「初めまして。トルク王国の皇太子、アネス・トルクです。」
黒髪の青年アネスは馬から下りて自己紹介した。
相手は海の民の士官、アネスの祖国であるトルク王国に侵略して来た民族の士官である。
「お会いできて光栄です。ところでアネス殿下、御一人で来られたのですかな?」
海の民の士官は名乗りもせずに答えた。
その顔には冷ややかな笑みが浮かんでいる。
しかし、今のアネスはそれを非難できる立場にはなかった。
「私の部下達は徒歩で参っておりますので、到着まで少々お待ち下さい。ですが、お探しの人物を捕らえるのを遅らせはしません。」
アネスの返答を聞き、海の民の士官は侮蔑の表情を浮かべた。
近くにいた海の民の兵士達も陰湿な笑みを浮かべた。
「(こいつは仲間を売ろうとしている。)」
海の民達の表情はそう語っていた。
トルク王国の戦士の一人が海の民の総大将の顔に負傷させ、この森に逃げ込み、1ヶ月以上潜伏している。
そして、海の民の総大将は「その戦士さえ差し出せば和議に応じる」と申し出て来た。
それは滅亡寸前のトルク王国にとっては願ってもない申し出であり、アネス王子としては受けざるを得なかった。
しかし、どんな理由を付けても、「仲間を売る」事に変わりはない。
「ま、いいでしょう。」
海の民の士官はアネスを小馬鹿にするような口調で答えた。
アネス王子の祖国トルク王国は他国とは海で隔てられ、孤立した地域に位置していた。
そのため、他国から侵略される危険が少なく、トルク王国は500年以上の平和を享受して来た。
しかし、その平和も「海の民」と呼ばれる民族の攻撃によって終わりを告げた。
平和慣れし切ったトルク王国に海の民を止める戦力は存在せず、海の民は1週間ほどでトルク王国のほぼ全域を制圧した。
しかし、トルク王国最後の拠点である王都トルクでの戦いでは、トルクの戦士達はアネス王子の指揮の下で善戦した。
攻めあぐねた海の民の総大将は、トルク側のアネス王子が提唱した和平を受け入れる事を決意した。
そして、和平の見返りとして海の民が要求したのは、それまでの分捕り品と、1人の戦争犯罪人の身柄…それだけであった。
しかも、戦争犯罪人としてその身柄を要求されたのは一介の兵士であり、トルク王国の王族や将官ではなかった。
それは不気味なほど無欲な要求であった。
しかし、この要求はある意味では正当な物であった。
2日目の戦いで海の民が一気にトルク城内に押し入ろうとした時、一介の兵士セレニオが時間稼ぎの囮(おとり)となって城門を閉ざさせ、海の民から勝利を奪ったからである。
しかも、その時に海の民の副将がトルク城内で孤立し、トルク軍に捕縛される結果に終わっていた。
さらに当時、目的を達成した兵士セレニオは海の民の総大将に手傷を負わせ、そのまま馬を奪って王都トルクの南の森に逃げ込み、追手として差し向けられた海の民を1ヶ月の間に50人以上殺害していた。
この日の朝も、森に隠れていた若者セレニオは目を覚ました。
彼がこの森に逃げ込んでから1ヶ月間、眠る事すら単なる戦闘準備となっている。
セレニオは辺りを見回した。
場所は木の上に作られた自分の隠れ家。
葉陰から朝日が差し込み、手入れされた青銅製の武器が照らし出されている。
セレニオはゆっくりと起き上がり、自分の身体の具合を調べた。
炎症を起こしていた右腕の状態がかなり回復している。
万全とは言い難いが、戦えないと言うほどでもない。
辺りに敵である海の民の姿は見られないが、セレニオは武装の準備を始めた。
まず、セレニオは革靴の具合を入念に確かめた。
この革靴は海の民の鎧に使われていた革を細工して作られた物である。
数日前までは草履に頼っていたが、この1ヶ月間の試行錯誤の末、やっと実用に足る革靴が完成した。
次に、セレニオは右腰の帯に刃渡り60cmほどの青銅製の剣を鞘ごと挟み、胸と手首に動物の毛皮を巻き付けた。
そして、海の民から奪った牛革製の脛当てを装着し、海亀の甲羅で作られた兜をかぶった。
また、長さ140cmほどの弓を右肩に掛け、矢筒を左腰の帯にくくり付けておく。
武装の準備が終わると、セレニオは木から木へと飛び移り始めた。
セレニオは海の民を探して森中を移動した。
しかし、海の民の姿は見られなかった。
この1ヶ月間、多数の海の民達がこの森を徘徊していたのにも関わらず、この日に限って海の民の気配すら感じられないのである。
「(罠…か?)」
セレニオの緊張感が高まる。
セレニオは努めて冷静に思案し始めた。
「(私を追うのを止めたのか? と言う事は、王都を一気に攻めるつもりか。)」
セレニオはそのように推察した。
海の民達はその軍勢の3分の1ほどの人数を割いてセレニオを追い回していたが、ついに王都トルクを一気に攻め落とすつもりになったのであろうか。
「(急がねば。)」
セレニオは強く感じた。
王都トルクに残してきた弟や仲間達の安否が気になる。
また、知り合って間もないアネス王子の事も心配であった。
「(アネス様は悲しい人だ。自分自身を偽り続けている。)」
セレニオはアネスの寂しげな微笑みを思い出した…かつては痛々しく感じられ、見るのが嫌だった微笑み…そして今となっては、懐かしく思い出される微笑み。
「(死なせたくないものだ。)」
セレニオは木から降り、王都トルクのある方角を目指して走り出した。
セレニオは木々の間を抜けて走った。足音を忍ばせ、息を切らさない程度の速さで走ったが、それでも30分後には森の端に辿り着いた。
これはこの1ヶ月間で能率の良い走り方を学んだ成果である。
セレニオは木陰に隠れ、遠くに目を凝らした。
特に不審な物は見当たらない。
セレニオは木陰から木陰へと移動し、さらに森の端に近付いた。
「(いた。)」
見えた…敵である海の民達が森の外に陣取っている。
それは7人ほどの部隊であった…が、行軍する様子は見られなかった。
セレニオはその場を離れ、別の部隊を探し始めた。
他の場所にも海の民の部隊が陣取っていた。
「いたぞ! あそこだ! 追え!」
海の民が木陰に潜んでいたセレニオを発見し、剣や槍を手にして追って来た。
他の部隊からも増援が素早く駆け付け、30人以上の海の民がセレニオを追い掛け始めた。
セレニオは素早く木々の間に駆け込み、そのまま走り続ける。
海の民は誰一人としてセレニオに追い付けなかった。
装備の重量の違いもあるが、地形に対する理解の違いも大きかった。
海の民がその名の通り、海岸や海上で生まれ育つ事が多いに対し、セレニオは幼い頃から狩人として野山を駆け回って来たのである。
やがてセレニオは人気の少ない場所に一人辿り着いた。
「(とりあえず、王都は攻められていないようだ。)」
無事に逃げ延びたセレニオはそう判断した。
「(結局、無駄足だった。)」
その事に気付いたセレニオは川に向かった…生活用水を確保しておきたい。
あるいは、海の民の包囲網を抜け出す好機が見つかるかも知れない。
程なくして、セレニオは海の民が陣取っていない川岸を見つけた。
川の水を兜に汲み、その水に自分の顔を映した。
そして、剣の鍔(つば)に仕込まれた短刀を引き抜いて、薄っすらと伸びていた髭(ひげ)を剃り始める。
「(水浴びをしたいな。)」
普段、セレニオは兜に汲んだ水を隠れ家に持ち帰り、その水で布を湿らせて身体を拭いていた。
生き延びるには不利な性癖であったが、それがセレニオにとっての唯一の楽しみであった。
そして今、セレニオは衣服を脱いで水浴びをしたい欲求に駆られた。
「(見つかったら、裸で逃げよう。)」
セレニオは髭を剃り終えると、武具を外し、衣服を脱いで川に入った。
川魚がいた…俗に虹鱒(にじます)と呼ばれる体長20cmほどの魚である。
セレニオは虹鱒を素手ですくい上げ始めた。
それは慣れない作業であったが、セレニオは熱中した。
30分ほどの時間が経過し、虹鱒が3匹ほど川岸に打ち上げられた時、セレニオは人の視線を感じ、急いで川から飛び出し、川岸に置いてあった剣を左手で抜いた。
そしてセレニオが剣を構えようとした時、相手は口を開いた。
「セレニオ?」
確かにそう聞こえた。
セレニオは相手の姿を確認した。
黒髪と長身が特徴的な青年…相手はこの場には一人だけで来たようであった。
「アネス様?」
セレニオも相手に呼び掛けた。
相手は確かにトルク王国の皇太子アネスであった。
アネスとセレニオは20mほど離れて見つめ合った。
そのまま、数秒間の時間が流れる。
そして、不意にアネスが口を開く。
「…セレニオ。」
「はい。」
セレニオがアネスからの呼び掛けに応じる。
その生真面目なセレニオの応対に、アネスが微笑んで言う。
「なかなか良い身体してるね。」
アネスにそう言われて、セレニオは自分が全裸である事を思い出した。
アネスが満面に笑みを浮かべ、セレニオが狼狽する。
「し、失礼しました。」
セレニオは慌てて衣服を着込んだ。
これらは海の民から奪った衣服であるが、トルク王国で一般的な物とあまり変わらない。
下着として巻き付ける布、チュニック(上半身から腰までを覆う衣服)、短めの袴(はかま)…ごく平凡な服装であった。
「アネス様、どうしてここに?」
セレニオは衣服を着込みながら質問した。
すると急に、アネスは黙り込んだ。
やがて、セレニオが衣服を着終える。
セレニオは座りやすそうな岩をアネスに差し出し、先ほど捕らえた虹鱒を持って来た。
セレニオは虹鱒の調理を始めようとしたが、浮かない顔のアネスを見て、その隣りに腰を下ろした。
長身のアネスと並んで座ると、セレニオは小柄に見えた。
アネスの黒い瞳に普段の輝きはない。
また、いつも漂わせている存在感も、今のアネスからは感じられなかった。
ただ、寂しげな様子だけが残されている。
「王都は…落ちてしまったようですね。」
セレニオは推測を口にした。
王都トルクがあっさりと陥落し、アネス王子がここまで落ち延びたのであろうか…それがセレニオの推測であった。
しかし、アネスは首を横に振った。
「…君を…捕まえに来た。…海の民に引き渡すために。」
アネスは消え入りそうな声で宣言した。
それに対し、セレニオは微かな笑みを浮かべた。
「アネス様、いきなり何を言い出す。」
セレニオはアネスの言葉を冗談として受け取っていた。
しかし、アネスの痛々しい表情を見て考え直した。
「…本気ですか?」
このセレニオの言葉にアネスは首を縦に振った。
アネスは小さな声で答えて言った。
「…セレニオ…僕は君を捕まえて、海の民に引き渡さないと行けないんだ…。それが…和平条約の条件だから…。」
アネスの返答にセレニオは蒼ざめた。
海の民が異様な執拗さで自分の命を狙っているのは知っていたが、和平交渉の材料にまでされているとはセレニオ自身は夢にも思っていなかった。
「嘘だ…。」
セレニオが呟いた。
アネスも海の民の要求が嘘であると信じたかった…しかし、現実であった。
アネスは何も答えなかった。
二人は空を見た。
夏の日の昼下がり。
白い雲が流れて行った。
「…それで、アネス様は自分の判断で、私を彼らに引き渡すのですか。」
不意に、セレニオが沈黙を破った。
それは無慈悲な質問であった。
アネスが目を伏せる。
「…だって…仕方ないじゃないか…。他に…。」
「言い訳は無用。」
セレニオが一喝し、アネスの気弱な言葉を遮る。
そのまま二人は黙り込んだ。
やがて、空が赤く染まり始めた。
「…私が素直に捕まれば、戦争は終わるんですね?」
セレニオが再び口を開いた。
アネスはセレニオの目を見た。
普段は冷たい眼光を放つセレニオの鳶色の瞳…それが今は優しげであった、痛々しいほどに。
アネスは何も言えなくなった…ただ黙って首を縦に振る。
セレニオはアネスに掛けるべき言葉を考えた。
憐憫、友情、不満、悲しみ、怒り…様々な感情がセレニオの心の中で混ざり合った。
やがて、それは一つの言葉となった。
「行きましょう。」
セレニオはそう言いながら立ち上がり、アネスに手を貸して立ち上がらせる。
セレニオはアネスの助けになる事を望み、この日まで生き延びて来た。
そして、その望みが叶えられる。
それだけの話である。
本当は、セレニオは恨み言を言いたかった。
しかし、それがアネスを不必要に苦しめるだけである事も判っていたので、セレニオは自分自身の心を押し殺した。
「…セレニオ。」
「急ぎましょう、彼らの気が変わらないうちに。」
セレニオはアネス王子の手を引いて、森を迂回する道を歩き始めた。
その鳶色の瞳には、いつも通りの冷たい光が宿っていた。
アネスとセレニオは黙々と歩き続けた。
そして、辺りはいつしか暗くなり、空に星が浮かび始めた。
「弟は…セルネリオは生きてますか?」
不意に、セレニオが弟の安否を尋ねた。
アネスの表情がわずかに和らぐ。
「うん。セルネリオ君には、僕も期待してるよ。」
そのアネスの言葉を聞き、セレニオは少し寂しげな笑みを浮かべた。
すでにセレニオは弟にとって必要な存在ではなくなっていた。
「ええ…。でも、彼は私の本当の弟では…。」
セレニオが真実を打ち明けようとすると、アネスは頷いて口を開いた。
アネスは推測ながらもセレニオ達の事情を察していた。
「知ってる。彼はアルハン王国の王族だよ。」
このアネスの返答にセレニオは驚いた。
自分が弟として扱って来た少年が異国の王族である事は知っていたが、それをアネスが詳しく知っているとは思わなかった。
アネスは言葉を続けた。
「セルネリオ君の持っている短剣にアルハン王家の紋章が刻まれてた。あのアルマードさんも彼を捜しに来たらしい。まだ、あの人には教えてないけどね。」
アネスははっきりと答えた。
ちなみに、アルハン王国とはトルク王国から遠く離れた王国であり、その地では鋼鉄製の品が日常的に用いられている。
国力の面でもトルク王国のそれを大きく上回っているはずである。
「まあ、その方が良いかも知れません。アネス様を見ていると、王族と言うのが悲惨に思えます。」
セレニオはうっかりと本音を話してしまい、気まずい表情を浮かべて口をつぐむ。
しかし、アネスはセレニオの言葉を聞き逃さなかった。
「悲惨? どう言う事かな?」
アネスは素早く聞き返した。
セレニオは表情を変えずに答え始める。
「…アネス様は本当の事を言えない。…泣きたい時にも泣けない。…自分の心を隠すのも王の仕事だから。」
セレニオの言葉を聞きながら、アネスは震え始めた。
蒼ざめたアネスの唇も震えていた。
「ぼ、僕は…。」
アネスは何を言うべきかも判らず、ただ無意味に口を動かしていた。
それに対し、セレニオは明確な意思を持って言葉を続けた。
「私にだって判ります、アネス様がいつも無理している事くらい。」
セレニオはアネスの言葉を遮り、そのまま言葉を続けていた。
そこにはセレニオなりのアネスに対する反発心もあった。
「貴方は悲しい人だ。何でもかんでも自分一人で抱え込んで、苦しんで…。」
セレニオがそこまで言った時、アネスはついに耐えられなくなった。
感情を交えずに事実関係を語るセレニオの言葉は、内心で苦悩しているアネスにとっては拷問にも等しかった。
「もう、やめてくれ!」
耐え切れなくなったアネスが叫んだ。
その目には涙が浮かんでいる。
今のアネスは自分の心を隠さなかった。
「そんな、こと…ほっといてくれよ…。」
アネスが涙を流し始めた、アネス本来の弱々しい心の命じるまま。
セレニオはアネスを近くの朽ち木に座らせ、自分もその隣りに座った。
この夜は星が美しかった。
セレニオは夜空を見上げてから、アネスの方に顔を向けた。
「泣いて下さい。その方が楽でしょう。」
話すセレニオの顔は真剣であった。
するとアネスは幼い子供のように泣きじゃくり始めた。
「…どうして…どうしてなんだ…!」
アネスの声は言葉にならなかった。
様々な感情がそのまま口から漏れ出した。
セレニオはただ黙って聞いていた。
「(本当にどうしてなのだろう? 私だって普通の狩人として生きていたかったのに。)」
その言葉をセレニオは口に出せなかった。
やがて、アネスは泣き疲れたのか、うつむいて黙り込んだ。
その頃合を見計らってセレニオが口を開いた。
「そろそろ行きましょう。」
「いや、急がなくたっていいよ。」
アネスは立ち上がろうとしたセレニオを引き留めた。
しかし、セレニオは厳しい表情を浮かべ、強引にアネスを立ち上がらせた。
「急ぎましょう。」
「セレニオ、逃げるんだ。」
このアネスの返事を聞いて、セレニオは悲しげな表情を浮かべた。
アネスが自分で下した決断は断固として実行されなければならない…セレニオはそう考えていた。
もはや、悩んでいる時間さえ惜しい。
「私だって本当は逃げたいです。でも…。」
セレニオはそこで言葉を切り、再びアネスの手を引いて歩き出した。
しかし、それでもアネスは頑固に反論する。
「あの男が約束を守るもんか。」
アネスは海の民の総大将を知っている。
海の民を率いるベネシス主教は、常人には理解しがたい信念に生きる男であった。
約束が守られるか否かは疑わしい。
しかし、それでもセレニオはアネスの意見に反論した。
「守るかも知れません。」
セレニオはこの1ヶ月間で学んでいた。
可能性を最初から放棄するのは得策ではない。
夜風が吹いた…涼しげで心地好い風であった。
「今夜はトルクに帰ろう。」
アネスがセレニオの手を引く。
せめて、仲間達や弟との別れの挨拶をさせてやりたい。
「帰りません。」
セレニオははっきりとした声で反論した。
しかし、アネスは話し続けた。
「帰るんだ。これは命令だよ。…それに、みんな待ってる。」
そう語るアネスの手は力強かった。
セレニオはまたしても何か言おうとした…が、アネスはセレニオの手を強く握りしめて黙らせた。
アネスの手の温かさがセレニオを黙らせてしまった。
セレニオはうなだれて、アネスに手を引かれるままになった。
そしてアネスはセレニオの手を握ったまま、王都トルク目指して歩き続けた。