Rainy Birthday 

芳谷美伊


 ぱたぱたと、雨の音がする。ベランダの手すりを雨がたたいているのだ。雨樋から落ちる水滴のゆっくりしたリズムと、ぱたぱたと軽やかな雨音が混じって、物憂い音楽のように耳に届く。それを、羽柴当麻は半分まどろんだまま聞いていた。
 窓に上部を接したベッドに臥せっていると、雨の音がよく聞こえる。雨の降る誕生日など何年降りだろうと、当麻は物憂く目をあけた。
 世界が、白い。
 あまり眩しいので枕元の時計に目をやったら、正午を過ぎていた。明るいはずだ……昨日夜半すぎからかなり激しく降っていた雨は穏やかで優しいものに変わっている。こんな休日も悪くないな、と当麻は思ってみる。誕生日だからと3か月前からわざわざとった休みでなかったら、だが。
「……いいけどね」
 ひとり空しく呟いて、当麻は顔を枕に埋めた。


「すまない」
 携帯電話の雑音混じりに、征士の声がしたのは、午前0時を一分ほど過ぎた時だった。開口一番、あのちょっと偉そうな口調で「私だ」と名乗ったあと、「誕生日おめでとう」と言われて舞い上がった当麻は、「どうせなら今日、直接言ってほしいな」なんて軽く、かるーく、言ってしまったのだった。ここ数年、日付けが変わるのとほぼ同時に電話してくれるのは恒例のことで(もともとこれは当麻が始めたことだったけれど)、だからなにもあんなに浮かれた気持ちにならなくたってよかったのにな、と今になっては思う。けれど、本当に嬉しかったのだ。あらためて、とても。
 だから、「すまない」と言いにくそうにした征士の声は、よけいショックだった。
「すまない……明日は、いやもう今日か……は、そちらに行けそうもない」
「なんでっ!?」
 聞き返してしまって、ああこれじゃ小学生みたいだ、と自分でも思った。
「イタリアの取り引き先が来ていてな。明日は最終日なので打ち上げなんだ」
 打ち上げ。
 打ち上げ。
 もちろんそれだって大事な仕事のうちだろう。そんなことくらいわかる。しかし11日の朝までそれがかかるというわけでもないだろう。……ちょっとひどい、と当麻は内心ため息をついた。
 だが、わがままは言えない。征士はここ数か月、とても忙しそうだったからだ。遅くなってもいいから来てくれ、とは言えない。
「しかたないよなあ、それは」
 仕方ないので笑ってそう言った。
「明日ちょーど休みだし、たまにはのんびり寝てるわ。あ、埋め合わせは近いうちに、絶対な」
「……そうだな」
 最後はちょっと笑ってくれた征士は、優しく「おやすみ」と言ってくれた。甘いその響きはまだ、胸の中にある。


「──そうだ、猫」
 征士の「お休み」を反芻していて、当麻ははっと思い出した。飼いはじめて(というか正確には預かって、なのだが)半年もたつのに、当麻は催促されないとすぐ餌をやり忘れる。鳴く動物でよかった、としみじみ思う。そんな飼い主でも猫は出て行きもせず、そこそこ懐いてくれているから不思議だ。
「すーい、すい」
 当麻はだらしなく頭をかきながらベッドを降りた。別に泳ぐ真似をしているのでなくて、猫の名前が「すい」というのだ。正確には「翡翠」というらしい。確かに翡翠色の瞳が美しいが、実は「水滸」の「すい」でもあるらしいから笑ってしまう。ちなみに正式な飼い主は秀で、彼は今、本家本元の水滸と旅行中だ。やはり夜中に、浮かれた「おめでとうコール」をかけてきてくれた。
「すい?」
 彼のお気に入りの寝場所を覗いてみたが、丸くくぼんだ跡だけで、猫の姿はない。道理で餌を催促しに来なかったわけだ。もっとも、いつもどおりに催促されていたら、昼すぎまで寝ていられるわけはない。朝は7時半に、スイは餌を要求する。目覚ましみたいな猫なのだ。
 念のためバスルームと物入れに使っている3畳ほどの部屋まで覗いてみたが、姿はない。この雨で散歩なわけないな、と思ったが、あの猫はちょっと常識的でない猫なので、当麻は考えるのをやめた。玄関のドアには猫用の出入り口があって、スイは自由に遊び歩いている。この前など下の階の美人に抱き上げられ、甘ったれているのを見かけたくらいだから、このマンションの中をうろうろしている可能性は高い。
 猫にもふられたなあ、と当麻はあくびをした。
 その日一番に電話をもらえるのはうれしいけれど、明るくなってからがわびしい。
 まして今日は、征士と少しでも長くいたいと、わざわざとった休日なのだ。
 まだ自分の体温であたたかい布団にもぐりこみ、猫のように丸くなる。せめてスイがいたら、一緒に寝てくれたかもしれないのにな、と当麻は恨みがましく丸い目を思い出す。気まぐれでかなり気位が高いが、不思議と機微に聡くて、当麻がちょっと触りたいな、なんて思う時には自分から寄ってきてくれたりする、生意気な猫。甘え方にすら気品と余裕があって、当麻は俺って猫じゃないなあ、とよく思う。
 昔。
 もうずっと昔、ランドセルなんかしょってた頃は、例えるなら自分は猫だと思っていた。尾を振って甘えるなんてとんでもないし、そもそも、ぬくもりなんて欲しいとさえ感じなかった。何もなく乾いたところがいい。静かで煩わしくなくて、かわいてさらさらした場所で、好きなことだけやれたらいいと思っていた。
 誤認もいいところだよなあ、と、今頃になって温もりが恋しいお年頃をやっている当麻はそう思う。
 例えるなら犬だ。さしずめ、今はお留守番させられている犬。
 やっぱ、「遅くなってもいいから」と言えばよかった、と……後悔するうちに、当麻はまた眠りに落ちた。
 外はあいかわらず、ぱたぱたと静かな雨の音が、している。



 鋭く、空気を引き裂く音がした。
 当麻は眠りから引きずり出されて顔をしかめる。と同時に、冷たく柔らかいものが頬に触れた。
「ゥナーウ」
「うわっ、はいっ、わかったったら!」
 ぐにぐに、と押し付けられる。肉球……スイだ。餌が欲しいのだ。当麻は慌てて飛び起きる。辺りはすでに真っ暗だった。
 うにゃうにゃ、といっているスイを片手でなだめながら、当麻は空いた手で電気のスイッチを探った。
 と、窓の外がカカッ! と紫色に輝いた。
 はっとして当麻は振り返る。数秒して、ゴゴゴゴゴ、と低い轟きが聞こえた。
 ──雷だった。
 思わず窓に張り付いて、暗い外を見る。雨はかなりの勢いで降りそそいでいた。風も強い。まるで嵐だ──こんな10月10日は、史上稀だろう。少なくとも当麻の記憶にはない。
 だが、当麻は晴れた空と同じくらい、雷が好きだった。いろんなひとから馬鹿にされるが、好きになってしまったのだからしかたない。今度は稲妻が見えないかと、冷たいガラスに額を押し付けたとたん、足下で「ふにゃーあ!」とスイが体当たりした。
「あー……そうだったな。悪い」
 またしても忘れるところだった。当麻はしぶしぶと窓を離れ、電気をつけ、スイお気に入りのツナ缶とシャケ缶を出して、並べてやる。
「今日はどっちがいい?」
 …………たしっ。
 交互に鼻をつけてにおいをかいだスイは、ツナ缶に手を置いた。
「はいはいツナね」
 喉をくすぐってやって、当麻はそのツナ缶半分と、猫用の缶詰め半分を器にいれてやる。残った半分は皿にうつしてラップをかけて冷蔵庫行きだ。おいしそうにはぐはぐ食べているスイを見下ろして、贅沢な猫だ、とため息をついたら、当麻は急に空腹を感じた。気付けば朝から何も食べてない。
 とりあえず大急ぎでやかんをかけて、冷蔵庫に残っていたスライスチーズ2枚を持って、当麻は窓際に舞い戻った。もちろん、途中で電気を消すのを忘れない。
 折よくあたりが明るく染まる。神秘的な紫に、空全体が輝く。
「出血大サービス!」
 嬉々として、当麻はチーズをくわえて窓際に座った。紫に光る稲妻は久しぶりだ。それは大好きなひとを否応なく思い出させる色だから……雷のなかでも、一番好きな色だった。
 雷はまた、神鳴。
 そんな神々しさにふさわしい、どこか妖しささえ秘めた色が、好きだ。



 好きなひと、という言葉かな、と、このあいだ当麻は思った。恥ずかしい言い方だけど、自分にも相手にも世間にも嘘をつかない言葉。
 恋人、というと征士は厭な顔するかもしれないし(それを言ってしまったら、「好きなひと」でも厭な顔をされてしまうだろうが)、いろいろと「恋人」とは名乗れない時だってある。ついでにいうなら自分でも恥ずかしい。
 でも、好きなひと、なら。「好き」はいろいろだから、言っても、疑われても、嘘はつけて、そして……言葉だけなら嘘じゃない。
 そうして自分で、悪くない響きだなあ、と思ったので、当麻はこっそり彼を──征士を「好きなひと」と呼ぶことにした。
 どうせ、一生使ったりしないけれど。



 がたん、かたん、と音がして、スイのやつずいぶんうるさいなあ、と思いながら、当麻はしつこく空を見ていた。稲妻目撃回数は4回。少なかったので、すっかり音も光のひとひらもなくなった空を、当麻は未練たらしく眺める。
「……なにをやってる」
「なにって、雷」
 何気なく応えてしまってから、当麻は慌てて振り向いた。
「征士!?」
「雷ならとっくに止んだだろう。雨風はまだひどいが……おかげで濡れてしまった」
 当たり前のようにしゃべりながら、征士が慣れた動作で電気をつけた。そのまま、バスルームへと消える。
「タオルを借りるぞ」
「あ、や、いいけどそりゃ」
 眩しさに目を眩ませながらあわてて立ち上がって、よろよろしつつも当麻はバスルームまで彼を追いかけた。がしがし頭を拭いている背広の背中に、おそるおそる、聞いてみる。
「なんか俺、今日来られないって聞いてた気がしたんだけど」
「……打ち上げを早めに抜けてきたんだ」
「なんで」
「……」
 髪を拭き終えた征士は黙ったままバスタオルを洗濯機に放りこむ。当麻はまたあわてて言い直した。
「なんでってことはないか。……えーと、……」
「とりあえず、着替えさせてくれ」
 淡々と落ち着いた声で言って、征士は当麻の脇をすりぬけた。冷たい雨のにおいが、当麻の鼻孔をかすめる。
「外寒かっただろ? コーヒーでも淹れるわ」
 そう言って当麻は大急ぎで台所にむかい、お湯を湧かそうとして、
「うわっ!」
「…どうしたっ?」
「忘れてたっ!!」
 電気コンロの上に乗っているやかんに手をのばして初めて、思い出した。あれから、かけっぱなしだったのだ。どれくらい経っているのだろう、カンカンカンカン、と不穏な音がしている。水は当然のようにない。
 当麻はスイッチを切って、布巾で慎重に取っ手を持った。流しにうつして水道を少しだけひねる。盛大な音と水蒸気があがった。
「──馬鹿者! 忘れるくらいならやかんなど火にかけるな!」
 ため息もつかのま、すぐ後ろから怒鳴られて当麻は首をすくめた。
「……ごめん」
「火事にならなかったからよかったようなものの……」
「そうだよな」
「──今度やかんを火にかけたら、沸くまで見張っていろ」
「はい」
 頭をたれて神妙に頷いて、そろそろと伺うと、征士は着替えかけのまま腕組みして立っていた。おさまりのよくない髪が、いつにもましてあちこちに跳ねている。
 急に可笑しくなってきて、当麻は笑いをかみ殺した。ついにやけそうになる口元をひきしめて、そのはね放題の髪に手をのばす。しっとりと濡れた感触のそれに指をからませると、少し冷たい体は逆らわずに腕の中にきた。冷えた首筋に頬をよせて、今度は遠慮せずに笑う。
「部屋まで暗いままで、やかんを忘れるほど何をしていた?」
 呆れたようなため息とともに、征士が呟いた。じんわりとあたたかみを帯びてくるのを味わいながら、当麻は目を閉じる。
「だから、雷見てたんだって」
「だから、だいぶ前に止んだだろう」
「名残りおしくて」
 好きなんだよかみなり、と言うと征士はまたため息をついた。
「雷を見ていようがほうけていようが勝手だが、誕生日に火事を出したんじゃ笑い事にもならんだろう」
「そーだなあ」
「……全然真面目に聞いていないな。もし私が来なかったら火事だったかもしれないのだぞ」
「そーだな。来てくれてありがとな」
 のんきに返してから、思い出して当麻は真顔になった。
「でも、平気だったのか? 来られないとか言ってたくせに」
「……先方が帰っていいと言ってくれたのでな」
 覗きこむと征士はするりと視線を逃がす。後ろめたいときの征士の癖。どきり、というより、ずきりと胸が波うって、あまり痛かったので当麻は征士を追求するのをやめた。実際征士はここにいるのだから、何が嘘でもかまわなかった。
 一度だけ、軽いキスを交わして。
 当麻は笑ってみせる。
「昼間は寝てたし、起きたら雷鳴ってるし、おかげであんまり寂しくなかったよ」
「……そうか」
 かすかにぎこちなさを残した征士の手が、そっと当麻の髪を撫でる。あたたかくて優しくて、自然と笑みがこぼれる。
「稲妻が紫色でさ、すごい綺麗だったぞ? 征士出血大サービスだ! って思ったもん。征士がちゃんとそこにいるみたいで、いくら見てても飽きなかった」
「……言っておくが私は雷を起こしたりはできんぞ」
「わかってるってば。こーゆーのは気分だろ」
 意図せずに拗ねた口調になってしまったら、征士は自分から短いキスをくれた。間近にある紫色の瞳に、やっぱりこの目のほうが断然綺麗だと当麻が改めて感嘆していると、征士が微笑った。
「誕生日おめでとう当麻」
「…え?」
「ちゃんと直接言ったぞ」
 そう言うなり、当麻の「好きなひと」は腕を抜け出して流しに歩み寄る。
「コーヒーを淹れてやるから向こうへいってろ」
 いつもと同じ素っ気ないような偉そうな声に、反射的に頷いて踵を返してしまいながら、当麻は心の中で繰返してみる。
 誕生日おめでとう当麻。ちゃんと直接言ったぞ。
 直接。
 直接、言ってほしいな。
 ──あんなのを、本気にしてくれたのだ。
 不覚にも、脳みそが揺れてひっくりかえるくらい意外で恥ずかしくて──うれしい、と感じてしまったので。
 たまらずに舞い戻って、不意打ちに驚いている征士を問答無用で抱き締めて。
 それから、お湯が沸くまでそのままで、ずっとキスをしていた。

 外は止む気配のない秋の雨。

        おしまい。

First 2001.10.10UP