今日も若者は夜半に目を覚ました。
 数日前の戦いで負傷した右腕の前腕部が炎症を起こし、喉が耐え難いほどに渇いている…とても眠っていられる状態ではない。
 本来なら、右腕を肘から切り落とし、その傷口を縛って火で炙るべきである。
 しかし、火を起こせば、間違いなく追手に発見される事になる。
 かつては7個所あった隠れ家も、今は2個所しか残されていない。
 もはや、いかなる行動を取っても、生き延びられる可能性は低い。
 若者は腫れ上がった右腕をそのままにして、木材を削って矢柄を作り始めた。
 しかし、木材とは言っても、大きめの枝を割った物であり、粗悪な矢柄しか作る事ができない。
 しかも、その矢柄に取り付ける鏃(やじり)は金属製ではなく、動物の骨を磨いて作った物である。
 その上、矢羽に使えるような鳥の羽も手に入らないので、出来上がった矢の仕上がりは最低級である…が、それでも、相手から距離15mほどの地点で射られれば、そのうち8割は命中した。
 この森に逃げ込んでからの1ヶ月間、若者はこの粗悪な矢を頼りに生き延びて来たのである。
 矢柄を何本か作った後、若者は自分の右腕を調べた…まだ動く。
 しかし、弓を引く事などできそうにない。
 もはや、満足に戦える身体ではない。

「(治るか、死ぬか…このまま待ちたいが…。)」

 若者は隠れ家に貯えられた水や食料が残り少ない事を思い出した。
 水や食料がなければ、身体が回復する可能性は皆無である。
 それを得るためには、敵である「海の民」から奪うしかない。

「(行くしかない。)」

 若者は決断し、刃渡り60cmほどの青銅製の剣を左手に持ち、隠れ家である洞穴から出た。
 身体が多少なりと動く今のうちなら、敵を殺す事ができるかも知れない。
 
 
 
 トルク王国は孤立した地域に存在していた。
 トルクは他国との文化交流が少なく、技術の進歩も遅れていた。
 しかし、最近までは、特に大きな問題は生じていなかった…侵略者が攻め込んで来る前までは。
 侵略者は突然やって来た。
 彼らは「海の民」と呼ばれる民族で、トルクの民が失ってしまっている活力に満ちた好戦的な民族であり、その海の民の指導者の一人ベネシスは殺戮を信念として、平和慣れし切ったトルク王国に攻め込んだのである。
 500年以上に渡る平和を享受して来たトルク王国には正式な軍隊すら存在せず、その国土の大半は1週間足らずで制圧された。
 しかし、最後の拠点である王都トルクの防衛戦では、トルクの戦士達は若き皇太子アネスの指揮の下、海の民の副将セリューミランを生け捕る事に成功した。
 それ以後、海の民の侵攻は中断されている。
 海の民相手に戦ってもトルク勢に勝ち目はない。
 しかし、講和は可能である。
 そこにアネス達の唯一の希望があった。
 
 
 
「ここまで遅くなるとは何事だ! 恥を知れ!」

 海の民の主教ベネシスは声を荒げた。
 その右のこめかみに大きな傷痕がある。
 1ヶ月前にトルクの戦士の一人に負わされた傷であるが、その戦士は海の民の馬を奪って南の森に逃げていた。

「こうなっては人任せにはできぬ!」

 顔に傷を付けられたのは他ならぬベネシス自身である。
 やはり、自分の手で奴を切り刻まなくては気が済まない。
 地の果てまでも追い詰めてやる。
 …が、それはベネシス一人の感情であった。

「ベネシス主教、落ち着かれよ。…それより、王都トルクから使者が来ている。」

 指揮者の一人トビアスがベネシスをなだめた。
 冷静な傭兵隊長トビアスは私怨に由来する戦いには興味を持っていなかった。

「奴らは和平と引き換えに、この国の領土の4分の3とセリューミラン殿の身柄を差し出すと言っている。願ってもない好条件だ。だから、もう戦う意味はない。」

 トビアスはなおもベネシスを諭し続けた。
 すると、ベネシスは目を細めてトビアスを睨み付けた。

「傭兵隊長、そなたは本当に海の民か?」

 このベネシスの言葉に、トビアスが溜め息を吐く。
 ベネシスの信念に、トビアスはどうしても馴染めなかった。

「…少なくとも、私の部隊の者はこれ以上の戦いを望んでいない。…いや、この軍勢の大半の者が私と同意見だろう。はっきり言う。ベネシス主教は軍人としての責任を果たされていない。」

 このトビアスの言葉を聞き、ベネシスはさらに目を細めた。
 ベネシスの顔はわずかに蒼ざめていた。

「聞捨てならんな。話し続けるがいい。」

 ベネシスは低い声で尋ねた。
 仕方なく、トビアスは正直に答え始めた。

「ベネシス主教は…たった一人の敵兵を捕らえるために軍勢の兵士を割かれた。つまり、個人的な用件で兵を動かされたのだ。そして、和平を拒み続けるのも、個人的な信念や感情によるもの。軍人は無私であるべきだと私は思う。」

 トビアスが言い終えた瞬間、ベネシスは剣を抜いてトビアスの脳天に斬り込んだ。
 鍛え込まれた鋼の刃はトビアスの頭を両断し、そのまま臍(へそ)の近くまで抜ける。
 ベネシスは激しく痙攣するトビアスの死体を陣屋の外に蹴り出した。

「ベ、ベネシス様! 何て事を!」

 現場に居合わせた幕僚の一人ソロミスが叫んだ。
 他の海の民の将兵達もベネシスに非難の目を向ける。
 ベネシスは自分を支持する者がいない事を即座に理解した。

「わかった。呼んで来るがいい。」

 ベネシスが呟くかの様に言った。
 陣屋の中が静まり返る。

「トルクの使者の話を聞こう。」

 ベネシスは静かに言うが、その静かさこそが殺戮の前兆である。
 一同は慌ててトルクの使者を呼びに行った。
 
 
 
「拝謁の御許可を賜り、光栄至極に存じます。」

 トルク王国の使者である美貌の青年が格式張った言葉で挨拶した。
 しかし、その顔には皮肉めいた笑みが浮んでいる。
 ベネシスは吐き捨てるかのような口調で答えた。

「アネス王子よ、戦の準備を怠り、ここへ何をしに来たか。」

 ベネシスが「王子」と呼ぶ通り、トルクの使者として来ている青年こそ、敵国トルクの皇太子アネスその人であった。
 そして、アネスの脇には目つきの鋭い少女サランドラが控えている。
 このアネスとサランドラ二人はここ1ヶ月間ほぼ毎日、海の民の陣地を訪れていた。

「和平交渉です。今日こそは、色好い返事をお願いしますよ。」

 アネス達はいつも和平交渉のために来ていた。
 しかし、ベネシスは頑としてアネス達に会うのを拒み続けていた。
 そのベネシスが会見を許す以上、今日こそは何か進展があるに違いない。

「今、隊長の一人を教導したところだ。そなたも教導しなくてはならぬようだな。」

 ベネシスがそう言った時、周りの海の民達は戦慄した。
 ベネシス主教は先ほどその「教導」として、トビアス隊長を斬り殺している。
 今度はベネシスは剣に手をかけず、呪文を唱え始めた。

「海に眠る我が戦友たちよ。ベネシスの願いを聞き入れ、汝らの子に仇なす者から水の流れを遠ざけたまえ。」

 そのベネシス主教の祈りに呼応するかのように、王都トルクの方角から地響きが聞こえ始めた。
 「眠れる戦友たちよ、憐れみたまえ」とベネシスが祈りを続けると、地響きはさらに大きくなった。
 王都トルクに流れ込む川の流れが変わっているのではないか…アネスにはそう思えた。
 その地響きを耳にしながら、アネスは自分がどんな怪物を相手にしているのか悟った。
 そのアネスの様子を見て、ベネシスは祈りを止めて周囲に呼びかけた。

「陥落させるのが目的なら、最初からそうしている。それでもなお、戦う権利を授けたというのに、それを拒まれて心外ではある。…が、さらなる憐れみを与えねばならぬのだな?」

 ベネシスは口の端をゆがめると、苦々しそうに言葉を続けた。

「この1か月、よくも和平などと言い続けられたものだ。愚かしくはあるが、それもまた信念であると認めよう。アネス王子の申し出を受けよう。」

 このベネシスの言葉に周りの者は驚愕(きょうがく)の表情を浮かべたが、アネス一人はどうにか微笑んでいた…この日が来る事は確信していた。
 しかし、ベネシスはアネスでさえ予想しなかった事を言い出した。

「ただし、領土は必要ない。すでに得た財貨を持ち帰るだけだ。」

 この言葉はアネスをも驚かせ、不安にさせた。
 有利な条件をわざわざ放棄する以上、ベネシスは何か別の見返りを望んでいるはずである。

「当然、条件がある。セリューミラン主教が敗れた時の戦いで、あの城門の外から一人で飛び出して来た男がいたはず。彼奴は南の森に逃げ込み、この1ヶ月で我らの仲間を50人ほど殺害した。彼奴を捕らえて引き渡してもらう。」

 ベネシスの言葉を聞きながら、アネスは「セレニオ」と言う名の若者を思い出していた。
 ベネシスの言う条件に該当する者は、アネスの知る限り、セレニオだけである。

「ご、50人…。」

 アネスの側近サランドラが呟いた。
 サランドラはセレニオと同郷の者であり、セレニオが抱えていた殺意を感じてはいたが、それでも彼が屈強な海の民を相手に大規模な殺傷を展開していた事には驚きを隠せなかった。
 一方、アネスは努めて冷静に言った。

「それだけでは誰なのか判りませんね。それより、私の首を差し上げましょう。トルク軍を指揮していたのは私ですし、ベネシス様の言う男も私の指示に従っただけです。」

 アネスは正論を述べた。
 敗戦国の指揮者は戦争犯罪人として処理される。
 しかし、一兵卒にまで責任を押し付ける訳には行かない。
 …が、相手のベネシスに正論は通用しない。

「いや、アネス王子にもトルクの将兵にも罪があるとは思わぬ。どんな獣でも襲われれば身を守ろうと牙をむき、それは自然の摂理であろう。…だが、あの者は自衛を超えて殺しすぎた。その責任はあの者自身がとらなくてはならない。もし、かばうのであれば…城壁の中の者達がどこまで渇きに耐えられるのか、試練が与えられるであろう。」

 ベネシスはそう言いながら、「それも悪くないな。」と思い始めた。
 その残忍なベネシスの心中を察したアネスが急いで口を挟む。

「承知しました。その男、必ずやこちらにお連れします。」

 アネスの言葉にベネシスは満足そうな表情を浮かべた。
 一方、アネスは人物としての底を見透かされたように思い、奇妙な悔しさを覚えた。
 
 
 
 王都トルクへ戻る道すがら、サランドラが呟くかの様に言い出す。

「あれって…やっぱり、セレニオの事ですよね…。」

 そう呟きつつも、サランドラは確信していた…敵が探しているのは、サランドラと同じ村で共に育ったセレニオに違いない。
 そして、アネスもそのサランドラの考えを否定できなかった。

「多分…ね…。他に心当たりがないもの。」

 サランドラとアネスは重苦しい顔つきで王都トルクに戻った。
 1ヶ月前、海の民の副将セリューミランがトルクの城壁の中に突入して来た時、セレニオと言う名の兵士が自ら時間稼ぎの囮(おとり)になって城門を閉めさせた。
 その結果、孤立したセリューミランは降伏し、セレニオは消息不明になっていた。
 そして、ベネシスの発言からセレニオが生存している確証が得られたものの、同時に、せっかく生き延びていたセレニオを自分達の手で捕らえなくてはならなくなった。

「(な…何て嫌な仕事だ。)」

 アネスはセレニオと親交があった訳ではないが、それでもセレニオは仲間であった。
 しかし、アネスはその仲間を敵に引き渡さなくてはならないのである。
 
 
 
「アネス様! 大変です! 川が!」

 王都トルクの城門をくぐると、セレニオの弟セルネリオが駆け寄って来た。
 この少年の澄んだ目を見ていると、今のアネスの胸は深刻に痛んだ。

「セルネリオ君…セレニオ…殺されてた。」

 アネスは嘘をついた…セルネリオの心が傷付くのは承知している。
 しかし「捕まえて海の民に引き渡す」などと打ち明ければ、セルネリオの心は回復不能なほどに傷付いてしまうであろう。
 どうせ傷付くなら、その傷は小さい方が良い。

「ア、アネス様…冗談でしょう?」

 セルネリオは今にも泣き出しそうになった。
 しかし、ここで騙し通すのがアネスの義務であった。

「残念ながら…。だけど…海の民はセレニオの勇気を称えていたよ…。だから、和議に応じると言って来た。…戦いが終わる。もう、誰も傷付きはしない。…セレニオのおかげだ。君の兄さんのおかげだ。」

 アネスの言葉を聞きながら、セルネリオは黙って涙を流し始めた。
 普段は気丈なセルネリオの涙を、アネスは初めて見た。
 そのセルネリオに引け目を感じながら、アネスは言葉を続けた。

「ああ。もう、泣いていいんだ。…もう、無理をする必要はないんだ…。」

 アネスはセルネリオの髪を手で梳かしながら言い、サランドラの方を見る。
 今のサランドラは厳粛な表情を浮かべていた。
 そのサランドラに向かって、アネスは弱々しく頷く。

「サランドラ君…悪いけど、フォクメリア殿にもセレニオの事を伝えて欲しい…。」

 アネスは嘘をつく事に疲れていた…素直にサランドラの力を借りる事にする。
 ちなみに、フォクメリアとはサランドラやセレニオ達と同郷の女魔術師であり、彼らにとっては姉貴分であった。

「はい。アネス様はお休み下さい。」

 サランドラはアネスの心中を察していた。
 ペテン師を自認するサランドラはさほど優しくはないが、アネスがその心の中に隠し続けている苦悩を知っていた。
 
 
 
 王宮に戻ったアネスは自室に引きこもって、あれこれ考えを巡らした。
 …やはり、セレニオを捕らえるしかない。
 多数を助けるために少数を切り捨てる、それは一国の指導者たる者の使命である。
 まして今回の場合、犠牲となるのは兵士一人である。
 本来なら、考えるまでもない事であった。

「(僕に…できるのか? 嫌だ…そんな事やりたくない…。誰か助けて!)」

 アネスは震え始めた…全てが恐ろしく感じられる。
 剣を手に襲って来るセレニオ、そのセレニオの死体に泣いてすがるセルネリオ、冷淡な表情を浮かべるサランドラ…全てがアネスの敵になる。
 アネスが彼らの心に負わせる傷は、アネス自身にも一生付いてまわる。
 気が進まない。
 別の人間に任せる事も考えた。
 従弟のユリシス王子ならセレニオを生け捕りにできるであろう。
 …それは「逃げ」に過ぎないが、本当に逃げてしまいたい。

「(どうして、僕だけがこんなに苦しい思いをするんだ!?)」

 アネスが絶対に口外しない本音。
 それが自分勝手である事は自覚している。
 アネス以外の人間もそれぞれの苦しみを抱いているはずである。
 その事もアネスは知っている。

「(みんな…僕を強いと思ってるんだ…。僕は…こんなに弱い人間なのに…。)」

 いつの頃からかアネス自身が気付いていた事実。
 それ故、アネスはいつも微笑みを浮かべて、自分の弱さを隠していた。
 そして、これからも隠し続けるのであろう。

「(隠さなくちゃ…。みんな、僕を強いと思ってる…。)」

 多くの人間が「英雄」としてのアネス王子を望んでいる。
 弱々しい本当のアネスなど、誰にも望まれてはいない。
 アネスは時間をかけて決意を固めた。

「(たかが一兵卒じゃないか。僕は何を迷っているんだ?)」

 アネスは自分に何度も言い聞かせた…セレニオを捕らえて海の民に引き渡す。
 それだけで、多くの人々の命が助かる。
 多数のために少数を切り捨てる。
 それが指導者たる者の使命である。
 それがアネス王子の義務であった。
 アネスは自室から出ると、王宮に仕える戦士達のうち8名を内密に呼び出した。
 人数としては少ないが、それが今のトルク王国の限界である。

「明日から海の民と共同で戦争犯罪人を捕らえるため、森に向かいます。これは命令です。厳守するように。…この件については、口外する事を許しません。」

 そのアネスの言葉は口調こそ丁寧であったが、確かな威圧感を漂わせていた。
 戦士達は誰一人として異議を唱えない…少なくとも、口には出さなかった。
 
 
 
 次の日の早朝、アネスは戦士達を引連れ、愛馬と共に王都トルクの門に向かった。
 ベネシスの気が変わらないうちに講和条約を結んでおきたい。
 そのためにも、一刻も早くセレニオを捕まえる必要がある。
 もう、嫌だなどと言っている余裕はない。

「アネス殿下、お待ち下さい!」

 不意に、城壁の上から一人の女性が飛び降りて来た。
 何かの魔術でも用いたのか、彼女は羽毛の様にゆっくりと落下し、怪我一つせずアネスの前に降り立った。
 この女性の名はフォクメリア。
 彼女こそ、サランドラやこれからアネスが捕まえに行くセレニオを育てた姉貴分であり、滅びつつあるトルクの現場の生き証人でもあった。

「サランドラから聞きました。セレニオを捕らえに行くと言うのは本当ですか?」

 フォクメリアが尋ねた。
 その口調には、特に感情は込められていない。

「…ええ、本当です。他に方法が見付かりませんでした。」

 アネスは正直に答えた。
 隠し立てをしない方が精神的にも楽である。
 フォクメリアはアネスの目を見ながら、次第に悲しげな表情を浮かべた。

「私は幼い頃から、戦士としての心構えを教えられて来ました。…ですが、今はその事を少し後悔しています。…大勢の人を助けるためにセレニオを見捨てるのですから。」

 アネスは何も答えず、フォクメリアの脇をすり抜けた。
 フォクメリアと感傷を共にしている暇はない。
 さもないと、アネス自身の決心が揺らいでしまう。

「私もお供します。あの子の…セレニオの最期を見届けなくては…。」

 フォクメリアが付いて来た。
 アネスにも彼女を止める理由はない。
 
 
 
 アネス達は城門を開けた。
 まだ日は昇っていないが、東の空は薄明をたたえていた。

「(今朝は、朝焼けは見えないんだね。)」

 アネスがその様な事を考えていると、突然、一同の背後から声が掛かった。
 その声に一同の多くは聞き覚えがあった。

「アネス様ー!」

 それはセルネリオの声であった。
 アネスは内心うろたえた…今はセルネリオだけには会いたくなかった。
 立ち止まったアネスにセルネリオが追い付く。

「アネス様! 兄ちゃんを殺しに行くって、本当なんですか!?」

 セルネリオに教えたのはフォクメリアか、それともサランドラか…。
 それも今となっては、どうでも良い疑問である。

「違うよ。セレニオはもう死んでしまったんだ。殺しになんて行けないよ。」

 アネスはこの期に及んで嘘をついた…嘘を信じ込ませるのには慣れている。
 しかし、もうセルネリオは騙されなかった。

「アネス様…どうして嘘ばっかり言うんですか? それに、いつだってアネス様は何か隠してて…。」

 セルネリオの言葉はアネスの心に深々と突き刺さった。
 気付かれていた…アネスの心の弱さが…隠し通していたつもりであったのに。
 もはや、今のアネスにはセルネリオとまともに向き合う勇気はない。
 アネスは目を伏せ、セルネリオの脇をすり抜けようとした。

「アネス様!」

 セルネリオがアネスの前に立ちふさがった。
 セルネリオとアネスの目が合う。
 強い意志を秘めたセルネリオの瞳にアネスは恐怖感を覚えた。
 そのまま、数秒間の時間が流れる。
 …そして、アネスを襲う恐怖感が臨界点を超えた。
 その瞬間、アネスはセルネリオの右脇腹に左拳を打ち込んでいた。
 それはトルク王家に伝わる拳闘術であった。
 衝撃が肝臓まで抜け、セルネリオは地面に転がって悶絶した。

「セルネリオ君…僕みたいに弱い人間になっちゃ…ダメだからね。」

 アネスは自己嫌悪に震えながら呟いた…無性に泣きたくなった。
 しかし、部下の面前で泣き面を見せる訳には行かない。
 アネスは馬に飛び乗った。

「私はこれから急いで南の森に行き、そこに陣取っている海の民と交渉します。その後、現地で待ちますので、なるべく急いで来るように。」

 アネス王子は戦士達に指示を残し、そのまま南の森に向かって馬を走らせた。
 実際、今は時間が惜しい。
 一刻も早くセレニオを捕らえなくてはならない。
 また、セレニオに返り討ちにされた場合に備えてアネスは遺書を残して来た。
 もしアネスが死んでも、聡明なセルネリオと勇敢なユリシス王子の二人が指導者となってくれるであろう。
 今なら迷いはない。
 
 
 
「奇跡だ…。」

 森に逃げ込んでいた若者…セレニオは今日も海の民を殺して生き延びた。
 しかも、炎症を起こしていた右腕が回復しつつある。
 状況は好転した。
 しかし、まだセレニオは困難な状況に置かれている。
 この隠れ家も、近いうちに発見されるのは確実である。
 それまでの間に右腕の状態が十分に回復しなければ、結局、セレニオは命を失う事になる。
 セレニオは気を引き締めた。

「(何とかして生き延びたいものだ…。)」

 セレニオには生きる事を望む理由があった。
 弟セルネリオに会いたいと願ってはいるが、すでにセルネリオは一人前の狩人であり、兄セレニオを必要としていない。
 むしろ、セレニオの存在はセルネリオにとって、重荷となる可能性が高い。
 セレニオはその点を痛いほど自覚していた。
 セルネリオに会いたいと願う気持ちはすでに半ば切り捨てている。
 それでも、あの寂しげに微笑む青年…自分自身を偽り続ける青年アネスの力になる事をセレニオは望んだ。
 セレニオなど何の助けにもならないかも知れないが、それでもアネスを放っておけない。
 …そうした事を考えながら、セレニオは海の民から奪ったばかりの青銅製の剣を研いでいた。
 左手一本なので本式の研ぎ方はできないが、それでも寝刃を合わせる事はできる。
 やがて、剣の手入れが終わる。

「(目的は後回しだ。とにかく生き延びる。)」

 セレニオは余計な事を考えるのを止め、新しい隠れ家の場所や今後の戦闘計画について考えながら眠りに落ちた。