第三章 花咲ける青少女2

by Nina(2003.9.22)



トウマこと羽柴当麻はその日一日、驚愕と混乱のただ真ん中にいた。
行き当たりぱったりの性格ではあるが、トウマほど計算高い人もいない。性能の高い頭脳を駆使して、短い時間ですべての情報を入力、分析し、その上での最善の行動を選んで実行する。
あまりにも高性能なため、日常生活においてその頭脳が本当に稼動している時間のは一日24時間の約1%だけ──ほかの99%の時間はほぼ無為に寝ている──という事実は置いといて。
トウマから見れば、伊達征士の性格は、微かなずれがあるものの、ほとんどセイジと同じであると言える。
『あの』セイジが、一晩とはいえ、モデルという華やかな仕事を引き受けるのは考えられないことだった。
「いったい何を考えているのやら…」
その、殆ど微妙としか言いようがないずれにトウマは頭を抱えた。
征士とセイジのずれ。それが、征士が未だに覚醒しそうにもない原因にも考えられるのだから、疑問の解明を、お怠け者のトウマのお得意な『先送りする』という裏技を使うこともできない。
「モデルではない、スタントだ。」『当麻』の母親その他と一緒に、隣の着替え室に衣装合わせしている征士がコメントした。
当麻の母親が言っていた事情は、つまり、そういうことであった。
ファンション界の某大手会社がアジア進出を決め、最低限五年以上な長期PROJECTのために、主要なデザイナーを探している。世界的なデザイナー達の申請が殺到し、高い競争の果てに、ある若手デザイナーがつい、内定をもらったのだが。契約をサインし、マスコミにPROJECTの発表をする晴れ舞台という、いわばPROJECTそのものに取って一番大切な第一歩のところまで来て、邪魔が入った。──発表する夜会にそのデザイナーの服を着る予定のモデルたちが、悉く出席を断ったのである。
関係者全員やマスコミへの招待状はすでに出されたからには、今更待ったをかけることなんてできるはずもない。PROJECTそのものには、複数なデザイナーが提携で進行するのだが、その要なデザイナーの服が発表できないというのは、PROJECT関係者全員に恥をかかせることになる。
この類の契約違反は、最悪。契約が白紙に戻ることはもちろん。これからは、誰にも雇って貰えず、デザイナー生命が絶えることもあり得る。
──それはね、よく聞いたら、脅されたんだって。
 命に関わることではなかったが、ありえない車の故障。街道に歩けば、上から物が降る。人混みの中で持っている鞄は傷をつけられ、駐車場のなかで見知らぬ車に引かれそうになった。
──そういう厳しい業界ではあったから、皆が皆、ある程度の覚悟は持っているけど。それでもね、本当に事故にあって傷でもつけられたりしたら、モデルの命が絶たれるのも同じ。それなりの準備──例えばボディガードを雇うとか、各々の要人に裏工作をするとか──が必要なのよ。だけど、しようとしても、夜会その日までは、もう間に合わないの。
──一夜でいいのよ。どうせ黒幕はどっかの馬鹿デザイナーか、企業のライバル会社か。切り抜けられなければ、それまでの器ってことよ。その後、鬼が出るか幽霊が出るかなんて、向こうに任せればいい。でもね、才能が負けるのならともかく。時間が足りないばかりに、そんな汚い手に負けるのは、悔しくない?
──だから、ね?
 …何かね、なのだろう。女はこれだからたちが悪い。トウマはため息をついた。守られるのが、さも当然という顔をしている。面倒極まりなことを頼まれているのがわかっていても、断っていたらこっちのほうが罪悪感を覚える、そういう願い方をする。
 しかし、か弱い──あの『母親』の性格からして、あまり相応しい形容ではないが──女性の願いに、ついつい頷いてしまうのは、悲しい男の身上というのも、まだ真理だった。
 下界ではれっきとした『女性』ではありながら、征士は引き受けてしまったのは、やはりそのせいなのだろうか。
「征士の考え方ってまるっきり男だもんな。」そこらへんの男よりも漢らしい。
 女への見境がない、といわれる自身はともかく──あくまで言われるだけであって事実ではない、というのはトウマの主張だった──セイジの性格からして、『男の見得』のために引き受けることこそありえないが、『か弱い女性を守れ』という理由なら十分考えられる。
「…だから、あいつに取って、男と女の区別はどんなものなのだぁぁーー!」
 隣室に聞こえないように、低い声で唸る。もっとも、隣室からは『きゃー』とか『まあっ』とかから始める悲鳴まじりの感嘆、あまつに言い争う音まで聞こえるのだから、こっちまで気を配る余裕なんてないだろうけど。
「夜会ね…」
思いっきり『女装』、もとい『着飾る』征士。それはそれで楽しいかもしれない。性格がさっぱりしていて、普段は飾る気がないだけに、こういう機会は一生に一度あるかないかの、珍事だ。せっかく素がいいのに、もったいない。野郎の女装に興味などありゃしないが、セイジほどの美貌なら、次元そのものが違う。
 そう思ってしまうトウマは、もしかしたら、少しやけになったのかもしれない。
「一応、性別は女、だしな。」顔かたちはそれほど変らなかったが、征士はセイジより、線が細くて、柔かい感じ…に見える。身長も女性として長身ではあるが、セイジより低いし。さばさばとしている分、あまり意識していないが──セイジの振る舞いも、それは優雅ではあったし──何気に征士のほうが、華やかな気がしたりする。
 「……一応、美女、ということになるか…」美『女』という単語に違和感が拭くえないものの、どちらにしても、目の保養に違いない。
 そして、じっくり時間をかけて身なりを整えられた『美女』の征士を目の前にして、トウマは不覚にも、唖然としてしまった。


 一般的な男性が、女性の化粧について、どんな感想を持っているのだろうか。
 おそらくあまりいい印象ではないだろう。
 無駄に時間がかかるのは当たり前、しかも使用前と使用後の落差の大きさは、まるで魔女が魔術を使ったようだ。
 だが、俺は、実に言えば、そんなに嫌いではなかった。
 いや、どちらかというと、楽しみである。
 濃い化粧をしたがる素の顔がへのへのもへじ並の化け物なら困るが、好きな男──もちろん、俺のことだ──のために少しでも美しくありたい、と思う女性は、健気でいいじゃないか。
 時には、別人か、と思うほどの化けぶりもなくはないが。まあ、いい女ってのは意外性があるに越したことはない。
ないけど…

「……」
 征士の場合、時間がそれほどかかっていなかった。流石、本業の皆様ということだろうか。モデルたちのわがままに慣れているプロたちの仕事振りは上手かつ迅速であった。
「どう〜?キレイでしょ〜〜〜(ハァト)」
 なにしろ、征士をモデルに勧めたご本人だから、自分の慧眼にうっとりしている『母』は、さも誇らし気に言った。俺の聞き間違いかもしれないけど、声がピンク色に聞こえる。
 が、征士の姿を見た途端、俺は固まってしまった。
──沈黙というより絶句。
じーん。
サイレンス。
「とても、着飾る甲斐のある方でした。」
 散らかった化粧箱や衣装の片付けを手伝いながら、母の友人であるデザイナーは満悦でした。
 征士はというと、色とデザインから見れば、衣装一式にあつらえたた靴を履いて、先から静かに歩くの練習をしていた。剣道をやっているせいか、姿勢がいいので、そんな練習をしなくても様になると思うが。
 部屋の両端を往復に何度か歩いた後ようやく満足した征士は、俺を振り返した。
「先から何なんだ」
 何しろ、先から俺はまるでアホのようにぼっとやつを見ていた。
 キレイだと思う。
『夜』会のため、人工の光にも映えるように、普通はもう少し濃い目の化粧をするらしいが、何しろ元がいいので、輪郭を引き立てるように、重点的に手に入れるだけでも、この上なく麗しい。
 西洋の夜会の正式の衣装として、スカートであることは今更だった。セイジが「女」になったという時から覚悟しているとも。
 そもそも文化の差異で男性とてスカートを穿ける世界だ。むしろ、征士と知り合って以来、やつがスカートを着ている時間の少なさには呆れている。
──まあ、あれはどっちかというと、征士が古き良き日本の着物を愛しているせいだったと思うけど。
 黒一色でどちらかというシンプルなデザインではあるが、繁複なレースがコートの襟や胸あたりを贅沢に飾るだけでこうも優雅に見えるものかと思わせるほど、このデザイナーは選ばれただけのことはある。
 が。
「……せ、いじ…そのスカート、みじかい…」ショックのためか、片言になってしまった。
 みじかい、というレベルではなく、みじかすぎる。
 いくらセイジとしての記憶を失っているとはいえ、よりによって『あの』セイジが、ミニを着ていいものか!と、俺は心の中に悲鳴を上げた。
「長いスカートを穿いて動けるか」
 涼しい顔をして、当たり前のように征士は答えた。何のための夜会かを忘れたな貴様、と言わんばかりに。
 なるほど。そういえば、そうだった。そういうことか。何故征士がモデルの身代わりをするのかを考えると、確かにいざの時に、動けやすくする必要はある。
 あるけど、ショックなことがショックなのは同じだった。
 何しろ、色白な征士のことだ。黒いスカートからすらりと見える足の美しさはどうしったことか。黒と白との正反対の対照で、よりいっそ輝いてみえる。
 征士のことだから、単に実用性しか考えていないだろうけど。これで男の大群の中に入ったら、間違いまく犯罪そのものだ。
 しかも、もし必要に応じて、足…足が……大幅に動いたら…動いたら…あああぁ
 その後を想像して、俺は思わずよろめいた。
「あら、大丈夫よ〜」
 先から同じ所を凝視している俺の視線に気付いて、『母』は笑った。
「……そ、そうか、短パン、穿いたよな…」
「短パンじゃなくて、レオタードだ。」
 横からデザイナーが言い捨てた。短パンなど、体の形を変えそうな、邪道なものが使えるか、と、後でぶつぶつ文句を言った。
「……」
 めまいがして、俺は頭を抱えた。ミニとセイジの落差もひどいが、レオタードとセイジとは、あまり一緒には考えたくない。
「なにをそんなにうろたえている。水着のようなものだろう。」
 平然そうに征士は言い切った。なるほど。そういう考え方もある。
「…ハイヒールは…」
「履いたことくらいはある」
 そりゃそうだろうな。だったら何故歩く練習が必要だったのか。まさか本気でモデル業をやるつもりでもないだろうに。
「あれか。バランスを測っていただけだ。歩くだけならその必要はないだろうが。」
 歩く以外何をするつもりだったのか、という想像を無理やり止めたかったが、ちょっと失敗した。
 十センチはあるハイヒールを履いて仁王立ちしている征士を眺めてみる。
 毅然した態度といい、立ち姿勢の良さといい、本業のモデルでも顔負けかもしれない。
 衣装が衣装なのに、艶めかしさより、凛とした雰囲気が先に立つ。ここら辺はさすがに征士だった。
 やつのことだから、もしかして、真っ黒の革製の下着だけを着て、鞭を手に持っていても、高貴かつ優雅にしか見えない……かもしれない。たとえ、そのまえに、じょおうさま、とか言って平伏して拝めた男どもがいても、だ。
 だが。
 おかしい。
 おかしすぎる。
 どんどんとやばくなってきた俺の想像が、ではなく。
 どちらかというと、嫌そうな着せ替えをされて、何故か征士は。
──先から、機嫌がものすごくよくなかった?
 感情の幅が大きくない彼女が、俺を振り返して、何故か小さく頷いて微かに微笑えんだ。
 その視線を辿って気付いた。

 化粧をして、嫌いな着せ替えをされて、苦手な夜会の出席をも承諾した。
 モデルを引き受けたのも、このためだったのか。

──ハイヒールを履いた征士の目線は、ちょっとセイジと同じ高さにあった。


 夜会は、広い日本庭園を誇る某市内の高名なホテルを貸し切って、その庭園の広い池に掛かっている橋の上に発表するためのステージを設し、庭園と隣接する広間に立食パーティを、という粋なものだった。
出席しているのは、主催者である会社、PROJECTに参加しているデザイナーとモデルほか、世界各地から集まった上流社会の紳士淑女──つまり、未来の客層に当たる人達。内々の発表、と名乗っているだけに、マスコミ関係の参加者は少ないが、その代わり業界一流の雑誌や評論家は揃っている。
気重ねする必要もなく、誰でもが本心から楽しめるパーティにしたい、というのが主催者の意向だそうだ。

『でもね、どうせ敵の人間も混ざっているでしょし。』
狭い業界だけに、ライバル会社の息にかかった人間全員をリストから締め出すのは無理だし。ライバルデザイナーやライバルモデルをご贔屓にしている招待客だっているだろう。
『衆目の前でよほどのことはできないと思うけど、要は証拠さえなければいいという人間もいるのよ。』
特に、今度は主催者である大手会社への意地返しではなく、ただの新進デザイナーへの嫌がらせに過ぎない。
ファンション界に生きるのに、主催者のような大手会社を敵に回せば後々に困るかもしれないが。一介のデザイナーならたとえ手段を選ばずに蹴落としても大して問題にならない。
だから。
『お願い、征士さん』

征士に取って、華やかな夜会は窮屈なものだった。
窮屈の上に退屈。
人助けをするのはすなわちイーゴール夜会を出るというのは先刻承知なのだが、嫌いなものは嫌いである。
そうではない人間のほうが、もしかしなくてもずっと多いかもしれないが。たとえば、某ひょっろりとした、『俺は暇だ』と大きく顔に書いてある男とか。何しろ、美女あり美食ありの所なのだから、きっと大いに楽しんでいるに違いない。
人が多いところは苦手だという自覚はある。
人見知り、というわけではないが。言葉や表情などの表現行動は極めてとばしい征士に取って、誤解されるのが常なので、そのため、いろいろ不便な目にあったりもした。
自分の容貌にはいくらか自覚があるとはいえ、それは他人が自分の言動や表情に一々妙な反応を示した、という長年の経験を情報として認識していたに過ぎない。
例えば、征士は自分が微笑んでいた時や単に振り向いたに過ぎない時にも、回りの人がぼっとしていたりするという反応に予想ができていても、何故そうなったのかはまったくわからなかったのだ。
……もし、トウマがそこにいれば、その異常なまでに挑発しているように見える流し目を指摘するだろうが。
だが、繊細な美貌のわりに、よくいえば竹を割ったような、悪く言えばおおさっぱな性格による判断は、細かい所まではわからない。
この世界すべての事を『本質的』に認識する彼女はある意味とっても真っ当な精神の持ち主ではある。だが、それは本質以外のもの、いわゆる容貌や衣装など一過性なものを、まともに認知していないともいえる。
トウマ曰く、それは、識格はセイジそのものだからだ。光の主である彼と、たかが百年やそこらにしか生きられない人間の認識と同じでは困る。

夜会の始まりは六時半だが、七時頃まで客達の集まりはゆったりとしたものだった。庭園のステージで発表するのは八時だからだ。
代理ではあるが、モデルということもあり、征士はきっかり六時半に着いたが、会場に行く前に関係者専用の楽屋で打ち合わせすることになっている。
発表の過程を確認して──正式なファーションショーではないから、モデル達がどの順でステージに上がって、どの方向に向かい、どのくらい留まるという簡単なものだった──解散となった後、違う衣装なら、会場に出席しても構わないが、発表する時のインパクトのため、ステージに上がるまでは行かない方が好ましいということを聞いて、ほっとしたのは征士だけだった。
急いで人脈作りに会場に出たほかのモデル達を見送って、征士だけは楽屋に残った、つもりだった。
「……なぜ貴様も残っている?」
エスコート役とはいえ、当麻は単なる付き添いだ。楽屋に残る必要などない。それに、この男のことだ、大好きな美食と美女達までほっとくとは、きっと何かよからぬことを企んているに違いない。
「…うーん、何故だろう」
直接に答えることを避け、頭を微かに傾いで考える『ふり』をしている(ように見える)当麻を見てみると、段々頭に来てしまった。
「あら、征士さん、ここにいたくなかったら、庭に出てもいいのよ。ちょうど夕食の時間だから、どうせ殆どの客は立食パーティの会場にいるし。」
カメラと筆記用具の準備しながら、今日はジャンナルリストとして招待された、当麻の『母親』は助け船を出した。
「そうか」指摘されて、感情が顔に出る方が珍しい征士は、誰から見ても嬉しそうに応えをした。
「おいっ」ようやく自分の考えから覚めたような顔をした当麻は慌てて呼び止めようとしたが、もちろん返事など返って来るはずがない。
出る前に当麻を振り返った征士は、勝ち誇ったように微笑んだ。


律義な征士のことだ。やると決めたから、嫌いなことであっても文句一ついわないだろう。
だが、発表会の説明が長引くと、不器用な彼女のことだ。不機嫌さが隠せても無表情になっていくのが避けられないだろう。その様子はさぞ面白かろうとトウマは見物を決めた。
楽屋に残ったのはそれだけのはずなのに。
飾ることを嫌い、自分を見せることが不慣れで、モデル歴ゼロなどのハンディを背負っていても、、征士は、正真正銘のプロモデルの中にいても誰よりも目立った。
そして、自他とも認める女好きである自分が、華やかなモデルが選り取り見取りの状況にもかかわらず、無意識に、征士だけを目に追ったことに気づいて、トウマは思わずうろたえた。
考え込んでいたのは、つもりこういうことだった。
──あれはあのセイジだぞ。女じゃないぞ。女に見えても本当は違うんだぞ。
心の中に、まるで呪文のように繰り返して。それでも、やはり目がはずせなかった。

「追わなくていいの?」『母親』が聞いた「今夜の当麻くんはナイトだから、しっかりお姫さんを守らなくちゃ」息子とその婚約者の仲を持つつもりであった母親は、当然のようにトウマを煽った。
──あいつ、強いから本当は守られる必要などないんだけどな。
だが、どっちにしても付いていくつもりでいるトウマは、誤解されるのは好都合だとばかりに、静かに征士の後を追った。


 五月が半分過ぎている深春の夕立。
日が落ちるにつれ、回りが暗くなりつつ、立食パーティの灯りだけが届いている貸し切りの庭園は征士以外の人影もなく、静かそのものだった。
日本庭園の常として、四季の植物がこの庭園に揃っている。
桜。竹。楓。梅。
計算され尽くした通り、春には春の。夏には夏の。秋も冬も違う風情で、この庭園が観客の目を楽しませている。
一年中のどの日でも美しく見えるこの庭園の設計者は一種の天才に違いない。
しかし、天才であっても、自然に逆らえることはできないと見える。
──どんなに手入れが届いていても、日照りが強くなり続ける今の季節に、桜を散らせずに残す方法は、やはりなかったようだ。
桜にはたくさんの品種がある。一番普遍なソメイヨシノは大体四月の始めに咲くが、山桜はそれよりもやや遅いだし、八重桜はさらに遅い。品種を選んで植えれば、桜を愛でる時間をより長くするのは不可能ではない。
だが、この説明は『桜道』の異常に当てはまらない。
気象の異常も考えられるが、気温に影響されるのは主に、桜前線の早さや遅さであり、咲いている時間の長さではない。例え咲いている時間に影響が出ているとしても、長くて三日間や四日間…どうしても『七日』の桜を『一ヶ月』までは長引けない。
花が終わってすっかり緑濃くなった桜木に囲われて、征士は考え続けた。
日本では、昔からもっとも愛されてきた桜のことだ。せめて花期がもう少し長ければ、と。そう願っている人は数知れずだろう。
バイオテイクのおかげで、そのための研究は少しずつ進んでいるだろうが、まだ目を見張るほどの成果が出ていない。
これくらいの事情は、悩むまでもなかった。何百年も掛けて、誰もができなかったことを、『自分のせい』で為し得たことは不可能だ。
それなのに、征士はその考えをやめることができずにいる。
当麻の言葉を、ただの冗談だと捨て置くことができなかった。

──何かが引っかかっている。

…桜…

警兆が征士の脳中に響いたのはその時だった。
何時の間にかパーティの灯りが届ける所から離れて、桜と楓に作り出された濃い闇の中にいる。
そして、囲まれている。
姿が現れてない人の気配は、複数。
ひ、ふ、み…六人、いや、七人か。
殺気がないのは向こうの目的が征士を消すことではないからだろうが、敵意がひしぴしと伝わってくる。
前方に二人。左側に二人。右側に一人。
…さすが、征士に気付かない内、後ろが取られてはいないが、左後方にいる二人の内の一人はゆっくりと正後方に移動している。

遠目で、征士の姿がトウマに見えたときは、ちょっと怪しい男達による包囲網ができあがったところだった。
屈強な男達に小柄──とはとてもいえないが華奢(?)な女性、それも七対一という不利な状況だが、トウマは近づくことをやめて、傍観するのに決めた。
どうみても征士がわざと包囲網ができあがるのを待っていてあげた節があるからだ。
そもそもあいつは平和主義だと自称しながら、どうしようもない好戦的な一面もある奴だ。
自分から喧嘩を売ったことはめったにないとはいえ、売られた喧嘩は必ず高く買ってしまう奴に、平和主義だと堂々と宣言できる立場か、と。何のこともない、買わされた喧嘩の数々を思い出しながらトウマはしみじみに思うのである。
しかも、最近の奴の苛々しい雰囲気を入れて考えてみると、ずばり、八つ当たりしても罰が当るまい相手が見つかってちょうどよい、といったところだろう。
相手がこの間のような青いガキ共ではなく、一見に荒い事が本職だとわかる大の大人だとしても…
「森の中ならまず負けるわけがない」
口元に微かな笑みを浮かべて、トウマは小さく呟いた。

征士とて、目の前にいるのはおそらく『や』の付く職業に就職していた人々で、剣道の達人であっても荒い事が殆ど素人であろうこの間の相手とは比べるようもない、禁則や卑怯な手の使い手だろうと心得ている。加えていくら女性では長身とはいえ、成長途中の自分と、できあがった大人の男との体格差は半端ではない。
そうなると、手加減無用。情けなし。そして…
「先手必勝っ!」
啖呵と同時に繰り出したのが、しなやかな足による蹴りだった。相手と自分とのリーチの差があるため、手より足のほうがよかろうと、簡単に決め付けた征士である。ついでに、細いヒールに体重と速度を加えたら、立派な──立派すぎるともいえ──凶器にもなれるとも。しかも狙らうのは死に至ることはないだろうが、四肢の関節など急所に限るという。
さすがの征士も死人を出すのは嫌だと見える。
だが。どうも、自分のことをわかっていない傾向がある。
トウマにも経験のあることだから身に沁みている。
図体の大きさこそ及ばないが、体の軽さと速度と小回りの良さは相手よりずっと上の征士は、しかし、見かけに寄らず、筋力の強さも屈強な男とは引けを取らないのだ。
その彼女が、自分を『普通の女』だという間違った事実の上に立てた戦術は、はっきり言って過剰防衛になりかねない。
パタッパタッ、と。いとも簡単に男達が倒れてしまった。
征士自身でさえ思ったより効果が出てしまうことに戸惑っているのだ。相手のほうがもっと不意につかれただろう。ほとんど電光石火の間で、勝負がついてしまった。
大立ち回りのせいで、夜会用に束ねた髪が緩めて元のように肩に垂れているが、颯爽に立っている征士は、呼吸さえ上がっていない。
回りに、倒れた男が七人。
あまりのあっけなさに征士のほうが呆然した。
「くそッ……こ……この…あまッッ」
どうやら男のリーダー格で、一段馬鹿でかい奴が、地面に直撃されて、土に塗れた顔を上げた。
手には、黒い金属が光った。

──!!

拳銃を持っているのならどうして最初から使わないのか。そんなことを考える暇もなく、一瞬、ダッという鈍い音がした。
その後に、ガタッという音が続く。
後者のほうは男のリーダーの頭がトウマの足蹴りをまともに食らって、再び地面に陥落した音だが。
前者は…
ハイヒールを履いてさえ、自分より微か高い長身の男を征士は茫然と眺めた。
耳元に、誰かが囁く。
『だから、いったろう。あれはお前のせいだ。』
目の前の、『羽柴当麻』と名乗った男が唇に笑みを乗せて自分を眺め返す。
途端に、微か異様な感じに襲われた。
回りの景色が一瞬朧ろになったような、起きているのに寝ぼけているような、眩暈がした。
「……今のは、お前か?」
「今のとは?」惚けるような問いを彼は返した。
「っだから…」証拠を指そうと回りを見て、征士はこつぜん口を閉ざした。
「……どういうことだ。」そして、地獄から聞こえるような低い声で質問を変えた。
「だから、どういうこととは、どんなことだ?俺はお前があまりにも遅いから呼びに来ただけだけど?」自分の『婚約者』で夜会のエスコート役が、いけしゃしゃと、そんなことをいう。
その口調からこれ以上どう聞いても無駄だろうと征士にはわかった。この男は、はじめから答えるつもりなどないのだ。
暫く、眼を閉じ、深呼吸をして、再び眼を開ける。
しかし、それでも事実は変らなかった。
倒れていたはずの男達の姿は、どこにもなかった。
息さえ上がっていなかった短い戦いであったとしても、自分が戦ったのは確かなことなのだ。
現に、風が吹く度に顔に髪が掠める。夜会用に、束ねたのに戦ったせいで緩めてしまった髪が、だ。
「うそをつけ」
「俺は、何もしていない。」面白そうに『当麻』は笑った。「うそじゃないぜ。お前ならわかるはずだ。嘘を見抜くのが得意だろう。」
確かに。
悔しそうに征士は閉口した。
おそらく勘の良さだろう。どんなにうまくつかれた嘘であっても、征士が見誤ったことは一度もなかった。
その勘によると、目の前のこの男は確かにうそは言っていなかった。
こんなふざけた事実が本当にあるとすれば、だが。
「と〜うまく〜ん、せ〜いじさ〜ん」間の延びた呼び声は、この男の『母親』のものだ。
「あら、私、もしかして邪魔虫?」その女性が近づくと、笑いながら、そんなことを言う。
甘い雰囲気とはほど遠い、どっちかというと邪険な雰囲気なのに、若い男と女、しかも一応の婚約者同士が、暗くて人気のない所で二人っきりに居れば、誤解されてもしかたのないことだ。
「あれ、征士さん、髪の毛はどうしたの?」
「ちょっとな、いろいろと。だが、まあ、大丈夫だろう」当人の代わりに『息子』が意味ありげに答えた。
征士には分からなかったがその意味を『母親』にはわかったらしい。
「…そうね…どういろいろがあったのかはしらないけど。もう髪を整理する時間もないけど…まあ、これは大丈夫そうだね。」
唯、少し残念そうに、そして、これまだ意味ありげに相槌を打った。
恐いことに、この母親は『いろいろ』のところを息子とは違う意味で取ったらしい。
婚約者同士がどういろいろをしたら、女性の髪の毛が緩めたのか、さそかし盛大に想像したに違いない。
幸いか不幸か何故二人して髪の毛が解けたのに大丈夫だろうと言ったのかについて考え込んでいる征士はその勘違いに気付いていない。
気付いたトウマはしかし、笑いを噛み殺して、誤解を解こうとしない。それところか、わざと『婚約者』の肩に手を回して会場まで歩くように促した。
見ている母親のほうが微か赤面したくらいの親密さだが、何故かそういう雰囲気には死ぬほど鈍い征士は素直に歩き出して、さらに誤解されるはめになった。


翌日。忙しい国際ジャーナリストの母親は次の仕事のため、日本を発つことになった。
「じゃね、征士さん。いろいろありがとう。友人から是非伝えてほしいだそうよ。」
礼儀に重じる見送りに来た未来の嫁に名残惜しげそうに言った。
「本当はね、モデルになってほしいとも言っていたけど、それは無理だとあたしから説得したわよ。」
「そうですか。」一度だけの、しかも実態はボディガードかスタントマンかという状況だから引き受けたのだ。征士は自分の性格がモデルに向いていないと思っているし、二度もやるつもりもないから、そんなことを言われてむしろほっとしている。
「うん。本番の時、一目でこれはだめだなと思ったんだもの。」
発表会そのものは成功に終わった。
自分の番になった時に何故か全場、誰も一言も話さないほど静かだったが、特にブーイングも起こってなかったから大丈夫だろう。服そのものがすばらしいものだったし、モデルがまるっきりの素人でもわかる人にはわかったはずだ。
『母親』は否定な意味で言ったのではないとわかるが、後々のことを考えれば、説明するわけにはいかないトウマは傍らに複雑そうな顔をしている。
発表会は実に、すばらしかったのだ。
但し、服ではなかった。
いや、服がどうとかという問題ではない。服そのものの美醜は、すっかり、着ていた人に食われたからだ。
征士は、大人しく化粧され着飾られたときより、自在に、自由に、生き生きした時のほうがずっと美しい。
──戦いの最中は特に。
あの時は、戦ったばかりだった。せいかく結った髪の毛も解けてしまってむしろ無造作に肩に流れている。
だが、あの時の征士が着ていたのはたとえみすぼらしい服であったとしても、その気品と凛々しさと美しさは変らないだろう。
誰も一言を話さなかったも当然だ。誰もが声も出せないほどに見惚れたからだ。
どんな服であっても。
モデルは『服を見せる』のが仕事だから、その服がモデルに食われているのでは意味がない。
あのデザイナーは本物のデザイナーだから、『どんな服でも成功する』というモデルを、いかにもったいないと思っても、デザイナーのプライドにかけて、泣く泣く諦めたのだ。

『母親』の飛行機が空に飛んだのを見ながら、トウマはしみじみに話した。
「嵐が通ったようなものだな」あの母は、まったく。
征士は無言だった。
彼女に取って、嵐はまだ通り過ぎてはいない。

征士はあの後、一人で確認しに戻った。
あの夜、戦ったホテルの庭園に。
あいもかわらず戦った証拠は見つからなかった。七人もの大の大人が倒れていたのに。花も、草も、土も、その体重に潰された形跡がない。
──一つを除いて。
征士は、ポケットの中にある冷たい金属を握った。
ホテルの桜木の枝の中から掘り出した、拳銃から発射された弾丸は、今、こうして、手の中にある。
撃たれる、と思った時、傍らにある桜の木の枝が勝手に自分の前に伸びてきて、まるで庇うように撃たれたのは、やはり、夢などではなかった。
そして、もう一つ。
征士の身に起こした異変。
本当なら、それを自分がモデルを務まれない理由として当麻の母親のお願いを断ったはずだった。
モデル達は、爪の形を変えることをするのさえ禁物だと聞く。
あまり筋肉のつく体質ではなかったとしても、征士は剣道一筋に生きてきた。
剣たこが出来ていた両手ではどうせ無理だったろう、と。
だが、今はそれが綺麗になくなっている。
いや、あの時から、未だに、だ。

嵐が、降り続いている。
(第三章 完)

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