君が傍(そば)に生まれて

 

芳谷美伊


 それは終焉をむかえようとしていた。
 目覚めが近いのだ。
 とりまくようにしていた緑の、生々しい手ざわりが遠ざかる。もう手を伸ばしても、その先にはなにも触れない。
 夢だ、と当麻は自覚する。それが何時の出来事なのか、当麻自身にもわからない。過去か未来か、近くはない時代の、残された記憶か予知かが描く情景は、浸りきっていたときにはあまりにも鮮明だった細部のひとつひとつを、目覚めにしたがって霞ませていく。ただ、いいようのない、幸福ともいたみともつかぬ当麻の心情だけを、現在の自分にも刻み残して。
 白く灼けきれるほど眩しい空に、黒く影を描く豊かとはいえない草木たち。それでも、陰にもぐりこめば世界は緑に彩られる。かすかに流れ込む風に髪をそよがせ、親しい人間と間近にやすみながら、どうしてか心が和まない。何か欠けている。
 どうしようもなく不安だ。
 なぜ不安なのか、なぜそこにいるのか、もう思い出せない。じっとりと湧き出す焦燥感にさいなまれて、当麻は寝返りをうった。
 こうしていてはいけない。このままではいけない。よくない事が起きる前に、なんとか道を見つけなければ――最悪の事態を引き起こさないように。どんな時であっても、わずかな可能性でもあきらめないように。
 でも、どうしたら。
 もはや現在の当麻には無縁の焦燥感に、もう一度当麻は身動きする。護るように身を縮め、まるまった時――。


 ビシ、と音をたてて世界がきしんだ。
 衝撃でとっさに目を開けても、当麻は一瞬夢と現実の区別がつかず、目にうつる世界を認識しそこねた。
「さすがに目がさめるらしいな」
 ぱんぱん、と担ぐようにしていた竹刀で自分の肩を叩きながら、征士が立っている。
 じん、と今頃になって痛みが当麻の頭を襲う。
「――もしかして、それで殴ったとか?」
「声をかけてもゆすっても起きないお前が悪い。起きないうえに往生際わるく布団にもぐりこもうとするから仕方なかったのだ」
「なんで竹刀なんか持ってんだよ!」
「素振りのあと走ってここまで来たのでな」
 征士は悪びれない。当然のようにそう言いながら、カーテンを開ける。
「見ろ、いい天気だ」
「……それはそれは」
結構なことで、と呟いて、当麻は痛む頭を抱えて起き上がった。
「礼儀正しい奴のすることじゃないよなー……どこが『礼』なんだよ、ったく……」
 上体を起こしたものの、立ち上がる気になれずずるずると布団に顔を伏せた当麻を、征士は冷ややかに見つめる。
「私は一昨日からお前と連絡をとろうとしたんだぞ」
「……」
 まずい、とちょっとだけ当麻は思う。
「研究室に電話をかければいないと言うし、ここは留守電だし、携帯の電源は切れたままだし……こっちはこっちで手は離せないしで、それはそれは大変だったのだが」
「……悪かったって」
「仕方ないから貴重な休日を潰して様子を見に来てみれば、貴様は寝ていて起こしても起きんときた」
「悪かったっ」
 謝ったもの勝ち、と当麻は叫ぶ。頼まれ事があまりにも簡単に終わったので、これ幸いと放りだして自分の研究に熱中したあげくすっかり忘れていたのは確かに不誠実といえば不誠実だから仕方ない。
「結果は出てるんだろうな」
「出てる。机の一番下の引き出しに封筒に入れてあるのが結果だから。持っていっていいぞ。俺はシャワー浴びてくる」
 逃げるようにして当麻はベッドから降り立った。じろりともう一度冷たい目を向けて、征士はそれでも黙って机の引き出しを開ける。目的のラベルのついた茶封筒を取り出すのを確認して、当麻は彼に背を向けた。
 熱心なことだ、と思う。休日が貴重だというなら、おとなしく休んでいればいいのだ。いくら当麻だって永遠に連絡がつかないわけではないし、そもそも「当麻」という非合法の手段なんて使わなくても、今追いかけている件が済んでからそっちに取りかかれば、ちゃんと公的機関――お役所の薬物研究部が、検査してくれる。誰に咎められることもなく。
 俺はごめんだな、とつぶやいて、当麻は、頭から湯を浴びる。当麻は今送っている、他称「自堕落」な生活はとても気にいっている。どこかの亜麻色の髪をした昔なじみから「平和ぼけってこのことだよねぇぇ……もともとぼけてんのにさぁ……」と言われようと、金髪の彼に「それが起きないことの言い訳になるか」と言われようと、当麻がそう望んだからいいのだ。例えば当麻が大学を出てからも細菌の研究を続けているのはそれが面白いからに他ならない。けれどなぜ征士が麻薬捜査官などという公務員(厚生省の管轄なのでれっきとした公務員だ)になったかといえば、別に心から麻薬が取り締まりたかったわけではないように当麻には見える。
 警察官になりたいと思ったことがある、と聞いたことはある。随分昔、まだ高校生のころと、すこしまえ、一緒に酒を飲んだ時だ。高校の時は「なっても勤めを果たせないことがあるから」あきらめると言い、この間は「どっちを選んでも同じだったかもしれない」と言った。当麻にはわからなかったが、あえてどういうことかと問いただすことはしなかった。
 消極的な理由で選択していないならいい、と当麻は思う。愚痴めいたことや後悔を口にせずにはいられない時は誰にでもある。すべて順風満帆で事がすすむなんてことはないのだから。なんだかんだ言っても、捜査でチームを組んでいる先輩とやらはうまくいっているようだし、彼らが一チームは同時に二つ以上の件を追いかけない、というルールを破って熱心に仕事するおかげで、会える回数が多くなっていることを考えれば、当麻にとって不都合なことは何もないのだ。
 トルーパーなどというほとんどおふざけか冗談みたいな任務を二度も果して、いろんな時を経て、今はただのんびりと人並みの生活を送れることは幸福だ。だからやりたいようにやればいい。当麻がそうであるように、征士も、遼も秀も伸も。征士が自分で選ぶなら、当麻に否はない。
 征士が幸福なら。
「――俺ってけなげだよな……」
 ふいに沸き上がった、痛いとも苦いともつかぬ感情を押し殺すために、当麻は熱帯のように暖かな湯気の中でしみじみとつぶやいてみる。
 多いとはいえない、肌を重ねた夜の記憶は、当麻の中でいまだ色あせていない。それは征士も一緒だと見ていてわかるほどなのに、あえて二人ともそうと口に出さない。世を憚ってただの友人を演じるわけでなく、自然に、暗黙の了解として情交をはさまない関係を保とうと、お互いが努めている。
 いちばん幸福になれる道がほしいのだ、と言ったら、自分を知る人々は笑うだろうか、と当麻は苦笑する。だけどもう当麻は失えないのだ。
 苦い苦い夢。目覚めてなお、残される痛みと苦しみと後悔。大切なものを失うことがつらくない人間などいない。いつの世もぎりぎりの選択を迫られて、駒として捨ててきた仲間や見捨てざるを得なかった人々への苦い思いは、いくら時を経ても消えないのだ。だから夢みた朝は気が重い。奇蹟的に今生は仲間の誰をも失わず、あまやかな平和を満喫しながら、手放しで幸福だと誰もが笑えないことが痛い。それは殊勝な考え方ではなくて、単なるエゴであることは分かっている。当麻はただもう嫌な思いをしたくないだけなのだ。次の世で、また暗澹たる夢ばかり見させられてはたまらない。だから今だけは、今世だけは、どうしても一番幸福なままでいたい。大切な人間と離れることなく、自分も周りも幸せで、余計なことに神経を使わないでだらだらと暮らしていけるのがいい。
 そんな簡単なことが、ひどく難しい。せめてせめて、と選ぶ事が少しずつ、傷を残していってしまう。そう、――せめて、といつも思うのに。
 似合わない、と自分でさえ思う長い溜め息をついて、当麻はようよう、シャンプーに手をのばした。


 当麻が濡れた髪を拭きながら部屋に戻ると、征士はまだ机の前で紙に目をおとしていた。普段は落ち着いた色をしている金髪が、さしこむ光で輝いて見える。金色に縁取られた姿は異論なく美しかった。
「……熱心だな」
「性分なものでな。いつまでだって寝ていられる貴様とは違うのだ」
「――今朝のは夢を見てたからしかたないんだよ」
 征士はあきれた顔で当麻を見た。
「それがどうした。夢なんて私でも見るぞ」
「嫌な夢だったんだよ」
「嫌な夢だったらさっさと起きたほうがいいだろう」
「そうなんだが――」
 言いよどんで当麻は征士の髪に手を伸ばす。
「引っ張るな、馬鹿者」
「やっぱりたぶん、おまえだと思うんだがな」
「――話をとばすな」
「夢でさ」
 やわらかな毛をもてあそんで、当麻は確かめるように言う。
「隣にいるの、お前だと思うんだが、それだと本当は幸せなはずだろう? 誰が死ぬってんでもないし。でも嫌ーな夢なんだ。納得がいかないだろ?」
「……だから?」
「だから、なんで嫌なのか確かめたいと思うのは自然な感情の動きなわけだ。それであえて、穏やかな目覚めを拒んでだな、真理を追い求めて夢の続きを見ようと努力してたわけだ」
「……無意味で無駄な、苦しい言い訳だと自分で思わんか?」
 わずかも心動かされた様子を見せず、征士は自然な仕種で当麻の手を逃れた。
「そういう馬鹿なところがなければもっと信用度も高いだろうに……」
 征士はそう言って手にしていた文書を封筒に戻す。征士が密かに入手したアルコールに含まれていた麻薬の主なものはLSD、それに近頃増えてきた通称「アキ」と呼ばれる合成薬だ。きっちりした成分表に加えて、「アキ」の原料となる植物の原産地から割り出したらしい密輸している可能性のあるルートの予想まで、確率つきで記してある。
「有能で、手間が省けただろう」
 偉そうに、当麻は胸を張ってみせる。征士は冷たい笑みをひらめかせた。
「検査結果が出てもすぐに連絡せずに忘れ去っているような奴を有能だなどといっては、本当に有能な人間に申し訳なかろう」
「……」
「ほめるとつけあがってますます手に負えなくなる人間を褒めてやるほど、私も馬鹿ではないんだぞ」
 なぜだか嬉しそうな声で征士は言って、机に立て掛けてあった竹刀を取り上げる。脱力して脇を向いていた当麻は、見咎めて征士の肩に手をかけた。
「おい、帰るのか」
 一瞬の間をおいて、征士がふり返る。
「……繁殖の難しい細菌の研究がやっと一段落したのだろう?せっかくの休日だ、よく寝るといい」
 ちっ、と当麻は舌打ちする。おおかた征士が電話した時に、研究室の誰かがしゃべったのだろう。
「昨日からもう腐るほど寝た。それより……」
 言葉をきって、当麻はにやりと笑ってみせる。
「一緒にメシ食いにいこーぜ。長生きするにはやっぱりうまいもん食わないとな」
「――その長生きというのがお前のことだったらやめておけ。人類の迷惑だ」
「人類の名誉、だろ。常々思うんだが、全知全能の神って絶対俺の親戚だよな。ひい爺さんの爺さんとかさ」
「今の台詞で自分が馬鹿だと暴露しているとは思わんのか」
 深々と溜め息をついて、征士は仕方なさそうに竹刀を置いた。
「着替えるまで待ってやる」
 してやったり、と当麻は笑う。了解するあたり、征士もだいぶ機嫌がいい。だいたい、当麻の悪口を面と向かって口にする時は征士が機嫌のいい証拠なのだ。
「美味い店見つけたんだよ。お前も仕事ばっかりしてないで美味いものちゃんと食わないと、その美貌が保てなくなるぞ」
「……誰が美貌だ」
「お前。俺が神様ってのが俺の親戚だと思うのはこういう稀な確率で、俺のそばにお前みたいに金髪で紫の目のやつが生まれているという事実に基づいてるんだ。いやあ、世の中って不思議、ほんとよくできてるよなー」
 上機嫌でべらべら喋りながら着替える当麻を、征士は再び溜め息をついて眺めた。今日は輪をかけて馬鹿だな、という彼の呟きは、運よく当麻の耳までは届かない。
「着替えたらおまえん家経由で出掛けような。竹刀持ったまま歩くわけにもいかないし、お前も支度するだろ」
「……当麻の好きなようにしてくれ」
 相変わらず気のない応えを返す征士に、当麻はずかずかと歩み寄る。触れるほど間近に寄りながら、手を出すことさえせずじっと見つめる。
「――なんだ?」
「しけた顔するなよ。せっかくいい顔なんだから」
「……置いていくぞ」
 顔のことを言われるのが大嫌いな征士は本当にむっとした表情で、当麻のわきをすりぬけて足早に玄関に行ってしまう。
 すれちがいざまにかすかに頬をふれた髪の感触に、当麻は保護者めいた笑みを浮かべる。やっぱり幸せだ。いつもなら尾をひいてまとわりつく夢の残滓が、もうこんなにも遠い。それも、こんなに近くに大切な大切な人がいるから。
 征士の後をおいかけて靴を履き、外に出て鍵をしめながら、今日見た夢の俺も早く幸せになれる未来だといいな、などと当麻は思う。
「おい、本当においていくぞ」
 マンションの廊下の端から征士が言う。
「今、行く」
 叫び返して当麻は鍵を手に歩き出し、二人分の影はそのまま下へと消えた。


 この幸福な幸福な夢を、当麻はずっとずっと未来に見ることになる。

 ――――了