震える青 By 天羽 ためらいがちに差し延べられた腕は、深淵の闇に差し込む一筋の光のように…… SIDE SEIJI 音もなく降り出した雨が、いつしか土砂降りに変わっていた。雨の日特有のどんよりと澱むような空気が、何故か不思議と気に触らない。そんなことよりも淡い予感にも似た思いが、心を過ぎっていてどこか落ち着かなかった。もう夜も更けて、いつもならばそろそろ眠る時間だ。だが、ベッドに入る気にはなれなかった。 なんだろう、これは。 ふいに蒼い風が通り過ぎたような錯覚を覚えた。 トン、と微かに玄関の扉が音を立てた。 心の中で予感が、確信に変わる。 予想に違わず玄関先には、ずぶ濡れの当麻がいた。 内側から開いた扉に驚いたようで、当麻が息を飲んだのが判った。 「……おかえり、当麻」 考えるより先に、言葉は滑り落ちていた。何よりもまず伝えたい一言を。 云いたいことは、山ほどあった筈なのに。他に何も云えないまま、ただ静かに当麻を中へと促した。 安堵感。それに知らず微笑んでいた。怒りたいこともたくさんあった筈なのに、そんなことはどうでもよくなっていた。その姿を見てしまったら。 「……まだここに居たんだな」 まだ戸惑ったように視線を彷徨わせながら、当麻はぽつりと呟いた。 「当たり前だ。……だが、話は後だ。風呂に入ってこい、風邪を引く」 「いいよ」 「よくないだろう。そんなに濡れて」 促そうと触れた当麻の腕は、酷く冷たくて、どれほどの雨に打たれたのかをたやすく想像させた。 「駅から歩いてきたのか?」 「ああ」 「何故っ……!」 言葉を続けようとして、噤んでしまっていた。当麻にそんな単純なことが判らないわけはないのだ。傘を買うとか、タクシーに乗るとか、……電話をかけてくるとか。 このもどかしさと怒りのまじったような感情は、単なる己のエゴだ。 「……うん。ちょっとさ、考え事してて」 土砂降りの雨の中を15分も傘もささずに歩いてきたのだ。ましてや今日は温度も下がっている。冷えないわけはない。……気付かないわけはない。 「判った。とにかく暖まっていけ」 「……いないかと思った。とっくに忘れられてるかと……」 「莫迦な!」 「変わんないな、お前」 眩しいものでも見つめるような眼差しを向けられて。 「……なにか、あったのか?」 そんな顔をされたら、問わずにはいられない。後にしようと思っていたのだけれど。 「いや、なにも」 視線を伏せて、当麻はどこか切なげに小さく笑った。濡れて色を濃くしたその髪の色も伏せられた瞳の色も、変わらない。それなのに、どこか心を閉ざしたままの当麻。 一人で何もかも決めて、あっさりとアメリカに行ってしまったのは、もう5年も前のことだ。 でも、今こうしてここに当麻がいる。それが、全ての答えだと思ってしまうのは、短絡だろうか。 「ただ、ちょっと懐しかったからさ」 取り繕うような、笑顔の仮面。その心が何かを訴え掛けているように思えたのは、気のせいだったのか? 「ごめんな、いきなり来て」 敢えて平静さを装っているように、見えてしまう。考えすぎだろうか。 「謝るな、」 距離を感じさせるような言葉を突きつけられると、たまらなくなる。 征士には、当麻の本質は何も変わっていないように見えるのに……。感覚だけで判断してはいけないのだろうけれど。こんな時だけは、縋りたくなる。過ちを恐れてはいないけれど。失うことは、できない。それを、今強く実感した。 「お前にとって、ここは、懐しいだけの過去の場所か?」 賭かもしれなかった。肯定されたら、もう踏み込めない。そんな気がして。 沈黙が、広がる。 上げた視線の先に、驚いたように自分を見つめる当麻の瞳があった。呆然と立ち尽くす子供のように。 やがて、ふっ、と自嘲めいた笑みがその口元を覆った。 「俺は、莫迦だな」 やるせなさそうに、呟いて。 たまらなかった。こんな状況においてなお、気遣われているのは、自分なのだと。当麻をためらわせているのは、他の誰でもなく……。それを今更ながらにはっきりと自覚して。 「当麻、……」 続ける言葉も見つけられないまま、濡れた身体を抱き締めていた。 その冷たさに、胸が強く痛んだ。何を思いながら、雨に打たれていたのか……。 こんな筈ではない。こんな顔をさせたいのではない。 「……濡れるぜ」 感情を抑えた声が、僅かに震えを帯びていたように、感じられた。
そっと抱き締められて、そのぬくもりに、心がふるえた。こんなにも渇えていたのかと、自分でも驚くほどに。知らず漏れた吐息が、熱を帯びる。 「……濡れるぜ」 震えを隠すように、淡々と告げた。 「そうだな」 肯定しながら、征士は己から腕を解こうとはしない。こんな緩い抱擁は、居心地が良すぎて困る。離れられなくなるから。苦しくなるほどきつく抱き締められたなら、言い訳ができるのに。 「……いつまでこうしてるつもり?」 「わからん」 そのいらえに、苦笑する。はっきりと判らないままに、それでも己がこんなにも征士を必要としていることを、どこかで感じ取っているのだろうか。勘のいい奴だから。 癒されている、それを認めずにはいられないほどに、当麻はその場から動けなくなっていた。 * * * 懐しい駅を躊躇いがちに見回した。 ――変わらない。 未だにエスカレーターもなく、大きな変化はない。もう5年も経ったというのに。 変わらない風景は、己に甘い錯覚を起こさせる。もう、過去のことだと決めていた筈なのに……。 我ながら未練がましいことをしていると思う。 あの部屋は、一人で暮らすには広い。きっととっくにいないだろうに。何故、この足は、歩くのを止めないのだろう。万が一まだ居たとしたって、何を云えばいい? 5年の間、電話一つ掛けなかった自分に、何が言える? このままでいいと、決めていたのに。 何故今になって、帰ってきてしまったのだろう。 今更ながらに後悔していた。唐突に強い衝動に襲われて、あっさりと仕事にケリをつけて帰ってきてしまったことを。当麻の格好を見て、アメリカから帰ってきたと判る者はいないだろう。荷物といったら小さなリュックが一つだけ。それを無造作に左肩に掛けて。こんなに激しい雨の夜道を、傘もささずに走るでもなく歩いている。 成田を出た時に、さほどでもないかと思っていた雨は、まるで当麻の心情を映したかのような、酷い降りになっていた。それでも、そのまま歩き始めてしまっていた。一度濡れてしまえば後は同じだ。そんなことはどうでもいいのだ。心を占めているのは、ただ征士のことだけだった。 それまでだって思い出さなかった訳はない。それでも、途中で会ってしまえば離れられないのは判っていたから、抑えていたのだ。 抑圧し続けることに、限界が来ていたのかもしれなかった。暫く前から、精神が腐敗していくのは、感じていた。澱んで逃げ場すらない想いが、ただ内を荒らしていくだけの日々。大丈夫だと思っていたのだけれど、疲れていたのかもしれない。 直接の原因は、直前に会った少年の、綺麗な瞳がいけなかったと判っている。黄昏時の空を思わせる品のある紫水晶の瞳。金髪は、ここでは珍しくないけれど。こんなにも綺麗な紫の瞳は、そうはない。それでも彼ほどではない、と感性が訴えて、……いてもたってもいられなくなった。 ただ、一目、征士に会いたい、と―――― そうして、散々に悩んで辿り着いたマンションの玄関先で、変わらないままの表札に息を飲んだ。それでもチャイムを押す勇気も持てずに、明日にしようかと逃げ掛けた時。 まるで来るのが判っていたかのように、あっさりと扉は開いたのだ。 「おかえり、当麻」 間を置かずに、その言葉は降りてきた。5年のブランクなど全くないのかと、錯覚するほど自然に。冷たさを感じさせるほど整った貌が、一瞬にして柔らさを得る。どうしてこんな風に笑うことができるのだろう。以前と変わらないままの微笑みが、当麻の心をも動かした。それでも、口をついて出る言葉はどうでもいいことばかりだった。ただ素直に再会を喜べたのなら、どんなに良かっただろう。こんなにも、この心は征士に会うことを願っていたというのに。 「駅から歩いてきたのか?」 「ああ」 「何故っ……!」 穏やかな征士が、言葉に詰まったのが判った。『何故、私に連絡してこない?』そう云いたかったのだろう。それでも、征士の言葉にも態度にも強い怒りや憤りは見当たらない。 会えても詰られるのかと思っていた。5年もの間、電話一つ入れなかった薄情な自分がどこか後ろめたくて。でも、征士の未来に自分の存在は、必要ない。そう思えてしまったから、敢えて連絡しないでいた。忘れてくれたらいい。想い出だけは綺麗なままで……。 会わないでいたら、いつかそんな日がくるのだと思っていた。お互いに変わる部分はあるだろうし、いつかは過去にすることができるのだろうと。 けれど、5年経っても尚、征士は変わることなくそこにいる。その間どんなふうに日々を過ごして来たのか、具体的なことは何一つ知らない。それでも、判ることはある。 いつでも真剣に、莫迦みたいに真っ直ぐなところが、一切変わっていないのだ。いつでも凛として前を向いて歩いていたに違いない。これだけは断言できる。そうしてあくまで真摯な想いをぶつけてくる。 それが、何より嬉しくて、でも困ってしまう。これでは、離れていたのが、莫迦みたいだ。何年経っても、征士の本質は変わらないのだ。当麻の愛したそのままに。 「変わんないな、お前」 今の自分には、少し眩しいくらいに。征士はいつでも光の中にいる。 「……なにか、あったのか?」 ためらいがちに問われて、小さく首を振る。 「いや、なにも」 特別に何かがあったわけではない。ただ、この瞳を見たくなっただけだ。そして、伝えたい言葉は、たった一言。それを、云いだせないままに。唇は、ごまかすことばかりを告げていく。 本心を認めてしまえば、もう戻れない気がした。征士にとっていつか必ず負担になると判っているのに。 「ごめんな、いきなり来て」 「謝るな、」 やるせなさそうに、征士の顔が曇る。征士の聴きたい言葉ではないと、識ってはいたのだけれど。 「お前にとって、ここは、懐しいだけの過去の場所か?」 一呼吸おいて、決意したように征士は訊いてきた。怒りも憤りも、責める響きすらなく、あくまで事実を確認しようとするかのような淡々とした声で。はっきりしないやりとりに区切りをつけるように。 それを、否定することはできなかった。 この部屋に入って感じたのは、懐しさよりも――ただ愛しかった。ここに眠る大気も、暖かい光も、僅かな変化さえも、愛しいと。 嘘は、もうつけない。この瞳の前では。例え自分はごまかせたとしても。 「俺は、莫迦だな」 過去の場所だと、云えたらよかったのに。5年経ってなお、こんなにも愛しいなんて。 そうして否定もしないで、征士を困らせる。なんて莫迦なんだ。混乱だけを増やしていくような言動しかできないなんて。 「当麻、……」 それなのに、――征士は優しい。優しすぎる。 そっと抱きしめられて、心が溶けていくような気がした。 ――たましいが、ふるえる。 還るべき場所に帰ってきた歓びに。 忘れようと思っても忘れることなどできなかった。この優しい征士のぬくもりを。 あんなにも懸命に忘れようとしていたのが、愚かなくらいに。 * * * 見透かされている気がした。こんなにも、この心がふるえていることを。 そうして、互いに抱いていだかれながら、時が止まったような時間がどれほど過ぎただろう。 心のふるえが、落ち着いた頃に、どちらからともなく離れた。 「あーあ、お前まで濡らしちゃったな」 「かまわん」 「まったく……お前なら他にいくらだって相手はいるだろうに」 半ば呆れたような当麻に、征士はただ静かに、かぶりを振る。 「いない。私はもう、お前を選んでしまったのだから」 微塵の照れもなく、真っ直ぐに当麻を見つめたままで。 「……刷り込まれてるみたいに云いきるなよ」 「仕方なかろう。私はお前しか選ぶ気はないのだ。他の誰でもなく、お前一人を」 こちらが恥ずかしくなるぐらいに断言されて、当麻は説得を諦めた。 「……お前も、莫迦だな」 「そうだな」 幸せそうに、笑う。一人全てを悟ったような顔をして。莫迦だと云われて笑う奴がどこにいるんだ! それでも。 その笑顔を眩しいと、思ってしまう自分がいる。 「そんなに待つつもりならば、云ってくれたらよかったのに」 あの時。当麻がアメリカへ行くと告げた晩。征士は止めようとはしなかった。だから、これでいいのだと、決意したのだ。 「私は、お前にとっての負担にはなりたくない。お前の未来が閉ざされてしまうのが、一番怖い。例えほんの少しでも、お前に負担を与えたくなかった。お前には才能も可能性も無限大にある筈だから……」 それは当麻こそが考えていたことだった。だから、離れようとしていたのだけれど、結局は、戻ってきてしまった。 「遠回りしたかな」 「ためらいながら、間違いながら、それでも歩いていけばいい。進んでいけばいい。決して、後戻りしているわけではない筈だ。私はそう、信じている。この5年で判ったこともあるだろう」 「……そうだな」 大事なのは、常に一緒にいることでは無い筈だ。 ただ、この魂の震えるような瞬間は、いつでも誰とでも持てるわけじゃない。きっと征士のいうように、既に自分も『選んで』しまっていたのだろう。 「しかし、何故こうも急に帰ってきたのだ?」 「それは……」 紫水晶の瞳の少年と…… 「6月だからさ」 謎かけをするように、笑い掛けた当麻に、征士は判らないといったふうに素直に首を捻る。そこがまた、征士らしくて。 「?」 「誕生日、おめでとう」 「!」 時計は、計ったかのように、12時を過ぎたところだった。 「……狙っていたのか?」 「さぁね」 けれど、当麻はただ笑うばかり。 「9日に間に合うように、と思って帰ってきたのは事実だけどな」 「……騙されたような気分だ」 「いいから、風呂入ろう。お前まで冷たくなってるぜ」 「……そうだったな」 腑に落ちないような顔つきで、征士は頷いた。 6月9日は、はじまったばかり。 ENDE
初出 BLACK CUTLAS(笑)発行 えー、征当です。征士はあんまり変わらないような気もしますが、どうでしょう? |