あいみての

BY.RHYME

 七月八日、快晴。
 春先に手慰みに蒔いたセイヨウアサガオの種が、一輪の花を咲かせた。
 そして、へブンリーブルーという名のその花を本の中に閉じこめて、当麻はイギリスへと旅立った。数学者として、更なるステップアップするための本人いわく武者修行へ。
 見送りに行かなかった征士は、サーキットで次のテスト走行のスタートを待ちながら、空を見上げ、今は機上の人となったであろう、男のことを思う。七夕の次の日だから、などと嘯いてはいたが、征士のスケジュールを十分確認した上での出発であることは、明らかだった。テストドライバーとしてとはいえ、サーキットで走る機会を一度でも無駄にはできないことを当麻は知っている。だから、見送りには絶対に行けないことも。
「おまえの考えることなど、全部お見通しだ。」
 青く澄み渡る空に独りごちる。その空の色は、明け方まで自分の肌の上に想いを刻み続けていた男の瞳の色によく似ていた。征士の思いを見逃してしまった幼い日々から、少しも変わらぬ瞳の色に。



                        

 恋は盲目、なんて古い言葉を引っ張り出して、途方に暮れている征士に捧げたのは伸だった。そういう時はどんなに聡い男でも、相手の加速していく鼓動や一瞬にして上昇する体温を見落としてしまうのだと、丁寧な字で手紙には綴られていた。
 当麻が征士に想いを告げたのは、十四、五の時。彼は不意に触れ合った肩先に驚いて身を引いたり、無意識に征士へ触れようと伸ばしてしまった指先をあわてて引っ込めたりするしぐさの意味を、上手に言葉にして見せた。好き、というシンプルかつ素直で、最も真っ当な一言を用いて。
 しかし、誰かから想いを懸けられるには、征士はまだ幼すぎて、自分の中に当麻が言ったのと、よく似た感情が巣くっていることに気がついてはいたが、未熟さゆえに、想いを上手に言葉にすることもままならなかった。ただ、当麻に請われるまま、髪や頬に触れられることも、抱きしめられることも、口つげされることも、拒まずに許していれば、想いは必然的に伝わるものだと頑なに信じていた。
 そうして、当麻の言葉に途惑うことになる。
「俺のこと憐れんで、優しくしてくれるところも好き。」
 明日、それぞれの家へと戻る日の夜。当麻はそう言った。
 離れ離れになった後、突然、桜を一枝、携えて仙台へやってきた時、帰り際にはこう言った。
「もう少しだけ、征士に不埒な真似するの、許して。」
 征士は頷いた。頷くことで伝わると期待した想いが、結局伝わらなかったのだと思い知らされるのは、六月九日の電話。
『迷惑かもしれないけど、もうしばらく、俺のこと甘やかしてて。』
 すでに電話は切れてしまっているのに、受話器を握り締めたまま、自分の想いに口を噤み続ける自分に腹を立てていた。今更、どんな言葉を使えばいいのかもわからないけれど、沈黙を守っていたところで、何の得にもならない現実が目の前にある。
 また、訪ねてくるかもしれないと、心待ちにしていた八月七日。夜になって、電話が鳴った。
『会いに行こうと思ったんだけど、征士の顔見たら、また一からやり直しになるから。本当は声聞くのも、駄目かもしれけど、今日は特別。次、会うときは、完璧に友達の羽柴当麻になってるから、安心して。』
 勝手な言い草だと思いつつ、一番、勝手なのは自分自身だということを征士は知っている。だから、十月十日、当麻に電話をかけた。三度かけて、三度とも留守電が応答し、律儀に三度メッセージを残したけれど、彼から折り返し電話がかかることはなかった。
 連絡のないまま十二月に入り、伸への返信に当麻とのことを書いてみた。こんなこともあったのだ、という程度に。伸になら明かしてもいいような気がしたのだ。別段、相談を持ちかけるといった風情のものではなかったが、時を置かずして、届いた伸からの更なる返信には、さっきの言葉とともに、征士をたしなめる言葉がしっかりしたためられていた。
 冬休みが目前に迫っていた。



                         

 当麻の旅立ってしまった部屋に帰り着いてみれば、ドアの前にはブリーフケースと紙袋を抱えた男がひとり立っている。以前、そうして待ちぼうけを食わされていたのは当麻だったが、今日は会社帰りらしい、スーツ姿の伸だった。階段を昇ってくる征士の姿を認めると、軽く手を振って見せる。 
「おかえり。」
「しばらくだな、当麻のさしがねか。」
「なんのこと?」
「こういうときばかり、結託するのだな、二人は。」
「人聞き悪いな。協力って言ってよ。」
 悪びれた様子もなく、伸はさらりと真実を告げた。そんな彼を征士は部屋に招きいれ、適当に座るように促した。
「春先に当麻の引越しを手伝ってくれて以来になるか。」
「もうそんなになる。」
 お茶の用意をして戻ると、テーブルに二つ折り詰めが用意されていた。
「夕飯まだでしょ。今日、仕事で秀のところに行ったからさ、征士のためにスペシャル折り詰め作ってもらったんだ。」
「旅行の企画か。」
「うん、旅行業界、不況でやられてるから、なんか目新しい企画をってことでね。ちょっと協力してもらってるんだ。彼は中華街で顔がきくから」
「大手の旅行代理店も大変なのだな。」
「こういう時代だから。それより、まだ温かいよ。冷めないうちに食べよう。」
 折り詰めの料理に箸をつけながら、今日、一人でご飯を食べなくて済んだことに征士は安堵する。明日は大丈夫だけれど、さすがに今日は駄目だったような気がするのだ。伸の話に耳を傾け、相槌を打ちながら、そんな自分の気持ちを見透かしてくれた当麻に、ほんの少しだけ感謝した。
「ねぇ、いい機会だから、ひとつ聞いてもいいかな。」
「なんだ。」
 伸が箸を止めて、さっきまで遼や秀の近況報告を面白おかしく語って見せたのとは、別の表情で征士に問いかけてきた。
「昔、征士が僕に手紙で相談したことがあるだろう。」
「どんな。」
「請われたことに応えているだけでは、想いを通わせることは不可能なのだろうかって。」
「そんなこともあったな。」
「結局、両想いになれたんだよね、その、たった三ヶ月とはいえ同棲みたいなことしていたんだし。それ以外にもいろいろとあるし。」
 伸は慎重に言葉を選んで、核心に触れようとしているらしい。その常とは違う様子が可笑しくて征士は小さく笑った。デリカシーを持ち合わせているが、聞きたいことは結構、率直に聞いてくる。そんな彼が手探りで重ねる問いかけは、やはり笑いを誘う。
「同居に関しては、イギリスに行くまで三ヶ月しかないのに、アパートの契約更新の手数料払うなんてもったいない、と私が言ったら、居候させてくれるのか、と聞くから、させてやると言ってしまっただけだ。」
「で?」
「で?」
「とぼけてないで、質問に答えなさい。」
 伸の反応が面白くて、征士は焦らすように間をおいた。すぐに核心をさらけ出してしまうのは、今日の彼を見ていると惜しいような気がした。しかし、それ以上に自分の気持ちを誰かに吐露してみたいという気持ちが、今夜の征士の中で少しだけ勝っていた。
「想いが通い合っていないといえば、多分、嘘になる。」
「征士も素直に好きだとか言うの。」
「言わない。言わなくともわかっているのだろうし、下手に言葉で言うと、あまり遠まわしに言い過ぎて、確かに伝わっているのか、疑わしいこともある。」
「ふうん、盲目な時は脱したんだ。僕に相談した後、何かあったのかな。それとも、気のせい?」
「さあ、どうかな。」
 思い出し笑い気味に征士は笑顔になる。伸の方は苦笑いを浮かべると、彼一流の勘の良さで、それ以上の話を引き出すことを断念してくれた。
「仕方がないな。征士の笑顔に免じて、その先はまた今度にしてあげよう。」
「では、私は心の準備をしておこう。」
 そう言って、当麻が残していった今夜の企みに、征士はもう一度、感謝した。



                                

 終業式を終えたその日、征士は大阪へ行くべく、新幹線へと飛び乗った。滞在が伸びることを予想して、チケットは片道分だけ。当麻への連絡は一切なし、でも宿泊先は彼の家、断られることなど考えてもいない。お祖父様にも家族勢揃いでの年始挨拶に参加できないかもしれない旨、了解をとってのかなり無鉄砲で自分勝手な旅だった。
 行き着いた当麻のマンションのドアの前、ためらいながらも押したチャイムが、空しく鳴り続けることに挫けそうになったが、それも想定外のことではないと、肩から提げたバックパックをコンクリートの床において腰掛けた。時計は午後六時過ぎ、当麻が夜遊びしてかえってきても、今日中には会えるだろう。
 ただ、仙台よりは暖かいだろう、とタカをくくっていた大阪で、思いがけない夜の冷え込みに、読みかけの文庫本を放棄しなければならないほど、征士の手はかじかんでしまった。時計を見ると八時を少し廻ったところ。強張った節々を伸ばすために立ち上がると、征士が降りてから初めて、この階でエレベーターの扉が開き、仲睦まじげな制服姿のカップルが降りてくる。男のほうに有りすぎるほど、見覚えがあった。
 とっさに征士はバックパックを手に取ると、退路を探した。当麻と彼女の横を通り抜けるしかないとわかると、いつもの以上のポーカーフェイスを取り繕って、通り過ぎようとしたが、あっさりと当麻に阻まれて、ドアの方へ押し戻された。
「やっぱり、付き合えない。」
 訝しげに二人を見つめる彼女に向き直ると、当麻は決然と告げた。征士には聞き取れないが、そのから数分間の応酬があり、最後は平手打ちが当麻の頬に当たる小気味よい音を残して、エレベーター横の階段を彼女は駆け下りて行った。月並みなドラマのような展開に呆然としていた征士はバックパックごと手を引かれ、当麻に無理やり玄関へ招じ入れられた。
 背中で重いドアが閉まる頃、征士は当麻の腕の中にいた。身動きもできないくらいの戒めに、バックパックを手放して、手持ち無沙汰だった腕をその背中へそっとまわした。冷えきった体に当麻の体温が心地よかった。
「何で来たんだよ。」
 不本意そうな当麻のつぶやきを耳に受けて、彼の背が少し伸びたことに気づく。
「今度、会うときは友達として会えるはずだったのに。」
「おまえが私と友達になりたいのなら謝るが、そうでないなら絶対に謝らない。」
「何で今更、誤解しそうなこと言うんだよ。」
 緩んだ当麻の腕から逃れて、後退りすると手がドアの鍵に触れた。やっと見つめることの叶った当麻の目から視線はそらさずに、それをロックした。
「もう頬が熱い。」
 触れたくて宙を彷徨っている当麻の手をとらえて、征士は自らの頬に導いた。さらに、彼の手をとらえたまま、コートの襟元から自分の心臓の辺りへと移動させた。薄いシャツ越しに早鐘を打つ心臓の鼓動が彼の指先へ伝わるように。
「鼓動も速い。胸も痛い。だから、誤解されても全然かまわない。」
 そっと当麻が距離を詰めた。征士はドアと彼に挟まれたまま、気配を察して目閉じた。静かに触れるだけの口付けが交わされる。一瞬、さっきの彼女のことが脳裏を掠めたが、征士は無視した。確かに、当麻と彼女がどこまでの関係なのか、気になってしかたがなかったけれど、日付が変わるまでに、きっとそんなもの追い越してしまうはずだから。
「征士、恋人になってください。」
 何のためらいもなく征士はうなずいた。そして、神妙に、硬いパイプベットのある当麻の部屋へと連行された。



                               

 八月七日、快晴。
 スケジュールは空けたものの、前後に細々とした用事が入り込んで、今年は仙台に帰ることが叶わなかった。征士はいつもどおりのメニューで体を動かしてから、軽い食事を済ませると、洗濯と掃除に執りかかった。
 十一時過ぎにはすることもなくなって、お茶でも飲もうかと、キッチンへ向かいかけたとき、滅多にならない電話が鳴った。相手が誰だかわからないのに、思わず時間を確かめて、九時間引いてしまう自分に苦笑してしまったけれど、予想は間違ってはいなかった。
『もしもし。』
 海の向こうの真夜中の大学街からの当麻の声が、受話器越しに征士の耳元へ届けられる。下宿に落ち着いてすぐに寄越した電話は、征士の留守中に留守電が受けてしまったので、双方向でラインが繋がるのは、今日が初めてのことだった。
「当麻か?」
『うん。』 
「また夜更かししているのか?そちらは夜中の二時過ぎだろう。」
 電話の向こうで、当麻が微かに笑う気配がした。
「そういえば、おまえが発った日の夕方、伸が訪ねてきた。」
『へぇ、どういう風の吹きまわしだろう。』
「とぼけても無駄だ。伸が素直に白状したぞ。」
『伸って征士にも甘いよな。』
「おまえが逆らうから、いじめられるのだ。」
『自業自得?』
「そういうことだ。」
『ふうん、なんか変なことされなかった。』
「伸がいったい私に何をするというのだ。また、馬鹿なことを。」
『それはそうなんだけど。』
「ただ。」
『やっぱり何かあったのかよ。』
「当麻には内緒で浮気をしようと持ちかけられた。」
 もちろん伸のちょっとした冗談で、征士も笑いをこらえながら、丁重にお断りした。
「だから、おまえに相談しておく、と言っておいた。」
『もしかして、操たててくれるの。』
「残念ながら、忙しくて操などたてている余裕はないな。」
『そっか、どうしても好きな人ができたら、正直に言ってね。覚悟決めるから。』
「安心しろ、しばらくは節操なくしている暇もないのだ。もう少しで国際ライセンスに手が届くかもしれない。」 
『でも、暇ができたら、浮気するかもしれない。』
「そういう器用な人間か、私は。それは、おまえがよく知っていることだろう。」
 急に当麻が黙り込む。征士はこのままラインが途切れてしまうのではないか、という不安に駆られながらも、次の彼の言葉を待つことにした。長電話が嫌いなのは相変わらずで、国際電話ともなれば、料金が気になるところではあるけれど、今日はすべてに目をつぶる覚悟だ。
『知ってるけど、きっとずっと不安だと思う。』
「信用がないのだな、私は。」
『そうじゃなくて、俺の気持ちの問題。』
「どんな。」
『初めてのとき、正気に戻ったら、征士のこと好きになりすぎてたから。ハグしたいとか、キスしたいとかの頃と比べ物にならないくらい、すごく。』
「後悔してもいいぞ。」
『絶対、後悔なんかしない。』
「余計な不安を抱え込んでしまったくせに。」
『そうだけど、征士のこと、愛してるから、いい。』
 自分の言葉に照れて咳払いをする当麻に、電話口から微かに漏れた征士の笑い声が届いたらしい。向こう側からも小さな笑いが漏れる。
『また、電話する。』
「ああ、待ってる。」
『時間があったら、手紙、書いてね。』
「電話をする、という約束よりは守れそうだ。」
『うん、待ってるから。』
 数分後、お互い名残惜しくて、受話器を置けず、また二人で笑いあって、やっと電話はきれた。悪戯を思いついて、置いたばかりの受話器を手にとったけれど、思い直して、元に戻した。手紙を書こう。今日の日付で。短冊に願い事を書くように、素直な気持ちで。
「不安なのはお互い様だ。」
 多分、そんなことは意地でも書かないけれど。

 

   

了 

 

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