彼女の名は、ベネディクタ・ホルテンシア。
「くくく…この国の実権は、もらった。」
クラーナ共和国の二等書記である。
法務や財務のようなエリート官僚ではなく、行政の雑務をこなす、いわば「現場の何でも屋」。
その下級官吏に、議員やエリート官僚は、さして重要ではない案件を丸投げしてくる。
それは、裏を返せば、「さして重要ではない件であれば、自分の裁量で処理する許可」を二等書記に与えていることに他ならない。
臨時スタッフの雇用や、調印に至らない外交上の答弁、一定額までの追加予算申請。
そうした雑務も積み重なると、書記局に集まる権力も肥大してくる。
「ベネ先輩、先週の議会の議事録、要約文を作成しました。ご確認をお願いします。」
「あ。いーの、いーの。そのまま議事録に綴じて、保管室、持ってっちゃって。」
残念なことに、ベネは自分にとって興味のないことに、あまり精力を費やす性質ではなかった。
それでも、先輩にある程度は働いてもらえないと、書記局としての「しめし」がつかないので、後輩のパオロは別の要件を頼んだ。
「その議事録ですが、直近3年分を区分けして、見出しをつけておきましたので、そちらのご確認をお願いします。」
「大丈夫。大丈夫。私は後輩のパオロ君に、全幅の信頼を置いてますからね。つか、ほら、何つーの? 優秀な後輩を育てるのが、先輩の仕事ってゆーか。」
二等書記でも、ベネは小さなことでは動かない。
一方のパオロは、こうした扱いを受けても、苦言を呈さない。
理由があった。
市民の投票による議員や、議会の審査が厳しい法務や財務に対し、書記局の登用は「指名」による。
彼らの上司エンリコ局長は海兵育成所を経て、航海士となっていたのを、先代の書記局長に見出されて書記局に入った。
ベネもフェリサ市国の学校を出た後、家庭教師としてくすぶっていたのを、一等書記エンリコに招かれた。
パオロも卸商に奉公して独学で学び、その店で働いていたのを、ベネに引き抜かれた。
そのように、先輩と後輩の関係が濃厚なシステムになっている。
国が国なら、派閥や世襲の温床になりかねない。
…が、幸いにも、この問題児ぞろいの書記たちは縁故を好まず、登用に関しては純粋に「役に立つかどうか」で相手を見た。
ベネは仕事では怠惰であったが、知性には恵まれていた。
言い方を変えれば「悪知恵が回る」とも表現できるが、それもまた彼女の才能だった。
「(より楽に仕事を片付けつつ、書記局の主導権を握るには、どうしたものか。)」
パオロをこき使うのは、手段であって目的ではない。
むしろ、そうした再生産性のない方法こそ、ベネの忌むところだった。
現在、議事録や会計帳簿の書き方の方向性は、パオロが主導しているが、彼に続く者がいない。
研修生や事務員は、「パオロさんの邪魔になりそうだから」と、仕事に深く踏み込んでこない。
そして、パオロもたいていの仕事を一人で片付けてしまうので、ますます後進の者は育たない。
「(パオロにも後輩か補佐役をつけたいけど、うちは書記局だから…。)」
新人を入れて、実地で教育することは、書記局でも続けている。
しかし、新人の多くはその実習を通じて、自分の適性を発見して、衛生局や文化局など、より専門性の高い部署に転属してしまう。
無論、「書記局は人を育てるのが上手い」という評判は重要である。
が、書記局を「踏み台」とみなされるようであれば、前途は暗い。
実際、有能な後輩で残ったのは、パオロただ一人である。
そのパオロさえ、いくつかの部署に目をつけられているらしい。
「ところで、パオロ、新しい物語を書いたんだけど、最初の読者になってくれる? 組織の掟(おきて)と友情を描いた話。」
とりあえず、思想教育に怠りはない。
「ベネ先輩の話は、最終回で主要人物を皆殺しにする」というパオロの弁は、また別の話。
そうしたある日のこと、午前の業務を終えると、ベネは食事に出かけた。
このクラーナ市では、外食産業が発達している。
かつては船員向けだった店が、今では市民に利用されることも増えている。
この日は、魚介と夏野菜に熱したチーズをかけたものを食べたい気分だったので、ベネは少し遠出した。
そして、ベネが運河沿いまで着くと…その騒ぎに遭遇した。
「ほら、立て! 手を焼かせるな!」
港湾の職員か、あるいは治安員か。
今度はどこの軽犯罪者だ…と思って、ベネは近づいた。
「穏やかでは、ありませんねえ。」
「おっと、書記官殿。密航者です。」
港湾の職員たちは答えながら、「密航者」と呼ばれた少年を指し示した。
10代の前半だろうか、それにしては弱っている雰囲気だった。
その倒れている少年一人を、複数の大人が取り囲んでいる。
見ていて、あまり気分のいい場面ではなかった。
「この少年、重大犯罪は?」
そのベネからの質問に即答できず、港湾の職員たちはお互いの顔を見合わせた。
一方の少年は、ベネに目を向けると、「もう、終わらせてくれ…。」と呟いた。
ここで、ベネは一歩進み出た。
「この少年、書記局で預かるよ。…治安局で取り調べとか、海運局と港湾局で書類の提出し合いとか、国外退去の手続きとか、面倒じゃん。…まあ、重大犯罪じゃないなら、うちらに任せておきなって。」
その言葉に、港湾の職員たちは迷ったものの…結局、少年の身柄をベネに引き渡した。
皆、この程度のことで、自分の昼休み時間を浪費したくないのである。
怠惰ではあったが、能率的な人たちだった。
一方、その場に残された少年はベネを睨んでいたが、抱えられても振りほどく余力がなかった。
そして、ベネは少年を横抱きにして、当初の目的地だった小料理屋に向かった。
その小料理屋で、席に着けられた少年の前に、女書記のと同じ料理が給仕される。
人から施しを受けるのを恥とし、少年は耐えようとした。
…が、飢えた身で、食欲に抗えるものではない。
魚介なのか、チーズなのか判らぬまま、少年はかぶりつくように食べた。
そして…食べ終えてから、恥ずかしさが込み上げてきた。
少年は居住まいを正すと、女書記に頭を下げた。
「あさましい姿をお見せしました。いただいてしまいましたが、お返しすることを確約できません。」
そう話す様子には、確かな気品があった。
また、目つきが良い。
先ほどは憔悴していて、目にも力がなかったが、今は黒い瞳にまっすぐな光が宿っている。
そうした少年の様子を見て、ベネは思った。
「(ああ、こいつは『使える』。)」
その自分の直感を、ベネは信じることにした。
「今から書記局に来てもらうわけなんだけど、名乗っておこうか。…私は、ベネディクタ・ホルテンシア。このクラーナ共和国の二等書記。君は?」
その問いかけに、少年はうつむいてしまった。
「その質問は、お許しください。私は恥を負う身で、私が生きていると、家の者を不幸にしてしまうのです。」
そう語る少年は、あきらかに「訳あり」だった。
しかし、ベネは無理に聞き出そうとしなかった。
相手が少年だからと言って、子供扱いして、その意志を無視して良い道理はない。
ベネは食事代の支払いを済ませると、少年を連れて書記局に戻った。
書記局の者達は驚き、一部の者は、少年の旅疲れた格好に眉をひそめた。
すると、ベネは少年の手を引いて、進み出た。
「おいおい、うちがそんなお上品な場所かよ。」
そう言いながら、ベネは少年を席の一つに着かせた。
席の書記机には、インクの入ったガラス瓶と数本の羽ペン、それに滑らかな上質紙。
「私の弟、という『設定』にしようか。名前は…ラザロ・ホルテンシウス。書けるかな?」
ベネにそう言われ、少年は羽ペンを手に取った
すると、少年の雰囲気が一変する。
手慣れた様子でペンにインクを含ませ、紙の下辺に「ラザロ・ホルテンシウス」と書きつけた。
そのつづりは正確で、書く所作にも気品があった。
その一挙一動を見ていた書記局の7人のうち、5人が一斉に「ひゅー!」と歓声を上げる。
二等書記の一人、元士官のフォンスが少し大げさに敬礼する。
「歓迎しよう、ラザロ・ホルテンシウス! それにしても、ベネディクタ書記…『弟』よりは『息子』のほうが、自然ではないのか?」
「やかまし! まあ、こんな連中だ。『政庁の犬』とか『行政の雑用係』とか言われ放題で、実際、下品な顔ぞろいだけど、うちは現場主義。仕事ができる奴なら、居場所はここ。」
そう言って、ベネは少年…ラザロの両肩に手を置いた。
すると、黙って見ていたパオロが席から立った。
「ラザロ君、と呼んでいいですか? ベネ先輩の責任なので、ここにいることに異論は挟みません。ただ…ここで働くつもりなら、僕の質問に答えてください。」
そのパオロの言葉に、ベネが意外にも素直に引き下がった。
ラザロが緊張でわずかに青ざめ、周囲の職員たちも黙り込む。
先輩格のフォンス書記も、パオロが相手では一目置く。
パオロは尋ねた。
「例えば、の話です。この町に敵軍が迫っていて、君が指揮官の一人として食糧と武器の調達の任務を与えられたとします。そして、集められるだけの物資を集めて、町に戻るところだとします。それだけあっても、勝てるかどうかは五分五分ですが、仲間は君を信じて待っているとします。…その帰りの道中で、町から逃がれていく難民の一団に出会い、『食料をわけて』と求められたとします。彼らを見ると、飢えた者や怪我人も多く、長旅には耐えられない様子です。…さて、君はどうしますか? 難民を見捨ててでも任務を果たすか、友軍を危機にさらしてでも難民を助けるか。」
その問いに、ラザロは即答できなかった。
ベネやフォンス書記も静かな表情で、黙り込んでいる。
…ややあって、ラザロは答えた。
「武人として恥じる所はあるものの…難民を助けてしまうと思います。」
その答えを聞いているパオロの顔に、少しずつ笑みが浮かんだ。
その笑みの意味を、ラザロが量りかねていると、パオロは種明かしを始めた。
「実はこれ、『正解』はありません。書記局の伝統です。ベネ先輩は『目の前の者を助けられん奴に何ができる』と答えたそうで、僕は『多数を生かすために少数を切り捨てる判断も必要』と答えました。…でも、共通点があります。それは『決断』だということです。」
そう語られたように、ベネはエンリコから、パオロはベネから、この書記局に伝統の問いを受けていた。
これが、書記局の先輩が後輩を受け入れる儀式の一つになっていた。
パオロはさらに解説する。
「この書記局にいると、その時々で決断を求められます。その過程や結果が自分の意図と違ったものになってしまったり、罪や恥とされることも珍しくありません。それでも、決断することが僕たち書記局の仕事です。…その覚悟ができたなら、君はここの書記見習いです。」
そう説明されながらも、ラザロは自分の身の上を思い浮かべていた。
人の信頼を裏切って職権を私用した父…許すわけには行かない。
しかし、自分はその父と同じ決断をしなかったと言い切れるのだろうか。
ラザロがなかなか返答できないでいると、パオロは促した。
「言いたくない事情があるなら、言わなくても結構。僕が聞きたいのは、君の決断です。」
「いや、私のごとき、素性の知れぬ浮浪児…。」
「それが何か? 理由をつけるなら、業務時間中に麦酒を飲んでくる主任ベネディクタ・ホルテンシアのほうが、よほど問題です。」
「では…お世話になっても?」
まだ遠慮を見せるラザロの手を、パオロは力強くつかんだ。
そして…パオロは気づいた。
このラザロという少年、剣術か何かを修練していたのか、手指の付け根が堅い。
さしあたって、その事には触れず、パオロは一同を代表して歓迎の辞を述べた。
「クラーナ共和国の書記局へようこそ。僕は二等書記パオロ・アルム。そちらのベネ先輩が突飛な言動を、否定するのではなく、現実に即して調整
する役割を担う者です。…今回の君の件は、少々度が過ぎている気がしますが、僕も責任を共有します。厳しくしますので、覚悟しておいてください。」
その宣言に、言われたラザロ本人より、居合わせた職員たちのほうが緊張した。
この2年間、パオロの教育に耐えられなかった新人のうち、転属した者は7名、退職して公証人になった者は1名。
いずれも、教育内容の正しさは認めながらも、「当たり前のように要求を上げてくる」と苦情を申し立てている。
特に、退職して公証人になった者などは「パオロ先生には今も会うけど、あの人にとって書記局はぬるすぎる」とさえ語る。
それでも、先輩ベネはパオロを止めなかった。
勢いで連れて来られた浮浪児でも、パオロに認められれば箔がつく。
逆に、パオロの教育に耐えられないようであれば、惜しむに値しなかった…と言うことになる。
ベネはパオロに向かって「思い切り、やれ」と言いたげに、うなずいて見せた。
第2話に進みます