春を待つ二月

芳谷美伊


 寒いのは嫌いだが、二月の寒さはいやではない。どんなに冷たくても、確実に春の気配がするからだろうか。
 ほんのわずか日が長くなったおかげでまだ透明に明るい空を背景に、白い梅が咲いているのをみつけて、当麻はそんなふうに思う。強く冷たい風にさらされて、花はむしろ気持ちよさそうだった。
 氷のように冷たくなった指先をコートのポケットの中で握りしめて、当麻はゆっくりと歩く。柴犬を連れたひととすれ違う。道に面した家の換気扇が回る音、ちかちかと点りはじめる外灯の白さ。
 夕方だ。
 当麻が目をさましたのは午後の四時近くだった。傾いた陽の黄色い光がまぶしくて目がさめて、時計に目を走らせた瞬間、後悔のようなものがよぎらなかったわけではない。今日という日を無為に過ごしたという、条件反射のような、罪悪感。
 けれどすぐに誰かがささやく。
 無為の、どこがいけない?
 目覚めたとたん幻のように遠くなるたくさんの記憶。大切ななにかがそこにはあったような気がして、いつも必死で残滓をかき集めるのに、むなしく、霧のように泡のように消えていく。その寄る辺ない寂しい感じがひしひしと全身を苛んで、爪先まで冷たく凍りつく。
 どうせ起きていても一緒だ。
 昨日が本当にあったかどうか、証明する術などないのだから。
 あざ笑う声を無視して当麻は強張った身体を伸ばす。猫のように。隅に残っていた眠気がひいて、かわりに空腹を感じた。そんなことにだけ、時は流れているのだと感じる自分が可笑しい。
 ゆっくりと起き上がって服に着替えながら、床に長く伸びた影を見た。きりとられたように動かない物々の影。
 その物憂い寂しさを、暮れゆく世界はまだたたえている。
 ──夕方はなぜ、いつもなにか忘れたような心もとなさを誘うのだろう。
 そしてまた、張り付けられた絵のように、いつまでも過ぎない時を思わせるのは、なぜだろう──
 
 
 
 当麻の住むマンションから電車で二駅。訪れるたびに知らない街のようだと思わせる──もう何度も通って、どこに何があるかも知っていて、むしろ最寄り駅のそれより利用してさえいるのに──タイル舗装の商店街を抜け、背の高いマンションを過ぎて、一軒家の目立つ住宅街をしばらく歩く。駅からは左に一度、右に一度曲がるだけでいい。やがて家々に埋もれるようにして見えてくる、四階建ての小さなマンションの三階に、征士の住む部屋はある。
 感覚の失せた指で、三〇七号室の呼び鈴を鳴らす。小さくベルの絵がついた、象牙色のボタン。
 黒のダッフルコートのポケットに再び両手をつっこんで、当麻は一歩下がってあくびをかみころした。寝ても寝ても眠い。もしできることなら一週間くらい続けて眠ってみたいな、と思う。点滴を打ったりすることもなく、床ずれもせずに目覚めたとき幸福に起きられるような「一週間睡眠」は実現できないものだろうか──真剣に考え出したところでかすかな音がして、ドアが開いた。
「――おはよう」
 当麻は反射的に微笑う。
「おはようじゃない」
 顔をしかめて、ドアを開けた征士は言った。それでも口調はそれほど怒っているわけでもなく、身をひいて迎え入れてくれる仕草はそっけないけれど冷たくなかった。ふわりとあたたかい空気につつまれて、当麻は安堵のため息をつく。
「風が強かっただろう」
「うん。けっこう寒かった」
 征士の部屋はいつも心地よい。冷えたコートを脱ぎながら、当麻は、あたたかさからばかりではなく、強張っていた芯までほどけていくのを感じていた。
「何か飲むか」
「いや……いいよ。飲みたくなったら勝手にいれる」
 それより、と当麻はローテーブルに視線を落とす。本と、なにかメモしていたらしい、紙とペンがある。
「邪魔しちゃって悪かったな」
「……そろそろひと休みしようと思っていた。コーヒーでいいか?」
 少しだけ──ほんの少しだけ征士が微笑む。見慣れることのないその笑顔に、胸が痛む。
「……日本茶がいい」
 半ば掠れた声で言った当麻に、征士はからかうように目を細めてうなずいた。そうして向けられる背中から目をそらすことができずに見つめたまま、当麻はその場に座り込む。テーブルから少し離れた中途半端な位置。あんなに綺麗な背中を、当麻は他に知らない。
 白いシャツに包まれた背中の筋肉の動きをなぞるように追いかけて、惜しくてたまらなくて目を閉じる。目を閉じても征士の動く気配がする。彼のたてる物音が心地よい。
 生きていくことは繰り返しだな、と当麻は思う。
 真夜中の研ぎすまされた時間、夜明け前の硬い闇、薄く明けはじめる時刻のまどろみ。追いかけるたくさんの情報と忘我と、やるせなさのつきまとう目覚め、無為の夕方。生まれ消えていくたくさんの感情と記憶。そして。
「ほら、入ったぞ」
 ことん、という音に当麻は目を開ける。透明なみどり色の液体からたちのぼる湯気をまつわせながら、征士がこちらを見ている。
 そして今、ここにあるのはあたたかな宵だ。
 それだけが確かな今。
 当麻はずるずると移動して、あたたかな茶椀をてのひらに包んだ。普通よりすこし温いお茶はひどくおいしかった。
「……来る時、梅が咲いてた」
「そうか。今週は暖かかったからな」
 咲いてすぐこの陽気では可哀想にな、と征士は言う。
「明日は雪らしいぞ」
 低く静かで落ち着いた声に、当麻はまた目を閉じたくなる。眠くなる。
「嫌だなあ、寒いの…」
 呟く自分の声が少し遠かった。あたたかな部屋。まどろむような甘い宵。
 無為の、どこがいけないだろう。
 今こうして手にするあたたかさも安らぎも、甘苦しいせつなさも、すべてが、たとえ明日の夕方には遠い幻になってしまっても。
「──当麻?」
 くりかえす。
「……わるい。なんか、ずっと、眠くて……」
 いつか薄れていくのも、明日薄れてしまうのも、ほんとうは同じだ。
 湯のみを倒さないようにするのが当麻には精一杯だった。眠るまい、とする意志を裏切って、身体が沈み込んでいく。
「こら、眠るなら向こうで……」
 いつのまにかすぐ傍で声が聞こえて、当麻は無意識に手をのばした。少し硬い髪。金色。狭い視界に映る紫の瞳。かすかな吐息。
「──少し、眠るといい」
 食事ができたら起こすから、と声がささやく。傾いた身体を支える腕は確かだ。ありがとう、と返すつもりの言葉は枯れて声にならなかった。かわりに引き寄せた顔に唇を寄せる。白い頬。
 触れた肌の感触に今度こそ目を閉じてしまいながら、当麻はざらざらにかすれた声を絞り出す。
「春に──」
 春になったら。どこかへ、花を見にゆこう。咲き誇る、淡い色をした花たちを。やわらかい春の陽射しのなかで。
 薄紅の靄が意識をおおう。その奥で征士の気配がした。困らせる気はないから、指の力は抜いた。
 繰り返しても薄れゆくものは残酷だ。積み重ならず消えていく記憶は空しくて、明確な別れより耐え難いといつも思うけれど。
 それでも、ここは居心地がいい。愛おしい。なくせない。ここでなら、信じて春を待つのもいいだろう。明日また目覚め、おぼろな残骸を苦くかき集めるとしても、また同じ焦燥ともどかしさで身体が凍るとしても構わない。
 冷たい風に咲く花のように、空っぽのこの身体にも春は、きっとくるから。


                         

        おわり

2008.6.9 UP 同人誌より再録