侘 助
BY.RHYME
小ぶりだけれど、目の醒めるような、鮮やかな紅の花を、なぜ彼が自分に似ているなどと評したのか、経緯はもう忘れてしまった。ただ、その場には、伸と彼と自分がいて、伸のいけた侘助の花を三人で眺めながら、そんな話になったことだけは覚えている。
『当麻が帰ってくるよ。』
電話の主は言った。
『一応、君以外にはひとりひとり連絡したみたい。みんなに今度会ったら殴らせろって、言われたって笑ってた。』
多分、それは当麻に去られた自分が、みんなには痛々しく見えたから。
『本当のところは、僕だけしか知らない。秀も遼もナスティも。一番仲の良かった君に何も言わずに姿を消したから、取り乱したんだって思ってる。』
あの朝の寒々とした光景が、征士の脳裏に蘇った。
『会いに行くからって、征士に伝えて欲しいって頼まれた。嫌だったら、見なかったふりして、通り過ぎていいからって。』
あれは大学二年の三月。進級が決まって、春休みは仙台に帰ってこようか、それとも読書に没頭しようか、そういえば当麻と旅行へ行こうという口約束もあった、と思案していた黄昏時。アパートの階段を登りきれば、よく見慣れた男が自分の部屋のドアの前に立っている。当麻、と声を掛ければ、いつもながらの心安い笑顔をよこす。
「今日、泊めて。」
開口一番、当麻は言った。おかしなこともあるものだ、と征士は思った。この男が泊まらせて欲しい、と断りを入れることなど、一度たりともなかったことだ。二人でだらだらと酒を飲み、次々と話題を変えながら語り合い、酔いつぶれて、子供のように身を寄せ合って狭いベッドで眠りにつく。そんなことを繰り返してきたくせに。
征士が鍵を開け、部屋の中へ招じ入れると、友達の家に泊まりに来るにはやや大きすぎる荷物を、当麻は肩から下げていた。
「旅行にでも行くのか。」
「うん。ちょっとね。」
あまり聞かれたくないのか、曖昧に当麻は口を濁した。そのかわり、手に下げていた新聞紙の細い包みを、征士へと渡した。そっと包みを開いてみれば、小ぶりだけれど、目の醒めるような、鮮やかな紅の侘助が一枝。
「活けて。」
「活けろと言われても、ここには花瓶はおろか花器も剣山もないのだぞ。」
「コップでいいよ。ほら、細身で丈の高いガラスのコップあっただろう。」
そそのかされて、件のコップに水をはり、余計な枝葉をいくつか手折ってから、挿してみる。それなりに見栄えがした。当麻は満足げに笑むと、コップを部屋の真ん中に置いてあるテーブルの上へ移動させ、どうだと征士に振り返る。
殺風景な室内にそぐわぬ、そのあでやかな花の景色に、征士の胸はにわかにざわめいた。
その夜、ふたりが酒を酌み交わすことはなかった。二日酔いの当麻を旅行に送り出すのも気がひけるし、多分、朝起きられないのを予測して、ここに泊まりに来たのだろうから、征士が酔いつぶれるわけにもいかないし。そして、素面のまま、ふたり背中合わせで狭いベッドの上、ポツリポツリと言葉を交わしていた。
「いつのことだか、忘れてしまったが。」
ずっと気になっていた侘助ことを聞きたくて、征士はそう前置きをした。当麻は小さく相槌の声をよこした。
「おまえが、私を侘助に似ていると言ったのを覚えているか。」
「覚えてる。」
「あれはどういう意味だったのだ。」
しばしの沈黙の後、当麻が身じろぎをして、背中合わせの姿勢を変えた。征士の肩口や項に、彼の息がかかる。
「別に意味なんてない。そう思っただけ。」
「どう思ったというのだ。」
「あんな侘びた風情で咲くくせに、花色は燃えるみたいに赤くて、他人の力で簡単に散らされたりしないくせに、時がくれば自分の力で躊躇いもなく落ちる。」
「それが、私に似ていると?」
頷いた当麻の髪が、征士の頬を撫でた。
「見せてやろうか。」
「どうやって。」
「咲かせて。」
「おまえにできるのか。」
「できるよ。俺はどんな花が咲くか知ってるから。」
「なぜ知っている。」
「ずっと見てきたから。」
さらなる問いを押しとどめるように、当麻の熱い手が征士の肩を掴んだ。
「見てみたいか。」
「・・・見てみたい。」
籠絡されたのだろうかという考えが脳裏をよぎり、征士はそれに否を唱えた。
何かを恐れて抗えなかったわけでもなく、何かを悟って許したわけでもない。純粋に当麻が自分に見たという侘助の花を見てみたかった。
まず、口づけられた。なぜ今さらこんなことをする、と無粋を承知で問えば、ずっとこうしたかった、と返され、何故だ、と重ねて問えば、ずっと好きだったから、返される。そして、諭すように、これが唯一無二の花咲かす法だと囁いて、今度は深く口づける。当麻の瞳の光の強さに灼かれるの嫌って、征士はまぶたを閉ざした。
閉じた瞳の奥はぼんやりと赤く、丹念な口づけに徐々に奪われていく思考と緊張とは逆に、赤は緩やかに焦点を結び、鮮明な映像となって現れたのは、無数の侘助の蕾だった。堅い蕾が、当麻の唇と指が肌に触れるたび、ひとつふたつと艶やかな花弁を綻ばせていく。これが当麻の見ていた花と同一のものなのか、判然とはしないが、そうかけ離れたものではないような気がした。
内に籠もった熱を吐息で逃そうと、緩めた征士の唇から、思わず声が漏れた。またひとつ花が咲く。征士を傷つけぬため、当麻の指と舌が施す所作に、一際、凄艶な一輪が花開いた。
しかし、痛みと悦びをともなって、当麻が征士を満たした刹那、満開に咲き誇る侘助がはたりと一輪、落花した。続いてもたらされた揺れに身をゆだねると、呼応するように、さらにはたりはたりと落ちていく。落ちた花の行方を追いつつ、静かに昂ぶり極まって、行き着いた先をしかとは確かめぬまま、果てた征士の意識は、そこでふつりと途切れた。
肩先に触れる冷気に驚いて、目覚めた征士の横に、当麻の姿はすでになかった。旅行へいくと言っていたのだから、なんら不思議はない。あれで結構、人に気を使う性格だから、寝ている自分を起こさずに出かけたのだろうと、もう一度、ふとんへもぐりこんだ。
けれど、覚醒した征士の意識に、当麻の残していった様々なものがまとわりついて、何故か胸が騒いだ。旅行に出かけたはずの彼の部屋に、電話をかけてみようと思い立ったのは、そのせいだ。本人が出なくとも、留守電の応答が聞ければ、また一眠りできる。
一糸纏わぬ我が身を掛けていた毛布で包むと、重く気だるい体を引きずるように、征士は電話へと向かった。当麻の部屋の番号を押し、受話器を耳に当てる。何回目かのコールの後にあった応答は、当麻本人でも呑気な留守電のメッセージでもなく、回線の不通と番号の確認を求める女性の声だった。いつも使っている鞄を引き寄せ、手帳で番号を確かめて、掛けなおしても結果は同じだった。
震える指は、伸の部屋の番号を押していた。受話器の向こうから、聞こえてきた伸の声に安堵して、もしもしと言った途端、征士は絶句した。言うべき言葉が見つからずに黙してから数分のち、異状を悟った伸が、今から行く、と答えて電話は切れた。
受話器を戻すと、きつく巻きつけたはずの毛布が肩から落ちた。ぼんやり目をくれると、紅く色づく昨夜の名残がひとつ。手ずから、上半身だけ露にしてみれば、そこかしこに刻まれているそれは、まさしく当麻が征士に見た、紅侘助の花弁に相違ない。
綺麗だ、とまるで他人事のように思いながら、生まれて初めて甘い疼痛に苛まれる心のために、征士は涙を流した。
『会いたくないなら、僕のほうから、言っておくけど。』
あくまで電話の主は、征士が強姦か何かの被害者と言う認識を崩さない。そうではないことを伝える術が見つからず、未だ濡れ衣を着せられている男がひとり。
『征士はどうしたいの。』
どうしたいか、と問われれば、あの、侘助が咲き乱れ、落ちゆく様を見てみたい。しかし、また同じ朝が繰り返されるなら、逃げるほうが賢いのだろうか。
『それとも、連絡先、一応、聞いてあるから、教えようか。』
会いに来るというのだから、すべては目の前に現れた当麻を見て決めればいいことだ。
『じゃあ、僕は黙って見てることにする。』
春も間近といった陽気が一転、今日は朝から霙交じりの冷たい雨が降っていた。伸の電話からはもう既に数日が経っている。が、未だ当麻の現れる気配はない。どうせ怖気づいたのだろう、征士は努めてそんな見解を示していた。
征士がやっとオフィスを後にした時も、今朝からの雨は、まだ降り続いていた。時計を見ると、午後十時をまわっている。別段、今日片付けねばならない調べ物ではなかったが、金曜日の夜に仕事を残していくのも、と言い訳をして、だらだらと居残ってしまった。自分も案外、当麻との再会に、怖気づいているのかもしれない。
ビルの入り口で警備員と挨拶を交わし、自動ドアを出ると、目の前に続く横断歩道の向こう側で、傘もささずに立ち尽くす人影が見て取れた。まさかとは思いつつ、征士は駆け出した。
何時間こうしていたものか、弱々しく微笑んだ当麻は、髪も着衣もかなりの水を吸っているようだった。手に持った紙包みもしとど濡れ、中身がうっすら透けて見えた。紅侘助が一枝。贖罪と言うには、あまりにも幼稚な当麻の行為に、どんな表情を作っていいのかわからず、征士はそっと彼の首に腕をからめ、抱き寄せた。
「やっと、待ってて欲しいって言える男になったから。」
耳元に囁かれたその一言に、答える言葉が見つからず、征士は当麻の首を抱く腕を緩めた。逃げると思ったのか、あわてて空いた方の手を体へまわしてよこした当麻に、違う違う、と笑って首を横に振り、征士は何も言わずに目を閉じた。
雨音の中、侘助の香が匂い立つ。
了
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