夜明け前

By 天羽


 夜明け前、まだ朝には早い時間に中途半端に少しだけ覚醒してしまって、二人揃って夢うつつを漂いながら寄り添っている。いつもは朝までほぼ熟睡する当麻も、うっすらとその瞳を開いていて、のんびりとその腕がまわされる。寝起きでいつもより暖かい掌が、ゆっくりと征士に触れてくる。殊更優しげな仕草で滑る手が征士の掌に辿りつくと、握るというには弱く重ねられた。
 なにを思い、なにを考えているのかわからないときも、手からはなにかが伝わってくるような気がする。その温度だけではなくて、その思いまでも伝わってくるようで、「心は掌にある」などいう戯言を信じてみたくもなる。こんなときだけは。
 ふいに、微かに空気が揺れた。口を開こうとしているのを感じて視線を向けるが、当麻の視線は天井に向けられたままだった。そうして平然と、告げる。
「なぁ、征士、しってる? ひとってね、哀しみで死んでしまえるんだって」
 当麻の言葉は、いつもどこか唐突だ。そうして吹き抜ける風のように、突然すべてをさらっていく。征士の心ごと。
「当麻?」
「強い強い哀しみが、ひとの心臓を止めてしまうんだってさ」
 青い眼ざしが、静かに遠いなにかを見つめていた。こんなときだけ、儚い、なんて日頃の当麻には決して似合わないような単語が脳裏に浮かぶ。きっと、征士から遠い見えない何かに、心とらわれている、そんなとき。
 こんなにも暖かいベッドの中で、鋭く切り裂くような言葉を、時に吐くから。ほんの短い言葉の羅列だけで、征士にはもう当麻の云いたいことがわかってしまった。だから、少しだけ眉を寄せながら、それでも当麻の言葉を待つ。
 ふわりと、征士の心臓の上に掌を当てられる。規則正しい鼓動を当麻に伝える心臓の上に、やわらかな口づけが降りる。
「それは、どうしようもなく悲しいし切ないけど、ちょっといいなって思っちまった」
「なにがだ?」
 ああ、ほら、やっぱりそうだ。いろんな言葉で、形を変えながら征士に愛を告げる唇が、小さく笑っている。
「だって、お前がいなけりゃ生きていけない、って証明みたいだろう?」
 そんな弱さを、否定していた筈の男が、平然と紡ぐ言葉に、心臓が激しく動悸しだす。
「お前が好きでたまらなくて、死んでしまったら、まるで後を追うようにして心臓が止まるなんて、正真正銘、お前に生かされてるみたいでいいなーなんて……」
「なぜ、私が先に死ぬと決めつけてるんだ」
「俺が先ならそんな哀しみを味わわなくていいわけだろ。でも、哀しみで死ねるならお前が先でも心配しなくていいかなぁ、なんて仮定の話」
 どこまで本気なのかわからないような、どこかのんびりとした口調。
「……ずいぶんと勝手な言い草だな。お前みたいにずうずうしい男が哀しみぐらいで死ぬものか!」
「なに怒ってんだ?」
「お前が自己完結しているのが気に食わない」
 いつ訪れるとも知らない、普通に考えればまだまだ先の仮定の話だ。当麻の声に切羽詰まったようなニュアンスもない。それなのに、酷く低い確率でおこる筈の哀しみによって引きおこされるという死の話に、ぞくりとした。正確には、それを話す当麻本人に。
「だってさ、どうしても譲れない諦められないものもあるじゃないか。ひとはさ、年とともに一つずついろんなものを諦めながら、失いながら、死に近づいていくんだと思うんだよな。でも何があっても手放したくないものもある。それこそ黄泉の世界まで引き摺られたっていいから、お前と一緒にいたいって話。せっかく一緒にいられるんだったら……」
 当麻の中に不安があるのは、征士のせいだ。征士がいつまでも、当麻だけを選んでやれないせいだ。だから、先のことばかりを考える。そうして真顔で切ない死を語る。そう思うと胸がつまった。
「お前は、一人でだって生きていけるだろうが」
「やだ。」
 ふいと子供みたいに顔を背ける。大きな図体をして情けない。
「情けないことを云うな」
「追いかけられるのが嫌なら、先に逝かなきゃいいだけだろ。先にいなくなったなら、その後の俺のことにまで口出せないだろーが」
「私だって嫌だ」
 大きな体の子供にあわせて云い切ってやったら、当麻はびっくりしたように目を見開いた。
「え?」
「そんな自殺予告みたいな言葉を容認できるか、馬鹿」
「自殺予告って、そんな身も蓋もない云い方すんなよ。ちょっと夢見たっていいじゃないか!」
「……そんなものがお前の望みだなんて、もっと認められんな」
「ほんっと冷たいなぁ」
 苦く笑う横顔。いつもならば、こんなにも後ろ向きな考えばかりする人間ではないのに。 
「だいたい、強い感情によって脳が生死を支配し、生きることを止めることがあるのだとしても、生き続けることだってできる筈だろう? そんなものは気の持ちようだ。だいたいな、仮に私が先に逝っていたとしたら、そんな情けない理由で来たって、三途の川を追い返してやるから、覚悟していろ」
 自分でも仮定の話に熱くなっている自覚はあったが、止まらなかった。一息に云い切ったら、当麻はぽかんとした顔で征士を見つめ、直後に吹き出した。
「あ〜あ、思い浮かんじまった。お前が光輪剣振りかざして仁王立ちしてる姿!」
「…………そんなに笑わなくてもいいだろうが」
「ま、征士さんが長生きすりゃなんの問題もない話だからさ!」
「……自分こそ気をつけるのだな」
「俺の方が若いもん」
「四ヶ月だけな」
 笑い転げたままくしゃくしゃに枕に押し付けられた髪に触れると、気持ちよさそうに擦り寄ってくる。猫のような仕草に、征士はため息を吐きながら口づけを落とした。 

                           

Ende

初出 2004.3発行「三月の蒼」



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これも微妙に「青の行方」シリーズとリンクしてる小話。