終焉の地

By 天羽ひかり

 

 夜の闇が一際深い日だった。深い樹々に囲まれ静寂に満ちた城内に、魔の気配がふいに現れた。
「…………」
 セイジは、慌てる素振りもなく、優雅なまでの身のこなしでゆったりとソファーから立ち上がった。
 不規則な足音。否、それは音とは呼べないほどの微かなものであったが。セイジの五感は、その気配が確かに近付いていることを感じていた。
 居間の扉の外で、気配が止まる。
「何者だ!」
 緊張を持った誰何の叫びと同時に、セイジは扉を開けた。
「……悪い、住んでたのか」
 そこにいたのは蒼褪めた顔色をした青年だった。苦しげに肩で息をしながら、壁に凭れてやっと立っているようにセイジには見えた。
「……旅人か?」
「道に迷っちまって。ここは廃墟かと思ったんだ、鍵もかかってなかったし。悪かった、すぐ出てく」
 明らかな魔の気配。だが、目の前の青年の態度はとてもふてぶてしい魔のものとは思えなかった。
「……苦しそうだが具合が悪いのか?」
「えっ……」
 青年にとって思いがけない言葉だったのだろう。俯き加減に視線を合わせもしなかった青年が、まともにセイジへと向き直った。
「ちょっとな」
 セイジの容姿に驚いたように目を瞠りながら、曖昧な苦笑を返す。その深い青の瞳は、苦しげな様子にも関わらず力が有り、とても何かに取り付かれているようには見えない。やはり、この青年自身が……
「ここは外から見たら廃墟のようだが、休む場所くらいはあるぞ」
「有り難いな、ちとオーバーワークで」
 セイジの申し出に、青年は僅かに笑って壁から身を起こそうとした。が、ふらりとよろめいて、バランスを崩す。長身で細身の体躯を、セイジはとっさに支えていた。
「大丈夫か?」
 なぜこんなにも弱っているのだろう。内心の疑問を抑えながら、セイジは青年が自身で立てるように左肩を貸した。
「……ああ」
 セイジの肩に凭れるように密着した青年の魔の気配が、急速に強まっていく。青年の唇に浮かんだ笑みは、セイジには見えなかった。
 青年の牙が、セイジの首筋に刺さるかに思えたその刹那。
「!!」
 大きく飛び退いたのは、青年の方だった。不穏な気配を感じた直後に、セイジが懐剣を抜き、青年の背後から構えていたのだ。
「綺麗な顔して随分過激だな」
 5メートルほどを一気に跳躍して、片膝をついた姿勢で青年は笑った。
「流石に聡いな」
 淡々と、セイジは純銀の剣をひとまず鞘に収めた。青年の動き次第では、心臓の真裏から貫くつもりでいたのだった。
「……ハンターか、お前」
「吸血鬼専門というわけではないがな」
「半分だけ、同族ってわけか。この気配に今まで気付かなかったなんて、やはり今日の俺はどうかしてる」
 自嘲するように苦く笑って、青年はそのまま床に座り込んだ。大きく息を吐いて、セイジを見上げる。
「にしては、たいした力のようだが?」
 ゆっくりと青年に歩み寄りながら、セイジは呟くように問い掛けた。あれだけの跳躍力が残っているようには、とても見えなかったので。
「……条件反射だ。断魔の剣を突き付けられたら、いくら俺でも逃げるさ。おかげでまた余計な体力使っちまった」
「……私としても、やすやすと血を吸われるわけにはいかなくてな」
「……だろうね。……でも腹減った」
「……具合が悪いのかと思っていた」
「力が出ないのはホント」
「エネルギー補給に苦労するようには思えないが?」
 青年の前まで来て、セイジは僅かに首を捻った。彼の外見年齢はどう見ても20代前半、怜悧に整った容貌に長身。いかにも女性に好まれそうなタイプに見える。
「だから、力の使い過ぎだって。時空間移動は疲れるな、やっぱり」
「な…………」
「おまけにタイミングも悪くてな。やーっと落ち着ける場所に辿り着いたかと思ったら、ハンターの家ときた……」
 言葉ほど落胆している様子もなく、どこか楽しそうに青年は笑った。
「時空間移動だと? お前は何者なのだ?」
「トウマ」
「は?」
「名前。お前は?」
「……セイジ」
 憮然と告げたセイジを、トウマは愉快そうに眺める。
「怖い顔すんなよ、せっかく綺麗なんだからさ。……俺が何者なのかは、お前の方がよく知ってるだろう?」
「ただの吸血鬼とは云わせんぞ」
「うーん……でも吸血鬼だぜ」
「それは判っている!」
 判ったような判らないような会話に、セイジが脱力する。
「……長く生き過ぎてる気はしなくもないけど……」
「……何年だ?」
「あのさぁ、お前も座れよ。見上げてると、首が疲れる」
 またもや話を遮ってトウマはどこか傲慢とも思える仕種で、セイジを促した。
「…………」
 無言のままセイジは、長い足を投げ出すようにして座り込んでいるトウマの隣に腰を下ろす。文句を云いたそうで云わないセイジを、トウマは楽しげに見つめながら答えた。
「五百年近いぜ、多分」
「……そうか」
「お前は、まだ若そうだな」
「その十分の一、といったところだな」
「ふーん、二十歳過ぎくらいで止まったんだな。よかったよかった」
「…………」
 何やら独りでぶつぶつ呟くトウマに呆れて、セイジが黙り込んでいると、ふいに口調を改めて問い掛けてきた。
「で、どうするんだ?」
「何をだ」
「俺。」
「…………」
 とっさに何を云われているのか判らず、僅かに首を捻ったセイジに、トウマは淡々と続けた。
「俺を殺すつもりなんだろう?」
 微小のためらいすらなく、トウマは確認するように告げる。その内容にそぐわないほどあっさりと。
「……それは、」
「ハンターが、吸血鬼を見逃しちゃっていいわけ? それとも仕事じゃなければ、関係ない? そういうタイプには見えないけど?」
「……当たり前だ。仮に、お前が私の目の前で、人の命を奪うようなマネをしたならすぐにでも殺す」
 言い淀んだセイジを揶揄するかのような矢継ぎ早な問い掛け。それに対する怒りが、セイジの紫水晶の瞳をひときわ鋭く光らせた。
「綺麗だな」
「は?」
 あまりにもその場に似つかわしくない単語に、セイジは呆気に取られ、主語も判らなかった。
「お前の、目だよ」
「貴様、私を怒らせたいのか?」
 極限まで低くなったセイジの声にも動じた様子もなく、トウマは軽く肩を竦めてみせる。
「何で? 褒めてるんだぜ。怒ってるとぞくぞくするぐらい綺麗だぜ、お前の瞳」
「…………」
 セイジは無言で、先刻の剣の鞘を取り払った。
「なんでそれで怒るんだよ」
「……このままお前を逃がしたら世の為にならん気がしてきた」
「……今を逃すと、俺は殺れないぜ」
 ふっと、自嘲ともつかない笑みを浮かべて、トウマは己に向けられた剣先を避けるでもなくただセイジを見つめた。
「その状況で強がるな。……そんなに死にたいのか?」
「いや、そんなつもりもなかったんだけどな。……でもお前になら、いいかな。このまま消えてもいいような気になってきたな、なんだか。お前の顔を見ながら消えて逝くのも悪くない」
 微かに笑って、トウマは静かに瞳を閉じた。穏やかに死を待つ人のような表情で。
 その姿に、セイジはそれ以上剣を動かすことが出来なくなっていた。似たような状況を思い出し、その行為がただの殺戮のように思えてきてしまったので。剣を向けたまま、セイジは宙を睨みすえて行動を止めた。
「……無抵抗の獲物にはトドメを刺せないタイプ? 甘いな」
 張り詰めた空気の中、いつまで待っても動かないセイジに、トウマは唇の端だけをあげて皮肉な笑みを浮かべた。開かれた双眸は、あくまでも強く光る藍碧。
「抵抗されないと、刺す気にならない?」
「……仕事ではないからな。それに今は、自分の前で消えていく命を見たくない気分なのだ。少々、食傷気味でな」

『はやく、楽にして!』
 同じように、静かに瞳を閉じていた魔物の少女。彼女には、何の罪も無かったというのに、巻き込まれて。血への渇えに苦しみ、ただ静かにセイジにその命を差し出した。
 あの剣を動かすのに、どれだけの決断を要しただろう。少女自身に促されてただ機械的にその苦しみを断った。『ありがとう。そして、ごめんなさい』嫌なことをさせてしまって。微笑みさえ浮かべて、何も残さずに消えていった少女。

 トウマの瞳を閉じた姿に、つい先日のその出来事を思い起こさずにはいられなかった。ましてトウマは、セイジが正式にクライアントに頼まれたターゲットでもない。
「ヘぇ、意外だな」
「……私に、お前を裁く資格はない」
「お前が、その剣を引いたせいで、幾人もの被害が出たらどうする?」
 トウマはあくまでどこか面白がるような、セイジを挑発するような調子で問い掛けてくる。
「……そんなに殺されたいのか?」
「いやいや。なかなか興味深いからさ」
「……被害が出るのは、困る」
 困ったように、整った眉を寄せてセイジは呟くように答えた。
「だけど。俺に、そんな顔を見せるなよ」
 何かを思い出すように視線を遠くして、やりきれないといったように微かに首を振ったセイジが、はっと気付いた時、意外に綺麗な指先に顎を捕まれていた。
 口を開くよりも先に、唇が塞がれる。剣を握った右手首を押さえられ、深く舌を絡め取られていく。
 セイジは、近付いてきた瞳のその青さに一瞬、行動が遅れてしまっていた。まるで束縛を強要するかのような力の籠った眼差しの、その底知れぬ深さに驚いて。どれだけの時を、どんな風に過ごしてきたのだろう。五百年という月日を垣間見るような、そんなことを考えさせられる眼差し。
「!」
 それでもすぐにセイジは左腕で男の身体を押し退けつつ、身を引いた。
 深いようでどこか淡泊な口付けが不快だったというよりは、むしろふいをつかれた怒りの方が大きかった。一瞬とはいえそんな隙を見せた己自身に、一番苛立ったのかもしれなかったが。
「油断ならんな、全く」
「サンキュ。おかげで暫くもちそうだ」
 クセのある笑みを浮かべて、トウマはすらりと立ち上がる。ちょっと前までの姿からは考えられないほどの身のこなしで。
「……このまま帰すと思うか?」
 その行く手を阻むように、セイジはトウマの眼前に剣を向けた。
「やっぱり駄目か」
 真剣なセイジを前にトウマは愉快そうに笑って、身構える。
「ハンターの私がお前に力を与えて帰すわけにはいかないだろう?」
「見逃してはくれないか、やっぱり。ここから出てくんなら、力を温存しときたいんだけどな」
「甘い、と云ったのは貴様だったな」
「……要は、俺が人に害を与えなきゃいいんだろ?」
「……誰がその保証をするというのだ」
「確かにそれを云われちゃ仕方ないが。そう簡単に殺せると思ってもらっても困るぜ」
 トウマは、云うなり静かに一部の力を開放した。いつの間にか張られた結界の中で。空気が瞬時に凍りつくほどの緊張が、辺りを包む。
 冷たさを感じさせるほどに整った顔の中で、唇だけが酷薄な微笑を刻んでいく。眇められた瞳は、氷の刃を思わせるほどに冷たい青。それでも、その力がほんの一部にしか過ぎないということを、セイジの感性は確信していた。
「さっき云ったよな、今を逃せば後はないって」
「……確かに聞いた」
「そのままじゃ、俺は倒せないぜ。お前の本当の力も見せろよ」
 セイジの体内に半分だけ流れる吸血鬼の血。それは、最高級の力を持ったヴァンパイアのものだ。
「…………」
 諦めたように、セイジはただ静かに力を開放した。ばりばりと空気のさざめく音が響く。数歩の距離を置いて、試すようにぶつかりあう力と力。
「ぞくぞくするな」
 一歩、セイジに近付いてその反応を確かめると、トウマは嬉しそうに呟いた。
「お前なら、俺を殺せるかもしれないな」
「……わからん」
 ほんの少し前までの状態が嘘のように、凄まじい勢いを持つトウマの力に、セイジは半ば感心していた。
「もういい。ここでお前とぶつかっても簡単に決着はつかなそうだ」
 すっと力を引いて、トウマは続けた。
「ところでさ、やっぱり俺、ここにいてもいいかな? お前が、見張ってればいいだろ? 近くにいればすぐ殺せるし」
 あっさりと力を引かれて、戸惑いつつ倣ったセイジは、その言葉に今度こそはっきりと首を傾げた。
「……正気か?」
「勿論。……でもハンターが吸血鬼と同居、なんて世間体の悪いことはできないか」
「そんなことよりも、お前はこの城内で昼間寝るつもりなのか?」
 殺してくれと云っているようなものだろう、と婉曲的に告げたセイジに、トウマは判っていると云わんばかりに頷いた。
「それでもいいけどな。俺は比較的太陽光にも強い方でね、出歩けないこともない。そう深い睡眠も必要ないし」
「……全く、理解できんな」
 呆れ返ったセイジに、トウマはその視線を和らげて問い掛けた。どこか甘さを含んだ眼差しで。
「お前を見ていたいからここに居たい。それじゃ理由にならないか?」
「……何かやったら今度こそ躊躇なく殺すぞ」
 容赦の破片もない言葉と態度に、トウマは苦笑した。
「いいよ、さっきも云っただろ。お前ならいい。いや、お前に、だ。どうせ何も残らずに消えて逝くのなら、お前の側で逝きたい。そうしたら安らかな気持ちで逝ける気がするよ。さっきのは本気だった。本気であのまま終わりにしたいと……」
 呟くように囁くように、自分自身を見つめ返すように語りながらトウマは自嘲の笑みを浮かべた。
「なんでだろうな。人の魂なんて、とっくにありはしないのに。……でもさ、死ぬ時くらい、お前みたいな綺麗なものを見ていたって、許されると思わないか? 五百年に一度くらい、夢を見させてよ」
 セイジには、勝手な言い分とは思えなかった。
 藍碧く凍る瞳が、夢見るように笑う。微かに。なぜだろう、この瞳を見ていると哀しくなるのは。
「……許してやる。この城が崩れ落ちるまで居たらいい」
「ホントに?」
「ああ、」
 もう到底、この身体に断魔の剣を突き刺すことなど出来ない。こんな孤独な瞳を、そのままにはしておけない。少なくとも、セイジには。
「……やはり甘いか? 私は」
 微苦笑する。もう確信してしまったのだから、仕方ない。
「そうだな。でも、俺にだけなら嬉しいかな」
 軽い言葉に嫌そうに眉を寄せたセイジは、すぐに真摯な眼差しにぶつかった。
「……ここが、俺の終焉の地だな」
 真っ直ぐにセイジを見つめたまま、トウマは告げる。痛い程の、真剣さで。
「……付き合ってやる」
「え?」
「きちんと逝くか見届けなければ、お前などいつ戻ってくるか判らんからな。その時がきたら私が、お前の魂を眠らせてやる。それから、」
「それから?」
「いや、なんでもない」
 静かに首を振ったセイジの唇に、ふっと微かな笑みが浮かぶ。
「それよりもお前、下僕はいないのか?」
「いない」
「なぜ? それだけの力を持っていながら……」
 解せない顔つきのセイジに、トウマは単純な答えを返した。
「面倒だからな」
「……そうか」
「……それと、誰も束縛したくなかったんだ。……こんな枷を背負って生きるのを、増やしたって仕方ないだろ」
「そうだな」
「何でこんなことまで話してるんだか、俺は」
 苦笑したトウマに、セイジはただ静かに頷いてみせた。
 トウマの瞳の中から鋭さが消えると、ただ純粋な青さだけがセイジの心に染みた。
 トウマのたましいは、こんな色をしているに違いない。この瞳のように青く光って、きっと透明だ。ふいにそんな気がした。
 魂などありはしないとトウマは告げたけれど、セイジにはそうは思えなかった。きっとその魂は、彼の中にさまよっているのだろう。きっと、誰よりも、吹き抜ける風よりも自由で、そして、誰よりも孤独な魂。
 このさまよえる魂の刻んだ時の数など、知らない。
 救いになれたらとは云えない。ただ側に居てやりたい、それだけのことだ。
 いつか、終わりがくるならば、せめて穏やかに。そして……

Ende

 

初出 1999.5発行「SURVIVE」


吸血鬼当麻と、某ハンターDのようなイメージの征士さんの話。
本が完売しているので載せてみました。

 

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