飛行夢 ―ソラ・トブ・ユメ―

芳谷美伊


 さく、と音をたてて足元の草を踏む。初めて目にする広い広い草原は、空がどこまでも見えるので、当麻は一目で気に入った。
 腰を下ろし、後ろ手に手をついて、眩しいほどの青さを湛えた空を見上げる。
 晴れた空が、好きだった。
 どこまでもただ続く、青い空。風が吹くたびに、姿を変える淡い雲。
 見上げているだけで、当麻は何時間でも ――― 一日中だって、すごすことができた。



 遙か上空に君臨する帝国と、その前線兵器「イージス」。神々によってもたらされた楯、という、皮肉なその名前の装置にはばまれて、ひとは空を飛ぶ術を失った。一定の高さ以上で飛ぶものを、「イージス」は容赦なく熱線で貫いた。そうして帝国は完璧な支配を、地上にしいてきたのだ。
 永い、ながい時を経て、強力な磁気嵐で帝国本国との交信が途絶える日がきても、「イージス」は動き続けてひとが飛ぶことを阻んできた。支配を脱した地上がふたたび国が分立し争いへとのみこまれていく中で、今、ひとは「イージス」破壊のための試行錯誤を繰り返している。帝国の遺物にすがりながら ――― けれど、空飛ぶ機械が生み出される日もそう遠くはないのだと、彼の父親は語った。
 夢でしかなかったイージスの破壊。それは確かに確実になりつつあった。優秀な「研究者」であった父が手荒い「協力」を求める輩から逃れて、こんなさびれた町に移ってきたのは、飛ぶことが現実になる日が近づいているからだと、当麻は理解していた。
 けれど、そうした生々しい話は、彼にとってはどうでもいいことだった。理解できるのは、奇人と呼ばれようと変人と謗られようと、空への情熱を捨てない父の気持ちだけだったから。
 蒼穹には、見知らぬ国が沈んでいる。見知らぬ森が、見知らぬ白い道が、見知らぬ湖が、地上を映したようにそこにある。それは、空の青の濃淡と、雲の陰とで織りなされた目の錯覚にすぎないのだと、当麻の理性は理解していた。それでも、こうやって空を見上げる時、幻の国は信じたくなる鮮やかさで目に焼きつく。かつて君臨した帝国でも、書に謳われる楽園でもなく、もっと当たり前の、ありふれた、けれど美しい国。
 飛べたら、そこにいけるのではないかと。
 もっとずっと幼い時から、当麻はそんな夢を見てきた。



 父親の部屋から持ち出してきた、飛行機の設計図が走り書きされた小さな紙を、まだ少年の手が丁寧に折っていく。単純なつくりの紙飛行機。青々した雑草の生い茂る初夏の野に、ゆるやかに吹きつける風。滑るように少年の ――― 当麻の手を離れた紙飛行機は、すう、と風に乗った。
 緑の野と光りかがやく空とを割って、伸びていく白い軌跡。
 どうして風は、――― 晴れた日の風は、せき立てるような気持ちにさせるのだろう。
 やるべきことがある。
 行くべき場所がある。
 なにか大切なことを、大切な場所で、大切な誰かとともになし遂げる、そんな未来のために。
 じっとしていては駄目なのだと、風は言うのだ。
(セロトニン分泌……それともドーパミンかな)
 焦燥とも歓喜ともつかぬざわめきに、そんな分析を下してみながら、ただどうせなら、白い紙飛行機がどこまでもどこまでも飛んでいけばいい、と思う。
 世界を閉ざす糸を断ち切って、この世の涯まで。



 巻き上げるような悪戯めいた風が横からふきぬけて、紙飛行機は見守る当麻の目のなかで、くるくると回りながら落ちた。
 ああ、と嘆息する間もなく、当麻は息をのんだ。
 白くしなやかな腕が動いて、落ちた紙を拾い上げる。まるで天から降り立ったようにふいにそこにはひとがいた。紙飛行機にばかり気をとられていて、いつからそこにひとがいたのか、当麻にはわからなかった。
 大声でなければ声も届かないような距離で、当麻はそれが自分とさほど変わらない年頃の少年であることを見てとった。外出の途中なのか綺麗に整った身なりなのがわかる。この辺りでは珍しい金色の髪が、風に乱れて舞っている。顔だちはよくわからないが、彼は手元の紙飛行機から目をあげて、当麻を見つけたようだった。
 慌てて立ち上がる当麻へと、ゆっくりと彼は近づいてくる。近づくにつれて、冷たいほど整った顔だちが見て取れた。自分よりいくつか年上のようだ、と当麻は見当をつけた。淡灰色が基調の軍服めいた制服に、白い肌と紫の瞳がひどく似合っていた。
 当麻は緊張してその目を見返した。万が一、彼の父親もしくは当麻自身目当てで近づいてくる軍関係の人間ということもある。既に幾度も危険な目に遭っている身としては、見知らぬ人間は誰であれ、近づいてくれば警戒せずにいられない。
 彼は数メートル離れた場所で足をとめて、かるく首を傾げた。自然に話をするには少し遠い距離は、警戒した気配を察してのものだろうか。
「……これは、おまえが飛ばしたのか?」
 思ったよりも低い声で問われて、当麻は迷いつつも頷いた。癖のある金髪に彩られた顔からは、害意は読みとれなかった。
「よく出来ているな。――― こんなものを作れる人間がいるとは思わなかった」
 それが素直に感心している風だったので、当麻はゆっくりと警戒をといて口をひらいた。
「べつに、簡単だけど。……気に入ったんなら、やる」
 彼は少し驚いたように綺麗な紫の目をみはり、それからふわりと微笑んだ。
「そうだな、貰おうか。餞別にはいいかもしれん」
「餞別?」
「これからこの町を出て ――― もっと大きな都市の学校に通うのだ」
 淡々とした口調に当麻はなんとなく納得する。おそらく軍学校なのだろう。そして同時に少しがっかりもした。今日行ってしまうのでは、まるで当麻とは入れ違いだ。学校や町でばったり出会ったりはできない。それはひどくもったいないことのような気がした。
 彼は柔らかいほどの微笑みを浮かべたまま、白い小さな飛行機の翼を指でなでた。
「お前も、空が飛びたいか?」
「――― 何故?」
「お前なら、飛べそうな気がする」
 真っ直ぐな視線が当麻を射た。暁の空に似た色の瞳は不思議と透明で、空のように幻の、見知らぬ景色が透けて見えそうな気がした。
 空を飛ぶ夢。
 それはごくありふれた、少年が誰もが一度は抱くような夢だ。通りを走る少年たちに聞いてみるがいい。多くの子供がきっと、空飛ぶ夢を語るだろう。
 目新しさのない夢を、けれど、彼はひどく特別なもののように言葉にした。
「……あんたは、飛びたいのか?」
 低く、当麻は問う。それに、彼は短く答えた。
「飛べるなら」
 簡潔な答えはかえって彼の心を語るようだった。なんの根拠もなく、聞く者に彼は飛ぶだろうと納得させてしまうような力があった。
 似合ってるよ、と言おうとして当麻はやめた。両手をポケットにつっこんで、道を譲るように数歩さがる。
「軍人に、なるんだな、」
「ああ、たぶん」
「じゃあまたきっと会うよ。俺は飛行機を作るから」
 にっ、と笑ってみせる。彼も不敵に笑った。
「楽しみにしている」
 そうしてさくりと草を踏み、当麻の脇を通りぬけた。わずかに向こうのほうが背が高い。それがちょっと悔しくて、当麻はわざと顔を背けて空を仰いだ。なに一つ変わらない、底知れぬあおさに、空は輝いている。翔ける馬にも鳥にも見える白い雲。地平に近い淡い青も、真上の焼きついたような碧も、変わらぬ静かさと深さで当麻を揺さぶる。
(そうか、こういう時って)
 名前。
 きけばよかった、と、今更ながらに思いついて、当麻は振り返った。けれど、見渡すかぎり草の海が続く、緩い勾配を描く世界に、金色の髪をした後ろ姿はもうどこにもなかった。
「……まぼろし、」
 埒もない呟きを洩らして、当麻は一人苦笑した。そんなことも、あるかもしれなかった。この空の下でなら。
 けれど、もし夢がかなうなら。
 空飛ぶ夢が、かなうなら。
 彼が幻だったとしても、その時はきっとまた出会うのだろう、と当麻は思った。今日のようにどこまでも澄み晴れた、眩しい空の下で。
 その時は名前を聞こう、と当麻は決めた。
 甘い匂いのする草を踏みしめて、歩きだす身体を風が包んで過ぎていく。彼の影を吹き抜けてきた風。



 風は、夢を見る。空の夢を。
 眩しく光り輝く、空という楽園の夢を。

おしまい。