諄 愛

芳谷美伊


放課後の教室。誰もいない教室に、伊達征士は独り、残っていた。


「伊達くーん」
 何を見るともなく、窓の外を眺めていた征士の背に、クラスメイトの香枝まみは声をかけた。
 ふり向く、端正な面差し。逆光ですら、そうと分かるほどの、きれあがった眼差し。
 いつのころからか、まみは彼の強い視線に脅えることはなくなった。ほんの時たま見せる、相手を思いやるようなやさしい睛が、きついはずの視線の意味を変えたのだ。
 睛のきれいな人間は、貴重な――いい人間だとまみは思う。
「先生が呼んでたわ。進路係だったよね、伊達くんて、」
「ああ、そうだ。すまんな、わざわざ。」
 征士は礼を言って、まみの脇をすりぬける。
「伊達くん、」
 ドアをくぐろうとした征士を、まみは反射的に呼びとめた。征士はふり返った。
「……ごめん、なんでもないわ。――頑張ってね」
 繕うように笑みを浮かべて手を振ると、征士は軽く頷いて、そのまま廊下へと消えた。
 規則正しい足音が、遠ざかって失せる。
 まみはつめていた息をはきだして、セミロングの髪をかきあげた。
「あとしばらくで、あの睛ともお別れ、なのよね……」



 三島友恵は、暑い日差しを避けて、遅い香枝まみを待っていた。
 いつもの二人の待ち合わせ場所である、大銀杏の木の下。もうどのくらいたったのだろうか。まみの帰りが遅いのは、いつものことではあったけれど。
 待ちくたびれた友恵の耳に、ききなれないバイクの音がした。吸い寄せられるように目を向けた校門には、大きめのバイクが、丁度つけられたところだった。
 乗っているのは、見覚えのない他校生。ガクランを着崩した、長身の――一言でいうなら、「かっこいい」人。
 彼は友恵に気付かずに、足早に昇降口に消えた。
 誰かの友達かな、と思って、友恵はそれ以上の追求をあきらめる。
 それより、はやくまみがおりてきてくれるといい。
 残り少ないまみとの時間を、友恵はどうしても大事に過ごしたいのだから。



「友恵……待ってるかな」
 腕時計に目をやりながら、まみは足早に階段を降りる。もうだいぶ待たせている。いいかげんあの子も飽きているだろう、と思うと悪い気がする。
「あ、ちょっと、」
 ふと、下から呼び止められて、まみはしかたなしに足をとめた。
 見上げているのは、背の高い――――窓からの陽光に髪が蒼く透ける、みかけない男子生徒。
 彼は微かに笑いながら聞いた。
「3年A組って、どこか、教えてもらえる、」
 3年A組、といえばまみのクラスだ。けれど、相手は違う制服を着た――他校生なのに、何の用だというのだろう。
 まみは少し警戒する。
「――何か、御用ですか?」
「うん、友達を待たせてるんだ。知ってるかな、伊達征士、なんだが」
「お友達? 伊達……くんの、」
「そう」
 まみは目をみはる。伊達征士の友達にしては、意外なタイプに見えるけれど。
「で、3年A組は、どこ?」
「三階の――左の一番奥です。でも今、彼、いませんよ。職員室行ってますから」
「あんた、もしかしてアイツのクラスメイト?」
「ええ。香枝です」
「ふーん。俺は、羽柴。わざわざサンキュ」
 ひら、と手をふって、羽柴と名乗る男は階上へと消える。
 なんとなくいいものを見た気がして、まみは華やかな気分で階段をおりた。
 ――友恵にも、この話をしてあげよう。男の趣味だけは、二人とも似ているから。


 軋むドアをよこに滑らすと、当然のように教壇に腰掛けた長身の影が、征士を待ち受けていた。
「おかえり」
「教卓に座るな、馬鹿者」
「はいはい」
 とん、と当麻が脚を下ろすのを横目で見つつ、征士は自分の席に歩み寄って鞄を取った。 当麻が素直に謝罪する。
「遅れて悪かった。出がけにちょっとてまどってさ」
「……別にかまわん」
 おまえが時間にルーズなのはいつものことだしな、と付け加えて、征士は教室を先に立って出る。当麻はドアを閉めてから、おいついてゆっくりと肩を並べた。
 ……ちかごろは、こうして土日を一緒に過ごすことが多い。すること、といえば、他愛もない話と、受験生らしく勉強と、一緒に飯をつくって食べることぐらいしかないのだけれど、独り暮らしだと無口になりがちな分、当麻にとっても征士にとっても、二人ですごす二日間はいい気晴らしになる。
 今日は、「学校まで迎えにいくから」という当麻の主張をのんで、土曜だというのにこんな時間まで、征士は学校に残っていたのだった。
「途中で、どっかスーパーにでも寄ろう。晩飯の材料買っていくだろ、」
 当麻が当たり前のように云うのに、征士は笑ってうなずいた。




「そういえばさ」
 テレビの中で、はずかしげもなく主人公たちがキスを繰り返すのを、直視できずに目をそらした征士に、当麻は言う。
「今日、学校の階段のところでおまえのクラスメイトに会ったぜ」
「――香枝か、」
「そう。よく分かったな」
「私のクラスであの時間残っていたのは、たぶん香枝と私だけだぞ」
 わずかに皮肉をこめて征士は云ったが、当麻はまったく気にもしない。
「きれーな子だったよな。セミロングで、きれいな髪で、ちょっときつめの、いい目をしてた」
 おまえほどじゃないけど、などと当麻は笑う。馬鹿者、と征士は懐いてくる頭を突き放した。
「征士」
「何だ、」
「今晩一緒に寝よう」
「――いきなり唐突になんだ、」
「ちゃんと話はつながってるぞ。「おまえほどじゃない」から」
「……どこをどう考えたらつながるというのだ」
「天才には天才の思考回路があるんだ」
「だからどんなだ」
 疑わしげな征士の問いに、当麻は厳かに答える。
「我慢大会」
「――何だと、」
「いや、愛しい人と添い寝して、どこまで耐えられるかな、と」
「却下だな」
 冷たく征士は言い捨てたが、当麻はあきらめずにすがりついた。
「いいだろ。俺とおまえの仲なんだから」
「……どんな仲だ」
 すっ、と、征士の声のトーンが下がる。当麻はやばいかな、と思いつつも、当初の予定どおりの行動をとる。
 かすめとる、くちづけ。
 征士がおもいきり当麻を突き放すのと、当麻が自分から唇を離すのと、どっちが先だったか。
 征士はきつい一瞥をくれて、何も云わずに、音だけはあらあらしく部屋を出ていった。
たぶんバスルームにでも行くのだろう。
 予想していたとはいえ、やはり傷つく征士の態度に、当麻はテレビにあたってみた。
「お前らが悪いんだ。所かまわずイチャついてやがるから」
 テレビでは、あいかわらず主人公たちが絡み合ったままだった。



 シャープペンシルを握る、ストイックな指先。伏せた睛。真面目な表情。
 キスさせて、といったら、怒るであろう伊達征士の、只今の姿である。
 自称「お利口」な当麻は、それらをじっと見据えながらも、一応理性を保とうと努力はする。
 当麻が好きなのは、別に征士の喘ぐ姿でも泣き顔でもない。きつい視線とか、きつい口調とか、笑ったときの顔――それもどちらかといえば皮肉げな笑いのとき――なんかが、一番好きだ、と思う。
 けれど、「好きだ」と思うなら、抱きしめたいのも世の常というもので。
 どうせなら、征士からしてくれればいい、と当麻は思う。征士からキスして、手を差し出してくれるほど、好きになってくれたら――――。
「征士」
 名前を、呼んでみる。
 あげられた、いつものように整った顔立ちが、無言で用件を問う。当麻はしばしためらって、それから聞いた。
「おまえさ、キスしたことある、」
「……おまえがするだろう」
「そうじゃなくて、自分から」
 ふ、と征士は黙り込む。あわせていた視線を彷徨わせて、答えを選ぶような表情をする。
「――……ない」
「本当か?」
 かさねて問いかける当麻に、征士は頷いてみせた。なんとなくそれが、ぎこちない気がしたのは、気のせいだろうか。
 当麻はとりあえず、征士の答えを利用して甘えてみる。
「じゃあ、して」
「――は?」
「キス。したことないんだろ。俺が初体験をプレゼントしてやる」
「……いらん」
「んじゃ俺がしてやる」
「どっちも願い下げだな」
 にべもなく云う征士に、当麻は手を伸ばした。頬に指先が触れるか触れないか、というところで、払いのけられる。
 ちらりと怒りを睛の端にひらめかせ、当麻は征士を力任せに押し倒す。
 ソファへと組敷かれた征士は、それでも決して臆することはなかった。静かな眼差しが、当麻を捉える。
「私が嫌がることは、しないんじゃなかったのか、」
「俺だってわがまま云いたくなる時もある」
 同じような口調で、当麻は切り返した。
 訝しげに、征士の眉がひそめられた。
「当麻?」
 征士の声に、当麻ははっと我にかえった。
 しまった。焦ってしまった。こともあろうに、征士が慣れてきた時に。
 当麻は押さえつけていた手を離して、自分の両眼を覆った。
「――悪い、征士」
 かすれた声だった。征士は黙って躰をおこし、うつむいた当麻をみつめた。
「私のことなら気にするな」
 声をかけても、反応はない。征士は躊躇いがちに当麻の肩に手を回し、なだめるように軽くたたいた。
 征士に出来ることといえばこの程度がせいぜいだ。自分の方こそあやまるべきだったとか、キスぐらいいつでもしてやるとか、云えるはずのない言葉ばかりが浮かんできて、けっきょく何もいえないまま、征士はしばらくそうやってじっとしていた。




 どことなくぎこちないまま、当麻は自分の家に帰っていった。
 征士とて、きがかりでないわけではなかったのだが、夏休みを目前にした学校生活は浮足立って慌ただしく、日々は驚くほど速く過ぎた。
 征士は引退の近い部活動に入れこむ毎日だ。
 当然、帰りは遅い。
 今日も、いい加減西日の暑さとセミの声が耐えがたくなるような時間に、征士は道場から上がった。
 汗だくの顔や手を洗い流すために、タオルを取ってこようと、征士は教室へ向かう。
 薄暗いわりには蒸し暑い階段と廊下をぬけ、3年A組のドアを開けようとして、征士はその手をとめた。
 教室の中に、人の気配がする。もれてくる、ひそめた笑い声に、征士はドアを開けるのを躊躇った。
「……全然、知らなかった」
 聞こえてくるのは、香枝まみの声と、もう一人――――。
「でも、まみだってあるでしょ、」
 三島友恵だ。こんな遅くまで、二人で残っているのは珍しい。仲がよかっただろうか、と征士は思う。もっとも、よく知らないからなんともいえないのだが。
「残念。ないのよ」
「嘘」
「本当よ。これは本当」
 くすくす、と笑う、秘めやかな声。
 なんとなく教室にはいりづらくて、征士はタオルを後回しにして、そっと離れようとした。その、矢先。
「どうせなら、伊達君としたかったな、わたし」
 突然出てきた自分の名に驚いて、征士は教室をふり返った。
「伊達君?」
「そう。睛がね、好きなのよ」
 あっさりとまみの声は答えたが、聞き流しにくいその台詞に、征士は反応しようがなくて立ち尽くす。同時に、征士は会話の内容を把握した。
 いわゆる、恋愛経験のうち明け話。
「じゃ、行くまえにする?」
「しないわ――――何か、違う気がするから」
「違うって、何が?」
「……いろいろよ」
 ふと、征士は意外に思う。香枝も三島も、この手の話はしそうにないのに。それに――――「行く前」?
 何かが変だ、と気付いた征士に、追い打ちをかけるように、三島友恵の声がした。
「……もし、あたしとキスしても、やっぱり「違う」って思う?」
「――え、」
 衝撃が、征士を襲う。またたくまに、彼女たちに自分たちがオーバーラップしていく。
「嫌だと思う?」
 重ねて問う友恵の声に、征士は焦った。
 ――立ち去らなければ、と征士は思う。プライベートだ。あまりにも。けれど。
 香枝まみは、どう答えるだろう。
 関心が、征士の足を引きとめる。だめだ、と思いながら、征士は立ち去ることが出来ない。
「――……いいよ」
 重くうるさい沈黙をやぶったまみの台詞は、妙に落ち着いて穏やかだった。
 征士は睛を見張る。
「――まみ、」
「わたしからはしてあげられないけど。でも、友恵のこと嫌いじゃないから。……そうね、好きだから。だから、いいよ」
 がたん、と机が動く音がした。
「本当に?」
「だから、いいってば」
 椅子の動く音、軋む音。
 征士は耳を塞いだ。
 人の動く気配。静寂。
 征士はようやく身をかえした。足音を立てないように、それでも出来るかぎりはやく、立ち去ろうと急ぐ。
 黄昏の光のなかで、キスを交わす二人が見える気がする。
 征士は流しに辿り着きざま、頭から水をかぶった。
 ――なぜ、ああもあっさりと、唇を許せたりするのか。なぜ、普通ならふれさせない場所に触れさせてもかまわないほど、気を許せるのか。
 それは、あるいは「女」だからなのかも知れない。
 けれど、征士は考えずにはいられなかった。
 素直さは決して自分が――自分たちが持つことの出来ない、勁い武器なのだと。


 午後八時過ぎ、征士は自分の部屋のドアの前に、あまり会いたくなかった人影をみとめて、眉をしかめた。
 当麻の方が気がついて、立ち止まった征士に声をかける。
「遅かったな」
「……部活だったのだ」
 征士は目をふせて歩み寄り、鍵をあけた。
 ひらかれたドアの中にはいったものの、当麻はそれ以上あがり込もうとはしなかった。
「あがらないのか、」
「ここでいい。CD返しに来ただけだから」
「だが……」
「いいんだ」
 やや強引に、当麻は持っていた袋を押しつけて、そのまま玄関を出ようとした。
 征士はその腕をとらえる。
「制服じゃないのか、」
「――――」
「登校してないのだな」
 まったく……と征士は呟く。当麻は無言で、征士の手をやんわりとふりほどいた。
「明日は行くよ」
「あたりまえだ」
 即座に返ってくる、憮然とした征士の応えに、当麻は少し笑った。
「好きだよ、征士。――おやすみ」
 するりと、当麻はドアをすり抜けて出ていった。いなくなった後ろ姿を、征士はじっと追う。
 もう少し素直に生まれてきたら、どんなによかったか。どんなに楽に愛することを共有できたか。
 気持ちを口に出せないことよりも、あやふやなまますれ違うことのほうが、僅かだが辛い――と、征士はきつく唇をかんだ。




 明日は学校に行こう、と当麻は思う。征士に云われたから。
 しばらく征士の声も聞かない距離に身を置いて、結局判るのは、やっぱり好きだということ。
 悪くない関係だと思うものの、手応えのないあいまいな状態は、想いを維持するには疲れすぎる。
 せめてもう少しだけ、深く交わるようになれたら、かけひきだらけでも辛くはないだろうに。
 あと少しでよかった。あと少し、関係の重みの質が変わるなら、それでしばらくはやっていけるのだから。
 キスだけでかまわない。飽きるくらいたくさんキスを交わせたら、それはそれだけで充分なほど、意味を持つ。
 当麻は征士とキスしたかった。こんなにも傍にいるのだということや、大切だということを、出来るかぎり丁寧に伝えたかった。
 はやく、と当麻は願う。はやく、キスに躊躇わなくなる日が来ますように。
 すれ違いすぎて、疲れきってしまわないうちに。




 香枝まみがイギリスに渡ったと聞かされたのは、終業式のホームルームの時だった。既に空いた彼女の席が、急に遠ざかって見えた。
 突然のことでざわついたクラスの中で、一番動揺をしめしたのは三島友恵だった。
 無理もないと、征士は友人になぐさめられながらぽろぽろと泣く彼女を見ながら思う。
 彼女たちが交わしていた会話からして、行くことは知っていたのだろうが、こんなにはやくだとは思わなかったにちがいない。
 わざと出発の日を告げなかったのだろうまみの気持ちも、恨んでいるだろう友恵の気持ちも判る気がして、征士はため息をついた。
 おだやかな気持ちでばかりいられないのが、「日常」というものなのだ。




 正真正銘これで最後の部活を終えて、征士は寂しいけれどすっきりした気分で教室に戻った。
 相変わらずきしむドアの音に、びくりと窓際の影がふり返り、征士も一瞬身体を強張らせた。
「……三島、」
 彼女は泣いていた。赤くはれあがったまぶたが、長い時間泣いていたことを表していて、痛々しかった。
 そんな顔で、彼女は無理に笑う。
「なんでもないの……ごめんね」
 くしゃくしゃになったハンカチを握りしめて、うつむいた肩を震わせて、友恵は出ていこうとする。
 征士は呼び止めた。
「三島」
「……な、に?」
「……そんなに、香枝が好きなのか、」
 立ち止まった彼女は、後ろ向きのまま、さらに顔をうつむけながら、小さな声で応えた。
「好きよ。云っておくけど、レズじゃないわ、あたし。でも好き。好きなの」
 幾度も「好き」と繰り返してから、友恵はぽつんと付け加えた。
「もっと――側にいる時、もっと大切にすればよかった。……今更、だけど」
 そして彼女は、小走りに去っていった。
 征士は黙って睛を伏せた。このあとも彼女はたくさん泣くのだろう。後悔と悔しさとかなしさとせつなさと怒りと……抑えられない感情総てのために。
 けれど少なくとも、彼女は自分の思いに素直ではある。
 征士は苛立って舌打ちした。呼び起こされた、きちんとした思考になる寸前の断片が入り乱れて、収拾がつかない。
 モット、大切ニスレバヨカッタ。
 友恵の言葉がリピートする。
 だから? と征士は云いかえす。だから今はどうすればいいのか。
 そんなことは分かりきっている。
 会いに行って、笑いかけてやればいい。大切だという事を、見せつければいいだけの話なのだ。
 思いきりよく、長い前髪をかきあげて、征士は決めた。
 素直にはなれなくても、正直にはなれるから。
 当麻に、会いに行こう。




 当麻は大切だが当麻だけが大切なのではない。
 大切にするということが難しいのは、何を大切にするかが難しいからなのだ。
 当麻だけが特別じゃない。それは当麻にとっての自分も同じ事だと征士は思う。
 それでいてなおかつ、相手を大切にしたいと思うことが、そもそも「愛情」のうまれる原因なのだ。
 それが、歩くには遠すぎる、当麻のマンションまでの道のりを歩きながら、ずっと考え続けた征士の出した結論だった。
 馬鹿げてる、とも思う。
しかしそれは、裏を返せば素直であり、純粋でさえあるのだ。




 呼び鈴を押すと、不機嫌そうな声がそっけなく応えてきた。征士は苦笑する。
「私だ」
「――征士?」
 台詞とともに、ドアが開く。びっくりした表情で、当麻は征士を迎え入れた。
「……珍しいな」
「邪魔したか?」
「いや、そんなことないけど。……そうか、おまえ、今日が終業式だったんだな」
 制服姿の征士に、そんな納得をしたりする。
「何か、急な用でも、あるのか? 学校帰りに、わざわざ」
「そういうわけではない」
 慎重な答えを返し、征士は鞄を部屋の隅に置く。当麻は目を細めてその動作を追った。
「……まぁ、座れよ。コーヒーいれるから。――飯、食ってくんだろ?」
 カマをかけるような当麻の聞き方に、征士は一瞬躊躇って、頷いた。
 OK、と立っていく当麻の背を見送って、征士は低いソファに腰掛けた。
 相変わらずの、雑然とした室内。家具よりも機材が目につく、高校生らしからぬ部屋。
開いたままのコンピュータの画面には、ゆっくりと色を変えながら明滅するCGが映し出されている。
 征士はそれを見るとはなしに眺めた。
「きれいだろ、それ」
 ふいに、後ろから当麻の声がした。
「……ああ」
 征士はふり向いて、当麻からマグカップを受け取った。
「眠りを促す作用があるんだぜ、これ」
「眠り、」
「そう。心理学的に集計されたデータに基づいて、色、時間、明度の移り変わりのリズムを作って、CGにしてあるんだ」
 本当に効果があるかは分からないけどな、と当麻は付け加える。
「できたばっかりで実験もしてないからな。どうせ暇つぶしだし」
 当麻がキィをはじいて、クローズにするのを、征士は黙って見つめていた。
 視線を征士にむけないまま、当麻は椅子に座った。何も考えてはいなさそうな、何気ない顔。
 征士は静かにきりだした。
「……香枝が、な」
「――――階段で、会った子か、」
「そう、香枝が、イギリスに渡ったんだ。前から決まっていたらしいんだが、友達にも知らせてなかったらしい」
「……ふうん。それで、」
 興味がなさそうな返答を、当麻はした。
「それで、香枝の――香枝が好きだった三島友恵が、泣いていたんだ」
「――なんだって?」
 当麻は征士をふり返り、ゆっくりと聞き直した。征士はくり返してやる。
「香枝のことを好きだった三島友恵という子が、泣いていたんだ」
「それは、つまり……いわゆる、レズってやつか?」
「本人曰く、レズではないそうだが」
「ふぅん……」
 当麻は考え込むような目付きをした。来た理由を悟られるな、と思いつつ、征士はそれを甘受しようとする。
「――で、来たのか」
 予想どおり投げかけられた言葉は、質問ではなく確認だった。征士は何も云わず、頷きさえしなかった。
「じゃあ、今日は泊まりだな」
 一方的に決めつけて、当麻は椅子から立ち上がった。それから続けて何か云おうとして……言葉をみつけられずに口を閉じる。
 そのまま、当麻は征士に歩み寄った。
 至近距離で見つめあう、無言の探りあい。
 おたがいに強気な睛だった。まるで、探られて痛いものなど、持ってはいない、とばかりに。
 そして、決められていたかのように、ごく当たり前に、征士は当麻にキスした。
 探るように、当麻の舌が唇に触れては離れていく。
 腕が、お互いの躰を支えるために、さしのべられる。
 決して焦らずに、あくまでもゆっくりと、キスは続けられた。息が上がることもない。
 するり、と滑り込んできた舌が、歯列を辿る。誘うように、上顎をつつく。気まぐれに動く相手にあわせて、浅く、深く、なぞり上げる。
 舌が好きに動き回るままにさせながら、征士は、香枝と三島はどんな気持ちでキスを交わしたのだろう、と思う。そうして、いつか見たテレビの主人公たちは。
 キスしたぐらいで相手の心が判ったりしない。判るのは、相手がこんなにも近くにいるということ。その程度でしかない。
 す、と唐突に舌が抜かれて、当麻の唇が耳元へと移動した。言葉はなく、吐息と唇と歯が、耳をくすぐる。
 丁寧なくちづけ。
 征士には当麻の鼓動が聞こえない。当麻には征士の鼓動が聞こえない。それでもキスで紡がれる感情が、ないわけではない。
 震える吐息を聞きながら、震える吐息を飲み込んだとき、キスをねだった当麻の気持ちが分かったような気が、征士はした。



 だから、恋人たちは唇をあわせる。丁寧に、飽きることなく、相手を純粋に感じとりながら。

おしまい。