オハナシハツヅク・・・
BY.RHYME
「羽柴先生、さようなら。」
黄昏時、道場からでてきた剣道教室の子供たちがお行儀良く、母屋の玄関先にたたずむ当麻に頭を下げて家路についていく。ここの若き道場主はしつけに厳しい。こと挨拶に関しては、徹底している。だから、たまに宿題を見てくれるとは言え、なんとなく怪しげな学者風情の当麻にさえ、きちんと挨拶をしていくのだ。
「はい、さようなら。」
当麻は軽く手を振ると、しばし子供たちの背を目で追った。まっすぐに彼らが育っていることは、それほど親しくない自分の目にもわかる。幼い頃から、古いしきたり重んじる剣道の世界に身を置き、数年前までは、生死を賭して戦うカーレースの世界に身を置いていた。いずれ劣らぬ厳しい世界で生きてきた彼だからこそ、子供たちを導いていけるのだろう。そんなことを思いながら、不意に彼への好ましさがこみ上げてくるのを、当麻は感じた。しかし、それも束の間、過去の出来事に対する割り切れなさが、その思いに影を落とした。
「ただいま。」
玄関の引き戸の引かれる音と共に響いた同居人の声に、征士ははしたなくも思わず舌打ちしそうになった。彼が帰ってくるまでに済ませてしまいたかった話が、相手の思いがけないねばり強さによって、まだ片付けられずにいたのだ。それほど長い廊下ではない。足音は着実に茶の間へ近づいてきている。けれど、相手は祖父の一番古い弟子に当たる上に、提示したいくつかの希望を征士が承諾することのみを条件に、この道場を譲ってくれたという義理もあり、現在は無償で教室の手伝いなどをしてくださっている方で、礼を欠くわけにはいかないのだ。
「こんにちは。」
結局、開け放っていた茶の間の入り口から顔を出した瞬間、彼は目ざとく征士の前に置かれた派手な振袖を着た女性の写真を見つけ、それの意味するところを悟ったのだろう。改めて見るまでもなく、不機嫌になったのは気配だけで明らかだった。
「おかえり。」
「やあ、お帰りなさい、羽柴君。」
写真の持ち主であろう老人の挨拶に不機嫌さを増長させて、当麻は征士の横に腰を下ろした。
「いいところに帰ってきた。羽柴君も伊達先生に言ってやってくださいよ。そろそろ身を固めてもいい頃だって。」
横目に盗み見た当麻の顔に皮肉な笑みが浮かぶのを、征士は見逃さなかった。自らの意見を主張するのに忙しいらしい老人は、当麻を味方にしようと必死で気づいていないようだ。まあ、気づいたところで、目の前にある事実は世間の常識に目隠しされていて、その笑みの意味するところを、老人が理解できたかどうかは疑問だが。
「お気持ちは嬉しいのですが。」
黙ったままの当麻の態度を取り繕うように、この場を収めるための口上を征士は心の中で反芻すると、一呼吸置いて、再び口を開いた。
「お話をうかがうと、とても人柄の良い方のようですね。」
老人はここぞとばかりに、大きく相槌を打つ。
「こういった華やかな柄の着物を見事に着こなす器量もお持ちのようだ。ですが、こういう柄を選ばれるという時点で、私との相性はそれほどよくないのではないか、と。」
「伊達先生の目にはそううつりますか。厳しいですな。」
「それほどでも。」
そう言った征士の取り付く島のない笑みに、不承不承、やっと老人は写真を引っ込めた。征士もとりあえずほっと胸をなでおろしたが、写真をしまいこんだ敵がこちらに向き直り、話し出そうとする気配に改めて身構えた。
「差し出がましいようですが、伊達先生は他の土地で道場を開かれたとはいえ、やはり、ご長男でらっしゃる。あなたのお祖父様も早く伊達先生の曾孫さんの顔が見たいのではないですか。」
征士はあいまいに相槌を返すと、暇を告げて立ち上がった老人を、玄関先まで見送るために自らも席を立った。前道場主を送り出し、征士は声高に叫んでしまいたかった事実を心の中でつぶやいてみる。残念ながら、お祖父様は私がひ孫の顔など見せられぬことを、とっくの昔にご存知です、と。
二人が席を立つとすぐに、当麻はイライラと老人の使っていた湯呑み茶碗を台所のシンクにほうり込んだ。叩き割ってやりたかったが、物を大事にする征士に免じて、それだけは勘弁してやった。それに、壊された茶碗を見て、困った顔をする征士を想像すると、いたたまれなくなる。お祖父様に曾孫など生まれようのないことを告げてしまったのは、他ならぬ当麻自身なのだから。
冷めてしまった征士の茶を捨てて、温かい茶を入れなおし、用意した自分の湯呑み茶碗にも注いだ。うんざりした様子で戻ってきた彼を振り仰ぐと、心配そうな顔でこちらを見下ろしていた。笑って見せると、ようやく安心したのか腰を下ろし、その刹那、掠めるような口付けを征士は当麻の口元に落とす。いらぬ気を遣わせてしまったことを悟って、当麻は再びいたたまれなくなる。あるひとつの譲れないことを除いては、絶対にこの綺麗な人を困らせないと心に決めていたのに。
「なに、今すぐ押し倒されてもいいよ、のサインか、征士。」
すべて冗談にしてしまいたくて、軽口を叩いてみると、打てば響くといった具合に、不敵な言葉が返される。
「ご随意に、と言うところかな。」
「泣いても知らないぞ。」
「泣かされたら泣かされたときのことだ。」
少しの笑いをにじませて、それでもなお涼しい顔をして、茶をすする征士にしばし目を奪われてから、更なる冗談を当麻は繰り出してみせる。
「あの爺さん、あのまま居座って、夕飯ご馳走しなきゃならなくなったら、どうしようかと思って、気が気じゃなかったんだぜ。」
「今月の食費はまだ、そんなに逼迫していないと思うが。」
「今日の献立が問題。ぶり照り用の切り身がふた切れしかない。」
普段どおりの、といってもそう滅多に他人様には見せない笑顔を取り戻した美しい人に、当麻はもう一押しを仕掛けた。
「征士、ぶり照りでいいか、夕飯。」
「ああ、何でもかまわない。私のために・・・」
「手間と暇をかけてくれたものなら?」
言いかけた征士の口癖を掠め取ると、当麻は給食当番の役目を遂行するべく、笑いながら台所へと姿を消した。
午後九時半を少しまわった頃、大会前の最後の調整のために練習に来ていた一般の練習生を送り出すと、いつになく疲労感に襲われて、征士は道場の隅に座り込んでしまった。そして、考えるとはなしに、数年前の出来事を回想していた。
その年、レーサーとしてシーズン中、常にトップを走り続け、年間チャンピオンをシーズン途中で手中に収め、今季限りでの引退を決めた。やはり、剣道で身を立てて生きたいという思いが、強くなり始めていた頃でもあり、ちょうど、祖父のほうから、弟子の一人が後継者もおらず、自らの老齢と道場の老朽化を理由に道場を閉じようとしているが、継いでみる気はないかと打診されたのを、二つ返事で受け入れたのだ。
当時、当麻は日本の大学で、数学を教え始めていた。あとひとつ論文が認められたなら、助教授の椅子に手が届く。そんな大事な時期に、二人は関係が壊れる寸前にまで至る喧嘩をしてしまったのだ。きっかけはたった一言の告白だった。
「一緒に暮らしてみないか。」
それまでに当麻が、自分に対して言ってくれた言葉に比べたら、百分の一にも満たないような些細な告白ではあったけれど、征士にしてみれば、精一杯の思いの丈だった。充分、伝わったからこそ、当麻は頷いてくれたのだと、今でも征士は思っている。しかし、道場と母屋の改築費用について尋ねられ、すべて自分がまかなうつもりであると、告げると、当麻の態度は一変した。母屋の改装費用をなぜ自分に負担させないのか、と。お互いに譲ることができずに、平行線をたどり、もう駄目かもしれないと征士があきらめかけたとき、その気持ちを察したように当麻が折れた。
この問題がしこりとなって、未だに当麻の中に影をおとしているのを、征士は知っている。いつか、あの時の譲れなかった思いを告げたいと思いつつ、言葉は容易に出てこなかった。伊達征士にとって、言葉ほど不如意なものはない。今日の疲れはその不如意さゆえのものかもしれないと、密かに征士は感じていた。
「羽柴君のやっている学問で、うちの征士を幸せにできるのかね。」
数年前の即答できなかった征士のお祖父様の問いかけを、当麻が不意に思い出したのは、道場より微かに響く竹刀の打ち合う音がやんでから、しばらくたった頃だった。
三人だけなのをいいことに、自分勝手な衝動に駆られ、征士の気持ちも考えずに「征士を下さい」などと口走ってしまった自分に対し、正しい言葉の意味と真剣さを理解した上で動じることなく、お祖父様は問いかけられたのだった。が、当麻は質問の意味をきちんと理解できず、答えに窮した。まだまだ駆け出しの学者で、助教授のポストがかかった大事な論文は最終段階で行き詰っている。征士には二人の住む家の改築費用を負担したいという希望も拒まれてしまっているような身の上だ。黙り込んだ当麻に、何か言いたげな征士を制して、お祖父様は静かに話し出しだされたた。
「別に、これを養っていけるかどうか、問うているのではないのだよ、羽柴君。君が愛情ゆえに庇護欲に駆られるのはよくわかるが、自分で自分一人くらい養っていける人間に育てたつもりだ。心配にはおよばない。」
当麻が同意を示すべく、ひとつ大きく頷くのを認めると、さらに言葉を続けられた。
「ただ、一人の人間を心底、欲しいと望んだからには、その者が最期を迎えたときに幸せだったと思えるように、努力していかなければならないのだよ。相手が男だろうと、女だろうと、それは同じだ。君は学問しているとき幸せかね。征士は君の学問する姿に幸せ感じられるだろうか。」
久しぶりに思い出した言葉を反芻するうち、なぜ、あの時、征士と喧嘩になる前に、もっと彼から言葉を引き出そうとしなかったのか、という後悔に当麻は苛まれた。饒舌な性質ではない彼は言葉でうまく伝えられなかったことは、行動で示す。それでも、駄目なときは、自らの不器用さを責めながら、あきらめてしまうことはわかりすぎるくらいわかっていた。だから、征士が自分自身を責めたりしないよう、どんな言動も行動も当麻へ向けられたものは、ひとつとして取りこぼしたりしないと、思いを受け入れてくれた瞬間に誓ったはずなのに、今につながる最も大事な思いをみすみす見逃してしまったのだ。
いつになったら、征士を困らせず暮らしていけるのだろう。そんな埒もないことを考えつつ、当麻は茶の間で、道場から戻ってくる彼をただひたすら待ちわびていた。
茶の間の開け放たれた入り口から、座卓の上に何枚ものメモ用紙を広げて、熱心に何事か書きとめる当麻が、道場から母屋へと戻ってきた征士に見てとれた。多分、定理の証明でもしているのだろう。ノートパソコンを用意していないところを見ると論文や講義のためではなく、暇つぶしに、以前といたことのある問題をまた解いているらしい。こういう彼を見るのが征士とても好きだ。だから、いつか彼が学問のせいで自分から離れていくことあっても、それはすんなりと受け入れるだろうと思う。
「お茶でも飲むか。」
廊下を歩く足音が耳に入ったのか、茶の間へ入ってきた征士にメモ用紙へ書き込みをし続ける当麻が尋ねた。
「いや、自分でする。お前も飲むか。」
「ああ、たのむ」
手を止めては、別のメモ用紙を取り上げ、首を傾げてはさらに別のメモ用紙を手に取り、目当ての書き込みを見つけると丸で囲むか、二重線をひいていく。湯呑み茶碗が目の前に置かれたのも気づかぬまま、当麻は夢中で証明を続ける。征士は静かにそれを見つめた。メモ用紙の上を走る鉛筆がどんどん加速度を増してゆき、唐突に当麻の口元へ満足げな笑みが浮かぶのと同時に、証明は収束を向かえた。この茶の間で幾度となく見つめてきた証明の最後に書き記されるQ.E.D.と、当麻の誇らしげな微笑が自分を何より幸せにすることを征士は知っている。今まで、本人にうまく伝えられたためしはないけれど、お祖父様ならお見通しだろう。
「これ、征士と喧嘩したときに解いてた証明なんだ。」
冷めてしまった茶を一口飲むと、当麻が言った。
「もう一回、最初っから解いてみたくなって。」
「そうか。」
そうやって相槌を打っている自分がどんなに優しい顔をしているか、当麻を見つめるとわかる気が征士にはした。
「俺はあの時、あんなに卑屈にならなくてよかったんだなって、これ解いてて気づいた。」
「それは、私がうまく気持ちを伝えられなかったせいだ、本当にすまない。」
でも、今なら、あの時よりはうまく気持ちを伝えられるかもしれない。そんな予感がして、征士は言葉を探した。慎重にもっとも自分の気持ちを的確に伝えてくれる言葉を。
「あの時、昔、おまえが話してくれたポール・エルデシュという数学者のことが、実はずっと頭の片隅にあった。」
「覚えててくれたんだ。」
「ああ、とても印象的な話だったから。家も財産も伴侶も持たずに、スーツケース一つ下げて、世界中を放浪しながら証明を解いていった人物だと、確か話してくれた。」
「うん、そうやって生涯を数学に捧げたんだ、あの人は。」
新たな言葉を探し出そうとしている征士の手に、当麻は自らの手を重ね、無理な言葉探しをやめさせると、さらに続けた。
「だけど、俺はエルデシュじゃないし、なりたいとも思わない。数学者としての彼は尊敬してる。いつか越えてみたいと思う。でも、生き方を真似ようとは思わない。」
また、当麻に自分の気持ちを上手にすくい上げられてしまったのだ、と悟って征士はため息をついた。それは嬉しさ半分悔しさ半分の全く不快感のない、かなり幸せなため息だったけれど。
「求めているものも違う。俺は欲張りだから、数学も征士も自分ものにしたいし、許されるなら、どこにも行かないで、死ぬまで征士のそばで数学やってたいんだけど。」
「それが当麻の本意なら、私はかまわない。しかし・・・」
「しかし、何?」
「一緒に暮らしてみたい、と私が言ったことで、お前を束縛してしまったのではないか。」
「安心しろよ、そんなの全然、束縛のうちに入らないから。征士はもっと俺を束縛する義務と権利がある。」
当麻が重ねた手に力こめた。征士が自分の手を彼のするにまかせると、悪戯を思いついた子供のように微笑んで、恭しく手の甲に口付けた。契約のキスだとうそぶきながら。
もしかしたら、初めてのときよりももっと緊張しているかもしれないと、当麻は思った。入浴を済ませた征士が彼自身の部屋へ戻らず、当麻の部屋のふすまを開けて入ってきたとき、心臓が今までにないぐらいに早鐘を打った。糊の効いた寝巻きがわりの浴衣ごと彼を抱きしめる。逃げないことも、抗わないこともわかっているのに、腕の力を緩めることができず、きつかったのか、征士が苦しげに身じろぎする。
「今日は俺の部屋へお泊り?」
「大会が近いから、明日も朝稽古がある。当麻の目が覚める頃にはいないと思うが。」
「それでも、全然いい。自分から俺の部屋に来てくれただけで本当に、全然。」
「誘われないと来ないからな。」
狼狽する当麻がおかしいのか、征士が小さく笑う。
しかし、当麻は躊躇うことなく征士をベッドへ導いた。
その時、どんなに彼を欲したとしても、外れることのなかった箍が、今日に限って、見事にはじけ飛んでしまったことに当麻は戸惑った。口づけは弥が上にもひどく性急なものとなり、征士の肌に触れる指先がかなり意地悪になる。常とは違う当麻をいぶかしみながらも、征士はすべてを甘受し、あらゆることに呼応してきた。そんな彼の様子をいとおしみながらも、優しくなれない行為に当麻自身でさえ困惑するほど、今日は勝手が違った。
征士を執拗に焦らし、気がつけば、昂ぶりすぎた感情が堰を切って瞳を濡らす、ぎりぎりのところまで追い詰めてしまっていたのだ。当麻が彼の中へ身を沈めた刹那、それは涙となって頬を伝っていった。
すっかり熱に浮かされてしまった自分にあきれつつ、当麻はうわ言のように征士の名を呼んだ。征士はもうその声さえ、耳には入っていないようだった。ただすがりつくように当麻は首を搦めとり、頭をかき抱くと、その耳元に夢うつつのまま、あられもない懇願を囁いた。二人が時を同じくして、共に自らを解放したのは、それから間もなくのことだった。
了
BACK
|