいじゃん)
何時の間にかすっかり気を良くして、当麻は再び車に乗り込んだ。
当麻が朝日避けにサングラスをかけた頃、征士は竹刀を持って姿を現した。待ち望んでいた筈だったのに、征士の顔を見て当麻は直観的にやばい、と思ってしまっていた。朝の澄んだ光の中で凛として顔を上げて歩く姿が、あまりにも思い通りで綺麗だったから。
精神が一気に高揚していく。やっぱり、まずい。余計なことを云ってしまいそうだった。
だから、かろうじて理性を総動員して、当麻はくるりと踵を返した。
「おい、どうした?」
「悪い、何でもない」
不審を買う行動だとは思った。けれど、それ以上どうしようも無かったのだ。それだって、精一杯だったのだ。柄にもないことを口走らずにいるのに。
「何でもない、という態度か、それで」
肩に掛かる手を、そっと外して、背を向けたままでいらえを返す。
「ほんとに何でもない。また来るよ。今は駄目だ」
「ちょっと待て。当麻!」
征士にしては珍しく、強引に当麻の腕を掴む。
「こちらを向け」
当麻の正面に回って、征士は強い口調とは裏腹に心配そうな眼差しを向けてくる。当麻は辛うじてポーカーフェイスで表情を隠して、努めて何でもないように笑った。
「一目、顔見に来ただけなんだ。この後、用事があってな」
「わざわざ、ここまで、それだけの、ためにか?」
確認するような強い口調。感情を読み取ろうとする視線が、痛い。サングラスを掛けていたのは正解だった。瞳を見られたら、多分他の誰にも判らなくても、征士には判ってしまうだろうから。
「そうそう。今朝も美人だぜ、征士君」
軽口を叩いてみせても、今日の征士はそれに反応すらしなかった。ひたすら当麻を見つめて、らしくもなくどうすべきか考えるように黙り込んでしまう。
「コーヒーを飲んでいくぐらいの時間も無いのか」
ぐらりと、心が動いた。自分が今普通の状態では無いことくらいは、判っている。
「……いや、お前を困らせるために来たわけじゃないから」
口が思わず滑った。これでは余計に疑わしい。一言、時間が無い、と云えば済んだことを。己の莫迦さ加減を罵りながら、征士がおとなしく引き下がってくれることを願った。が、鋭い征士が、それを聞き逃す筈もなく……。
「いいから、ちょっと来い」
「時間、無いんだ」
「その様で、仕事か? やめておけ」
「……放っといてくれないかなぁ」
当麻はとうとう隠すのを諦めて、本音を漏らした。
「逆の立場でお前は、放っておけるのか?」
「……判らないでもないけどさ、お前に朝から嫌な思いなんてさせたくないから云ってんだぜ」
「もう遅い。このままでは気になって仕方がないではないか」
「平行線だな」
当麻は小さく舌打ちをして、我ながら質が悪いと思える類の笑いを浮かべて、征士の耳元に低く囁いた。
「朝から、襲われたいのか?」
征士はギロリと当麻を睨み据えて、不愉快そうに怒鳴った。
「いい加減にしろ、だいたい、いつからここにいるのだ?」
「何? 夜這いの方が嬉しかった?」
冗談めかして云ってみたものの、火に油を注いだだけ。
「私は、いつから居たのかを、訊いている」
「……3時過ぎくらいだな」
諦めたように当麻は告げた。
「……何を考えている!?」
「いけないか?」
開き直ったかのように当麻は、即座に問い掛け直す。しかし、その声音はいっそ邪気が無いようにも聞こえて、征士を戸惑わせた。
「私はその頃起きていたぞ。明かりを見たら判っただろうが」
どう対応すべきかを迷って困ったように征士は首を傾げた。
「知ってたよ。……ただ、いくらなんでも会わせる顔がないだろうが、3時じゃ……」
「そんなに薄い面の皮か? お前のは」
揶揄うような征士に、当麻は頭を抱えた。
「……んな、尤もなことを」
「一体、どうしたというのだ? 急用ではないのだろう、待っているくらいでは……」
揶揄するような調子を一変させて、征士は真剣に問い掛けた。
「いつもの気紛れか?」
「……似たようなもんだ」
「お前の呼び掛けが、私に聞こえない、とでも?」
どこか挑発的で且、あでやかな笑みを征士は浮かべて、真っ直ぐに当麻へと視線を向ける。かなわないな、と当麻は思わずにはいられない。そんな微笑にたまらなく惹かれている己を無視することはとてもできない。
それでも、なけなしのプライドがその視線を避けさせた。情けない姿をこれ以上晒すのは嫌だった。
「……今度は呼ぶよ。今日は帰る」
意図的に視線を外して、当麻は俯き加減になって告げた。
「その顔色で運転する気か? いいからちょっと休んでいけ」
征士に肩を掴まれて、当麻はわざとらしく溜息をついてみせた。
「お前さ、犯人を連行するんじゃないんだから」
引き下がらない征士を困ったように見つめる。力勝負になるとやや当麻の分が悪い。何せこの綺麗な人は、外見と中身は大違いなのだ。毎日素振りを日課にし、鍛錬を欠かさないような奴に持久力は適いっこない。
さて、どうしようか? 少々不穏なことを考えかけた当麻に、いっそう低い声が飛んだ。
「……常習犯を捕らえている気分だな」
引きずってでも連れて行きそうなその剣幕に、当麻はとうとう折れた。
「……判ったよ。コーヒーでも飲ませてもらおう」
一歩足を踏み入れて、わけもなく安堵する。
どこか明るく感じられる室内。
穏やかで暖かな空間が、なんでもないかのようにここにはある。
考えていた色々なこと、そして曇った心が一気に晴れていくような感覚があって、感動的ですらあった。欲しかった何かが見えた気がした。
それを、必要なのだと実感させられたようで、当麻は思わず苦笑していた。
「だから嫌だったんだ」
諦めにも似た表情で、当麻は怪訝な顔をした征士にぼやいた。
「……何がだ?」
「お前の部屋」
ふっと笑って立ち止まる。征士も又、当麻を振り返って立ち止まった。
「……なんなのだ、唐突に」
「ここに来ると全部見透かされそうだって言ってんの」
「……そうだろうか?」
困った顔で征士が首を傾げるのに、当麻は楽しそうに軽い言葉を投げた。
「ばーか。おれだけだ」
「一人で完結するな、馬鹿者」
さすがにむっとした表情を見せる征士に、当麻はすかさず続けた。
「怒るなよ。褒めてんだぜ?」
「……どこがだ?」
「どうやら俺はここに来ないと駄目らしい」
「……当麻、判るように説明する気はないのか?」
当麻のどこか唐突な物言いは、今に始まったことではないが、今日のは酷すぎる。まるきり脈絡がないように征士には聞こえる。おそらくは征士だけでなく、当麻以外には判るまい。
「コーヒー」
我が物顔でソファーに座った当麻を、征士は呆れたように見やった。
「喫茶店ではないぞ」
「お前が淹れてくれるって云ったんだろ」
「……確かにな」
「あ、今呼ぶんじゃなかった、って思っただろ」
「……判るのなら訊くな」
忌々しそうに征士はキッチンに向かう。当麻の変貌についていけない。開き直ったかのような明るさと、どこか諦めにも似た表情が交錯する。
納得できないまま、それでも豆を碾くところからコーヒーを淹れて、征士は当麻の向かいに座った。
「なんだ、死にそうな顔をしているかと思えば、急にすっきりとしてしまって。なんだったんだ、一体。私には聞く権利があると思うが?」
「いや、別に。もともと何でもないって云ってただろうが。この部屋に入ったら答えが見つかったからもういいんだ」
「……そうやってお前はいつだって大事なことを隠してしまうんだな」
「大事なこと……まぁそうだよなぁ。俺は征士さんが好きなんだなぁ、ってことは重要だよな」
「そんなことは判っている。それだけか?」
「そう判ってる……ええっ! ゲホッゲホッ」
慌てたように噎せる当麻を、驚かせた当人はごく冷静に見ていた。
「……大丈夫か?」
「…………」
まだ咳き込みながら頷く当麻に、征士は心外だとばかりに憮然とした声で呟いた。
「何を今更驚いているのだ、まったく」
「いまさら、か?」
「……お前の望みは、なんだ?」
その口調が特別優しかったわけではない。ただ、気を許した相手に向けるその視線の柔らかさが、確かに己だけに向けられたものだと思えて当麻の口を滑らせた。
「欲しくなったんだ。お前の気配に触れられる空間が」
なんだか疲れていたから考えてしまったのかもしれなかった。
ただとても魅力的に思えたのだ。ふと目が覚めた時に、この澄んだ気配に包まれている空間が傍らにある、その幸せな瞬間を、欲しい、と思った。
人はきっとそんなささやかな幸せの時間のために、誰かと共に暮らすのかもしれない、そんなことを当麻はふと思った。今まで考えもしなかったのだけれど。
「……それは、」
「だから、思っちまった。例えば、一緒に暮らせたら、とかさ」
征士の言葉を遮って、当麻は冗談めかして告げる。けれど、その眸が決して笑ってはいないことを、征士は見るより先に感じていた。
「かまわんぞ」
殆ど間を置かずに、征士の答えは返ってきた。
当麻は言葉もなく、ただ大きく瞳を見開いて、食い入るように征士を見つめた。
「だから、かまわない、と云っている」
「なんで? なんで、そんなに簡単に云い切ることが出来る?」
「それは……、」
そこで言葉を切って、征士は得も言われぬ微笑を、その端正な顔に乗せた。
「大切なことは他にあると、私が信じているからだ」
どこか謎掛けめいた云い方に、当麻は僅かに眉を寄せた。
「……それは?」
「私にとっては、お前が例えばどこか他の国にいようと、目の前にいようと、それによって考えが変わることなど無い。そういうことだ」
「……それっていい方にとっていいのか?」
まだ少し懐疑的な当麻に、征士はきっぱりと断言した。
「当たり前だ。お前は、私がお前をどうでもいいなどと思っていると思うのか?」
「……そこまでは云わないけどな」
「……なんというか、人と人との精神的距離が、物理的距離に必ず比例するとは限らんだろう? 私達の絆は、そんなものに簡単に左右されるものではない。そう私は信じてる」
「……そうだな」
「お前がここで暮らしたいというのであれば、来てみたらいい。問題があったらその時に考えても遅くはない筈だ」
「ほんとにいいのか?」
今更だと思っていた。同居する機会なら今までにもあったのだ。征士が東京の大学に入った時や、当麻が引っ越した時、一緒に暮らそうと思えばきっかけはあった。
それを敢えて選ばないできたのは、多分怖かったからだ。これ以上距離を縮めてしまうのが。いつか必ずくるその日のために……。
それなのに征士はあっさりと云うのだ。
「かまわん。不満があれば遠慮なく云わせてもらう。だから、……居場所をなくした子供のようなことはするな」
「……悪かったよ、心配かけて」
心配そうな征士に反論する言葉はなく、当麻はバツが悪そうに素直に謝った。
「いや。……当麻、一つ云っておくが、私とて悩まないわけではないんだぞ」
「ホントか? お前はいつだって進む道が決まってるように見えるぜ」
当麻の疑わしげな視線に、征士は小さくかぶりを振った。
「……お前が今までなんのために言い出さなかったのか、それぐらいは判っている」
「!!」
「いずれはっきりさせなければ、とは思っている」
「だったらお前、なおさら……」
「いいのだ。私にも必要な時間だ。お前は一方的に云うが、私とてお前と過ごす時間や、お前の持つ気を心地よいと思っているのだぞ?」
くすりと笑ったその顔がとんでもなく綺麗で、当麻は衝動的に抱きしめていた。
「……ありがとう」
暖かな手が背に回されるのを、当麻はこのうえなく幸福に感じていた。そのままゆっくりと口付けを交わす。
しかしながら、深まりゆく口付けを無情な声が止めた。
「仕事があるのではなかったのか?」
「……今云うなよ」
「時間は判っているのだろうな」
当麻は不服げに腕時計に視線を走らせる。
「うげ」
焦って飛び出していく後姿を、それみたことか、と呆れた顔が見送る。
「なぁ、今週末にでも引っ越してきていい?」
靴を履きながら投げ掛けた当麻の性急な言葉に、征士は素っ気なく返して苦笑した。
「好きにしろ」
「今の続きもその時な! じゃまたな〜」
「おい、」
云いたいことだけ云って当麻はちらっと征士を振り返り、笑みを含んだ視線を流して出ていった。
「……私も素振りがまだだったな」
征士は気を取り直して竹刀を手に玄関へと向かう。
慌ただしい男の去った後に、傍らを爽やかな蒼い風が吹き抜けていくような気がした。
それに知らず微笑が浮かんでしまう。たぶんこれはささやかな幸せなのだと、征士もまた感じていた。