蒼い影が降りてくる――――
征士は、はっきりと見た。濁った空から一筋の透き通った蒼い光が降りてくるのを、そして光の先に立つ、その人物を。
けれど、次の瞬間には、光は幻であるかのように消えていた。まるで空から降りてきたかのようなその人も、違和感無く人込みに溶け込んでいる。
(見間違いか……?)
確かに見た筈の光は、とうに消え去り、雑然とした街並みは、いつもと変わらない。いきなり現れたように思えた彼の人も、さっきまで自分の視界に入らなかっただけかもしれない。そう納得しようとしたものの――――清浄な蒼い光が脳裏に焼き付いて離れない。征士は、先程の光によく似たその人物の瞳から、目を逸らすことが出来なかった。徐々に征士のほうに歩いてくるその人物の視線が動いて、二人の視線が重なる。
攻撃的な瞳。美しい藍碧(あお)に不釣合いなまでに荒んだその瞳に、征士は息を飲んだ。
「何、見てんだよ。俺に興味ある? 綺麗なおにーさん」
まだ若い青年は、征士の前で立ち止まると、嘲るように唇の片端だけをあげて笑った。
「……すまない。今、貴方の周りに妙な光が見えた気がして、つい凝視してしまった」
はっとして一度目を伏せ、再び視線を合わせてから征士は謝った。次に視線を逸らせたのは、相手の方だった。
「見えるのか……」
聞き取れないほどの小さな声での呟き。
「はっ? 今、何か云ったか?」
征士の問いには答えずに、彼は唐突に云った。
「もし時間があるなら、付き合って欲しいんだけど、俺についてくる気ないか?」
「…………」
驚いた征士が言葉を探しているうちに、彼は再び口を開いた。
「いきなり云われたって、困るよな。すまん、忘れてくれ」
青年は自嘲ぎみに笑ってゆっくりと歩き出し、征士のすぐ横をすり抜けて行く。
征士は、咄嗟に振り向いたものの、すぐには何も思い付かず、何も云えなかった。遠ざかっていく孤独な背中に重なるように、思い出される荒んだ藍碧の瞳。理由も判らず、ほうっておけない気がした。透き通ったあの瞳にかかる影を、取り除いてやりたかった。
気付くと、衝動的に追いかけていた。いつになく強引に人込みをすり抜ける。背が高く、綺麗な蒼の髪を持つ彼は、よく目立つ。静かに近付いて、彼の肩に手をかける。振り返って、驚いたように見開かれる瞳。
「付き合おう」
僅かに笑って云った征士に、彼は信じられないというかのように首を傾げた。
「何で?」
「……何となく、だ」
征士にしては珍しく、やや曖昧な笑みを浮かべた。おそらく自分の言葉は、今の彼に心情を伝えることは出来ないだろうから。取り敢えず、そばに居てやれたらいい。彼のプライベートに踏み込むつもりはないのだから――――
「……酒、飲めるよな?」
「ああ、本来はいけないのだが……」
ちょっと戸惑ったような征士に、彼は不思議そうに問い掛ける。
「えっ、ひょっとして、まだ二十歳前?」
「そうだ、まだ19だ」
「俺と同い年か。落ち着いてるから、二十歳は越えてると思ったんだが。ま、飲めるならいいだろ? 奢るから付き合えよ」
「それは、かまわんが……」
当然のように云う彼を、少し呆れて見る。端正なその顔に、感情は浮かんでいなかった。
「じゃ、来いよ」
云うなり歩き出した彼に、征士も何も云わずに付いて行く。少したって征士は、まだ彼の名すら知らない事に気付いた。
「お前さ、名前何ていうの? 俺は当麻」
征士が口を開こうとした矢先に彼は名乗った。あまりのタイミングの良さに苦笑する。
「私は征士、という」
当麻は顎に手を当て、何かを思い出すように遠い目をして独りごちた。
「征士、か。名前に覚えはないよなぁ……」
「…………?」
怪訝そうな征士に、当麻は真面目に問い掛けた。
「何となくお前に、見覚えがある気がするんだけど。お前、死にかけた事ある?」
「……ああ。五才の時に病で死にかけたようだ。それ以来は丈夫で風邪一つひいていないので、あまり実感はないのだが」
淡々と云う征士の声を聞いて、当麻はますます真剣な表情で黙り込んだ。それきり何も云わずに考え込み、黙々と歩き続ける。当麻の考えは判らなかったものの、追及する気にはなれず、征士は一つ深呼吸をして、変わらぬポーカーフェイスのまま彼の後に続いた。
互いに黙々と歩くこと15分。酒場(バー)に着いた時、時計は午後5時半を指していた。
「あら、当麻じゃない。久し振りね」
「当麻。こっちに来て一緒に飲まない? 奢るわよ」
慣れた身のこなしで当麻が店に入ると、直ぐにあちこちから声がかかる。それらを軽く躱して、当麻はカウンターの端に腰掛け、征士を促した。
「いらっしゃい、当麻。ボトルたくさん預かってるわよ」
この店はどうやら当麻の行きつけらしい。征士が辺りを一瞥して当麻の隣に座ると、カウンターの中から女主人(オーナー)が柔らかな笑みを浮かべて声をかけてきた。
「そちらは当麻のお友達?」
若く綺麗だが上に立つ者としての貫禄のある女主人が征士に、問い掛ける。
「俺が友達連れていたら、そんなに珍しいか?」
征士が口を開くより先に当麻は苦笑混じりに問い返した。
「だって貴方、今まで友達連れて来た事なんてなかったでしょう?」
「そうかもな。でも生憎とコイツも友達じゃないんだ。さっき会ったばかりでね。な?」
「ああ」
「あら、そうなの? 何だか久し振りに会った旧友ってカンジなのに。じゃ、これから友達になるのね」
心底意外そうな顔をして、女主人は一人で納得した。
「…………」
こうもきっぱりと云い切られてしまうと、否定する理由もなく返す言葉はない。女主人は黙り込んだ二人に再び笑い掛けながら尋ねた。
「まず、何を飲みたい?」
「銘柄はどれでもいいから、取り敢えずウォッカとウィスキーを一本ずつ出してくれ」
当麻が完璧な無表情(ポーカーフェイス)のまま不機嫌そうに呟く。
店の隅にいるというのに、端正な顔立ちの当麻には実に数多くの視線が向けられている。声を掛ける機会(チャンス)を狙っている女性達を、ちらっと冷たく一瞥する。凍りつくような藍碧(あお)の瞳には蔑みの色すら浮かび、他人を寄せ付けない。けれど、征士には見えた。その冷たい瞳に確かに潜む孤独を。やすらぎを求める魂を――――
「……おい、ウォッカでいいか?」
当麻が黙り込んでいる征士にボトルを見せて問い掛けた。
「……ああ」
一瞬の間。はっとしたように顔を上げて征士は微かに笑った。
グラスに半分ほど入ったウォッカが水のボトルと共に征士の前に置かれる。
「飲もうぜ」
ストレートのままのウォッカを片手に当麻は伏し目がちに云った。
「水で割らなくてよいのか?」
「ああ。おそらく水割りじゃ何杯飲んでも酔えないからな。酔いたいんだ。……忘れたいんだよ。全部をね」
当麻は寂しい笑みを浮かべて、征士の紫水晶の瞳を見つめた。征士は具体的に『何を?』とは聞けなかった。それくらい、寂しい笑みだった。
黙々とグラスを口へ運ぶ二人に、最初は遠巻きに見ていた女性達が痺れを切らして近付いてくる。
「ねぇ、当麻。一緒に飲みましょうよ、何かクライわよ?」
「貴方、当麻の友達でしょう? お名前教えて頂けない?」
「さすが、当麻のお友達ね。当麻も綺麗だけど、貴方もとても綺麗ね」
「ほんと。ちょっとお付き合いしたいわ」
うるさく騒ぎ立てる女性達に、ストレートのウォッカを戸惑うことなく飲んでいた征士は、呆れたように視線を投げ掛ける。ちょっと口ごもった彼女達に当麻が向けた視線は、更に冷たいものだった。
「悪いけど、今日は遠慮してくれないか?」
当麻の口調は穏やかだが、はっきりと拒絶する意思が聞き取れる。女性達は、日頃と違う当麻の様子に驚き互いに顔を見合わせていたが、やがて諦めたように二人の側を離れた。
「よかったのか? 知り合いなのだろう?」
「いいんだ。顔見知り程度なんだから。一緒に飲んで、気がむきゃ寝るくらいのヤツラだから。お前と飲んでる方がよっぽど落ち着くよ」
当麻は小さく笑って、6杯目のグラスを空にした。
「なら良いのだが……」
時折寂しい笑みを見せるくせに、何も語ろうとはしない当麻が、征士には気掛かりだった。本来征士は、関係のない他人に深入りするような性質(たち)ではない。けれど、何故か気になった。この目の前の孤独な藍碧(あお)の瞳が、寂しい蒼の微笑みが。
「あら、天使君じゃない」
その時、少し遠くから、一人の綺麗な女性が当麻に声をかけてきた。
「ちょっと、百合さん」
先刻二人に声を掛けてきた女性達が、女性に向けて手招きをする。『百合さん』と呼ばれた女性は、不思議そうにボックス席にいる彼女達の側まで行った。二言、三言交わして、女性はカウンターの二人の近くへと歩み寄った。
「どうしたの? 天使(とうま)君、機嫌悪いんですって?」
百合は、からかうように云って、優しく微笑んだ。
「久し振りだな。別に機嫌が悪いという程じゃない。騒ぐ気になれないだけだ」
さっきよりは幾分マシな対応を返す当麻に、征士は安堵したように小さく息を吐いた。
「そう。たまにはそんな事もあるわよね。貴方、天使(とうま)君のお友達よね? 天使(とうま)君は多分大事な事は何も話さないと思うけど、そういう子だから。……側に居てあげてね」
「百合さん、勘違いだぜ。コイツとは、さっき会ったばかりなんだから」
そう口にしながら、当麻は己の中の僅かな驚きに気付いていた。目の前にいる征士とは、ほんの数時間前に会ったばかりだという事実を、忘れ掛けていたのだ。
「嘘ね。5分前に会ったって、友達になれる人とは、友達になれるものよ。逆に何年付き合ったって、上辺だけの友達にしかなれない人だっているわ。そういうものじゃない?
人間関係って」
「……そうだな」
短く云って、当麻は口を閉ざした。
「一つ、聞いてもよいだろうか?」
征士は云いにくそうに百合に尋ねた。
「よければ、何故『天使』なのか教えて頂きたいのだが……」
「そんな気を使わなくていいわよ。天使(とうま)君と私が初めて会ったとき、―――もう6年も前だけど。年がバレちゃいそうね―――天使(とうま)君が自分で云ったのよ、私を口説くのに。『天使(おれ)に抱かれると幸せになれるんだぜ』って」
くすくすと楽しそうに笑いながら百合は云った。
「それ以来私は『天使君』って呼んでるのよ。ね?」
同意を求めた百合に当麻は不快そうに横を向く。
「……ったく、余計な事を」
「ごめんなさい。年増女のたわごとだと思ってね。じゃ、私は御邪魔そうだから、またね、天使君と……」
「征士」
征士を見て口ごもった百合に、当麻がぼそっと呟いた。
「じゃ、征士君、天使(とうま)君をよろしくね」
軽くウィンクをして、百合は立ち去った。
その後、二人に声を掛ける者は現れず、彼らは言葉少ないままに飲み続けた。二人は決して多くの言葉を交わしたわけでない。けれど、言葉以上の何かが、彼ら二人の間には確かに存在していた。
ふいに、当麻がフッと笑みを洩らす。自嘲とも何とも云えない笑みからは、当麻の思考は読めず、征士は軽く首を捻った。
「どうした?」
「いや、『なれる奴とは会って5分で友達になれる』ってヤツは、案外正しいかな、と思ってね……」
「いきなり何を云うかと思えば……」
唐突に云い出した当麻は、楽しげに更に言葉を継ぐ。
「この俺の、時間感覚が狂ってんだよ、今日は。おまけに大幅に」
云うなり当麻は愉快そうに笑い出した。
「…………」
「今、12時って、知ってたか?」
「いや、もうそんな時間か?」
はっとして征士は、背後にある掛け時計を振り返る。確かに時計は12時を少し回っている。時間を意識的に気にしないというのは、日頃の彼には決してありえない事だった。唖然として呟く。
「確か、百合さんという女性が来た時は、8時頃ではなかったか?」
「ああ、あの時はまだ8時ぐらいだったぜ。俺も目を疑ったんだ。とても4時間も経ったという意識はなかったからな。……どうりで、ボトルが減るわけだ」
まだ楽しげな当麻に征士もつられて笑いだす。
「確かにな」
「あぁ、お前、家の方は平気なのか? 時間は」
当麻は、笑いを収めて尋ねた。
「差支えない。私は一人暮らしをしているのでな」
「そっか。じゃ、このボトルが空になったら帰るか。雨も降ってきたようだしな」
「雨? 何故判った?」
店の壁は厚く、とても外の音など聞こえない。濡れた傘を持って入ってきた客なども見当たらない。不思議に思って尋ねた征士に、確かな答えは返らなかった。返ったのは自嘲にも似た微かな笑い。
「さぁね……」
深く追及する程の事ではない。征士は視線を外して、グラスに残っていた琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
「おっ、これで終わりだな」
当麻が自らのグラスにウィスキーを注ぐ。このボトルもとうとう空になった。それにしても、二人で一体何本のボトルを開けたのだろうか。軽く5〜6本は飲んでいるというのに、どちらも酔っている様子は全くない。
「出ようか」
当麻は、グラスを一気に傾けて立ち上がった。
「ところで、勘定の方は本当に良いのか?」
「ああ、気にするな。全部貢ぎ物だから」
「そうか、御馳走になった」
生真面目に礼を云う征士に軽く頷いて、当麻はカウンターの中へ視線を向ける。
「女主人(オーナー)、じゃ、また来るから」
「あら、当麻。もう帰るのね? じゃ、またいらっしゃい。お友達も一緒に」
優しい微笑みを向けてきた女主人に、会釈程度におじぎをして二人は店を出た。
外は、当麻の云ったとおり雨だった。しかも雨足はかなり強い上に、春先のこの季節の雨は酷く冷たい。
「お前さ、家、何処?」
「ここから車で10分程の所だが……」
征士はそこで迷うように云いよどんだ。何故か、尋ねてはならない事のような気がしたが、再び言葉を継いだ。
「お前は?」
刹那、征士は当麻の表情の中に、途方にくれたような、困ったような顔を見出だした。だが、当麻はすぐに瞳を伏せ、次の瞬間にはさっきの表情(かお)は破片程も残ってはおらず、そこにあるのは、唯、自嘲的な笑いだけだった。
「……今日はどこに泊まるんだろうな、たぶんどっかの女の所なんじゃない?」
まるで他人事のように投げやりな言葉は、決して彼がその状況を楽しんでいるわけではないということを、強く征士に伝える。
「帰る所が……ないのか?」
「ああ。俺には帰る所も行く所も――居場所が、ないんだ。もうね。……何、泊めてくれるの?」
冗談めかして云った当麻の真実を、征士が聞き逃す筈はなかった。ポーカーフェイスを崩さぬように意識する。おそらく当麻は、同情される事を嫌うだろうから。
「今から宿探しは、大変だろう? しかもこの雨では。近いのだから、我が家で良ければ来るとよい。無論、無理にとは云わんが」
当麻は驚いたようにまじまじと征士を見つめた。真剣な紫水晶に灯る優しさが、嬉しかった。
「いや、助かるな」
それから二人は大通りまで、雨の中を駆けぬけ、タクシーを拾って征士の家へ向かった。 征士の住むマンションは、騒がしい大通りからは少し離れた地にある。小さめの小綺麗なマンションの3階に征士の部屋はあった。
「へえ、わりと広いんだな」
「ああ。私が越して来た時、この部屋以外開いていなくてな。友人達には、私との同居は嫌だと断られてしまったし」
2LDKの一人暮らしには広すぎるくらいの部屋。苦笑する征士に当麻は不思議そうに尋ねた。
「なんで? お前ならきっちりしてそうだから、同居相手にはもってこいなんじゃないのか? 現に部屋も綺麗だし……」
「なんでも、息苦しいらしい」
「そうか。なるほどね。……勿体ないなぁ」
「そうだな。もう少し狭い部屋が開いたら、替えてもらうように云ってあるのだが」
「違う、違う。勿体ないのは、同居相手の地位の方だ。お前といて息苦しいなんて、絶対ないだろ? お前は確かに生活はしっかりしてそうだが、神経質ってわけじゃなさそうだし……」
雨に濡れた服のままでいる事も忘れて、当麻は何かを云い掛けて、はっとしたように口をつぐんだ。
「すまん。今日会ったばかりの俺が云う事じゃないよな」
「いや、そんな事は……」
当麻は困ったように立ち尽くし、蒼の髪をかきあげる。細かい霧のような水滴が髪全体に飛び散るのを見て、征士は言い掛けた言葉をそのままに、慌てて当麻を促した。
「ああ、すまない。濡れたままであったな。先に風呂に入れ。風邪を引くといけない」
「お前だって濡れたままだろうが。先に入れよ」
「私は部屋を暖めておくから、いいから先に入れ」
征士は、少し強引に当麻の冷たい腕を引いて、バスルームへ連れていく。当麻は反論しかけたが、絶対に譲らなそうな征士を見て、諦めたように頷いた。
「判ったよ。サンキュ」
春になったばかりのこの季節、こんな雨の日の真夜中はとても冷え込む。征士は、備え付けのヒーターを付け、当麻の為にパジャマを出した。
あっという間に出てきた当麻に呆れつつ、征士も風呂に入った。
征士がリビングに戻ってきた時、当麻はソファーに座り、面白くもない外の景色をぼんやりと眺めていた。
「起きていたのか?」
「あ? ああ、出たのか。悪い、気付かなかった」
何事かを考えているらしく当麻は、ちぐはぐな答えを返す。
「もう遅いから、そろそろ休んだらどうだ?」
当麻を気遣う征士は、限りなく優しい。余計な詮索をするわけでなく、ただひたすらに優しい征士が当麻には判らなかった。
「聞いていいか?」
穏やかに切り出した当麻に征士が頷く。
「お前は、誰にでもそんなに親切なのか? だとしたら、相当お人好しだぜ」
「いや、違う。私にもよく判らないのだ。……唯、今のお前を放っておくことは、私には出来ない」
真っ直ぐな征士の瞳に、曇りはない。心情のままを語った征士に、当麻は困ったような僅かな笑いを浮かべながら呟いた。
「変な奴。人間のクセに光(オーラ)が見えるし……」
「? オーラ、というと……」
征士の脳裏に、蒼の光に包まれた当麻の姿が甦る。征士は当麻に促されて、隣に腰掛け、謎めいた彼の言葉の続きを待った。
「お前、云ったよな。俺の周りに光が見えたって」
「ああ」
「俺は、信じられないかもしれないが……」
当麻は、迷うように瞳を彷徨わせて、やがてそれを断ち切るように顔を上げた。
「天使なんだ」
征士の瞳が、驚きに見開かれる。
他の誰が云ったとしても、信じはしなかっただろう。冗談として聞き流したかもしれないし、揶揄われたと怒ったかもしれない。
だが、何故なのだろう?
当麻だから、信じられた。出会ったばかりだというのに。それでも己の直感は、その言葉を信じていたのだ。何よりも、澄んだ藍碧(あお)の瞳は、嘘をつく者のそれではなかった。
「そうか。私の目に違いはなかったのだな」
「ああ、本来天使の光(オーラ)は、人間には見えない筈なんだが。……お前には、見えるんだな」
そう云って当麻は、嬉しそうにふわっと微笑んだ。
「人間には、見えないのか? あの蒼い光が……」
「……色の識別まで出来たのか。……俺は頻繁に人間界(こっち)に来てるが、今までに俺のオーラを見た人間はいなかったよ。お前が初めてだ」
当麻の瞳に、明らかな驚愕の感情が現れる。
「そうなのか。不思議な事だな。……ところで、天使というのは、皆お前のようにこの世界に来るのか?」
「いや、他の奴等はあまり出向かないし、それが普通なんだ。天使は人の魂を色々な意味で救う事を目的として生きているから、天界からでは救えない死の迫った人間をやすらかに永眠(ねむら)せる為とか、不幸を自ら背負ってしまっているような人間を救う為に、ごくたまに降りる事はあるが、大抵は天界に居る。俺は、……異端だからな。天界に居づらくてね、六年くらい前から人間界(こっち)に入り浸ってんだよ」
単純に疑問を口にした征士に、当麻は苦笑混じりに答えた。
「そうか。その……」
征士が、何かを尋ね掛けて口ごもる。
「ああ、気遣いは無用だぜ。ここまで話したからには、何でも話すよ。お前には聞いてほしい気もするしな」
「では、何故お前が『異端』なのだ?」
納得がいかないような征士に、当麻はあくまで淡々と語りだした。
「……俺は蒼の光を持っていただろう? でもそんな天使は他にはいないんだ。俺は翼が蒼いせいで光(オーラ)も蒼いようなんだが、本来天使は純白の翼と、白く輝く光を持っているんだ。俺が生まれるまでは色がついた光なんて、黒翼を持つ堕天使にしかなかったから、物心ついた頃からよく俺は云われたんだ。『お前は堕天使だ』ってね。両親も、周りから色々と陰口を叩かれていたようだし――堕天使との間の子なんじゃないかってね――実際は突然変異のようなものだったんだが、信じてくれるやつは居なかった。更に悪いことに、俺は極めて攻撃力に近い力を持っていて――断っておくけど、殆どの普通の天使は、かろうじて身を守れるくらいの守護力しか持っていない――その力が他に比べると異常なまでに強いんだ。そのせいもあって俺は他から敬遠され、異端扱いされていたんだ」
当麻の口調には、感情が見当たらない。けれど、征士にはその事実が、どれだけ当麻を傷付けてきたか、容易に想像できた。
「ま、ここ数年はロクな事してないから、本当に堕天使みたいなモンなんだがな」
そう続けて、まるで他人事のように当麻は自分自身を嘲笑った。そんな彼を見ていたくなくて、征士は即座に否定の言葉を口にしていた。
「違う! お前の光(オーラ)は、綺麗だった。清浄な輝きを持つ蒼い光だった。お前は、天使なのだろう? 自分をそんなふうに卑下するな」
当麻は何も云わなかった。否、云えなかったのだ。知らない言葉を聞かされたかのように、呆然と瞳を見開いていて……。
「お前は堕天使などではない。そうだろう? お前は、『攻撃力に近い力』を持っていると云ったな。ということは、お前の持っている力は『守護力』なのだろう? 私は天界とやらの事情については全く知らないが、その力はきっと、お前にとって必要なものなのではないか? 強い力を持っているというのは、悪い事ではない。問題は使い方の方であって、ましてお前の場合は『守護力』なのだから、何の問題もないだろう。違うか? それを敬遠するというのは、お前の力を羨んでいるのだ。お前は、他人をも守る事のできる自分の力を、誇っていいと、私は思う」
祈るような気持ちで語った言葉が、当麻に届く事を願って、征士は見開かれた藍碧の瞳を真っ直ぐに見つめた。
と、脳裏をよぎる不思議な既視感(dejavu)。
当麻の瞳に、朧気な藍碧の霞が重なり、揺れる。
――今まで共に居て何も思わなかったのに、何故こんなにも懐しい? 私は、この瞳を、以前にも見たことがあるのか――――。
「……お前、なのか? 俺が昔会ったのは、やはりお前か」
唐突に、問い掛けとも、独り言ともつかない口調で、当麻は押し出すように、掠れた声で云った。
「……何の、ことだ?」
口を開くと共に、征士の中で、不鮮明な既視感が、まるで波のように引いていく。
「お前、五才の時に、死にかけたと云っていたよな? その時に見た夢を、覚えていないか?」
「夢? ……すまないが、あの時のことはよく覚えてはおらんのだ。一週間ほど、意識不明だったようでな。夢と現実を彷徨っているような、ふわふわした落ち着かない気分だったことぐらいしか判らん」
「そっか、そうだよな。だいたい十年以上も前の夢なんて、覚えているわけないよな」
当麻は一人で自己完結すると、思い出したように征士を見つめた。
「そうだ。征士、……ありがとな」
当麻は自分を励ましてくれた礼を述べた。
その途端、征士の表情が傍目にもはっきりと変わった。征士は、一度は引いたように思えた既視感(dejavu)が、再び、今度ははっきりと浮かび上がってきたのを感じた。 自然に閉じた瞳の奥に見えたものは、眩しい光に溢れた白色の空間と、小さな蒼い――天使。『ありがとう』今と同じ一言を残して消えた、その姿。
脳裏に隠されていた記憶が鮮やかに甦る。
「……礼を云われる程のことはしていないぞ、私は。今も、そして……あの時も」
「えっ?」
「思い出したぞ。当麻、お前と会った時のことを……」
呆然とした面持ちの当麻に、征士は綺麗な微笑みを浮かべた。
「本当に?」
信じられないといった顔付きで当麻は、くいいるように征士を見つめる。
「ああ。今のお前の言葉を聞いて、全てを思い出した。……迦雄須殿は、どうなさっているのだ?」
征士は、当麻に出会った五才の時に聞いていた。迦雄須という天界の指導者だけが、唯一、疎外されている当麻の真の力を認めてくれていると。
征士にはどう考えても、当麻の環境は彼にとって良いものとは思えなかった。力を認めているのなら、迦雄須は当麻のために何かしてもよい筈である。当麻が孤立し、その強大な力を有効に使えないというのには、指導者である者の責任もあるような気がした。
「姿をくらました。つい、昨日」
当麻は、ぼそっと感情の籠らぬ声で呟く。
「……それでお前は人間界(こちら)に来たのか?」
「ああ。居る所がなくてな。能無し天使どもは、迦雄須(あいつ)が姿をくらましたことまで俺の責任にして、問いただしてくる。まぁ、死期が迫っていることを、認めたくないんだろうけど。年齢が年齢だから、仕方ないことなんだがな」
当麻は一呼吸おいてから、説明不足に気付いたのか、征士が尋ねる前に再び口を開いた。
「……天使なんていうと、まるで不老不死のように思えるだろうが、天使にも寿命は一応ある。外見は成人すると――これは人間と同じで二十歳で成人だ――殆ど変わらないんで確かに年齢は判りにくいんだが、迦雄須はもう随分長い時を生きていた。その歳を知っている人間は少なかったけどな。おそらく、死期が近付いていることを悟って、一時的に姿を消したんだと思うんだ。『気』は在るし……」
「そう、なのか……」
征士は当麻の顔を見たくなくて、そっと俯いた。
当麻の迦雄須への信頼は、よく判った。他の話をしていた時とは、その口調が微妙に違っていたから。では、迦雄須が本当に死んでしまったら、当麻はいったいどうなるのだろうか。天界に彼の居る場所は失くなってしまうのか? 彼の還る場所は……。
「ここを、……ここをお前の居場所にしたらよい。天界に居づらければ、何時でも来ると良い。私はお前に何もしてやれないが、話を聞くぐらいのことなら出来る。だから、一人で抱え込むな」
顔を上げ、凛とした口調で一息に征士は云った。
「……まいったな。ホント、俺はお前には助けられてばかりだ」
征士には、余計なことだったかもしれない、という不安な思いがあった。だが、当麻の照れたような笑いは、迷いの消えた綺麗なものだった。
ほっとして征士は、部屋の掛け時計に目をやり、尋ねた。
「……もう、3時だ。そろそろ休むか?」
明日――もう今日になるが――は日曜だから、別に何の支障もないが、日頃に比べると幾分遅い時間である。
「あ? もうそんな時間か。すまん、お前が寝られないな」
「いや、私はかまわんが……」
当麻がソファーから立ち上がり、大きく伸びをする。
「じゃ、俺はここのソファーでいいから。もうお前は寝てくれよ」
「いや、お前が向こうのベッドで眠れ」
征士は、自分よりほんの少しだけ高い位置にある当麻の肩を抱いて、寝室に向かった。
「おい、本当にいいって。俺は何処ででも寝られるから。いくらなんでもそこまで俺は図々しいマネはできんぞ」
「馬鹿を云うな。何処の世界に客人をソファーなどで寝かせる者がいるんだ」
当麻は、当然の事とばかりに云う征士の耳元へ、すっと唇を寄せた。
「……一緒に寝るって、どう?」
「狭いだろう。シングルベッドだからな、これは」
冗談混じりの言葉に、表情一つ変えず真面目に答える征士に、当麻は吹き出していた。
「……何がおかしいのだ?」
「いや、ちょっとね。じゃあさ、つまりお前はお客をソファーで寝かせたくないんだろ?」
「? ああ」
征士は、含みを持った当麻の云い回しがよく判らず、首を傾げる。
「お前、さっき『ここを居場所にしたらよい』と云ってくれたよな?」
「ああ」
「それなら、俺は、お前の言葉に甘えさせてもらうから、お前は、居候にわざわざベッドを提供しなくてもよいだろう?」
「……それと、これとは話が違うだろうが」
勝手な当麻の理屈に呆れたように溜息が漏れる。
「同じだって。お前にそんなに気を遣わせるくらいなら、俺はもうここには来ない」
真剣な眼差しに、当麻が本気で云っていることが判った。
「……仕方ない。そこの掛け蒲団を持っていけ」
「サンキュ」
諦めたように苦笑する征士に、軽く片手を振って当麻は部屋を出ていった。
翌朝、征士は彼にしては遅い時間に目が覚めた。
「8時か、寝過ごしてしまったな」
独りごちて、てきぱきと身支度を整え、リビングへ向かう。
ソファーには、安らかに眠る蒼い天使。そこに東の窓から朝の光が、惜しみなく降りそそいでいた。眩しいのか、ソファーの背凭れに顔を埋めている当麻の後髪に光が纏わり、零れ落ちる。彼が僅かに身動ぐと、さらさらの髪が揺れ、蒼い光となって舞った。
征士は、当麻を起こさぬように静かにソファーの前を横切って、窓を開け、朝の清々しく爽やかな風を部屋に通した。当麻はよく眠っていて、起き出す気配は全くない。征士は、普段と同じように洗面をすませ、コーヒーを入れた。
征士が新聞を読みながら、ブラックコーヒーを口にしていると、ふいに少し強い風が窓から入ってきた。いきなりの強風は、当麻の側をも通り抜けていき、彼の髪を乱す。窓を閉めようと征士が立ち上がると、強い風は一瞬にして収まり、そよそよとした元の穏やかな風が吹くばかりだった。不思議に思った征士の耳に、当麻の呟きが届く。
「……あれ?」
その声に征士が振り向くと、ぐっすり寝ていた筈の当麻が、身を起こしていた。
「起きたのか?」
やや意外そうな征士に、軽く頷いて、当麻は視線を動かし、開いた窓を見やった。その途端、当麻の表情が険しいものに変わる。突然、当麻は立ち上がり、大股に窓へ近付いて、外に手を翳し、呟いた。
「……やはり、か」
征士は、唐突な当麻の言動に呆気にとられていたが、当麻の視線に気付き、問い掛けた。
「どうした?」
「ああ。天界(そら)が俺を呼んでる。どうやら迦雄須が帰ってきたらしいな」
征士の座っていたテーブルの方に戻りながら、当麻はその深い藍碧(あお)の瞳を考え深げに細めた。
「迦雄須殿がか。では、お前も戻った方が良いのではないか?」
「……だろうね。遺言を聞いておかなきゃならねぇしな」
征士は、仕方なさそうに云って椅子に座った当麻の前にコーヒーを置いて、気掛かりだったことを尋ねた。
「ところで、さっきの風は、お前の力か?」
「いや、違う。さっきのは天界(むこう)からの伝言みたいなモンだ。まあ、俺も風を操る力を持ってはいるがな」
当麻はごく自然にコーヒーカップを口に運び、思い出したように溜息を吐いた。
「……戻りたくないのか?」
「いや、迦雄須がまた仕様もないことを云いだしそうだから……」
「と、云うと?」
「随分前から云われてたんだが、次期指導者になれ、ってね。俺は何といっても人望がないから、絶対無理だと断ってきたんだが。全く、どう考えたって無理なことなのに、この件に関しては決して引かないんだよな。ちょっとぐらい力があったって、周りに敬遠されるようなヤツがトップになんか立てるわけないんだ。……でも、遺言で命令されたりしたら、断れないんだよ」
忌々しそうに云う当麻に、征士は静かな眼差しを向ける。
「だからといって、帰らないわけにはいくまい? 長年指導者であった迦雄須殿が、そこまで云うのなら、それはお前にそれだけの能力が有るということなのではないか。おそらく、お前の力は、強い守護力は、守るべきものの為に有るのだ。周りのものとて、お前のことが判れば、自然と信頼していくと思う。……とにかく、今戻らねば後悔するぞ」
「……そう、だな」
コトリと小さな音を立ててカップが置かれる。決意したのか、当麻はしっかりした視線を征士に向けた。
「解った、戻るよ。…………また、ここに来てもいいよな?」
「当たり前だ。『居候』と云ったのはお前だろう? 何時でも、来たい時に来るがよい。ここは、お前の居場所なのだから――――」
当麻は、優しく綺麗な微笑みをくれた征士に心底から感謝して、軽い身のこなしで立ち上がる。二人は、寝室を通ってベランダへ出た。
「じゃ、ホントに色々とありがとな」
当麻は、そう綺麗に笑って、ゆっくりと瞳を閉じた。
ふわっと、当麻の躰が浮き上がる。その背には、蒼く輝くおおきな翼。
本来、人間には見ることの叶わない筈の天使の翼が、征士の瞳にははっきりと見えた。当麻の背には、確かに美しく蒼い翼があった。
「……美しい翼だな」
「見えるのか?」
感嘆した征士の声に、当麻は、驚いたように閉じていた瞳を開ける。
「ああ。光(オーラ)だけでなく、翼まではっきりと見えるぞ」
「……全く、お前には適わんな」
『適わない』といいながら、当麻の口調は嬉しそうなものだった。
「そうだ。征士に礼をしていなかった」
「何だ?」
唐突な当麻に、征士は穏やかに問い返す。
次の瞬間、征士の眼前には、蒼がひろがっていた。
啄むような、触れるだけの、くちづけ。
「幸福の贈り物(プレゼント)だ」
数センチ程浮いたままで、当麻は征士の耳元に囁いた。
「また、来るから……」
「ああ」
苦笑する征士の優しい紫水晶を見つめたまま、当麻は大きくその翼を拡げた。さあっと風が樹木の間を抜けていく音がする。当麻は風に乗って、高く飛びたった。陽の光が、翼に降りかかり、煌いている。
征士はしっかりと見つめた。美しく蒼く輝く翼を……
唇には、微かに風の香りが残っていた――――