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其乃参 Chinese moonlight (仮) 銀鞍白馬春風度 落花踏盡何處遊 笑入胡姫酒肆中 (『少年行』李白) 日が暮れ、日没の銅鑼が三百打ち鳴らされると、唐の都長安に夜が訪れる。 東西分かれた市にある、絹行、鉄行、肉行、薬行等多くの店が商を止め、幅五引にもなる朱雀大街が、やがてやって来るであろう暗闇と共に静まりかえる。 しかし、真夜中になっても昼天以上に活気のある東市の一角がある。 橙色の光が煌々と照らす一路地の奥、一際落ち窪んだ場所にある一軒の酒肆 岳 椅子に座り足を組むと、碧眼の胡姫が注文を取りにやってきた。 「葡萄酒 と、一言注文し、口を閉じて目を瞑る。 運ばれてきた葡萄酒はかなり良質の物で、此の頃の胡国との貿易の率の良さを思い知る。しかし、異国の酒が飲める酒肆は、長安の市の中でも未だ片手で数えられる程である。雇われている胡姫も容姿端麗。”胡風”が都で持て囃されて久しいが、ここを越える酒肆には未だ出会った事が無い。 岳と仲間達は、都からそう遠くは離れていない場所に野営を張っている。だからこそ、一時の気紛れでここに足を運ぶ事が出来たのだ。岳は、葡萄酒を一口、喉に味あわさせると、その味に満足気に目を細めた。 ――深紫色をした液体の入った杯を片手で玩びながら、自分が此処に来ている訳を考える。 普段は外に向かっている思考を内側に閉塞させると、際限なく落ち込む事が出来るから不思議だ。 嫉妬なのか、独占欲なのか、何に苛ついているのかさえ解らなくなってきた。 認知できる感覚は一つだけ。 …敗北感。 まだ草 海も其れを解っていて、自分に良くちょっかいを出しては甘えていた。それがとても心地良かった。 草が入ってからだ。その関係が崩れ始めたのは。 そして…二人の中が急速に進展を見せるのを、横で観察するだけだった自分。 思考が進む中、取り残されていくような焦燥感に駆られて思わず酒を煽った。 ふと、店内の方に意識を戻してみると、入り口付近の座席が何事か騒いでいるのが確認できる。 『ユエよ!』 『ユエだわ!』 胡姫達が黄色い悲鳴を上げて。 まるで自分の名前を呼ばれているような居心地の悪さに、岳は眉を顰めた。 機嫌の悪い時程、女のようなこの名が気に食わない。 「なぁ…ユエ…って何?」 自分の卓の直ぐ傍に立っていた胡姫を掴まえて話を聞くと、どうやら月 しかし、どうも近より難いのは何故だろうか。女達も、騒ぐだけで彼に話かけようとはしない。 ぼんやりとしていると、噂の男がこちらに近づいてくる。 そして、岳の座っている卓の傍まで来ると、その容の整った口を動かして。 「此処、座っても良いか?」 梵語。 突然の申し出に断わる事も出来ず。 「勝手にしろ」 冷たく言い放つと、月、と呼ばれたその男は、持っていた細長い白銀色の織袋を、岳がしているように壁に立て掛けた。かちゃりという金属音から察するに、どうやら得物持ちらしい。 岳は、周囲の羨望と奇異の眼差しを感じ、居心地が悪そうに真向かいに座った男の顔を見る。 眼目は鋭く、眉と鼻の形も整っている。全体的に見て、かなりの美丈夫だ。 ふと、見られていることに気が付いたのか、月は岳の方を見返して。 「この店で一番美味い酒は枇梨酒 「ふん。お前が何を飲もうと俺の勝手だが、俺がお前に指図される筋合いはねぇな」 先刻と、今の会話で解った。 この男は…唐語が話せないのだ。 唐の北に位置する遊牧騎馬民族国家、突厥人である岳は、突厥語はもちろん、胡語や梵語や回語等、七つの言語に通じている。そんな岳だからこそ、彼との会話が成立するのである。 そんな流暢な外国語で会話をする二人を、遠巻きに眺めている店内の人々。 珍しいものを見るかのような、興味津々と謂った視線を此れ以上受けとめるのは我慢ならないと、岳は杯に残っていた葡萄酒を一気に飲み干した。 そして、月の方に一瞥をくれ、言った。 「酒を静かに飲ませてくれない店なら、出るまでだ」 吐き捨てる様に言葉を発し、代金を卓に叩きつけた。 長槍と月琴を乱暴に掴むと、皆が呆然としている店内をすり抜けて、酒肆を後にした。 ※ ※ ※ こんな時間に朱雀門が空いている筈も無いが、門が開いているか閉じているか等、岳にとっては大した問題ではない。地面を一蹴りし、軽々と塀の外側へと降り立つ。降り立った先に、大きな樹が一本生えていて、そこには馬が一頭結び付けられていて、主人の帰りを待っていた。 岳は、待たせたな、と馬の首を撫でてやり、懐から山吹色の綱を取り出した。その端と端に長槍と月琴を結ぶと、繋がったそれを鞍の上へと引っ掛けた。 「風沙 其の背に跨って名を呼ぶだけで、岳の愛馬、風沙は走り出す。 蹄の音も高らかに。 身体全身で夜風を受けながら、自分もまた、風の一部となって。 「…?」 長安から離れ始めて直ぐに、岳の耳はある違和感を覚えていた。 自分の乗っている風沙の蹄の音に、もう一頭の蹄音が重なって聞こえるのだ。 そして、其れと合わせて誰かが何か叫んでいる声も。 ――「待て!」 風にのって、梵語が運ばれてくる。その声は紛れも無く、先刻酒肆で出会った月という名を持つ男のもの。岳は疾 自分の背中で主人が態勢を変えたのを感じとると、風沙は地面を蹴る強さを強め、更に走りを速めた。流石は主人と苦楽を共にしてきた名愛馬、見事な意志疎通である。 「対不起 草原に処々露出している岩を、突厥式馬術の要領で飛び越えて、流れの速い川などものともせずに。 岳と風沙は、前方に黒々と待ち構えている森の繁みの中に飛び込んだ。 ※ ※ ※ 密に生えている木々の合間をぬってある程度進むと、岳は鞍から飛び降りた。二人きりなので風沙を木に繋ぐ事はせず、背に乗せていた重たい荷物を降ろしてやる。 辺りに落ちている手近な小枝を拾い集めると、其れらを錐状になるように重ね合わせて手早く燧 周囲の闇が、程よく薄墨染位になった頃だろうか。 岳は、ふと自分の胸元へ手をやり、そこに下げておいた筈のものが無くなっている事に気付いた。 それは、今の自分にとって命の次に大切と為るかもしれないもの。落とした…位ではまだいい。万が一、誰かに拾われでもしたら… 拳を握り締めて、この莫伽、と己を叱咤しつつ、岳は立ちあがった。 と、先程まで遠くに聞こえていた筈の蹄音がすぐ傍まで近づいていることに気が付く。音のする方を見ると、こちらの焚き火を目指して駆けて来る一頭がぼんやりと影になっている。 「ほー?」 突厥人である自分の騎馬に、此れほど短時間で追いつくとは、と岳は少し関心した。もしかしたら、自分達と同じような『力』を持った人種かもしれない。 暗闇の中の影はますます大きく近づく。其れが、火の明かりが届く範囲に踏み込むと、馬に乗った月の姿だと自分の目で確認できた。 「こんなに短時間で追いつくとはな」 月は、馬の背中から飛び降りると同時に、岳に非難めいた視線をぶつけてきた。 「忘れ物を届けるのに、何故ここまで遠乗りをしなければならないのだ」 「忘れ物?」 「ああ」 これだ、と月は懐から羊皮で出来た袋を取り出して、岳へ投げつけた。 「これは…」 袋の中には鹿皮紐の首帯 それは紛れもなく、今の今、岳が無くしたと気付いた品物だった。勿論同じ物は世界で二個と存在しない。 「無くしたら困る物だろう?ただの首帯ではないものな」 「お前…突厥文字が読めるのか!?」 「少しはな」 厄介な事になった。しかし、この首帯に刻まれた文字を読めたといっても、其れがどれ位の理解と結びついているのかは解らない。下手な事を言って、この内容を教えてしまうことも避けたい。 岳は、月に気付かれぬよう、『さて、どうしたものか…』と下唇を強く噛んだ。 「しかし驚いたな。まさかお前が突厥の特 月の言葉は最後まで紡がれることはなかった。 自分の喉元に鋭い小刀を突き付けられたら、誰だってそうであろう。岳は刃を首筋に押し当てたまま、それを納める事をせずに、低い声で月の耳元に囁く。 「最後まで…言うんじゃねぇぞ。俺の前然り、他の誰も然りだ」 「余程の訳があるのだな」 「さあな」 岳は、あっさりとそう流すと、此れ以上言う事はなにもないという風に月から視線を外し、その喉に突き立てていた短剣を鞘に納めた。そして、傍らにある月琴を手にとり、楽器を覆っている布を解くと、胡座を掻いている懐に抱き込んで、弦を抓み調弦を始めた。 幸い、月の方もその首帯について此れ以上聞く気もおこらないらしく、二人の間にそれから言葉が交わされることは無かった。 火の燃え盛る音と、岳が弦を爪弾く音のみが森の中に響く。ただの音の切れ端でしかなかったものが、いつしか調弦から節を持った曲へと変わった。曲は唐人ではない月でさえ知っている、ごく有名なものだ。長安で良く聞く類のもので、歌詞は確か、故郷を想うものであったような気がする。 焚き火の橙色の照り返しを受けて、一心に月琴を奏でる岳の横顔と、心から故郷を想って紡がれるその旋律。 月は、無意識のうちに自らの懐から龍笛 自分の奏でている旋律に絡み合うように、龍笛の音が聞こえてくると、岳は目を大きく見開いて、月の方を見やった。本来合わないとされる月琴と龍笛の二重奏が、こんなにも妙漣なものになるとは。 月もまた、岳と同じことを思ったのだろう。 岳と同じように目を見開いて、相手の顔を見やる。 旋律と共に、二人の視線も交差する。 重なり合う相性が良いだけではなく、相手の楽器の技量も相当なものなのだ。 異なる楽器が紡ぎ出す一本の糸。 お互いがお互いの奏でる旋律に心を委ね、自分の精神に介入させる様に、相手の事を解ろうとしていた。 『敵ではない』 戦士としての勘が、月の事をそう教え。 『探し求めていた仲間』 岳はそれだと、月の勘が働いて。 「お前の名前、『月 一曲奏で終わると、岳は漸く月の方に視線を合わせて口を開いた。 「ああ」 「じゃあ名前のせいかもしんねぇな」 「どういう事だ?」 「俺も岳 「ああ…少しは。……?」 それでもまだ解らないと首を傾げる月を見て、岳は続ける。 「『楽』って字、唐語で普段は『楽 だから、名前のせいもあるかもしんねぇよな、うん。と岳は一人頷いて、締めた。 「そうだったのか…」 「なぁ」 「何だ?」 「お前、俺達の処に来ないか?俺の他にも梵語話せる奴いるし」 手持ちぶさたなのか、月琴を腕の中に抱き込んで、片手で焚き火の調節をしながら岳は言う。 解ったのだ。先程の合奏で全てが。 そして、岳は気付いてはいないが、宿営地を一人出てきた時の靄々とした気持ちも何処かへ去ってしまったらしい。 「良いのか?」 「可以 「解った」 「よし、じゃあそろそろ行くか」 今からなら、夜明け頃には宿営地に着くであろう。 焚き火に土をかけて消すと、二人は立ち上がった。 「ああ、今后請多多幇助 唐語での挨拶。 其の洒落た心遣いににやっと笑った岳は、同じ様に。 「今后請多多幇助 と、返した。 遠ざかる二頭の蹄の音。 月明かりが照らす中、二人はそこから去って行った。 たった今、二人が居た事を示す焚き火跡からは、一筋の煙が空へ昇り。 何時の間にか高く高く昇った月に、細煙が重なる。 ――まるで、龍が月へと昇る如くに。 NEXT? 2002.05.20. 脱稿 書き終えた!(伸び) 前作二つに比べてネタは多いわ長いわ… 好きなこと書いてる割に筆が進まないのは愛ゆえです(ち苦笑) 岳と月(Wユエ)の出会い編。 なんだか義兄弟の契り(中国風)とか交わしてそうな位仲良くなってるんですけど… 当初の設定だとかなり仲悪かったのにな… この次は走の出番…? チャイナも落ちつくところは獅子鷲&牛鮫です。 でも銀鷲もいいよね★(こっそり) そして。 (言わなきゃわかんない)この話最大の嘘。 月琴。 明清楽で持て囃された楽器なので、果たしてこの時代(唐)にあったのかどうか… でもきっと似たような楽器はあったよね!(+思考) 突厥人は琴を良く演奏するらしいし! 今でも遊牧騎馬民族の民謡って言ったら琴だし! (因みに龍笛は唐楽なのでばっちりです★) ともかくも。 こんな長いものに付き合って下さりどうも有り難うございます。 チャイナ牙吠次回は結構早くお目見えするかもしれません… ⇒戻る
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