三月の蒼
芳谷美伊
目が覚めると部屋が蒼かった。
カーテンをしめ忘れた窓から蒼い色が部屋に射し込んでいる。暖房のついていない空気はつめたくて、ずれた布団から出た肩が冷えていた。かわりに腕の内側はしっとりとあたたかくて、当麻はぼんやりと目を向けた。
彼は眠っていた。蒼い空気のなかで、征士の顔は色を失って、つくりものめいて見えた。無彩色の陰影は硬質ななにかを思わせて、触れ合う熱とやわらかさだけが、彼が無機物でない証だった。
彼を起こしてしまわないよう、そっと布団をかけなおす。当麻の腰に回されていた腕が微かに動いたが、征士は目を覚まさなかった。
ゆるく閉ざされたまぶたも口元も、頬のラインも、もたせかけた首も、どこにも力の入っていない、無防備な眠り方。
ふっと甘い気持ちになる。
自然体でいてもどこか筋の通った、ぴんとした征士の姿は替えがたく好きだけれど、こうやって気を抜いているのを見られるのも、このうえなく嬉しい。きっと、だれもこんな征士を知らない。腕のなか、身体をあずけて、見られていることにも気づかないほど深く眠っているなんて。
淡い灰色に見える額にかかる髪をかきあげたい衝動をこらえて、当麻は意識を外に向けた。
あたりは静かだった。部屋のなかも窓の外も、静寂に包まれている。
どうして目が覚めたのだろう。夜明け前で、抱き合った布団のなかはひどくあたたかくて、眠るためにあるような時間だ。安眠をさまたげるような音はなく、静かで──。
──静かだ。
耳をすませる。
ふしぎとなんの音もしない。否、正確には、音がしているのに、していないような……まるでなにかに音を吸い込まれているような、すべてが息をひそめているような静かさだ。
ゆっくりと、当麻は意識を解き放つ。感覚を身体から外へ、部屋の中へ、窓の外へと流していく。当たり前のように駆使していた特殊な能力の大半は失われたけれど、意識を遠くまで延ばして「空気」を――風を感じ取ることは、今もできた。
外は、風もない。大気すらじっとなにかを待つようにしんとして、時がとまったような錯覚さえする。飛ぶ鳥の気配もなく、木々も黙しているのがわかる。
じっと。
この、ひそむような、耐えるような沈黙。
(──ああ、そうか)
春なのだ、と唐突に思いあたった。
花の咲く季節。いっせいに緑がめぶき、いきものが生まれる準備をはじめる頃。その、直前なのだ。今は。
(はるに、くうきがひえるのは、みんなが黙ってじっとしているからなんだって)
ずっと昔、だれかがそう言ったのを覚えている。ばかばかしい、と相槌すら返さなかったその言葉を、それでも忘れることはなかった。
(みんな、きれいな花をつけるために、目をとじて、いきをすいこんで、すこしのあいだ止めるのよ。ちからをためるためにね)
あれはあながち、ただ夢見がちなだけの言葉ではなかったのかもしれない。拡散した感覚に触れる空気の手触りは、たしかになにか不思議な力を帯びているようにも思えた。
きっと、今頃どこかで桜が開きはじめている。薄紅のちいさな花弁を苦しげに、差し伸ばしはじめているだろう。
ふわふわと漂わせていた意識を引き戻して、当麻は征士を見た。
(──今年も一緒に桜が見られるな)
毎年、仲間とは桜の季節に──自分たちにとって意味深い花の季節に、なんとなく集まってはいるけれど、それとは別に征士といられることは、奇跡みたいだと当麻は思う。
いまだに不思議になる。どうしてここに征士がいるんだろう、と思うのだ。
なにがよくて、なにがあって、今、征士は自分の腕のなかにいるのだろう。
耐えかねて、当麻はそっと顔を近づけた。少しひんやりした額に、頬に、目元に、口づけを落とす。
征士のまつげが震えた。いぶかしげに、緩慢に目が開かれる。
「……当麻?」
ほとんど息だけのかすれた声で呼ばれて、ざっとうなじが総毛立つ。
甘く、甘く響く彼の声。骨の芯まで沁みて、溶けるような幸福をくれる声。
ゆっくりと征士が腕をあげて、動けない当麻の髪に触れた。
「まだ、早いだろう……?」
くったりと預けられた身体と、優しい指の動きに、いっそ泣きたくなる。
征士、と呼ぶかわりに、当麻はゆるく彼を抱きしめた。穏やかな呼吸をしたまま、征士は逆らわずに許している。頭の後ろに回された手が、子供をあやすように優しくたたく。
「もう少し眠っていろ」
口調までが宥めるようで、子供扱いされているような、甘やかされているような、複雑な気持ちになった。薄蒼に沈むシーツの皺を見つめながら、当麻はそっと征士の背中を撫でた。パジャマ越しなのが残念だ。
「眠ってもいいけど」
どんなに好きか、伝える術があまりないのがもどかしい。たとえばこんな明け方に、急に目覚めて、そこに征士がいて、それがとても幸せだと思ったと、言葉をつくしてもきっと伝わらない。
首筋にできるだけそっと唇をつけて、当麻はちいさくため息をついた。
「起きたら、花見に行こう」
「……花見には、まだ早いだろう」
「でも、たぶん、もう咲いてる木もあるよ」
自分でも、不思議になるのだ。気づいてみたら硬い枝の中にやわらかな新芽があって、いつのまにか芽を出していたみたいに、思うよりもずっと、自分は征士を好きなのかもしれない、と思ったりする。
際限もなく湧く泉のような。
幾度でも開く花のような。
「……見たいんだよ」
呟くと、征士が小さく笑うのがわかった。密着した身体に微かな振動が伝わる。
「咲きの桜もきれいだからな。──朝になったら起こしてやる」
「……うん」
「ちゃんと起きるんだぞ」
「うん」
あやすような声さえ嬉しいなんて。
泣きたいほどいとおしいなんて、
どうやったら伝えられるだろう。
どんな理由でもいい、彼がここにいてくれることが、こんなにも嬉しい。
すうっとまた征士が眠りに落ちていくのがわかる。
あたたかな身体。
やがて蒼が失われ、かわりに白い光が差し染めて、朝が来る。
あたたかな陽射しの下で花に微笑む征士を思いながら、少しでも長くこの狭間のような時間が続けばいいと、願うように当麻は思っていた。ひとり、じっと蒼い色を見つめながら。
おわり 2008.6.9 UP 同人誌より再録