年下の男の子

BY.RHYME

 当麻が茶の間でパソコンに向かい、自分宛の数件のメールへ返信をしたためている横で、征士は古新聞を広げ、小ぶりの花器に剣山を仕込むと、昨晩からバケツの水につけられていた新聞の包みを開いた。鮮やかな紅の椿が一枝、姿を現す。パソコンのキーを打つ手を止めて、当麻は頬杖をついた。
 椿を手に取ると、征士は小首を傾げるようにして、ひとわたり全体を眺め、しばし考え込んだのち、姿勢を正すとおもむろに花鋏を取り上げた。何のためらいもなく、枝葉を切り落としていく。一連の動作に無駄はなく、出来上がった花にも一片の無駄はなかった。
「いい腕してる。」
「私が? よしてくれ、私なぞ所詮、門前の小僧だ。」
 切り口を整えると、傷めぬようにそっと剣山へ差し込み、正面を確かめてから、当麻のパソコンへ並べて座卓に置いた。
「伸も言ってたぜ、征士の腕前は確かだって。」
「まあ、伸の目には免状という裏づけがあるから、その言葉、無碍にもできんが・・・どうだろうな。」
 切り落とした枝葉ごと丸めた古新聞と、大事そうに布にくるんだ花鋏をしまいに征士は台所に立ち、戻ってくると当麻の隣に腰を下ろした。
「俺はすごく好き、だけど。」
「何が?」
「征士の活ける花。」
「・・・なら、いい。」
 静かで穏やかな空気が当麻の身を包んだ。数時間後、訪れる人物への不安を払拭してあまりあるその空気を深く吸い込むと、胸はいやが上にも甘く疼いた。照れ隠しは罪のない征士へのやや不埒な悪戯。何をされたのか気づかれぬほどの素早さで、彼を押し倒して、わざと羞恥を煽るような言葉を吐いた。
「椿、見てたら、欲情した。」
 やはりうろたえて頬を染める征士は、しかし、奇をてらった抵抗を試みることはなく、いつもながら当麻は彼のすべてをからめとり、脆くなるまで長く深く口づけた。
「征士の唇、椿と同じ色。」
 色づいた唇を指でそっと撫でると、苦しげな眉間の皺が解け、きつく閉じられたまぶたがうっすら開く。
「したいのか?」
 重たげに開いた唇からもれた吐息と言葉に、今度うろたえたのは当麻だった。
「いや、これはちょっとした冗談で・・・」
「私はかまわないぞ、姉が来るまで、まだ間がある。
 征士の手が上からひとつ、ふたつと自らのシャツのボタンをはずし始めて、当麻はいよいよ狼狽の色を濃くした。
「ホント、ゴメン。俺が悪かったです。もう勘弁してください。」
 などと言い募りながらも、一向に体勢を変えようとしない当麻の唇は、征士によって掠め取られた。 
「当麻、私は襟を寛げただけだが。」
 してやったりの笑みを口元に浮かべて、油断した当麻の腕から、征士は逃れる。が、すぐにまた捕らえられ、ふたりして小さくくつくつと笑いながら、茶の間の畳の上で抱き合った。正午前の弱い冬の陽射しのせいか、触れ合っているのに、お互いの温もり以外の熱は生まれなかった。 
「征士、大晦日と正月、すごいことしようね。」
 ダメージを与えない程度に加減された征士の平手が当麻の頬を打った。照れ隠しと、素直にふたりきりで二日間は過ごそうと言えない当麻の駄目さへの、多分、戒めとして。
「何を企んでいるのか知らないが、初詣に行けないのは、大層、困る。」
「神様だって、そんな野暮じゃないよ。」
 いつの世も野暮なまねをするのは、きっと人間だけなのだ。再び当麻を不安が襲って、征士を抱きしめる腕に、力を込めずにはいられなかった。



 弟である征士でさえ、彼女には太刀打ちできないのに、他人の自分が敵うはずはない、と当麻は思う。
「私は果し合いをしに来たわけではありませんよ、征士。」
 出迎えのため、玄関先に立ったふたりには目もくれず、征士の活けた花を見て、彼女が言った。
「あなたの活ける花は峻厳すぎて、観る者を緊張させるわ。」
 と言いつつ、征士より先に当麻の方へくれた一瞥で、彼女の来訪の理由である伊達家のお雑煮のレシピ云々は建前であることを思い知らされた。覚悟はしていたこととはいえ、彼女本人が目の前に立ち現れてみると、苦手意識も手伝って、つい身構えてしまう。
 そして、今、何故か当麻は剣道の稽古着に袖を通す破目に陥っていた。
「羽柴さんにお手合わせ、願おうかしら。」
 拒めなかった。冗談にしてしまうことも、できないわけではなかったのに、かまいません、と答えていた。さすがの征士のポーカーフェイスも、一瞬崩れた。たまに、彼の稽古に付き合ったことはあるが、自らの意思で勝負していけるほどの腕前はない。
 いつもながら弓道着との肌ざわりの違いに戸惑いながら、当麻は稽古着を身に着けた。もう一度、襟の袷を整えていると、後ろでふすまが勢いよく開いて、勢いよく閉まった。当麻が振り返るのを待って、征士が言った。
「おまえを伸のところへ強制的に預けてこなかったのは、私の不徳の致すところだ。」
「この年の瀬の忙しいときに、あいつのところに厄介になってみろ、苛め抜かれるに決まってる。」
「伸にはよく言い含めておく。今からでも遅くない、すぐに着替えて、荷物をまとめろ。」
「嫌ですぅ。敵前逃亡させんのかよ。」
「姉は敵か?」
「・・・にもなりうる。」
 征士は困った顔まで綺麗で、本当に当麻は困るのだ。
「けど、敵にはしたくないんだ。征士のお姉さんだから。」
 こめかみを押さえて、ひとつついた征士の溜息はしぶしぶの了承らしい。当麻は強いて笑って見せた。 
「征士、一応、おさらい。」
「おさらい?」
「まず、提刀の礼だろう。」
「ああ。」
「で、次に蹲踞の姿勢をとるだろう。」
「自分の立ち位置をきちんと定めてからだ。」
「うん。それから、刀抜いて、剣先合わせて、立ち上がる。」
 間違いないと頷いた征士の頤を捕らえて、当麻は触れるだけのキスをした。不安を悟られぬように、暢気そうに。
「お茶の用意しといてね。」
「本当に馬鹿だな、貴様は。」
「でも、俺のそういうとこ、好きでしょ。」
「・・・大嫌いだ。」
 心配を隠さずにいてくれた美しい天邪鬼の口元に、もうひとつキスを落とした。当麻はためらうことなく道場へと急いだ。



 向かい合って座る彼女が静かに面を取った。小面憎いほどに、呼吸の乱れがなかった。
 戦法と呼べるほどの上等なものを持ち合わせぬ当麻は、ただただ捨て身で彼女に撃ち込んで行き、逆に撃ち込まれ、追い詰められて、見事に玉砕した。面を取るまでに荒い息は静めておきたいと思ったが、整えることは叶わなかった。
「筋がいいわ。」
「征士さんの仕込みが良いのでしょう。」
 卑屈に見えぬように、猫背になりがちな背筋を意識して当麻は伸ばした。
「指導者としての資質も、征士は良いもの持っていると言うことかしら?」
「ええ、そう思います。と言っても、あくまで素人の意見ですが。」
「謙遜することはないわ。一番、近くで見ているあなたの意見なのだから。」
 彼女は言葉を切ると、口元に挑むような笑みを浮かべて、改めて当麻を見据えた。最後に面を決められる一瞬前、面金の奥から自分を見つめていたときと同じ目だと、当麻は思った。
「正直、征士に指導者としての資質があるかどうか、危惧していたのです。姉の私が言うのもなんですが、彼は競技者として素晴らしい資質を持ち合わせていましたから。」
「素晴らしい競技者が素晴らしい指導者なれるとは限らないからですか。でも、安心されたでしょう。」
「いえ、まだまだこれからですわ。安心なんて、とてもとても。」
 征士のポーカーフェイスより、彼女の笑顔の裏を読むほうが数段難しい作業だった。ただ、何かが来そうな雰囲気だけは、先刻から常に当麻を取り巻いている。
「でも、やっと見つかりましたの。」
「何がです?」
「私の眼鏡に適う女性。」
 奇襲をかけられて、そんなのもありかと、当麻は思わず膝の上に乗せていた両の手を握り締めた。作戦など立てる余裕も与えてはもらえないらしく、再び捨て身で立ち向かわなければならないこの状況に、臍をかむ思いだった。
「征士の眼鏡に適うかどうかはわかりません。」
「では、あなたは征士の眼鏡に適ったとでも?」
「それはわかりません。ただ、征士は俺と・・・私と一緒にいることを選んでくれました。」
 笑みが浮かべていた彼女の口元がきつく引き結ばれたのを、当麻は見逃さなかった。
「世の中、他人を悪く言う人はいても、良く言う人はなかなかいないのよ。それなのに、わざわざ悪く言われるようなこと、自ら望んでやることはないでしょうに。」
「それでも、一緒にいたいんです。」
「あなたが征士を守ってやれるというの。」
「多分、征士はそんなこと、望みはしません。」
「・・・もしも、と言うこともあるわ。」
「それなら、なおさら、そのもしものためにも一緒にいます。」
 ひとつ息を吐いて、緊張を解いた彼女の顔が少し寂しげに見えた。
「その言葉に嘘偽りはありませんね。」
「はい。」
 すっと立ち上がると、彼女は竹刀の切っ先を当麻の喉元へと突きつけた。
「もし違えたら、この竹刀が真剣に変わること、お忘れにならないでね。」
「はい、絶対に。」
 竹刀が納められると、当麻は滅多なことで下げることのない頭を下げた。
「ありがとうございました。」
 そうつぶやいて、彼女の気配が道場から消えるまで、冷たい床板に手をついたまま、当麻は頭を下げ続けた。



 二十七日にやってきた彼女は、日が良いからと二十八日一日がかりで正月準備を整えて、二十九日の今日、既に玄関先で暇を告げていた。他の家族がいるとはいえ、長くあちらを留守にするわけにはいかない、と言って。
 タクシーが来るのを待ちながら、三人肩を並べて玄関の上がり框に無言のまま腰掛けいた。征士を見て、不意に彼女が笑った。
「姉さん、どうしたんです。」
「すごく当たり前のことに、今、気がついたの。」
「どんなことです。」
「あなたもいつの間にか、大人になってたんだなあって。」
 苦笑いを浮かべてはいたが、征士の顔をひどく穏やかだった。
「私ももう三十ですよ。」
「ごめんなさい。でも、あなたが私の年齢を追い越していくことはないから、ずっと子供のままのような気がして。」
「弟ですから、姉さんにもしものことがない限り、年下のままですよ。」
「・・・そうね。」
 ふたりが黙りこむと、再び三人は無言のまま、タクシーを待った。一台、二台と家の前を車が行き過ぎる音に耳を傾けていると、何台目かでやっと車が止まる気配がした。
「来たのかしら。」
 誰に言うともなく彼女がつぶやくと、車のドアが開け閉めされる音が家の中にも届いた。
「では、帰ります。征士、荷物をお願い。」
 荷物を持って立ち上がると、征士は先に玄関を出た。それに続くように、彼女も立ち上がった。
「羽柴君。」
 おって立ち上がった当麻の方を彼女は振り返った。
「征士は私の大事な弟なの。」
「ええ、わかっています。」
 想いと誓いを込めて、そう答えた当麻に、彼女は晴れやかな笑みを返した。


  

了 

 

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