all written by Hikari Amou
腕にいだいているのは誰?
この俺の、腕の中に……
「ごめん、一瞬判らなくなってた」
途方にくれた子供のような表情で、切なげに己を見つめる藍碧の瞳。
判っている。彼のせいではない。
「大丈夫か?」
ふいに意識が覚醒したかのような、そんな言葉を彼の唇が紡いだのは、一度や二度のことではなかった。
「……ああ」
応える声は、けれど決して明るくはない。突然、混濁する意識に悩んでいるのは、誰よりも彼自身だろう。
まるで白昼夢でも見ているかのように、いきなり立ち止まってしまったり、酷いと倒れるように眠りこんでしまうこともある。
側にいると、たまらなくなる。何とかしてやりたいと願いながら、何もできない自分が歯がゆくて。けれど、不安は、その姿が見えない時の方が遥かに大きい。常に、見ていることは、できないから……
この背中にも翼があったならば……。そんな埒もないことを考えてしまうほどに、この不安定な存在を、たまらなく愛しいと思う。もはやそれは、理屈ではなく……。
「征士、ごめんな」
その綺麗な指先が、そっと伸びて優しく髪に触れた。
「お前が、謝らなくていい。当麻のせいではないだろう」
「……それも、判らない。いつかの俺がしたことかもしれない」
戸惑ったように記憶を辿る当麻は、日頃からは考えられないほどに自信のない顔をしていた。
「……それでもお前は、今ここにいる。それでは駄目なのか?」
何と云ってやったらよいのか、どうすれば当麻が救われるのか、皆目判らなくて、在り来たりな言葉しか出てこなかった。
「そうだな、」
僅かに和らいだ声音とともに、まわされた腕の力が増した。
「征士が、ここにいる。それでいい」
自らを納得させるような響きで呟いて、当麻はどこか遠くを見つめていた視線を下ろした。やるせない想いが込められた眼差しが、静かに征士を見つめていた。
こんな夜は、長いようで酷く短い。夜明けなど来なければいいのに。
Der Vogel
高く、高く飛翔してゆく。遥か空の高みまで……
地上には求めるものは無いから。だから、天の高みだけを目指して飛ぶのだ。永遠に飛び続けることなど出来ないと、判っていながら。ただ遥か高みにある気高い光を探すために。
けれど、夜は巡る。光だけを求めて、陽の動くまま飛び続けていても、このちっぽけな身には限界もある。
だから、諦めていた。全てを。流されるままに、時だけが過ぎていくのだと……ただ、こうして空を漂いながら……
(……あれは何だ?)
その奇跡のような眩い波動は、比較的地上近くを旋回していて感じとれた。まだ日は高く、時間は腐るほどある。目に見えないその波動に興味を覚えて、確かめずにはいられなくなっていた。
(……人間? まさか)
人なんて、醜悪なだけの生き物なのだ。どこまでも身勝手で、救いようのない生き物。こんなに綺麗な筈はないのに……。なのに近付く波動の輝きは、増すばかりだ。天へ向かっているわけではなく、確実に地上へと降りてきているというのに。
深い緑の茂る大きな木の隙間から、一気に街路へ飛び出た。その元を、確かめたかったのだ。一刻も早く。
バサッ!
木の葉の散る音は、静かな郊外に思いの他大きく響いた。
(人間、なのか?)
明らかな人影が、派手な葉音にゆっくりと背後を振り返る。
「何だ?」
さほど驚いた様子もない落ち着いた声音。それよりも先に、その視線は静けさを乱したものへと向けられていた。
高さの違う視線が、確かに交差する。それと同時に、魂の震える音が聴こえたような気がした。もし司るこの身にも、魂などというものが存在するのであれば、だが。
(ひとだ)
間近で見るその人の波動は、紛れも無く先刻からのもので、例えようもなく美しかった。そして、その外見も。淡い色彩の髪は、陽光に透けて輝きを散らし、宝玉よりも美しい紫を宿した瞳が、静かに向けられている。
それは、本能の動きを止めずにはいられないほどの驚愕だった。その刹那、休む場所を決めたわけでも無く、空中で羽ばたきを止めてしまっていた。
「!?」
急速に落下しかけて、慌てて浮上する。その人の眼前を横切るようにして、すぐ近くの枝に舞い降りた。
「……綺麗な、鳥だ」
(綺麗なのは、お前だろうが!)
すぐに立ち去る素振りもなく、そんなことを呟かれて、大声で叫びたくなっていた。ああ、今が夜ならばよかったのに……。
「見掛けない鳥だな、仲間とはぐれたか?」
(違う! そんなんじゃない)
近付いて話しかけてきた彼を前に、思わず横に首を振っていた。
「? お前、言葉が判るのか? まさかな」
不思議そうな彼に、思い切り縦に首を動かした。尤もそれほど大袈裟な動きは出来ないけれども。
「本当に?」
今度こそ大きく目を見開いた彼に、こくこくと頷いてみせる。意思を伝えたいと、こんなにも思ったのは、初めてだった。人として過ごしている時間でさえ、こんなに強い気持ちを抱いたことは無かったのだ。いつからとも知れない、この生において、初めてのことだった。
「触れてもいいか?」
頷くとおずおずと伸びてきた暖かな手が、そっと羽に触れ、優しく頭を撫でた。
「綺麗だな」
(だから、綺麗なのはお前だって!)
羽を伸ばして、彼を指し示してみる。
「なんだ?」
(駄目だ。通じない)
「私もお前の言葉を判ってやれたらよかったのだがな」
ちょっと困ったように首を傾げて、あまりに自然にその言葉は掛けられた。ほんとうに何気なく。恐らく本人に自覚など無いのだろう。その綺麗な容貌にも、何気ない優しさにも、そして、比類ない程の魂の美しさにも。
(ああ、彼は本物だ……)
そんな言葉がふいに浮かんで、心に滑り降りた。
もっと彼のことが知りたい。その思いが強くなって、鳥としての自分の不自由さを思い知らされた。
「お前は、誰かに飼われているのか?」
首を振る。今の自分に出来る意思表示といったら、首と羽を動かすくらいだ。なんて、もどかしいのだろう。今まで誰かと関わりたいなんて、思ったことがなかったから知らなかったのだ。
「違うのか? だとしたら随分お前は賢いんだな」
彼は、ただただ感心したように頷いている。なんだか純粋な人間を騙しているような気がしてきて、微妙に首を曲げていた。彼はそれを楽しそうに見つめて、笑った。
「本当に人間くさい仕草をするのだな」
整い過ぎるほどに整ったその顔が、ふわりと微笑を刻む。
(うわっ。こんなに近くで、こんなにも綺麗な顔で微笑まれたら、どきどきするじゃないか!)
「ああ、そろそろ行かなくては……」
ちらりと、左腕の銀色の時計を見やって、彼は残念そうに告げた。
(もう行っちゃうのか……送っていってもいいだろ?)
「また会えるとよいのだが」
問いともつかない言葉に、しっかり頷いておいて、緩やかに飛翔する。
ゆっくり歩きだした彼の姿をしっかりと追いながら、低い空を飛ぶ。歩く速さまで遅く飛ぶのは難しいので何度か空を回って調整していく。彼の視線も何度か上へと移った。
「ついてくるのか? 家の中までは駄目だぞ?」
すぐ近くにゆくと柔らかな声音でそう諭された。
判っている。こちらとしても家の中にまで入るつもりは無いし、どうせずっとは居られない。自分の正体を知った時、彼ならどうするだろう。それでも尚、変わらぬ笑顔を向けてくれるだろうか……。
「あれ? 征士じゃないか。今日は早いんだね」
高いマンションの近くまで来た頃、彼に向かって話しかけてくる人物が現れた。
「ああ、伸か。ちょっとこの後、用事があってな。またすぐに出かけなければならないのでな」
「そっか、残念」
「では、また」
伸、と呼ばれた青年に軽く手を振って、彼は空を見上げた。電線に止まっていた自分にも軽く手を上げてマンションの中へと入っていった。
『セイジ』それが、彼の名前なのだ。たかが名前を知ったくらいで、どうしてこんなに嬉しいのだろう? 自分自身疑問に思いながら、再び空へと飛び立った。また来ようと、決意して。
「お前は、文字が読めるのだろう?」
その日、征士は大きな文字表を手にしていた。
「名前を教えてくれないか?」
そう問い掛けて紙を広げると、鳥は迷わずに嘴で、表の文字を示していった。
「……ト、ウ、マ……トウマ?」
よいのか?と問うように、視線を上げた征士に、鳥はこくりと頷いてみせる。征士は、何だか嬉しそうに名を呼んで笑った。
「いい名だ」
空が高すぎる。
その日のことで覚えていることはそれくらいだ。
よく晴れ渡った爽やかな空。いきなり現れでた鳥が、全ての意識を奪った。
人間は、綺麗なものに驚くことができるのだと実感させられていた。
目の前を滑空した一羽の鳥は、鮮やかな青が陽光にきらめいて、眩いばかりだった。
美しかった。今まで見たどんな青よりも深く、心に染み入るような色をしていた。こんなにも純粋に、美しい物に感激したことなど最近では無かったことだった。どこか懐しい憧憬を呼び覚まさせる深い青。こちらのこんな驚きなんて、鳥は知らないに違いない。そう思っていたのに。
その鳥は、どんな気紛れを起こしたのか、征士の目の前に止まったのだ。
周囲に人の目が無かったこともあって、鳥に話しかけるなどという子供じみたことをしてしまっていた。無意識での行動に、驚いたのはずっと後からだった。
それから、鳥に会うのを楽しみにするような日々が続いて、犬や猫がそうであるように、鳥にだって、感情や表情があることを知った。
気が付けば、この美しい鳥に惹かれていた。否、一目見たその時から……だったのかもしれない。
そらのたかみからおりてくるもの
あおいとりはなにをはこぶの?
消失はあまりに突然のことだった。
その朝、一枚の羽だけを残して当麻は消えた。
それだけで、征士には判ってしまった。もうあの青い鳥が、あの青き人がその姿を現すことは無いのだということを。
「大丈夫だ」と告げたその声さえも、まだ耳に残っているというのに。
ただ、深い記憶だけを残して、当麻は去っていったのだ。ただ独り、謎ばかりを抱えて。 いっそ、すべてが遠い夢であればいいのに。
それでも、征士は見上げてしまうのだ。この青い空を……
青い髪に、青い瞳。あの鳥をそのまま人に映したかのようなその美しい色彩。
しなやかに伸びる手足、すらりとした長身に端正な容貌。
もともと雄弁ではないその口から、声が紡がれるまでには、たっぷり一呼吸分以上の時間が必要だった。
「……おまえは……」
征士を映したまま動かない彼の瞳。吸い込まれそうな、その藍碧。
「……俺が誰だか、判るのか?」
彼の瞳もまた、驚きに開かれていた。
「まさか、そんな……だが、」
「だが?」
なぜか耳に馴染む低音に、ほんの僅かな緊張が含まれていることに、征士は気付いた。
「お前は、私を知っている。そして私もお前に会ったことがある。そうだな?」
「ああ」
ふっ、と唇の端にだけ笑みを乗せて、彼は慎重な征士の声を静かに聴いていた。
「だが、昼間のお前は……違う姿を象っている」
「そうだな」
淡々と、肯定されていく言葉。およそ初対面で交わされる言葉からは、かけ離れた、不可思議なやり取り。それでも、征士は確信していたのだ。その、存在を。
「……トウマ?」
「正解」
唇の端に笑みを浮かべて当麻は短く告げた。
「……莫迦者」
「は?」
「なぜ、もっと早くに姿を現さなかったのだ?」
彼が、あの鳥であるということをもはや寸分たりとも疑わずに、征士は、半年以上も何も知らなかったことへの憤りを、ぶつけた。
「……当たり前のことだけど。夜の俺は、綺麗なだけの鳥じゃない。……怖かったんだよ」
「?」
憮然と呟いた当麻の意図が判らずに、首を傾げた征士に、そのままぼそぼそと声は続いた。
「お前に、軽蔑されるんじゃないか、呆れられるんじゃないかって。人間の俺は、お前に云えないようなことばかりしているからさ」
自嘲気味に視線を落として当麻は低く笑った。
「だから、会いたくなかった。せめてお前にとっての俺が、綺麗なだけの鳥でいられるのなら、……その方がいいと思った」
ある種の本音の含まれた言葉には、それなりの重みがあった。そう感じていたのもまた、本当なのだろう。でも、それだけでは無い筈だ。今、当麻はこうして、征士の目の前にいるのだから。
「勝手だな。ならばどうして、今になって姿を現したのだ?」
「鳥の俺は、お前の役には立てないからさ。喧嘩に巻き込まれたお前を助ける腕も無ければ、十分に意思を伝えることもできない。お前は強いよ、俺なんかの手助けなんかいらないのは判ってる。でも、黙って見ていることしか出来ないのは嫌なんだ」
「……そうか」
「正直、一世一代の賭でもしてる気分だよ。欲張った途端に消えてしまうものって、結構多いしな。……でも、もっと夢を見たくなった。お前という名の夢を」
当麻のどこか余裕を思わせた唇の笑みは、消えていた。そこにはあくまで真摯な深い藍碧の瞳がある。それを真正面から見据えて、征士は告げた。
「私も、鳥のお前ともっとたくさん話をしたいと思っていた。もしもお前が、人であったならば……、と。今まで黙っていたのは気に入らんが、」
「が?」
「……これから、話せばいい」
不安そうな眼差しに、ふわりと微笑み掛けていた。どうあっても、この存在を嫌いになんて、なれない。そう思ってしまったから。
「征士」
その途端、強く抱き締められていた。
「やっと、呼べた。ずっと、お前の名前を呼んで、抱き締めてみたかったんだ」
暖かな当麻の熱は、なぜかとても心地好かった。嬉しそうなその表情も手伝って、文句を言う機会を逸してしまっていた。
「征士、……ありがとう」
「何がだ?」
「全部。話しかけてくれたことも、こうして、変わらない笑顔を向けてくれたことも、何もかも。すべてに感謝してる。おかげで、なんだかこんな俺でも生まれてきてよかった、って思えた」
「…………」
征士は、咄嗟に言葉が詰まった。それが、当麻の本心からの言葉だと、判ってしまったので。掛ける言葉が見つからないまま、ただ、そっとその熱を抱きしめ返した。言葉よりも強く、想いが伝わるように、と願いながら。
少しでもこの哀しい魂の救いに、なれるといい。例えそれですべてが癒えることはなくても。彼にとっての、光でありたい。
ふぁさ、としなやかな羽が広がって、天を旋回してゆく。
青く美しいその鳥の名を、私だけが知っている。
もうすぐ、舞い降りてくるのだ。
惜しげもなくその美しい羽を散らして、この腕に……
Ende
初出 1998.12 発行「恋をしようよ」
BACK
|