天 使 の 午 睡

By 天羽ひかり

 

 その日の空は、常よりも青く見えた――― 


 爽やかな初夏の日差しが、世界を覆っていた。
 征士が、ちょっとした外出から帰って来たのは、午後2時を過ぎた頃だった。空気を入れ替えるために窓を開ける。途端にふわりと、征士のよく知る風が通り過ぎて、知らず微かな笑みを浮かべていた。
 清々しい風に誘われるままにベランダへ出た征士は、けれど唖然と空を見上げることになる。
 ふわふわと空を漂う蒼い塊。
 微風に乗って、確かに征士の元へと近付いてくるのだけれども、様子がどうもおかしい。
 判るのは、ただ……天上の高みから、天使が降りてくる、というその事実。
 無防備にしなやかな手足を投げ出した姿、その格好自体は、神々しいとはいい難かったのだけれど。その大きくひろげられた翼の美しさと、蒼い光の神秘さだけは、確かだった。 神の御遣いであるといわれる天使。その事実を日頃の当麻は殆ど感じさせない。けれど、見る者を惹きつけてやまないその蒼に……征士も瞬間、動きを止めていた。
 ふわりと緩やかに漂って、とうとう征士の手の届く位置まで降りてきた当麻は、それでもまだ瞳を閉ざしたままだった。
(触れることは、許されるのだろうか?)
 深い青のグラデーションを彩る羽は、触れたら消えてしまいそうなほどに、美しかった。透度の高いその羽に、征士はそっと手を延ばした。消えてしまわないようにと、願いながら。
 薄い色彩を纏った羽は、柔らかく少しひんやりとした感触を征士の手に与えた。
 本当にこの姿は、他の者には見えないのだろうか?
 これほどまでにこの存在は鮮やかであるというのに。
 ベランダの手摺りから手を空へ向けて差し延べる己の姿は、傍目には滑稽なものかもしれない。ちらりと、そんなことも思ったが、行動を止める気は更々なかった。
 征士が羽に触れても、当麻の空よりもまだ青い瞳は隠されたままで。
「……とうま?」
 征士はそっと声を掛けた。意識がこちらに無いのかもしれない、と思い当たって。
「……えっ?」
 開かれる深く藍碧いその双眸。
「……寝ていただけか」
 じっとその瞳を見つめたまま、征士は僅かに苦笑した。
「ッ、せっ征士っ。お前、何でここに……」
 云いながら周囲を見渡して、当麻は勘違いに気付く。それでも、驚きに違いはなくて。
「あれっ? うわっ」
 慌てて身を起こそうとして、当麻はバランスを崩した。空に浮いた状態でバランスというのも変なのだろうが、などと悠長なことを思いながら、征士は目の前にある重さを感じさせない腕を掴んだ。
「大丈夫か?」
 笑みを含んだ声に、ぼそりと当麻は呟く。
「……心臓に悪いぞ」
「どちらがだ!」
「お前だっ。いきなり目の前にそんな綺麗な顔があったら、誰だって驚くだろうが」
 さも当然とばかりに主張する当麻に、呆れ顔で征士は告げた。
「……空から天使が降ってきた驚きと比べてみろ、莫迦者」
「…………」
「午睡中か? 暇そうで結構なことだな」
 皮肉にしては淡々と告げられる言葉に、当麻は苦笑する。そして、向けられた眼差しにゆっくりと焦点を合わせた。
 陽の光を背後にした当麻を、少し眩しそうに、それでも憧憬の感情を隠すこともなく、ひたと見つめてくる真っ直ぐな紫水晶の瞳。
「……そんな眼差しで、おれを見るなよ」
「何故?」
「おれはそんなに綺麗なもんじゃない、お前の方がよっぽど綺麗なのに……」
 当麻は、空へと差し延べられた白くしなやかな腕を、身体ごと柔らかく抱き締めた。ふわ、と羽が風に舞い、征士を包み込む。
「……当麻?」
「……攫ってしまいたくなる、このまま」
「……天まで、か?」
「いや、……お前が居るならばどこでも、」
 宝玉よりも美しい藍碧の双眸が、ただ征士だけを見つめていた。吸い込まれそうなほどに深いその青に、刹那、時が止まった気がした。
「お前が……、危ないっ、当麻!」
 ふいに飛来した物体が、征士の視界の隅を横切る。
「え?」
 抱き締めていた腕を放した当麻のその背の羽を、何かがさっと通り抜けていく。
「…………」
 そう、通り抜けていったのだ。征士は、瞳を見開いて、当麻の翼を見つめた。
「何だ、ボールか」
 拍子抜けしたように呟いて、何事もなかったかのように当麻はベランダ内へ舞い降りた。その大きな翼をしまおうとしているのを、征士は止めていた。
「待て、しまうな。……なぜ、通り抜けてしまうのだ?」
 征士は、恐る恐る羽へと腕を伸ばした。ボールと同じように、擦り抜けてしまうことをおそれて。
「お前は、触れるよ。俺を識っているから、」
 当麻の言葉通り、征士の手には、先刻と同じ柔らかくてそれでいてしなやかな剛さを持つ羽の感触が感じ取れた。
「本当だ」
 では何故……と視線で問い掛けた征士に、当麻は軽く頷いて、部屋を指さした。
「中、入ってもいい? 俺はここでも構わないけど、お前、変人扱いされたくないだろ? ああ、もう羽しまっていいなら俺が見えるようになればいいか」
 征士の住むマンションのベランダの位置は、そうそう人目にはつかない。そうはいっても、この状態の当麻と話す征士の姿は、端からは一人で話しているように見えるのだ。
「……すまない。入ってくれ」
 ずいぶんと外で話していたことに気付いて、征士は慌てて当麻を促した。



「お前は俺がいると知っているから、見えるし、触れる。簡単に云えばそれだけのことだ」
 ソファーに悠然と腰掛けて、当麻は淡々と告げた。なんでもないことのように。
「…………」
「おれは、お前にだけ見えれば、それでいい」
 そう云って、ふっと笑った当麻を見て、征士は胸の痛みを感じていた。こんなにも当麻の存在は確かであるというのに―――なぜ見えないのだろう。
「……あの状態だと、声も聞こえないのか?」
「ああ。音じゃないから、誰にも聞こえない。お前は特別だが」
「そうなのか」
「そんな顔すんなよ」
「だが、……」
 人間界にいても、当麻は異端者なのだ。そう感じずにはいられない現実。だがそれよりも、それを当然だと思って疑いもしない当麻が、何より哀しく思えて、そしてもどかしかった。
「それでも俺には、居場所があるだろう?」
「ああ、勿論だ」
 肯定を予想した問い掛けに、征士はしっかりと頷いた。確かに今の当麻の瞳は、穏やかだ。そしてこれが本来のものだろうということを、征士は訊くまでもなく理解していた。出会った時の荒んだ状態は、様々な理由が重なっていたからだ。当麻の瞳は、こんなにも落ち着いていて、そして変わることなく美しい。
「だから、いいんだよ」
 征士は当麻に初めて出会った時に、ここを、征士の家を、居場所にしたらいいと、告げた。その気持ちに変わりはない。けれど、それはとても傲慢なことのようにも思えた。
 自分一人の存在ぐらいで、本当に当麻の孤独が癒されるというのか。それに、なんだか独り占めしていているようで、申し訳ない。そう征士が云うと、当麻は嬉しそうにくすりと笑った。
「俺は、征士に独占されていたいけどな」
「…………」
「……迷惑?」
「まさか」
「じゃ、何を考えてるんだ?」
 当麻が征士のもとにいるのは、時間にしたらほんの僅かだ。当麻にとっては非日常にすぎないだろう。彼のいつもいる場所は、ここではなくて、天界なのだ。
 そんなことが頭をよぎって、征士は言葉を選んで問い掛けた。
「天界にとて、お前の午睡場所くらいあるのだろう?」
「ん? まぁな、綺麗な場所はたくさんあるけど……」
 天界には、彼の居場所はあるのだろうか?
 言葉を飲み込んで、征士はその時初めて天界を見てみたいと思っていた。誰のためでもなく、ただ当麻のために……。
「そうか。見てみたいものだな」
「……いつか、見れるさ。いつかは、ね……。征士の望みなら、今すぐにでも見せてやりたいけど。ちょっとな……」
「いや、いいのだ。お前がこちらでは家を気にいっているように、天界にも気にいった場所があるのなら、それでいい」
 言葉を濁した当麻に、征士はふわりと微笑んで告げた。
「いらないよ」
 けれど、当麻はきっぱりと断言した。
「え?」
「居場所は、一つあれば十分だ」
「なぜ?」
 何故、こんなにもあっさりと、当然のように云うのだろう。そんなにも寂しいことを。
「そんな顔するなって。憂いを含んだ瞳も綺麗だけれど、さ。笑ってくれた方がもっと綺麗」
「しかし……」
「わからないか? ……お前の他には、誰もいらないんだよ、俺は」
 深い眼差しが、すっと細められる。真実を告げるその蒼。
「当麻……」
「俺みたいな化物に云われたって、迷惑だろうな。お前の重荷にはなりたくないから、邪魔になったらいつでも云えよ」
 視線を伏せて、自嘲気味に笑う。一瞬前には、澄み切った青を見せてくれていたのに。どうしてこんなに簡単に、当麻は云うのだろう。征士から離れることを。『お前しかいらない』と告げたその唇で。
「誰がお前を化物だなんて、云うのだ。私の言葉は、信じられないのか?」
 それが、とても哀しく思えた。
「そんなことはない。だけど、俺は普通の天使とは違うから……」
「お前は、天使だろう。私にはそうとしか思えない」
 こんなにも、その光は、美しいのに……。
「お前だけだよ、そんな風に云ってくれるのは。せめて俺がふつうの天使ならよかったのにな。お前に、唯、幸せだけを運んでやれる……。俺は、お前に不幸しか、もたらさないかもしれない……」
「莫迦者!」
 思わず、当麻へと手が出かけていた。とっさの怒りに……。けれど寸前に、その瞳の翳りに、気付いてしまったから……。殴れなくなってしまったのだ。
「だってさ、」
「だって、ではない。私がいつ、幸せにしてくれなどと頼んだ? そんなものは自らの手でつかむものだ。与えられるものではないだろう? それともお前から見たら弱い存在でしかない人間などとは対等な関係など、結べないと云うのか? 己の手の内の一コマにしかすぎないと、でも?」
 言いながら、その言葉の持つ残酷さに、はっとした。本当にそうだったとしたら、今までの時間は何だったというのだろう? そんな一方通行的な、間柄だったのだろうか、自分達は……。
「違うッ!」
 けれど思考はすぐに中断され、否定された。
「お前は、俺なんかより、よほど強い。安らがせてもらってるは、俺の方だ。……全く、お前のがよっぽど天使の資質があるよ」
 真摯な藍碧の瞳が、悪戯めいた笑みを浮かべる。
「……資質があればなれるというものでもあるまい」
「んー、でも俺とかさ、他にもいるんだけど、どう考えても間違えて天使になったとしか思えないような奴、いるんだよな。あんな奴に白い羽は、おかしいよなぁ……」
「……よく知らんが、当麻」
「何?」
 声音を改めての呼び掛けに、向けられた真顔を確認して、征士は続けた。
「他の誰が何と云っても、私はお前が天使だと思っているし、信じている。……お前に会えるのならば、今すぐ天に召されてもよいかと、思えるほどに」
「……征士、本気で云ってんのか?」
「例えば、お前が悪魔だとしてもついていってやる」
 きょとんと見開かれた瞳に、ふっと冗談めかして続けた。
「……なんで?」
「それは、お前を気にいっているからだ。それくらいは、判っているのだろう?」
「知らない……征士は気に入れば、地獄にまでついて行っちゃうわけ?」
「……お前だからだ、と云わせたいのか?」
 甘えた言葉に苦笑して、斜めに視線を流して、淡々と問い返してやると、当麻は拗ねたようにぼやいた。
「……いじわる」
「我儘天使殿は、甘やかすとキリがないようだからな」
 それは多分、それまでずっと独りでいたことの反動なのだろう、ということは判っている。そして己自身が今の状況を、心地好いと感じているということも。
「……じゃ、キスくらいさせてよ」
「……なんだその『じゃ』というのは」
「色っぽい流し目しといてそれは無いでしょ」
 当麻は云うなり、征士が反論する間も無く行動に出た。部屋の中を、風が吹き抜けていくような気がした。優しく触れただけの口付けに、文句を云う気も失せて……。
 しかしながら、征士はハタと思い出した。
「……ところで、当麻。お前こんなところでのんびり話していてよかったのか?」
「えっ?」
「だいたい何故来てしまったのだ?」
 あの様子では、来ようと思ってきたわけでもあるまい、と征士は、いつのまにか当然のように居座っている長身をじろりと見つめた。
「……寝てたんだ」
「それは判っている」
「起きたら来てたんだ」
「……つまり、理由は無いのか」
「おれの無意識が、征士に会いたかったんじゃないのか」
 訳の判らぬ日本語を使って、当麻はぼそりと呟いた。
「人事のようだな」
「いいんだよ、理由なんか」
 漫才のようになりつつある会話に苦笑した征士に、当麻は微かに首を傾げた。
「でもなぁ、ホントに覚えてないんだよ。確かに外で午睡してたけど。こっちにくるには力がいるんだけどなぁ……。いつ使ったんだろう……」
「……大方、寝ぼけていたのだろう」
 呆れて征士は、大きな溜息をついた。
「……あーっ、やばい。まだ片付いて無かったんだった」
 記憶を辿ってそう小さく叫んだ当麻を、征士は疲れたように見やった。
「ちぇー、せっかくいいムードだったのになぁ」
 ぼやきながら立ち上がって、征士に謝りながら当麻は外へと向かう。慌ただしく、大きな翼が広げられる。何度見ても見慣れることのない、美しい翼が。
「また、来るな」
「ああ」
 慌ただしさに唖然としながらも、征士は当麻を見送った。
 空へと蒼き天使が還ってゆく。その様を見つめていると、空は、当麻の場所なのだと、思わずにはいられない。空の蒼へ溶け込んでいく当麻を見ながら、征士はその姿が見えなくなってからも暫く空を見つめていた。

 今日の空は、やはりいつもよりも青いと、思いながら―――

Ende

初出 1998.8 駒鳥帝国発行「PLATINUM WIZARD」



 

BACK