あのひとが来て
BY.RHYME
夜の九時を過ぎると、道場から聞こえてきていた竹刀を打ち合う音が止む。
稽古に来た人たちの雑談に付き合って、若き道場主が茶の間に戻ってくるのは、大体九時半過ぎになる。下宿人のこちらも若き助教授は、仕事に勤しみつつ、彼の帰りをじっと待つ。それが、ここで二人、暮らし始めてからの習い。
当麻はそろそろ聞こえてくるはずの征士の足音に耳をすませながら、まとめ終わった次回の講義の資料を座卓の上から片付けた。そして、剣道着のまま征士が茶の間へ戻ってくる頃には、もう温かいお茶が用意されている。
「お疲れさん。」
お茶を飲みながら、待ちくたびれた風は見せずに、当麻が声をかけるのも常なら、その言葉に微笑んで、征士が用意されたお茶に口をつけるのも常のこと。
「すまないな。」
「お茶の用意しとくのなんて、いつものことだろう。」
「いや、そういうことではなくて、今日のこと。」
征士の浮かべた苦笑で、当麻は彼の言わんとすることを察して、こちらも苦笑する。できれば、知らぬふりでやり過ごしたかったのだが、彼が気にしていてくれたことは素直に喜びたくて、観念することにした。さりげなく、こともなげに。
「ああ、俺の誕生日のことか。」
「道場のことが優先で、当麻のことがどうしても後回しだな。」
申し訳なさそうに、征士がひとつため息をつく。
確かに、二人が大学を卒業してから、当麻が留学していたり、征士がレーサーとして海外のレースを転戦していたりで、気がつけば、こうして誕生日に向かい合ってお茶を飲んでいるなんて、実に数年ぶりのことだ。
けれど、恋人と二人で過ごすこんな穏やかな日常を征士から与えられたのに、さらなる何かを欲しがるのは、あつかましいような気が当麻にはした。あくまで、それは当麻だけの考えらしく、向かい側に座る美しい人は、まだ思案顔だった。自分だって、誕生日に何が欲しいか訊ねたら、疲れたから肩を貸して欲しい、などとのたまったくせに、だ。
「そんなことより、風呂に入って来れば。」
「そんなこととはなんだ。大事なことではないか。」
憮然とした征士の顔も嫌いではないけれど、せっかくだから、今日は笑顔を見せて欲しくて、当麻は瞬時に頭を回転させる。なるべく、怒った顔と困った顔を見てから、笑顔を見られるような計略を練る。
「嬉しいけど、もう少し話に付き合ってくれるだけでいい。いつもみたいに。」
「しかし・・・」
「それに、夜這いにつきあってくれたからさ、いいの。」
「・・・何。」
「夜這い。夜中の零時ちょうどに、征士の部屋に行ったけど、怒らなかったでしょう。」
「それは・・・」
「誕生日だったからじゃないのか。」
甘えるような上目遣いで当麻が征士を見つめると、困った顔の彼がいる。午前零時を過ぎて、何を思い立っても、決して部屋に侵入してはいけないと、当麻に約束させたのは征士なのだ。だから、困り顔が現れるのは必定。
「いや・・・おまえがずいぶんと差し迫った状況にあるのかと・・・私との約束を破るくらいだから・・・それで。」
「じゃあ、差し迫った状況になったら、何しても許してくれる。」
「許すか、馬鹿者。」
怒ると見せかけて、征士の瞳が笑みを含む。これはちょっとした当麻の計算違い。
そして、自らも予定外のことを口にした。急な思いつきのような、もうずっと先から機会をうかがっていたような、そんな密かな願いを告げた。
「それなら、膝枕して欲しいな。」
「膝枕。」
「うん。日付が変わるまででいいから。」
「そんなことでいいのか。」
「俺にとっては、征士がそんなこと承知してくれるっていうのが、結構、一大事なんだけど。」
今度は、多分当麻も初めて見る表情かもしれない。征士の何か企んでいる顔。触れようとしたら、かわされて、当麻の手は行き場をなくす。仕方なく、負け惜しみみたいに、菓子鉢から、焼菓子をひとつとって頬張った。
「承知した。」
「部屋にいるから。」
「では、私は風呂を済ませてこよう。戸締りと火の元を頼む。」
お茶を飲み干して、征士は席をたった。茶の間に一人残された当麻は、もうひとつ菓子をつまむと、静かに菓子鉢のふたを閉じた。
月明かりに照らされて、緩んでしまいそうな顔を自分自身にごまかすため、当麻は机に突っ伏す。幸せと簡単に言ってしまうには、もったいないほど複雑で難解な気持ちを抱えて。だから、不意に十七歳だった自分を憐れんでやりたくなった。
十七歳の十月十日は悲壮な決意を固めて、電話の嫌いな征士がかけてくれた三度の電話をすべて無視し、律儀に残された三件の留守電を皆まで聞かずに消去して、黒い真っ直ぐな髪を腰まで伸ばした彼女をつくった。引越しのときに見つけた、その元カノの写真を見て、征士は「姉の写真がある」と言った。つまり、そういうことだ。征士とお姉さんはよく似ている。彼女と征士も似ていないことはない。次に会うときは、親友としてなんて言っておきながら。
言い訳も天下一品で、自分との関係のせいで、征士が後ろ指さされるようなことになったら、嫌だし。そういう世間の目から、守ってやれる甲斐性もないし。どうせ征士は礼の心のもとに戦っていた男だから、好きだとか言って、駄々をこねている同志を憐れんで、ハグだのキスだの許してくれたのだろうし。当麻は頭のいい男だから、自分を黙らせるためなら、際限なく言い訳を思いつくことができた。
でも、クリスマスを数日後に控えたある日、征士は罪のない顔でマンションのドアの前に座っていた。その姿を見ただけで、二ヶ月かけて積み上げた当麻の努力は無駄とばかりに打ち崩され、気の強そうな目元と口元したお嬢さんに別れを告げさせられた。思わず抱きしめたら、なぞなぞみたいな告白をされた。
「もう頬が熱い。」
誰が何故に自分をそうさせるのか、答えてみろと征士の目が言った。
当麻は正解を導き出した。
自分をなだめすかして、だましおおせて、本当ならば今頃は、征士に面立ちが似ているかもしれない女の子たちと恋愛らしきものを繰り返して、何か違うと思いつつ日々を暮らす、ちょっと不幸せな大人になっているはずだった。
だけど、征士は来てくれたから。なぞなぞの正解だけを聞くために。
「正解を答えられたことだけは誉めてやろう。」
そう独りごちた当麻の耳に、しのびやかに廊下を歩む足音が届いた。
ふすまが開く。征士は明かりのついていないことにいぶかしげな表情をしたが、当麻が窓から射し込む月明かりを目顔でしめすと、合点がいったように、視線を今宵の満月へ向けた。
「ベッドを背もたれにしてかまわないか。」
月を見ていた征士が訊ねた。当麻は頷いて、改めて彼を眺めると、いつも違う風情に気づく。何が常と異なるのかと、征士の所作を追っていると、正座しようとかがんだ刹那、昨夜、胸元に当麻が残した痕跡がのぞいた。普段より、浴衣の衿のあわせがゆったりとしているのだ。その上、項が露になるように、衿はやや抜き気味。普通男性が締めるのより帯の位置が少し高めなのは、だらしなく着崩れてしまわないための征士なりの工夫なのだろう。
「正座では少し枕としては高いな。」
あえて当麻とは視線を合わせず、伏し目がちなまま、口元だけはあでやかな笑みを浮かべて、浴衣の裾を乱さぬように横座りに足を崩した。心臓に悪いくらい、抜けるように白い踝と足首が、当麻の目にさらされる。してやられた悔しさに、眩暈がしそうだ。
「当麻。」
名前を呼ばれて、のろのろと横になり、征士の膝枕に頭を預ける。
「手玉に取られてる気がする。」
幾分拗ねたような当麻の口調に、征士が笑み零れた。
「日ごろ、おまえの手練手管に私が籠絡されているのだ。たまには、私の拙い術策にかかって、弄ばれるのも一興ではないか。」
「一理あるけど、そんな浴衣の着方する征士は心臓に悪すぎ。」
当麻は征士の左手を探り当てると、自分の右手を心臓の辺りへ導いた。彼の手のぬくもりが早く打ちすぎる心拍を、なだめてくれるような気がした。
「征士って、どんな着物も着られるの。」
「着物の着付けは一通り、母に仕込まれたからな。まあ、浴衣は寝巻き代わりだ。さほど難しくない。」
「振袖も着られたりして。」
冗談のつもりで言った言葉だったが、仰ぎ見ると、征士が少し動揺したのがわかる。結局、あっさり白状した。
「・・・不本意だが、多分着られないことはないと思う。母や姉が忙しいときは、妹が一人で着られるようになるまで、私が着付けてやっていたから。帯を長時間、型崩れさせずにもたせたいときにも、よくかりだされた。」
「力の加減が上手だったんだろう。あれみたいだな。ほら、舞妓さんとか芸者さんの帯締めたりする男衆。」
「ああ、箱屋か。」
「うん、それ。」
きっと、華やかな着物や帯を自在に着付けていく征士は、案外、自身が着物をまとっているより、美しいに違いない、と当麻は思った。それに、あのお転婆な妹がはしゃぐのをしかりつけて、着物を着付けている征士なんて、微笑ましくて、抱きしめたくなる。
そんなことをつらつらと考えていたら、ふと思いついたことがあった。
「なぁ、征士、春になったら、京都に行こう。」
唐突な当麻の提案に、怯む風もなく、征士は素直に答える。
「京都で桜を見るのも、悪くないな。」
「いや、それもそうなんだけど・・・」
「他に何がある。」
「・・・舞妓さんの格好させてくれるところってあるだろう・・・」
「却下だ。」
皆まで言わせずに、征士は当麻を黙らせる。
当麻の顔を覗き込みながら、征士はひとつ、ため息をついた。
「どうしたの。」
「昔のことを思い出した。」
「どんな。」
「下らぬことだ。」
「聞かせて。」
ためらいが、ため息をもうひとつ、征士につかせた。
「姉に、あなたが女の子だったら良かったのに、と言われたことがある。」
「お姉さんが。」
「ああ、大きな姿見の前に座らされて、女物の着物地を肩からかけられて。」
「見立てするみたいに。」
征士はそっと頷いた。
「一緒に鏡を覗き込みながら、この柄はあなたにしか絶対に似合わない、と言われた。」
「どんな柄だったの。」
そらされた征士の視線を追って、当麻の視線がたどり着いたのは、窓から見える空だった。深い青を幾重にも重ねたような空。
「あんな色の地に、桜。花があまりにも白いから青みがかって見えるのだ。本当に美しい意匠の反物だった。」
当麻は征士の白い喉元を見つめながら、なかなか戻ってこない視線に焦れた。しかし、征士はその姿勢のまま、話を続けた。
「そして、姉は最後にこう言ったのだ。でも、どんなに似合っていたとしても、これで男物の着物を仕立てることはできないし、女物の着物に仕立ててしまったら、あなたが着ることはできない、とな。」
「だから、女の子だったら・・・。それ言われたのいつのこと。」
「十七のとき。おまえに逢いに大阪へ行く、少し前。」
無意識に、当麻は先から胸の上で自分の手と重ね合わせていた征士の手を強く握り締めた。気づかずにはいられない事実が、そこにはあるから。
「・・・まさか・・・お姉さん。」
「さあ、あの頃の私はひどく迂闊に日々を過ごしていたから、姉が何か見知っていたとして、不思議はないと思うが。」
空からやっと戻ってきた征士の瞳の色は、案外に穏やかで、当麻を安堵させた。あえて答えのわかっている質問をしてしまいたくなるのはそのせいだ。
「男の子でよかった?」
「それは・・・」
「それは?」
当麻は起き上がり、捕らえていた手を引き寄せて、口付けようとしたが、征士に身を引かれて果たせなかった。
「それは、おまえが一番よく知っている。大阪まで行った私に、答えを与えたのはおまえではなかったか。」
そう言いざま、今度は征士が顔を寄せてきて、唇が重なった。触れ合うたびに、いよいよ離れがたくなるぬくもりを残して、征士の手が当麻の体を押し戻す。
「忘れたのなら、あの夜と同じことを私にしてみろ。思い出せるぞ。」
誘うように当麻の項に征士の左腕が絡みつき、抱き寄せられるまま、ふたたび唇が出会う。求められたことを、かわすこともそらすこともなく、すべてを優しく甘受して続いていくキスに、お互い安穏とした気持ちになりながら、次第に熱に浮かされていく。
深く口付けられて、征士が脆くなってしまった頃、きれいに整えられた浴衣の裾が、当麻の手できれいに乱されていった。
了
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