承 前 ―神の迷宮―
By 天羽ひかり
静かすぎる夜だった。普段なら騒ぐ筈のものたちでさえもが沈黙を守り、静寂の中、動くものは無い。まるで、何かに恐れをなしたかのように。
雲の多い漆黒の闇のような暗い夜空が、辺りを照らすものもない一帯を覆っていた。そこにあるのは、深淵の闇だ。
その闇に溶け込む一つの美しい影があった。影ですら、恐ろしい程に美しいのだ。人の持つべきそれを越えた端麗さ。しかし、影が影でいる時、当然ながら人目にはつかない。それを見ることの適う者。それもまた、人ならざりし者……
少女は、急いでいた。意志に反して帰りが遅くなってしまったことは、もう仕方ない。けれど、夜にこの道は通りたくなかったのだ。しかし、ここを通らなければ1時間もの遠回りになってしまう。仕方なく本当に仕方なく彼女は、石畳と石塀に囲まれた街の細い路地を、足早に歩を進めていった。
いくらも歩かないうちに、少女は何かが気になって空を見上げた。そこにあったのは、ただの闇ばかりではなかった。
世にも美しい影が現れ、影が影でなくなる瞬間。それを少女は見た。否、少女にとっては、見てしまった、というべきか。
それまでの闇が嘘のように、眩いほどの月が顔を出す。それと共に。いや、それすら従えて、闇夜の宙から舞い降りたその人影。
「人間なの?」
知らず言葉が口から滑り落ちていた。あまりにも、現実離れしたその光景ゆえに。そんなことは無いと確信しながら、凍り付いたように少女は、視界の中の人影を見つめた。見ずにはいられなかったのだ。闇と見紛う漆黒のマントに長身を纏わせ、月の如く金色に輝く長髪を空に靡かせて……。
端正すぎるそのどこか冷たい横顔が、振り向く。
刹那に溢れる感情。それは、好奇心であり、歓喜であり、そして恐怖でもあった。少女はかつてないほど視覚神経に、全神経を集中させていた。
「何者だ?」
低く艶やかな声音が、少女の世界を占有する。美の結集がそこにはあった。
その眸の色は、紫。紅に近いほど深く澄んだその色。その眸に吸い込まれるように、少女はふらふらと歩み寄る。
そして、正面からその視線を受け止めたその瞬間、少女は視覚以外の全ての感覚を閉ざしていた。
「厄介な……」
僅かにしかめられたその表情さえもが、万人を虜にせずにはいられない。美貌の青年は何の意識も目的も無く、ただ現れただけだったのだから。
青年は立ち尽くす少女から離れて、天を仰ぎ彼と共に現れ出た月を見やる。ふいに彼の鋭い神経が、こちらに向かってくる新たな人の気配を察知し、鮮やかすぎるその身を隠した。物理的にのみではなく、完璧に気配を断って。
少女は唯、ぼんやりと彼の隠れた方向を眺めるばかりだった。
トウマは、珍しくも走っていた。それも、かなり真剣に。本来ならば足は速い方であるにも関わらず、日頃はあまり機会が無い上に元来の性格も手伝って全力疾走などするのは本当に久し振りのことだった。無論、彼が好き好んでの事態では無い。走らないですむように出来なかった訳ではないが、その手段の方が遥かに面倒だったのだ。故に、渋々ながらもトウマは、単純簡潔に逃げるために走っているのだった。
暫く走り続けて追手を撒き、狭い路地裏に身を隠した頃には、すっかり息が切れていた。
「……ちきしょう、やっぱり始末しちまえばよかったか」
石塀に凭れ、懐の拳銃に触れながら、物騒なことを平然とぼやく。尤もそれだけで全てが片付くならば、躊躇なくやっただろう。事はもう少しばかり面倒だったのだ。
大きく溜息を吐いて視線を転じる。ちらりと視界の隅に人影がちらつき、トウマは反射的に身構えていた。向き直った先には、一人の少女がいた。
「なんだ、ガキか。紛らわしい」
ほっと息を吐いて、よくよく少女を見てみると、どうも様子がおかしい。そもそもここは、夜に少女が一人で歩くのに相応しいような場所ではないだろう。
「おい、どうした?」
虚ろな眸の少女の様子に、明らかに不審なものを感じて、トウマは歩み寄って、声を掛けた。
しかし、少女は微動だにせず、ぼんやりとした眼差しで宙を見上げるばかり。
「おい?」
と、その肩に手を掛けた時
空間が裂けたような、そんな気がした。
ふと気付けば、すぐ近くに人影があった。
(なに? そんな莫迦な……)
今の今まで、そこには誰もいなかった筈だ。いや、そもそもそこに、人の入れるようなスペースがあっただろうか。
そんな疑問は、顔を見た途端、綺麗に消え去った。
視線が交わったのは、一瞬だった。一度見たら忘れられない、その不可思議な色を持つ輝く双眸。
「ははぁ、あんたが原因だな」
自分の口がいつもと全く変わらずに言葉を紡ぎ出しているのが、トウマには不思議に思えた。
「…………」
「確かに、魅縛されるのも無理ないな」
百パーセントの本心だった。それほどに彼は、人間離れした美しさを持っていた。
「私の意図したことではない。子供に手出しなどせぬ」
不快そうに、気位の高そうな青年の顔が横を向く。そんな横顔ですら、ぞっとするほどに美しい。
「男にも用は無いんだろう?」
「?」
「こういう超絶美形の人ならざりし者は、美女を好むってのが定説だろうが」
どこか人を喰った笑みを浮かべて、トウマは恐れなど微塵も感じていないかのように云いのけた。
「…………」
「あんた、人じゃないだろ?」
「何故?」
美しい紫紅の瞳が、真っ直ぐトウマへ向けられる。その瞳は、どこか愉しげにも見えた。
「人だと困るな」
「何故だ?」
「是が非でも口説き堕としたくなるから」
ニヤリと笑って、トウマは深い藍色の眼差しを、美貌の主へ向けた。
「人でなければ?」
「……関係ないかもな。口説きたいものは口説きたい。人だろうとそうでなかろうと」
云い切ったトウマを、青年は珍しいものでも見るように眺める。
「簡単に落ちるとでも?」
どこか挑発めいた視線に、ぞくりとするものを感じつつトウマは変わらぬ声音で嘯いた。
「いや。でも、難攻不落の方が好みでね」
途端に、美しい笑声が辺りに低く響く。
「……面白い男だ」
「それは、光栄」
ちょっと気取ってみせたトウマに、揶揄うような笑みを含んだ美声が届く。
「しかし今宵は、実に珍しい。この『神の迷宮』を夜に歩く物好きが、二人もいるとはな」
「俺は、好きで来たわけじゃないんだが、」
苦笑しながらトウマは、ちらりと意味有り気な視線を送った。
「おかげで、稀少価値ものの出会いに恵まれたな」
「……本当に、変わった男だな」
自嘲じみた笑みを浮かべて青年は、僅かに視線を逸らす。その先には、佇んで彼を見つめ続ける少女が居た。
「ああ、忘れていた。もう帰るがいい」
そっと、少女の瞼に手を翳して、告げる。少女は、何かに操られているかのような足取りで、歩き出す。
「大丈夫なのか?」
「ああ、この路を出る頃には、全て忘れているだろう」
淡々とした口調。けれどその横顔はどこか寂し気に、トウマの眸には映った。彼の外見はトウマと同じくらいに若い。恐らく二十歳過ぎくらいにしか、見えないだろう。だが、時折見せる表情には、外見年齢以上の、何もかもを知り尽くした者の持つような影が漂う。初めから、人間だ、などとは思っていないが、それを解っていて尚、トウマは彼を怖いとは、とても思えなかった。
「なぁ、名を聞かせてくれよ。……俺は、トウマ」
「私は……、セイジという」
名乗るべきかを迷うような一瞬の間があった。そして、先刻の寂し気な影。トウマには、すぐに思い当たった。
「ひょっとして、……俺も、忘れてしまうのか?」
「だろうと思う」
「? それは、お前の意図じゃないのか?」
「ああ。正確には、この路『神の迷宮』の意志だ」
「そっか」
「神は、人と非ざる者との邂逅を望んでいないのだろう」
その言葉がどこか投げやりに聞こえて、トウマは問わずにはいられなかった。忘れてしまうと決まっている出会いに、価値を見出だせないのは判る。けれど、彼の動ける範囲がここだけなわけも無いだろう。ならば何故、彼はここに来るのか。
「お前自身も、か?」
その問い掛けにセイジは、はっとしたように顔を上げた。
「……そうかもしれん」
「なのに、何をしにここに来る?」
「……月光浴だ。ここの光は、心地が好い」
「それだけ?」
「……解らぬ」
そんな憮然とした表情さえもが、畏怖を感じるほどに美しい。全く罪作りな奴だ、とトウマは思う。例えどんなに危険だとしても、惹かれずにはいられない。
けれど、そんな心中が殆ど外に出ることのないトウマもまた、ある意味で罪作りではあった。
「全く、何故私は、こんなことまでお前に話しているのだろう……」
「路だか月だかの魔力のせいじゃないのか?」
「いや」
短く云い切って首を振ったセイジに、トウマは低く笑った。
「俺だから、だとしたら嬉しいね」
冗談とも、本気ともつかぬ声音だった。
「戯れ言を」
苦笑したセイジの端正なラインを描く眉が、ふいにぴくりと動いた。
「……静かな夜を穢す騒がしい輩が、近付いてきているようだ」
「来たか、」
トウマの眸が、すっと険しくなる。
「俺の追手だろう」
「そのようだな」
セイジはきつい視線を宙に向けながら、肯定した。その紫紅の瞳に、何が見えているのか、トウマには知る由もない。ただ、遠くを見つめる眼差しが、何より美しいと思った。追われている身にしては、随分と悠長なことを考えている、と流石に苦笑する。
「じゃ、俺は行くか。充分、休んだしな」
「まぁ、待て。不粋な者達を、この路に入れることもあるまい」
セイジは当然の如くに云い切って、不敵な眼差しをトウマへと向ける。
「力を貸してくれるのか?」
他人に関わるの嫌いそうなのに、と意外そうにトウマが呟くのに、セイジは静かに頷いてみせた。
「だが、なぜ始末しない?」
出来ないとは云わぬだろう、と心底不思議そうな表情のセイジに、トウマは苦く笑った。
「透視の出来る奴に、下手なごまかしは通用しないな。それで全てが片付くならやるけどな、そう事は簡単じゃないんだ」
「厄介だな」
「ああ。だけど、何とかする当てはあるんだ。唯、今晩は騒ぎたくない」
「解った。では、彼らには暗示でも掛けるとしよう。この路が見えないように」
「そうしてくれると助かるな」
セイジは黙って頷き、その宝玉のような眸を閉ざした。優雅に振り上げられた指先に、淡い光が集まる。流れるように光が、トウマの来た方向へ向かって緩やかに消えていく。それだけだった。
「驚かないから、最後に教えてくれよ。お前は、何者なんだ?」
「……ヴァンパイアだ」
刹那のためらいの後に告げられた真実にも、トウマは言通り眉一つ動かさなかった。
「へえ、やっぱりな。でもこんな美人なら、いいよな。といっても、男の血で役に立つかは知らんが」
冗談めかして笑うトウマからは、微塵も驚いた様子や恐怖心などは伺えない。それが、セイジには不思議だった。吸血鬼の彼はそれまでいつも恐れられ、怖がられ、忌み嫌われる存在だったから。
「役に立つ、と云ったら、お前は私を恐れるのか?」
「恐れて欲しいのか?」
「いや」
あまりに違ったトウマの反応に、セイジは戸惑いつつ首を振った。
「ならいいじゃないか。惜しむらくは、この貴重な記憶があとちょっとで潰えちまうことだな。何とか出来ないのか?」
「無理だ」
「仕方無いな、まぁ、幸運が二度あることを祈ろうか。じゃ、グッドラック」
ひらひらと片手を振って見せたトウマに、セイジも苦笑しながら応えた。
「ああ。ではな」
眸を焼き焦がす程の激しい光の後に、トウマの眸が最後に映したのは、翻るマントと鮮やかな金の髪のみだった。
そして、何事も無かったかのように、トウマは『神の迷宮』を抜ける。
ただ、時間だけが確実に過ぎ、辺りは朝を迎えようとしていた。
そこで、何があったのかを、思い出す術をトウマは持たない。けれど、また来なければならないと、訳も判らず確信した。
そして本当に幸運の女神は、近い未来にトウマに二度目のチャンスを与えるのだ。それも、紛れもない通常の空間で――
Ende
初出 1997.8発行「誓約論理 準備号」
数えてみたら、6年も前に書いた話でした。面倒なのでそのままアップ。駄文ばかりでごめんなさい(^^;)
「誓約論理」の準備号に載せた短編。吸血鬼征士の話ですね。
う〜ん、イロモノネタ多いなぁ(^^;) この頃吸血鬼がマイブームだったことだけは覚えてますが(苦笑)
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