世界の果てにトルク王国は位置していた。
 そして、トルク王国は孤立していたために、今までは他国からの侵略とは無縁であった。
 しかし、この年になって「海の民」と呼ばれる好戦的な民族の侵略を受けた。
 平和慣れし切ったトルク王国には正式な軍隊すら存在せず、屈強の戦士である海の民は1週間ほどでトルク王国の国土の大半を制圧した。
 しかし、トルク王国の皇太子アネスは志願兵を組織し、最後の砦である王都トルクを防衛する事に成功した。
 王都トルク防衛戦では両軍とも多くの将兵が命を落としたが、海の民の副将セリューミランがトルク側の捕虜となって以来、戦いは一時停戦となっていた。
 それから1ヶ月以上、海の民は森に逃げ込んだ一人のトルク兵セレニオを追い続けた。
 海の民の副将セリューミランが捕虜となる原因を作ったのはそのトルク兵セレニオであり、海の民の憎しみは強かった。
 しかし、セレニオは追手として差し向けられた海の民を50人以上殺害して生き延びた。
 そして、海の民の総大将ベネシスはこれ以上自分の部下を信頼する事を断念し、トルク王国の皇太子アネスにセレニオ捕縛を任せる事にした。
 ベネシスは和平の条件の一つとしてセレニオの身柄を求め、アネス王子はそれに従わざるを得なかった。
 多数を助けるために少数を切り捨てるのがアネス王子の義務であった。
 アネス王子はセレニオが潜伏している南の森に向かい、森の外れの小川でセレニオと再会した。
 セレニオはアネス王子に抵抗せず、敵である海の民に引き渡される事を承諾した。
 
 
 
 二人は王都トルクに戻って来た。
 一人はトルクの皇太子アネス・トルク王子であり、もう一人は戦争犯罪人として海の民から狙われている兵士セレニオであった。
 二人ともまだ20歳にもならない若者であったが、敵である海の民を最も苦しめた戦士でもあった。
 この1ヶ月間、二人はそれぞれの方法で海の民に立ち向かい、結果としてトルク王国を滅亡から防いでいた。

「着いたよ、セレニオ。…僕らの町だ。僕らが守った町だ。」

 アネスはセレニオの手を力強く握った。
 しかし、セレニオは何も答えなかった。

「セレニオ…どうした?」

 アネスはセレニオのただならぬ様子に気付いた。
 先ほどまでは元気だったセレニオが、今は顔面蒼白になって冷や汗を流していた。
 その呼吸も乱れ始めている。

「いえ…何でもありません…。」

 セレニオは絞り出すかのように言った…その声から普段の覇気は感じられない。
 アネスはセレニオの額に手を触れた。
 セレニオの体温は異常に上昇していた。

「ひ…ひどい熱だ! セレニオ! しっかり!」

 アネスはセレニオを抱き上げ、王宮に向かって走り出した。
 
 
 
 アネスはセレニオを王宮の一室に運んだ。
 アネスはセレニオの容態を調べようとして寝台に寝かせ、その衣服を脱がせ…そして、絶句した。
 セレニオの全身は血管に沿って紫色に腫れ上がっていた。
 傷口から病原体が侵入し、セレニオの身体はすでに敗血症を起こしていて、アネスには手の施しようがなかった。

「そんな…せっかく…。」

 アネスは呟いた。
 先ほどセレニオが小川で水浴びをしている現場を見たが、その時にはセレニオの身体の異変に気付かなかった。
 しかし、今、蝋燭(ろうそく)の明かりで間近から見ると、セレニオの身体が戦傷と病で蝕まれている事が判明した。

「気がゆるんだ途端、これだ。…アネス様、もう嫌とは言いませんね?」

 セレニオは微笑んでいた。
 もう、セレニオが海の民に引き渡されるのを拒む理由はない。
 しかし、アネスは拒んだ。

「嫌だ。誰にも渡すもんか。」

 アネスははっきりと言った。
 その真剣な様子を見て、セレニオは目を伏せた。

「でも…私の命は…。」
 
「死なせるもんか。ここには水の司だっているし、王家の秘薬だってある。」

 アネスの言葉がセレニオを黙らせた。
 アネスは治療師でもある水の司達を呼ぶため、セレニオの部屋から駆け出した。
 
 
 
「アネス様!」

 一人の少女がアネスを呼び止めた。
 彼女はその名をサランドラと言い、セレニオと同じ村の出身で、今は弁論家としてアネスに雇われている。
 しかし、今のアネスにとってはどうでも良い事であった。

「サランドラ君、セレニオの具合が悪いんだ! 水の司を呼んでくれ!」

 アネスはそれだけ言うと、再び走り出した。
 サランドラが混乱するが、アネスは振り返らなかった。

「え? セレニオ、戻って来たんですか? ちょっと! アネス様!」

 サランドラが言い終わるのを待たず、アネスはその場所から走り去っていた。
 
 
 
「アネス殿下!」

 長身の女性がアネスを呼び止めた。
 彼女はその名をフォクメリアと言い、セレニオやサランドラの保護者であった。
 アネスはフォクメリアの方に駆け寄った。

「城門の外にセルネリオがおりますので、開門の御許可を…。」

 フォクメリアはセレニオの弟セルネリオと共に南の森を探索しに出かけていて、フォクメリアの実の弟フォスタリオと再会し、飛翔の魔術を使えるフォクメリアは一足先に王都トルクの城壁の中に戻って来たのである。
 しかし、フォクメリアがそれらの事を説明し終える暇はなかった。

「フォクメリア殿! 急いで来て下さい!」

 アネスはフォクメリアの言葉を遮って叫んだ。
 今のアネスにとっては、フォクメリアが腕利きの魔術師であり、治療の魔術を心得ている事だけが重要であった。
 アネスはフォクメリアの手を取ってセレニオの部屋に向かって走り出した。
 
 
 
 アネスとフォクメリアは息を弾ませながらセレニオの部屋に駆け込んだ。
 サランドラに呼ばれたのであろうか王宮付きの水の司が2人ほど、寝台に寝かされたセレニオの治療に当たっていた。
 セレニオは首を上げ、近付いて来るアネスとフォクメリアに目を向けた。

「やあ、メリア姉。」

 セレニオは懐かしいフォクメリアの姿を見て微笑んだ。
 ちなみに、メリア姉とはフォクメリアの愛称であり、その愛称を呼ぶ者は今や数人しか生き残っていない。

「セレニオ…生きてたんだね。…聞いて。フォスタリオが帰って来たの。セルネリオも城門の外で待ってるわ。サランドラも元気よ。…やっと、あの頃に戻ったのよ。」

 メリア姉はそれしか言えなかった。
 メリア姉は一目見ただけで、セレニオの病状がすでに手遅れである事を悟っていた。
 セレニオの容態を調べていた水の司達の顔にもあきらめの表情が浮かんでいる。
 メリア姉の父ファドニオ老師なら何とか処置できたかも知れないが、ファドニオ老師は海の民との戦いの中で命を落としている。
 セレニオも自分の死期を悟っていた。

「メリア姉、私は明日まで生きてられるかな?」

 セレニオはメリア姉の黒い瞳を見つめた。
 メリア姉の瞳は揺れていた。

「…多分。…でも、それより先は…。」

 結局、メリア姉は正直に答えた。
 セレニオはそれだけで満足であった。

「そう…。メリア姉、みんなを集めて。…セルネリオも、フォスタリオも、サランドラも…それにアルマードさんも。」

 セレニオは一人一人の名前を確認するかのように発音した。
 その顔には安らいだ表情が浮かんでいる。
 セレニオの弟セルネリオ、メリア姉の実の弟フォスタリオ、セレニオ達と幼なじみの少女サランドラ、異国からの旅人アルマード…いずれもセレニオの仲間であり、セレニオは彼らに言い残しておきたい事があった。
 セレニオの頼みを聞き、メリア姉はセルネリオ達を呼びに行った。
 アネスが棚から薬草を取り出して痛み止めの薬を調合するのを見ながら、セレニオは先ほどから考えていた事に関して決意を固めた。

「(私の仕事は思い出に残る事じゃない…確かな未来を残す事だ。)」

 セルネリオ達に少しでも確かな未来を残す…それがセレニオの最後の仕事であった。
 
 
 
 やがて、セレニオに指名された面々がメリア姉に連れられて部屋の中に入って来て、水の司達は自ら部屋から出て行った。

「セレニオ殿、海の民でさえ貴方を殺せなかった。だから、この程度の病に負けるはずがない。我らも信じております。」

 セレニオは名も知らぬ水の司達からも励ましの言葉を受け取った。
 そして、水の司達は去り、セレニオに指名された面々だけが部屋に残された。

「兄ちゃん…。」

「セレニオ…。」

 二人の少年…セルネリオとフォスタリオは病床のセレニオに近付いた。
 異国アルハン王国の騎士アルマードは何も言わず、セレニオに敬礼し、その場で直立不動の姿勢を取った。
 普段は飄々(ひょうひょう)としているサランドラも、今は厳粛な表情を浮かべてセルネリオ達と並んでセレニオの顔を覗き込んだ。
 アネスとメリア姉もセレニオの近くにいる。
 
 
 
 セレニオは寝台から身を起こして立ち上がり、1ヶ月ぶりに再会した弟セルネリオにふらつく足取りで近付いた。

「兄ちゃん…駄目だよ、寝てなきゃ…。」

 セルネリオが制止するが、セレニオの足は止まらなかった。
 そして、セレニオは弟セルネリオの前に辿り着いて向かい合った。

「セルネリオ…背、伸びたな。」

 セレニオは弟セルネリオの肩に手を置いて言った。
 15年前にはあんなに小さかった赤子が、今ではセレニオよりも少し大きくなっていた。

「(それに、男の顔になった。)」

 セレニオは思った。
 会わなかったこの1ヶ月の間に、セルネリオは身体も心も大きく成長していた。
 …もう、セレニオは必要ではない。

「セルネリオ、あの短剣をアルマードさんに見せて差し上げろ。」

 セレニオの言葉を聞き、アルマードが沈痛そうな表情を浮かべた。
 セルネリオはセレニオの実の弟ではなく、異国の旅人から託された子供であり、身の証の品として鋼鉄製の短剣を与えられていた。
 そして、異国アルハン王国の騎士アルマードはその短剣を持つ人物を探しにトルク王国まで来ていた。

「やはり…セルネリオ殿であったか…。」

 証の短剣を見せられるまでもなく、アルマードは目的の人物を見付けていた。
 彼の主君とセルネリオはよく似た顔立ちをしている。

「されど、今やアルハン王国とて内乱に満ちております。ガネム殿下、いや、セルネリオ殿もこのトルクに残られた方が…。」

 アルマードは彼なりにセルネリオ達を気遣っていた。
 それはセレニオに対する配慮でもあった。
 しかし、今のセレニオにその好意を受け取る事は許されない。

「アルマードさん、私の身体は腐り始めている。私はもうじき死ぬ。…だから、セルネリオには本当の家族に会わせてやりたい。」

 それがセレニオの決断であった。
 セレニオは毅然として話し続けた。

「セルネリオ、私の最後の頼みだ。アルマードさんの国に行って、お前の本当の家族に会え。…もう、私はお前と一緒にいられない…だから。」

 セレニオの言葉を聞きながら、セルネリオは何度も首を横に振った。
 弟セルネリオには兄の意見が身勝手にさえ思えた。

「嫌だ…僕はずっとここにいる。」

 セルネリオは貫くような眼差しで兄セレニオの目を見つめた。
 弟セルネリオの眼差しを見て、兄セレニオは満足そうな表情を一瞬だけ浮かべた。
 そして、次の瞬間には、セレニオは厳しい表情を浮かべていた。

「駄目だ、お前が私の近くにいる意味はない。」

 セレニオはそう言いながら、セルネリオをアルマードの方に押しやった。
 弟の背中を押しながら、兄ははっきりと約束して言った。

「いずれ私の方からお前に会いに行く。それまで待っていろ。」

 そのセレニオの言葉は力強かった。
 セルネリオは兄に押されるままになった。

「…約束だよ。」

「ああ。」

 兄弟の会話はそこで終わった。
 セレニオはフォスタリオとサランドラの二人の方を向いた。

「フォスタリオ、サランドラ、お前達も行け。…いや、行ってくれ。頼む。」

 セレニオは二人に頭を下げた…フォスタリオとサランドラにも生き延びて欲しいと願う。
 少なくとも、今のトルク王国に残っているのは危険である。
 フォスタリオはセレニオの真剣な眼差しを見てうなずいたが、サランドラは拒絶の表情を浮かべた。

「あたしは行かない。」

 サランドラは冷たく言い放った。
 セレニオにはその理由が推察できた。

「このままアネス様に仕えるつもりか。」

「うん。」

 サランドラは1ヶ月間アネス王子と行動を共にしていた。
 自分がアネスに心を惹かれているか否かすら判らないが、アネスとの1か月は多くのことを教えてくれた。
 サランドラとて身分の違いは弁えていたが、アネスと共に見てみたい風景が多すぎる。
 世の中の成り立ちも、自分自身の心も。
 一方、セレニオは別の見解を持っていた。

「(今回の一件が終わったら、アネス様も無事ではいないだろう。)」

 それをセレニオは確信していた。
 サランドラが苦難や不幸を覚悟しているとしても、それはアネスやセレニオを待ち受けている運命につき合わせていい理由にはならない。
 これからアネスと運命を共にするのはセレニオの役目であって、サランドラではない。
 普通の言葉でサランドラを説得できる可能性は低い。
 セレニオは嘘をつく事にした。

「お前がアネス様をどう思っているかは知らない。…ただ、アネス様はこの国からいなくなる。正確には、海の民に連れて行かれる。…アネス様が女だと言う話を冗談だと思っていたのか?」

 セレニオは真剣な面持ちで嘘を言い、さらに、この嘘に説得力を添える言葉を思い浮かべた。
 セレニオの脳裏に鋭い一言が浮かぶ。

「私は見た。」

 セレニオはきっぱりと付け加えた。
 一言だけであったが、人の心に食い入る鋭さを秘めていた。
 アネスの顔が紅潮する。

「ちょ、セレニオ!」

 アネスが取り乱して叫ぶ。
 その慌てた態度が一同にセレニオの言葉を信用させた。
 サランドラさえもセレニオの嘘を信じかけた。
 一方、アネスはセレニオと視線を合わせて、相手の意図に気付いた。

「(ああ、そうか…。僕らで決着つけないと。)」

 自分の覚悟にあまり多くの人を付き合わせるわけにはいかない。
 自分はその付き合わせる一人をセレニオと決めた。
 決心したからには、それ以外の人々とは縁を切って、彼ら自身の道に行かせなくてはならない。

「(わかったよ、セレニオ。ついてやるさ、アネス・トルク一世一代の嘘を。)」

 人を騙すには、自分が自分の嘘を信じなくてはならない。
 アネスは頭の中で筋書きを組み立て、その通りに動き始めた。
 アネスは目に涙を浮かべると、セレニオの手を握った。

「だって…セレニオ死ぬんだよ? そう思うと、セレニオがいた証を身に刻んでおきたくなってきて…。最初はセレニオも拒んだけど、最後には僕のわがまま聞いてくれて…。」

 ここで、アネスはセレニオに目で同意を求めた。
 セレニオは視線を外して「知りません」と答えた。
 そうした二人のやり取りが、かえって嘘に真実味を加えた。

「セレニオと話がしたい。二人きりにしてくれるかな?」

 アネスがそう言いだすと、居合わせた者達は素直に退室していった。
 アネスはセレニオを寝台に寝かしつけると、やや真剣な面持ちに戻った。

「散々わめいて、回り道もしたけれど、最後は責任を果たさなきゃね。…ただ、最後にもう一度だけ弱音を聞いてくれるかな? と言うか、弱音くらい吐かせろよ。」

 そう笑うアネスに、セレニオは思わずうなずいてしまった。
 これから弱音を吐くというのに、アネスの顔はどこか晴れやかだった。

「僕は一人になりたくない…。ただ、それだけだったんだ。国とか民衆なんて本当は興味なくて、仲間外れにされるのが恐かった。今もね。」

 アネスが本音を言った。
 それだけ言うと、アネスは満足したようだった。
 一方のセレニオはアネスに対する返答に苦慮した。

「アネス様、あと少しの辛抱です。私の事は忘れて下さい。」

 セレニオはアネスの顔を正面から見つめた。
 そして、二人はそのまま見つめ合った。
 しばらく見つめ合った後、アネスが口を開いた。

「…わかったよ、セレニオ。明日になったら、僕はセレニオを海の民に引き渡す…。でも、約束して欲しい。生きる事をあきらめないで欲しいんだ。確かに僕は弱虫だけど、あきらめなかったし、みんなが力を貸してくれた。だから、この町を守る事ができた。セレニオだってあきらめないでいたから、今まで生きて来られたはずだ。だから、これからも何があっても生きる事をあきらめないで欲しい。…勝手な言い分だけどね。」

 アネスの言葉を聞いて、セレニオは笑みを浮かべた。
 そして、セレニオはしっかりと肯いた。

「約束します。」

 セレニオははっきりと言った。
 すると、セレニオは不意に言葉を発した。

「あの…一つ頼んでいいですか?」

 セレニオの言葉にアネスは緊張した。
 セレニオは気まずそうに言葉を続けた。

「何か食べる物を持って来て下さい。朝から何も食べていないので。」

 セレニオは恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。
 アネスも微笑んだ。

「わかった。持って来るから、少し待ってて。」

 アネスは自ら厨房に向かった。
 その背中を見送り、セレニオは視線をうつろにした。
 セレニオにもまた言いたかったが言えなかった本音があった。

「(海の民に身柄を売りに行くのも、私一人で行ければいいのに。…アネス様の人望を守っておかないと、この国に今後はない。)」

 この期に及んでも、セレニオの観点は冷徹だった。
 しかし、今のセレニオにはその冷徹さを実行に移すだけの力が残っていなかった。
 それから数分後、アネスが陸稲と羊の乳で作られた粥の入った盆を持って戻って来た。
 これは備蓄食料の残り少ない今のトルク王国にとっては精一杯の晩餐である。
 また、アネスはフォクメリアやサランドラ、セルネリオとフォスタリオを連れて来て、他にもアネスの従弟であるユリシス王子、その妹アイリア王女、王宮に仕える戦士2人、水の司2人…と言った顔ぶれを引き連れて来た。
 すでに深夜であったので、それしか集まらなかった。

「よし、セレニオも勝手に出かけてないし、みんな、そろったね。」

 アネスが微笑みながら言うと、セレニオは恥ずかしそうにうつむいた。
 うつむいたセレニオを見て、アネスは寂しげな笑みを浮かべた。
 メリア姉はセレニオの肩に後ろから手を掛け、そのままセレニオを部屋の中央部に置かれたテーブルの席に連れて行った。
 他の面々もテーブルの席に着く。
 この晩餐会の主催者であるアネス王子の右隣りには、その主賓であるセレニオが一同の勧めで着席した。
 メリア姉が粥を椀に盛り、フォスタリオが配膳した。
 この姉弟は村で平和に暮らしていた頃から働き者であった。
 やがて準備が終わり、一同は各々の席に着いてアネスに注目した。
 アネスは立ち上がり、晩餐会開会の辞を述べ始めた。

「では、これより戦争終結の前夜祭を始めます。まず、最初に申し上げます。私達はこの戦争で多くの友人と家族を失い、そうした人達に支えられて今日まで生きて来ました。しかし、私達を支えてくれた人達は今ここに居合わせる事ができません。さぞや無念だったことでしょう。ですが、私達は武器を取って彼らの無念を晴らすべきではありません。私達が敵と見なしてきた海の民にも友人や家族はいます。私達が憎しみから武器を取れば、そうした人達も私達を憎むでしょう。そして、憎しみは憎しみを産み出し続けます。本当に悲しい現実です。この悲しい悪循環を確実に断ち切る方法を私は知りません。ですが、一つの方法を試してみたいと思います。お互いが憎しみを捨てて話し合い、戦いの悲しさを理解し、相手を大事にし合うことです。そのためには、私達の方から憎しみを捨てて話し合いに赴かねばなりません。ですから、今夜は私達のために命を落とした人達に感謝しつつも許しを乞う次第であり、また、明日の試みに参加される人達にも理解を求める次第であります。…長くなりましたが、私アネスからの挨拶を終わります。」

 アネスの長い挨拶を一同は黙って最後まで聞いた。
 そして、アネスが粥に初手を付けるのを待ってから、他の面々も粥を食べ始めた。
 粥はすでに冷めていて固くなっていたが、それでも切り詰めた食生活を送っていた一同にとっては素晴らしく美味に感じられた。
 一同は言葉もなく食べ続けた。
 やがて、一同の空腹は治まった。

「アルマード殿、東の町に船があります。明日、僕達が和平交渉をしている間にその船でこの国を脱出して下さい。」

 アネスがさじを持つ手を休め、アルマードに提案した。
 ちなみに、東の町とは王都トルクから東へ徒歩で半日の所にある港町で、王都トルクに阻まれて海の民から占領されずに残っていた。
 アルマードが考え込んでいる間に、アネスはさらに言葉を続けた。

「こちらの3人の若者の他に、数名の希望者を同行させます。ですから、アルマード殿には彼らの保護者となって頂きたいのです。これはトルク王国皇太子としての命令です。」

 アネス王子がアルマードに命令した。
 他国の騎士であるアルマードにはアネス王子の命令に従う義務は本来であればないはずであったが、アネス王子の言葉には逆らい難い支配力があった。

「承知…。」

 アルマードは一言だけ答えた。
 その言葉にアネスは微笑みながら立ち上がり、アルマードに歩み寄って握手を求めた。
 両者の手はしっかりと握られた。

「他に希望者はいませんか?」

 アネスが一同に呼び掛けるが、皆、一様に首を横に振った。
 ここに集まっている者は皆、このトルクで生まれ育ち、生活して来たのである。

「はははっ! 御冗談を。私は生きるも死ぬも、この国に残りますよ。」

 王宮戦士の一人が言い出すと、他の面々も異口同音に同じ事を言い出した。
 そして今度は、高齢者が立ち上がって語り出す。

「アルマード殿とセルネリオ殿の事は、東の町の船長に任せておけば心配はないでしょう。愚老もここに残ります。」

 老齢の水の司が何の臆面もなく言った。
 その言葉をもう一人の王宮戦士が引き継ぐ。

「同感です。…ただ一つ気になるのは、そちらの者達、若過ぎはありませんか? その点についてフォクメリア殿のご意見を伺いたい。」

 この王宮戦士の言葉を聞き、フォクメリアは緊張した表情で頷いた。
 一同が沈黙して、フォクメリアに注目する。

「フォスタリオには必要な事は全て教えておきました。それに、セルネリオもサランドラももう一人前です。…それより、明日の交渉に全てがかかっています。私はそちらに集中します。」

 このフォクメリアの言葉が皆の話を締めくくった。
 異議を唱える者は誰一人いなかった。

「では、アルハン王国の平和を願って!」

「トルク王国の安泰を祈念して!」

 トルク王国に残るアネス達と、アルハン王国に行くアルマード達がお互いの無事を祈り合った。
 水の司達が立ち上がり、一同を祝福し始めた。

「水の流れが御身らの旅路を守りますように。」

「そして、青銅の王国トルクと砂漠の王国アルハンの間に水のつながりがありますように。」

 水の司達は祝福を終えた。
 ちなみに、「水のつながり」とは水の司達の宗教用語で「絆(きずな)」を意味する。
 これは「生きる事」と「水」の関係が深い事を知っている水の司達ならではの哲学である。
 
 
 
 水の司達の祝福が終わると、一同は翌日に備えて自室に引き上げて行った。
 セレニオの部屋には、セレニオ自身の他にアネスだけが残った。
 アネスはセレニオを寝台に寝かせ、その枕元に椅子を置いてそれに座った。
 アネスはセレニオの左手を自分の両手で包み込んだままセレニオが眠るのを待った。
 セレニオが寝息を立て始める頃には、アネスも目を閉じていた。

「(もう、一人っきりじゃないよね?)」

 手を重ね合わせたまま眠る2人の少年…その寝顔は「戦士」と呼ばれるにはあまりにあどけなかった。
 
 
 
 3時間の睡眠の後、アネス達は出発の準備を始めた。
 一同は王都トルクに流れ込む川の水で沐浴した後、正装に身を包み、剣を腰に帯びた。

「セルネリオ、何があっても自分を見失うな。…サランドラも向こうではあまり人を傷付ける嘘は言うなよ。…それから、フォスタリオ、お前は男なんだから、いざと言う時はサランドラを守ってやれ。…では、アルマードさん、弟達の事、頼みます。」

 セレニオが別れの挨拶を終えた。
 そして、セレニオは一同の返事を待たず、少し離れた所で待っていたアネス王子に駆け寄った。
 今のセレニオの足取りは病身とは思えないほどしっかりしていた。
 これはアネスから与えられた痛み止めの効果である。

「セレニオ、治るかも知れないから養生してたら?」

 アネスの言葉にセレニオは首を横に振った…今さら後戻りはできない。
 使者であるアネス・トルク王子にセレニオとフォクメリアが同行し、さらに4人のトルクの戦士が同行した。
 また、捕虜であった海の民の副将セリューミランも帯剣を許されて同行した。
 ちなみに、海の民の副将セリューミランは「聖女」と呼ばれるほどの人物であったが、かつてアルハン王国建国時代の戦いで海の民の総大将ベネシスに命を救われ、その恩に報いるために嫌々ながらトルク王国攻略に参加していた。
 王都トルクの城門が開き、それを見ていた海の民達が緊張する。
 アネス王子達が海の民の陣地に近付くと、20人以上の海の民の戦士達が出迎え、捕虜となっていた副将セリューミランの姿を見て敬礼した。

「セリューミラン様! ご無事でしたか!」

 海の民の士官の一人がセリューミランに声を掛けた。
 セリューミランは海の民達に向かって右手を上げて応じると、大きな声で呼び掛け始めた。

「見ての通り、私はいかなる虐待も受けませんでした。その他の事を考えても、トルク王国の人達が道徳を弁えているのは明らかです。そのトルク王国に侵略した私達海の民こそ責められるべきです。ですから、兄弟姉妹達よ、私達海の民はこれ以上の不正義を行ってはならず、彼らに償いをしなければなりません。」

 人望で並ぶ者のないセリューミランの宣言が響き渡ると、海の民達は一瞬静まりかえった後、賛同の叫び声を上げた。
 アネス王子達は和平交渉の成功を確信した。
 やがて、アネス王子達は海の民の総大将ベネシスの陣屋に辿り着いた。
 
 
 
 好戦的な海の民の中でも最強の戦士の一人である主教ベネシスは陣屋の奥に置かれた椅子に座ったままアネス王子達を待っていた。
 そのベネシスの近くには数人の海の民の指揮者達が控えていた…彼らはいずれも歴戦の猛者達である。
 アネス王子が挨拶の言葉を口にする前に、海の民の総大将ベネシスは戦争犯罪人セレニオの顔を見て立ち上がった。

「見事だ、アネス王子。貴殿は確かに約束を守った。」

 ベネシスは歓喜の表情を浮かべながらセレニオに歩み寄った。
 セレニオがベネシスを睨み返す。

「断わっておく。私がここに来たのは自分の意志からだ。私以外には誰も関係していない。だが、私がここに来た以上、約束は守ってもらう。…我々トルク側は約束を果たした。」

 セレニオはアネスの制止を振り切って自らベネシスの前に進み出た。
 ベネシスはそのセレニオの鳶色の瞳を見た。

「(この男…死ぬのを覚悟しているな。)」

 ベネシスは意外に思った。
 トルクの連中は全て臆病者だと思っていたのに、この目の前の若者から恐れは感じられない。

「切り刻むなり、拷問するなり、好きにしろ。私はお前の部下を何人も殺した。だから、お前に何をされても文句を言わない。」

 そう語るセレニオの口ぶりは静かなもので、気負いも怯えも感じられなかった。
 その様子を見て、ベネシスは嬉しくなってきた。

「(こやつは面白いかもしれん。試さなくては。)」

 ベネシスは思案しながらアネス王子に目を向けた。
 ベネシスの脳裏に素晴らしい考えが浮かんだ。

「では、そなたに希望がある。アネス王子とどちらか死ぬまで戦ってもらおう。強き者のみが生き残ればよい。生き残った者との間に和平は成立する。」

 ベネシスは楽しそうに微笑みながら言った。
 しかし、セレニオは「楽しい」とは思わなかった。

「約束が違う! お前が自由にできるのは私の身柄だけだ!」

 セレニオが我を失って叫ぶと、ベネシスの顔に微かに不機嫌な表情が浮かんだ。
 この愚かさは、諭されなくてはならない。

「まだ名も知らぬ戦士よ、落ち着いて聞け。そなたの忠誠心は本当にそなたの信念によるものか? アネス王子は我らに求められるままに、そなたを売り渡そうとした。もし、そなたとアネス王子の立場が逆だったら、そなたは同じことをしたか?」

「海の民は言葉遊びが好きなのだな。」

 セレニオの返答にベネシスは不機嫌そうな表情を浮かべた。
 両者はそのまま睨み合った。
 殺気立つセレニオにアネスが歩み寄り、右隣から話し掛ける。

「僕は構わないよ。…セレニオ、これ以上ベネシス殿を怒らせるのは止めてくれ。」

 アネス王子はそう言いながら儀礼用の鎧を脱ぎ始めた。
 そして、アネス王子が細い声で言葉を続ける。

「セレニオ、死ぬのは僕の仕事なんだ。僕は敗軍の将だからね。…ほら、早く剣を抜け。これは命令だよ。」

 アネス王子の言葉に操られるまま、セレニオは自分の青銅の剣を鞘から抜き出した。
 そして、セレニオはアネス王子の胸にその剣を向けた。
 アネスが促す。

「早く…。」

 そのアネスの声は微かに震えていた。
 アネスが怯えている…その事がセレニオに別の事を決心させた。
 セレニオはアネスに向けていた剣をベネシスに向けた。

「ベネシス、約束を守るか私と決闘するか、決めろ。」

 突然、セレニオがベネシスに挑戦した。
 ベネシスの目に鋭い光が宿る。
 周囲が騒然となるが、両者にとってはすでに関心がなかった。
 言葉を続けるセレニオは全てを忘れ始めた…もはや、アネスの事さえも憶えていない。
 そのセレニオの言葉をベネシスは黙って聞いた。

「私は約束通りここに来た。他に何が不満だ? それより、ベネシス、私はお前が大嫌いだ。…殺してやる。」

 セレニオの口調から感情が次第に失われて行った。
 その表情からも感情が完全に失われ、冷徹と言うより穏やかな表情となった。
 ベネシスの顔に会心の笑みが浮かぶ。

「殺ってみろ!」

 ベネシスはセレニオの挑戦に応じた。
 戦争が中断されていたこの1ヶ月の間に、海の民は殺戮にも略奪にも飽きていて、戦闘意欲は低下しきっている。
 今や、ベネシスが戦闘再開を命じたところで、脱走が相次いで軍は離散してしまうであろう。
 そうなると、ベネシス一人だけでなく海の民という民族にとっても大きな恥となる。
 ここで何らかの形で決着をつけておかないと、その恥ずべき事態は避けられなくなったため、今回の和平にもベネシスは応じざるを得なかった。
 それでも、この戦いの最後の趣に、セレニオと戦う事ならば誰にも異存はあるまい。
 ベネシスは剣を鞘から抜き出しながらセレニオに駆け寄り、両者の距離が十分に狭まった瞬間、セレニオの右腕の付け根を狙って剣を逆袈裟に抜き付けた。
 そのベネシスの剣をセレニオは一歩退いて避けたが、ベネシスはそのまま踏み込みながら手首を返してセレニオの左首筋を狙って袈裟に斬り付けていた。
 このベネシスの二撃目をセレニオは予期していなかったが、慌てて後ろに跳んで避けた。
 それでもセレニオは負傷し、その胸元から鮮血が流れ出した。

 セレニオは自分と相手の剣を見比べた。
 ベネシスの身長は190cmほどで、その剣は鋼鉄製で刃渡り約100cm。
 一方、セレニオは身長170cmほどで、その剣は青銅製で刃渡り約80cmほどであった。
 お互い自分の体格に見合った剣を使っているが、その事が今のセレニオにとって不利になっている。

 セレニオは構え合っていては勝ち目が無いと判断し、ベネシスの右側面に回り込みながら右手首を狙って剣を振り下ろした。
 そのセレニオの剣をベネシスは右斜め下へ払いのけ、剣を振りかぶりながらセレニオに正対し、その右首筋を狙って剣を袈裟斬りに振り下ろした。
 そのベネシスの剣をセレニオは再び後ろに退いて避けた。

 ベネシスはセレニオが後ろに下がった機に乗じて一気に間合いを詰めた。
 しかし、セレニオはその足さばきを活かしてベネシスの左側面に回り込み、脇腹を狙って剣を突き出した。
 ベネシスの左脇腹の鎧が破れて左肺が傷付き、そこから赤い血が流れ出した。
 しかし、これはまだ致命傷ではない。

 ベネシスはセレニオの脳天を狙って剣を振り下ろすが、その剣をセレニオはベネシスの右側面に回り込みながら避けた。
 その瞬間、ベネシスは左から右へ薙ぎ払うように剣を横に振った。
 セレニオは慌てて後ろに退くが、その右腕と胸には赤い線が引かれていた。

 ベネシスはそのまま踏み込みながら手首を返し、右から左へと剣で薙ぎ払った。
 セレニオはとっさに地面に左膝を突いて体勢を低くし、ベネシスの脛を狙って剣を横殴りに振った。
 ベネシスの剣がセレニオの頭をかすめ、セレニオの剣はベネシスの脛当てに叩き付けられた。
 セレニオの剣はベネシスの脛当てに食い止められ、刃こぼれを起こした。

 低い体勢のセレニオをベネシスは上から叩き斬ろうとしたが、セレニオはそのまま起き上がりながらベネシスの喉元を狙って剣を突き出していた。
 その相討ち覚悟のセレニオの剣をベネシスが後ろに下がって避けると、セレニオはそのまま踏み込んでベネシスの左脇を狙って剣を横殴りに叩き付けた。
 ベネシスの左脇の防具が割れ、セレニオの剣が鍔元から折れる。
 ベネシスの左脇から血が吹き出すが、これもまだ致命傷ではない。

 剣を失ったセレニオの右首筋を狙ってベネシスは袈裟斬りに剣を振り下ろした。
 そのベネシスの剣をセレニオは大きく後ろに跳んで避け、海の民の一人でセレニオ自身と同程度の体格の者に向かって駆け寄った。
 そして、その海の民の左腰の帯に吊られた剣の鞘から剣を抜き取り、セレニオは再びベネシスに向かって駆け寄った。
 セレニオが奪ったばかりの剣も青銅製で刃渡りは80cmほどであった。
 この大きさの剣をセレニオは扱い慣れている。

 ベネシスは剣を中段に構えてセレニオを待ち受けた。
 そして、駆け寄って来たセレニオの喉を狙ってベネシスは剣を突き出した。
 そのベネシスの突きをセレニオは首を傾げて避けた。
 そして、ベネシスの右腿を狙ってセレニオは剣を振り下ろした。
 ベネシスはとっさに後ろに跳ぶが、その右腿の肉はセレニオの剣で切り裂かれていた。

 ベネシスは剣を再び中段に構えてセレニオに近付いた。
 しかし、セレニオは構え合おうとせず、ベネシスの右側面に回り込み続けた。
 そして、ベネシスがセレニオに向き直ろうとした瞬間、セレニオはベネシスの左側面に回り込んだ。
 セレニオはベネシスの左腕を狙って剣を振った。
 そのセレニオの剣をベネシスは摺り上げて受け流し、反撃の剣をセレニオの左首筋めがけて振り下ろした。
 セレニオはとっさに前に踏み込み、自分の剣の柄頭をベネシスの右肘に打ち付けていた。
 ベネシスの表情が一瞬だけ固くなった。

 ベネシスは剣の鍔でセレニオの頭に殴り掛かった。
 そのベネシスの剣の鍔をセレニオも自分の剣の鍔で受け止めた。
 腕力で劣るセレニオは鍔迫り合いになるのを避け、ベネシスの右手首を狙って剣を振りながら後ろに下がった。
 そのセレニオの剣をベネシスは半歩後ろに退いて避けた。

 セレニオが素早く前進してベネシスの右肩を狙って剣を袈裟斬りに振り下ろすと、ベネシスは弧を描く軌道で自分の剣をセレニオの剣に打ち付けた。
 直観的に危険を察知したセレニオが後ろに跳ぶが、セレニオの剣はベネシスの剣に払いのけられ、ベネシスの剣はセレニオの胸元を切り裂いていた。
 しかし、セレニオが後ろに退いていたので、致命傷にはならなかった。

 ベネシスはセレニオの右胸を狙って剣を突き出した。
 そのベネシスの剣に対しセレニオはとっさに自分の右手を差し出した。
 そして、ベネシスの剣がセレニオの右手の掌に突き刺さると、セレニオはその右手をひねってベネシスの剣の軌道を変えた。
 そして、それとほぼ同時にセレニオは自分の剣を左手一本でベネシスの右手首へ振り下ろしていた。
 ベネシスの右手の篭手が砕け、その右手首は半ばまで切断された。

 セレニオは自分の右手でベネシスの剣を封じ込んだまま、自分の剣でベネシスの右膝を叩き割った。
 ベネシスが棒立ちとなる。
 さらにセレニオはベネシスの左肘の内側を狙って剣を叩き付けた。
 すでにベネシスにセレニオの剣から身を守る手段はなく、ベネシスの左肘は鎧の袖もろとも半ばまで切断され、自分の剣を握る事さえできなくなった。
 セレニオの右手の掌に刺さっていたベネシスの剣が抜けて地面に落ちる。
 
 
 
「(見事。)」

 ベネシスは笑っていた。
 戦いの中で死ぬのがベネシスにとっての本望であり、その最後の相手であるセレニオにも敬意を覚え始めていた。
 技量でも体格でも自分に劣る若造が、ただ勝利への執着心だけで勝利を収めたのである。
 それはかつてのベネシス自身の戦い方でもあった。
 相手のセレニオはベネシスの心中など知らず、ベネシスに止めの一撃を振り下ろそうと、油断無くベネシスに右手側から歩み寄った。
 ベネシスは最後の抵抗を示そうとするが、すでにセレニオの止めの一撃を喜んで受けるつもりであった。
 しかし、剣を振り上げたセレニオは背中に何かの衝撃を受けて立ち止まった。
 自分の腹部に目を向けると、そこから青銅の剣の切っ先が突き出している。
 後ろを振り向くと、年齢にして15歳ほどと見受けられる海の民の少女がセレニオの背中に剣を突き立てていた。
 傷口から痛みが次第に広がって行く。
 セレニオはその少女に見覚えがあった。
 2週間ほど前にセレニオに壊滅させられた部隊の生き残りであった。
 あの時、セレニオは彼女を見逃していた。

「…ごめん。」

 悲しそうに呟く少女の目に憎悪はなかった…総大将に対する忠誠心だけで動いたのであろう。
 セレニオは少女を後ろに蹴り放した。
 すると、セレニオの身体から少女の剣が抜け、赤黒い血が奔流となって流れ出す。

「(甘かった。)」

 セレニオは痛感した…何故、非情になり切れなかったのであろうか。
 セレニオの意識はそのまま遠のいて行った。