非現実の使者
芳谷美伊
窓際に面したライティング・ディスクに向かい、征士は仙台 の友人に手紙を書いていた。
開け放たれた窓からは五月の風―――薫風、というのだろうか―――が入ってくる。甘いというよりは、何か、心の底に眠 っていたものを揺り覚まされるような匂いがする。
征士はかすかに目を細め、新緑のあいだからのぞく青い空を 見上げた。
鳥の声、風の音―――青天。そこに緑がとけて流れていく。
征士は視線を書きかけの手紙へもどした。彼にしては珍しく、 面倒臭い、とふと思う。変に日常的なことがわずらわしく見え た。
この手紙を書いたら切手を貼ってポストにいれて、明日は明 日で学校に行って、塾にも行って、予習復習宿題その他を片づ けて、明日の次にはやっぱり予定のつまった明後日がある。
それが、妙に疲れた。
風が、せかすように、促すように、征士の髪を撫でた。
予定を放棄したい――――という、どうしようもない衝動に かられて、征士はペンを置き、かわりに受話器を取り上げた。
「珍しいな、征士から誘ってくれるなんて」
V2気型のエンジンをひびかせたまま、当麻はヘルメットを投げてよこした。
当麻は理由を聞かない。こいつと友達で良かった、と征士は思わずにいられなかった。
「―――たまにはいいだろう」
「俺はしょっちゅうでもいいけどな。―――乗れよ」
促されるままに、重厚な車体にまたがって、当麻の腰に腕を回す。
「どこに行く?」
「そうだな……静かなところなら、どこでも」
「了解」
重い音を立てて、バイクが発車する。身体に感じる特有の振動が、征士にはひどく心地好かった。
青梅街道を、バイクは北上した。
高いビルが消えていくと、代わりに街路樹が目につきはじめる。流れていくその木々を眺めていると、ふいに当麻の心臓の音が聞こえてきた。否、感じる、といったほうが正しいかもしれない。けれど、それは排気音にかき消されることもなく、伝わってくる。
いつからか、慣れた音だ。
決して最後の一線だけは許そうとしない征士を、当麻は何度抱き締めただろう。それを望んだわけではないと思いつつ、征士はいつのまにか、彼の鼓動を認めていた。
不思議に思うすきもないほど、近くにいる――――そう自覚したとたん、回していた腕をどうしたらいいか分からなくなって征士は困った。放すわけにはいかないが、力を込めるのには躊躇いがある。
「―――おい、ちゃんとつかまってろよ。落ちるぜ」
どれくらい行ったときか、信号に引っ掛かったとき、当麻は少し可笑しそうにそう言った。
当麻は以外と馬鹿かもしれない、と征士は思った。
当麻は征士を「好き」だというけれど、征士に強要したりはしない。「ものすごく仲のいい友達」という関係を維持しつつ、一方で飽きることなく「愛してるから」とくり返す。
矛盾した、意味のないことだと気付いてもよさそうなものなのに。
「本当に誰もいないな」
「時期外れだからな……いいだろ?」
ああ、と言う代わりに征士は頷いた。
多摩湖畔。二人はほとりの手すりに寄りかかって湖面を見下ろしていた。
水鳥が暇そうに泳いでいるが、餌付けをする人は見当たらない。彼ら以外に人影は皆無だった。
「―――何か、あったか、お前」
足元の、石畳が欠けて出来たらしい小石を湖へ投げ込みながら、当麻が聞いた。
「―――何故、そう思う、」
「変な顔してる。珍しい表情だな、と思って」
「―――……どんな顔だ」
少しむっとしたように征士は呟いたが、さして怒っているようにも見えなかったので、当麻は軽く続けた。
「まぁ、別になんだって構わないけどさ、やっぱちょっと嬉しいよな。こういう時に誘ってもらえるのって、信用されてんなって感じで」
「―――……」
「俺に出来ることなら何でもするぜ、」
「……あり難く受け取っておく」
ポーカーフェイスで応えた征士を、当麻は楽しそうに笑った。馬鹿にしているのではなく、当麻はただ単に、本当にただ単に、征士が可愛くて―――というとちょっと語弊があるが―――しかたないのだ。そこらへんがだんだん分かってきた征士には少し腹立たしい。やっぱり馬鹿な事を考えて当麻などを誘うのではなかった、と後悔する。
「ちょっと歩くか。何もないけど、気晴らしにはいいんじゃないか、」
軽く笑いかけて、当麻は征士を呼んだ。
「あぁ」
歩き出しながら、征士は、こいつと他の誰か―――例えば伸とか、仙台の友達とかと、いったいなにが違うのだろうと思った。
ただ当麻から「好きだ」と言われているからとか、そんなものではなかった。ほんの少しだけ、当麻に対する気持ちはなにか違う。けれど、それを「好き」という言葉でくくってしまうには、複雑すぎる気が征士はした。当麻に言われるたびに、征士は「違う」と思ってきた。自分の思う「好き」と当麻の思う「好き」はきっと違う。なにか、もっと違う物。
いらいらした。
どうして、こんなことに戸惑うのだろう。迷うことのないように生きてきた自分が。
征士はじっと、当麻の背を見据えていた。これを、捨てられたら、と思う。全てのしがらみを断ち切って、当麻や明日の予定や自分の権利を、捨ててしまいたい。
「―――どうした?」
はっと征士が気がつくと、いつのまにか当麻は目の前にいた。
「さっきより変な顔してるぞ、本当に」
「……別になんでもない」
「ふぅん……」
当麻は別に深く追求しようとはしなかった。そのかわり、幹にもたれてじっと征士を見つめていた。
「―――疲れた」
ふいに、そんな言葉が口をついて、征士はしまった、と思った。が、当麻は別に気付いたふうでもなく、あっさり頷いて、「帰るか、」と聞いた。
反射的に征士は首をふる。
「じゃあ、どうする、」
「……」
征士は結局無言のままだったので、当麻は少し考えて、それから一つ、征士には願ってもない提案をした。
「―――それなら、もう少し、別の場所に付き合わないか」
「―――出掛けるにはもう少し遅いのではないか」
精一杯、征士の理性と社会性が最後の反発をする。
「いいだろ、明日くらいさぼったって。お前日頃真面目だし、俺はさぼるのはいつもだからな」
俺は征士に息抜きさせてやりたい、と当麻は微笑んだ。妙にきれいな笑顔だった。
つられて頷いた征士の肩を、当麻は軽く抱いて、バイクを停めた方に向かって歩き出した。
思いきり風をきるスリルが心地好い。不良にでもなったような気分が、征士を非日常的な気持ちにさせた。
がんがん流れていく景色と車と、温かな当麻の背中には、考えるべきものがなにもなかった。思考を欠如させてしまうのは、疲れたときはとても気持ちがいいものだと征士は初めて知った。
いったいどれくらい走ったのか―――何も考えずに律動に身を任せていた征士にはよく分からなかったが、夕方の一歩手前という時間帯に、彼らは海についた。
近くのハンバーガー・ショップで空腹を満たし、二人でさして広くもきれいでもない海岸に降りると、征士は何だかひどく特別な場所に来たような気がした。
海の香のする風の気配は、今日部屋で感じた風と同じ気配。
伸びをする征士の横で、ふいに、当麻が呟いた。
「……生まれてきたんだから、名前をつけよう。おまえに、リベルテと」
「―――なんだそれは、」
「知らないか、エリュアールの『リベルテ』って詩。それのもじり」
「……」
唐突すぎて戸惑う征士に当麻は悪戯めいた笑みを見せた。
「こーゆーことすると、自由<リベルテ>って気が、するだろ」
「――――」
征士には返す言葉がなかった。黙って目を伏せると、身体を海のほうへと向ける。
「征士、お前、なんか迷ってるだろ、」
「……あぁ、たぶん」
曖昧な答え方を、わざと征士はした。
「んじゃやっぱり今しかないな」
「―――何がだ、」
「付け入る隙」
くすくすと笑いながら、当麻は征士の横にならぶ。
「征士って強いから、これ乗り越えたらもっと強くなっちゃうだろ。そうするとますます俺の入り込む隙はなくなっちまうから、今のうち。キスでもさせてもらおーか」
「……ふざけるな――――」
すっと征士の声が低くなる。が、当麻は決して臆しない。半分は冗談だから安心しな、と笑い飛ばす。
「残りの半分は素直な気持ち。お前ってとことん強くて感心もしてる」
「―――強くなんかないぞ」
征士は困ったように溜め息をついて言った。現に今、お前を裏切りそうなほど、心の中は乱れきっている、と声に出さずに続けながら。
「強い。俺が言うんだから間違いない。そうやって泣きつかないでいられんのがその証拠じゃないか」
言い切って当麻は踵を返し、腕で征士に「来い」と合図した。
ずるずると岩陰に連れ込むと、当然の権利のように抱き寄せる。「―――しばらく……じっとしてて」
甘えを装って、当麻は囁いた。それは結局、自分を甘やかしていることだと征士には感じられて、冷たい声で反発する。何が「強い」だ。こんな風に励ますくせに。
「―――いい加減、放せ」
「駄目」
はっきり言われてしまって、征士は邪険には振りほどけなくなる。仕方無く征士は当麻に凭れかかってしまわないように立ち尽くしながら、暮れていく海を見つめていた。
嬉しいのか怒っているのか、だんだん分からなくなってきた。
代わりに分かってきたのは、本当に自分が疲れているのだということ。
疲れているときに、自然と側にいることを望んだのは、誰でもなく、今ここにいる当麻だということ。捨てたい、なんて嘘だったこと。
溺れてはいけない、と征士は強く念じた。それは違うから。例え自分が求める相手が当麻だとしても、それは甘えることとイコールではない。
「……あのさあ、征士」
低く、当麻は語りかけた。
「何だ、」
「何考えてるか言えなんて言わないからさ、ちょっと、力抜けば、お前」
「……」
「疲れてるって言っただろ、さっき。人間そうなるときがなきゃ強くなれっこないんだから、疲れたときは力抜いてりゃいいんだよ。全部放り出して他人に押しつけたって誰も文句はいわない。まだ全部担ぎ込むには、絶対早い」
「だがそれは―――」
反論しかけた征士を、当麻は阻む。
「いいから。黙ってろ。まったく、お前みたいに若いうちから勁いのも、考えもんだよ。見ててこっちが痛いくらい疲れてんのに、弱音ひとつ吐かないで生きてんのなんて」
「……私はそんなふうに思ったことはない」
「―――だろうな」
「それに疲れる原因など何処にもない」
「なくても疲れるときは疲れんだよ―――ほら、座れ」
しゃべるだけしゃべると、当麻は腕を回したまま、器用に征士を座らせた。
征士には言い返したいことが沢山あった。が、多すぎて返って口に出せないかのように、声を出す気にはならなかった。
「このままここで寝よう。今日は襲わないから」
少しずつ冷えてきた大気の中で、当麻だけが温かい。征士は取り合えず考えることを諦めて、それに身を委ねた。
襲わない、と言っておきながら、当麻はそっと征士に口付ける。逆らわなければ、と思いながら、征士は雰囲気に飲まれて甘んじて受けた。
どこまで当麻は判っていて、こんなことをしているのか、征士には分からなかった。
思えば当麻は征士の一言でここまで来たようなものだ。それこそ本当になんの見返りがあるわけでもないのに―――当麻は征士の為だけに、平気な顔でどこまでも進む。
分からない、と思う衝動のまま、征士は自然に尋ねていた。
「どうして好きだとかそういうことが言えるのだ、お前は」
「何だ、急に」
「こうやって、こんな所まで来て―――」
何も考えずにそう言って、征士は急に言葉につまる。
「いいんだよ。これは俺がしたかっただけ」
当麻に答えられて、初めて自分が当麻に済まないと思っているのを征士は自覚した。
「済まない……やっぱり私は疲れているようだ」
「うん、いい。どうせ俺は征士が好きだから」
ゆるやかに、当麻は征士の髪を梳いた。そしてそのまま、上向かせ―――唇に唇を重ねる。
ゆっくりとしたその動きに、征士の脳裏を一瞬懐かしさに似た感慨が駆け抜ける。柔らかな感覚は思考まで柔らかくし―――征士は当麻に変化を悟らせないようにしながらも力を抜いた。
閉じた瞼の裏に、波がちらつく。そういえば自分は予定のない明日が欲しかったのだ、と征士は思い出す。あんまりあっさり当麻が持ってきたから、今まですっかり忘れていた。
征士は眠いような気がしてきた。感覚は冴えているのに、目のあたりが熱くて重い。懐かしいという感覚と眠い、という感覚が混ざり合って、気持ち良かった。
当麻が決して約束を破らずにただ髪を梳いているだけなのをちゃんと感じとりながら、征士は久しぶりの、穏やかな睡りに、入り込んでいった。
夢の中―――そこはどこまでも白く、音がなかった――――、征士は当麻の後ろ姿を見つけて追いかける自分自身を見ていた。
主観と客観が入り交じった、夢独特の感覚。征士は走っているのと同時にその光景を上から眺めていた。それはとても懐かしくて、制限の何もない、つまりはとても心地好い場所だった。
全力で走っていって、追いついた当麻の肩を叩くと、彼は振り向く。そしてあの顔で笑いながら、征士を抱き寄せ、愛しそうに口付けた。
何か、当麻が言っている。聞き取れなかったが、判った。何を言ったのかは分からないが、それとは別に、判った、と思えた。言葉ではなく、もっと、気持ちに近い物が。
ああ、判った、と、妙にすっきりしたところで、夢は途切れた。
「―――おはよ。目、覚めたか、」
何時ごろだろう、もう夜は明けていて、征士が目を覚ますと、当然のような顔をして当麻は起きて征士を見つめていた。
「……あぁ」
答えて、征士は夢の印象を引きずった身体を起こそうとして、自分が当麻に凭れていたことに気付く。
「済まん。重かった……だろう、」
「いや、別に。これも役得かなーとか思ってたから」
嬉しそうに当麻はそう言った。
二人とも何となく小声で、気がつくと辺りはとても静かだった。誰もいない。非現実。
征士は、昨日なぜ当麻が急に「自由」などと言い出したのか分かった気がした。
たしかに「自由」だ。何もない。とても気分がいい。
当麻が征士の肩を抱き寄せて、首筋にキスをする。過るあの懐かしいという感覚を、征士は逆らわずに感じていた。
なんの障害もなく、当麻が受け入れられる。当麻の口癖のような「好き」に、応えられる。ここには何もないから。
戻ればまた元のような生活が待っている、と征士は思った。今はまだ、非日常の中でしか応える術を知らない征士にはそれが重い。
「……さーてと。帰るか。それからもう一回寝て、午後になったら気分もよくなるだろ」
言いながら、当麻は征士ごと立ち上がる。
「当麻、放せ」
帰りたくないのが手伝って、征士の声が鋭くなる。当麻は無頓着だ。
「いいじゃん、別に。―――征士の家に行くからさ、泊めてくれよ。俺、やっぱ眠いし、もうちょっと征士と一緒にいたいし」
嫌だ、と言おうとして、征士は当麻を見上げ、そこに馬鹿な子犬みたいに素直な瞳の当麻を見つけて言葉を失う。絶対に征士が断るはずがないと信じきっている真っ直ぐさがすごい。
何なんだ、と思っているあいだに、当麻は沈黙を了解と勝手に解釈して、征士の頭にヘルメットをかぶせた。
ヘルメットの中は、微かに潮の香りが閉じ込められていた。当麻がわざとそうしたのだ、と征士はなぜか思った。
適わない。きっと、これが当麻が征士を愛するエネルギーなのだ。全部ひっくるめてひっぱっていってしまう強さ。
相手のたった一言に全てをかけて、ここまでやれる心境が分からない。
だめだ、と思った途端、征士は思い出した。
あの夢の中、分かったものは何だった? ―――今に、とても似ている感じ。
追い掛けた、征士。当麻は後ろ姿で、でも確かに止まっていた。
予定とか、自由とか、愛とか、懐かしいとかいう言葉が、征士の中でふいに繋がる。
あの意味は、と思った瞬間、当麻の声が身体中に響いた。
「―――んじゃ、出発。ちゃんとつかまってろよ!」E N D