猫になりたい

by.uni(99.12.9)

 

 非現実的な出来事など、実は日常的にその辺に転がっているものである。
 例えば、俺、羽柴当麻にふりかかった、ある奇妙な出来事について今日はお話しよう。それはある雨の朝のことだった。

 前夜、研究室の飲み会でしこたまアルコールを摂取し、非常によい心地で自宅に帰り着き睡眠に身を任せ、そして翌朝目が覚めた。体質的にアルコールとなじみのいい俺は、記憶をなくすほどよったことも宿酔いになったこともない。だからその日も、いつも通りの朝が訪れ、俺は不機嫌に目を覚まし、コーヒーを飲んで新聞を読み、交通事故の死者数を確認したりして、なんとも味気ない時間を過ごすのだろうと漠然と思っていた。実際、ここ数年の1人で過ごす朝の風景はそういったものだった。
 ところが
 その朝
 雨音を聞きながら、徐々に覚醒する意識と共に、これから始まる今日という日の概要を頭の中に思い描きつつ手足に力を入れて伸びをすると、不可思議な音が喉から洩れた。

「‥‥ニャオン」
‥‥何だ?
「ニャン」
‥‥
「ニャ」
‥‥
「ンニャ?」
‥‥

なんじゃーっっ?!

『ニャン』てのは何だ、『ニャン』てのは?!

 どう懸命に意識を凝らしてみても俺の声帯は声を発する時の動きをしているし、これまでの20数年の間味わってきた声の出る瞬間の感覚もいつもどおりで、何ら変わった様子などない。それが、何だこの『ニャン』てのは。
 喉ではなく耳がおかしいのか?
 それとも頭が‥‥?
 俺はおそるおそる布団から手を出し、そこにあるものを見つめた。


 ああ‥‥
 想像通り過ぎる。紛れもなく、忙しい時に借りたくなるものじゃないか。
 いや、待て。
 夢ということも考えられる。それが一番しっくりくるぞ、そうだ、そうに違いない。
 そこで俺はほっぺたをつねろうと、見た目はなんとも可愛らしい猫の手を頬にあて‥‥

 できねーじゃねーか!!

 猫の手でほっぺたつねるなんて芸当ができるか!どないせえっちゅうんじゃ!
「ンニャ‥」(なんなんだよ‥)
 朝目が覚めたら猫になってましたなんて、カフカの小説じゃあるまいし冗談じゃない。しかし、悲しいかな確かにこれは冗談ではない。俺は意識だけそのままに、猫になってしまっている。
 なんてこった。今日は征士が帰ってくる日なのに、こんな姿になって俺は一体どうすりゃいいんだ。迎えに行くことも、玄関のドアをあけることさえできない。‥‥って、そういう問題じゃないだろう。もっと根本的に悩むべきことがあるだろう!
 だが俺は情けないほど征士に惚れているので、情けないと分かっていても彼のことを考えてしまう。
 猫になったら征士を抱きしめられない。話もできないし、俺だと気付いてもらうことさえできないかもしれない。
 これがすぐに収まりのつく現象ならともかく、もしそうでなかったら俺は二度と羽柴当麻には戻れず、征士とさよならになってしまうのか?

 嫌すぎるっっ!

 ‥そんな俺の、繊細かつ純情(ぷっ)な内心の葛藤などよそに、時は無情に過ぎていった。
 午後3時、約束の時間だ。


 ピンポーン
 3時きっかりに、玄関のベルが鳴った。
『実家で法事があるから帰省する。明後日の3時には帰ってくる』
 そう言って仙台へ帰った征士。もともと時間にうるさいやつではあったが、こんなときくらいゆっくりすればいいのに‥‥っていつもの俺なら法事なんかほっといて、さっさと帰って来いと思うだろう。我ながら自分勝手だ。
 ああしかし、ホントに今日くらいのんびりでもよかったのに。

 カチャリと鍵を開ける音がして、ドアが開いて、そのドアがぱたんと閉まるより先に征士の声が耳に届いた。
「当麻、帰ったぞ。‥いないのか?」
 どうすればいい?このまま征士の前へ出て行っていいものか?
「当麻?」
 うわー寝室に入ってきた。
「寝ているのか?」
 寝てないです、起きてますっ!
「とう‥‥」
 征士の手が布団をめくった。ぴたり、とその動きが止まる。
「‥‥‥」
 征士は、異なものを見た、という顔をしている。そらそうだよなあ‥
「‥‥‥」
 どうすべきだろうか?と思っていたら、征士は片手でひょいと俺を掴んで持ち上げた。

「‥なぜここにいるのだ?」
 え?

「いつまでも寝ているものではないぞ」
 え?え?
 俺が分かるのか?猫の姿をしているのに?

「当麻に拾われてきたのだろう。ああ見えて猫好きだからな。ミルクでも飲むか?」
「‥‥‥」
「猫だけおいてどこかへ出かけるなんて、いいかげんなやつだな」
 ‥‥分からなかったようだ。まあ当たり前と言えば当たり前、一瞬でも『愛の奇跡』なんて言葉を思い浮かべた俺がバカだった。一目見た瞬間、俺に『当麻』と呼び掛けたら、それはある意味パラノイアだ。
 征士は俺を懐に抱きかかえて台所へ赴き、小皿にミルクを注いでくれた。
「ほら」
 ふんわり微笑んだりして。

 ‥‥あんまりだ

 そんな顔されたら猫でもいいとか思ってしまうじゃないか。
 今日は朝から飲まず食わずで非常に喉も乾いていたし、冷たいミルクは舌に気持ちよかった。征士はミルクを舐める俺のちっこい頭を指で撫でたりしている。それがまた、どうしようもなく気持ちいい。
 優しいなあ。
 小動物には優しいんだよな、お前。




 それから征士は荷物を片付けたり、部屋の掃除をしたり、しばらく俺に構ったりしながら、人間の俺が帰ってくるのを待っていた。当然、帰って来ない。ここにいるんだから。
「どこに行ったのだ。メモくらい残しておけばよいものを‥」
 ぶつぶつ言いながら、征士は本棚を物色している。そして赤い表紙のハードカバーを手にとって、コーヒーを淹れ、ソファに腰掛けた。

「ミュウ」
 俺の目の前に征士の右足。左足は右足の上に組まれている。
 爪の先までまっしろだ。すべすべの肌に薄桃色の爪、形のいい指、足の裏の踏みつけ部分の皮膚が厚めなのは剣道をしているせいだろう。ちょっと骨張ってて細いくるぶし‥‥セクシーだなあ。

「ンニャ」
 足下から征士を見上げてみた。
 指が静かにページをめくり、瞳が文字を追ってゆるやかに動く。
 ときどき髪をかきあげたりしている。
 今コーヒーをひとくち飲んだ。
 何か愉快なことが書いてあったのか、軽く口の端が上がる。


 征士は予定のない日曜日や雨の日に読書をするのがとても好きである。それは俺も同様で、いつも俺達は2人で同じ時間を過ごしながら、てんでんばらばらにそれぞれの本の世界に没頭したりしているのだ。
 俺が原田宗典のライトなエッセイ、征士が大江健三郎の長編小説なんか読んでいたりすると、その後の会話がどうにもこうにもちぐはぐになるし、征士がファンタジー(意外にも剣と魔法の物語が好きなんだそうだ)、俺が時代小説を読んでいたりする場合も、何とはなしにぎくしゃくした感じになったりして。
 俺達はお互いに『自分自身』の領域を侵されることを好まない質だから、どうしてもそれぞれがそれぞれのことをしている瞬間というものを知らない。征士がこうして本を読んでいる様をまじまじ眺めたことも一度もない。本当に初めてだ。
 征士はさらにページをめくり、足を組み換えた。
 今度は左のつま先が俺の目の前に現れた。
 右足とおんなじ、爪の先までまっしろな左足。そういや征士と一緒に暮らし始めた頃、コイツいっつも靴下履いてたよな。『洋室で裸足など言語道断』なんて言って。そりゃフローリングならともかく、絨毯敷きなら裸足でもいいのに、絶対靴下履いてた。

 征士が絨毯の上で裸足で過ごすようになったのは、いつ頃からだろう。

「ふふ‥」
 と、征士が軽く声をあげて笑った。
 つま先を見つめていた目を上に向けると、征士は珍しく破顔していた。よほど面白い内容であるらしい。
「ミュウ‥」
 なんか切ないな。お前の幸せそうな笑みに、どうしようもなく胸が締めつけられるような気がするのはなぜなんだろう。今の俺が猫だからってんじゃなく、普通にただの人間の格好をしていたとしても、きっとこんなふうに胸がキューッとしただろうな。
 言葉にできないほど甘い切なさに、満たされただろうな。
 どんなに一緒にいても、どうしても入りこめない場所がある。俺達は、俺達だけじゃなくすべての人は、この世界のすべてのものは、みんな別個の独立した個体なんだ――そんな当たり前のことを思いながら‥‥


 日が暮れた。
 征士は俺のためにアジの開きを焼いて、塩分を落とすため一度茹でて、おまけに骨を取り除いて小皿に盛ってくれた。
 はーっ、なんでそんなに優しいんだろう。人間の俺にもそんなふうに優しくしてくれよ。
「お前は‥‥当麻に似ているな」
 優しい征士を見上げていたら、ふいに彼はそんなことを言った。
「瞳が真っ青だ」
 そして、ちっこい俺の頭を指で撫でた。
「ニャン‥」
 ホントに俺なんだぞ、征士。

 それから、征士は午前3時まで起きて人間の俺から連絡が入るのを待っていた。本を読んで、テレビを見て、なんやかやしながら、最終的にすることが何もなくなって、彼はうとうとし始め、そしてソファで眠りこんでしまった。そういやソファで眠りこけるなんてことも昔はしなかったなあ。
 俺は四苦八苦しながら寝室から毛布をくわえて引っ張ってきて、征士にかぶせてやった。はっきり言ってとんでもない重労働だった。とんでもなく疲れた。
 これだけしてやったら充分だろう。毛布に一緒にもぐり込んで寝てもいいだろう。

 俺は征士の隣にもぞもぞとおじゃまし、長いまつげを見つめた。征士が呼吸するたび、まつげも一緒になって震えるように揺れていた。
 明日も、やっぱり猫のままなのかな。もしそうだったら‥‥また征士にアジの開きを焼いてもらおう。




 そして翌朝。
「当麻!」
 征士の怒鳴る声で目が覚めた。
「何をしているのだ貴様は! はなせ!」
 気がつくと、俺はリビングのソファの上で毛布にくるまって征士を抱き締めていたのだった。
「‥‥俺」
 元に戻ってる。猫じゃなくなってる。
 ぼんやりして俺の腕が弛んだ瞬間を逃さず、征士はするりと毛布から抜け出した。
「まったく‥ゆうべはどこをほっつき歩いていたのだ。猫もほったらかしにして‥‥そういえばあの仔猫はどこに行った?」
 いるはずがない、俺が元に戻ったんだから。
「ああ‥えーと、あの猫は友達からあずかったもんなんだよ。ゆうべ遅くにそいつ引き取りに来たから返しといた」
「‥あずかったものならもっときちんと世話をしなければならないではないか。ほったらかしにして出掛けるなんて非常識も甚だしいぞ」
「悪かったよ」
「‥‥‥」
 怒ってら。動物好きだからな征士は。
 ‥‥でもホントはたぶん、自分が帰ってきた時に俺がいなかったことも気に入らないんだろう。
「悪かったって。今日は俺が朝飯作るから、勘弁してくれよ」
 そして俺はいそいそと台所へ行き、ご飯を炊いてアジの開きを焼いた。

「――いただきます」
 なんとか焦がすことなく食事の用意が整い、俺はテーブルについて、今日の糧を感謝するためご飯に手を合わせた。
「‥変わったな、当麻」
「何が?」
「ご飯に手を合わせているだろう。‥実家に帰って、全員が食事の前に手を合わせるのを見て、お前は昔そうするのを嫌っていたのを思い出したんだ」
「ああ、そういやそうだったっけ」
「そうだった。今はきちんとしているが」
「うん‥」
 そうだった。
 征士はそういう感謝とか礼儀とかにうるさかったから。

 征士が少しずつ変わっているように、俺もいつの間にか征士の色に染められているらしい。
 俺達はみんな別個の独立した個体なのに、同じ時間を共有するうちこんなふうに重なりあう部分ができてきたりする。てんでんばらばらのことをして過ごす時間が多くても、俺達はやっぱりちょっとずつ影響しあっている。それまで自分になかったことを吸収して、こうあるべきと思っていたことを変えたりして、少しずつ近付いて行ってるんだ。
 そうなんだ。
 猫の姿になって、穴が開くほど征士を見つめる時間がなかったら、気付かなかったかもな。

 こんな幸せな事実に



 ちなみに――

 その日は4月1日、エイプリルフールだった。
 一年に一度の嘘をついても許される日。
 あなたはこの非現実的で奇妙な話を、ばかばかしい嘘っぱちと思うだろうか? 本当のことだと信じてくれるだろうか?
 どう思ってくれても俺は別に構わない。自分でも嘘なのか本当なのか、いまいち判断がつけかねるところであるし。
 ただ俺としては、今回の出来事はとても貴重な経験(もしくは空想)であったと思う。あんなふうに、まるで観察するように征士を見つめたことは、いまだかつて一度もない。そして、別個の個体でありながら、ひとつのものになりゆく俺達を認識したことも。

 人間は不思議だ。感情なんて、所詮脳を駆け巡る電気信号に過ぎないはずなのに、どうしてこんなにも翻弄されてしまうのだろう。そして、個々の存在が融合するように感じる瞬間は、なぜこんなにも甘美なんだろう。
 不思議だな、征士。人間は不思議だよ、そう思わないか?

「何を笑っているのだ?」
 奇妙なものを見るような表情の征士。

「いや、なんでも」
 含み笑いで答える俺。

 こんなにも笑いたいのは
 そりゃーやっぱり
 俺をこんなにも変える、お前の存在が不思議だからだよ、征士

 また、猫になりたいな

 今度は一緒にどうだ?

  

[ END ]

BACK