Me And The Devil Blues



 ツインベル6番街の一角にひっそりとバー「R.L.(あーる.える.)」はある。店

を構えるのは女主人シーラ。

さて、今夜の客は・・・・・・・・・・。



 初老の男は目深に灰色の帽子をかぶっていた。帽子の下の毛も灰色で、注意しないと帽

子と髪の毛の境が分からなくなりそうだった。皮膚も灰色で年老いた象のようにひび割れ

ている。元は黒かったであろうコートは今は色褪せている。その下には濃い灰色のズボン

を穿き、色褪せた靴下の足は古ぼけた革靴に突っ込まれている。彼の居る場所は空気まで

灰色を帯びて見えた。

「いらっしゃい、ませ」

シーラは男の気配に圧倒されながらも商売用の微笑を浮かべた。男は古代の大型草食爬虫

類を思わせる、大股でゆっくりした足取りで入り口からカウンターに近づいた。近づくに

つれ下半身がカウンターの陰に隠れると、シーラからは歩く男の上半身は横に滑っている

ように見えた。

 男は席についてもコートを脱がなかった。

「冷えるな、今夜は」

男が呟くと冷気がその袖から、首筋から、口から、漂ってまとわりついてくるような気が

してシーラは身震いした。

「何にしましょう」

「こういう寒い夜には」

男の言葉はそれ自体氷でできているかのように冷気を帯びて室内を漂った。シーラは足元

の足踏み式ふいごを踏まずにはいられなかった。ふいごはカウンターの内側の一角に設け

た石炭ストーブに繋がっている。ふいごからの空気で火の粉が舞った。

「ホット・ラムが一番だ」

「ホット・ラ」

「ああ。熱いやつを」

ホット・ラムですね、と言いかけた口のまま、シーラはカップを取り出した。金鍍金のカッ

プの持ち手には細い皮が巻きつけられている。彼女はカウンターの奥の、四角いブリキの

容器にストーブの熱を利用して張った湯に、ラムを入れた銅の小壜を首まで沈めた。

「なかなか、良い雰囲気の店だ」

「ありがとうございます」

男はゆっくりと店の中に視線を巡らせた。その瞳はすりガラスのようにその向こうにある

ものを隠していた。男の目は壁にかかる船の絵、写真、棚のグラス、その隣の酒、部屋の

隅の箱、淡いベージュの壁紙、年代ものの柱時計と移り、最後にシーラの顔で止まった。

「こういう店があると知っていたら、もっと早くに来ていたのに。これっきりとは残念だ」

「そんなことおっしゃらずにこれからも来て下さい」

「それはできない」

ホット・ラムを金鍍金のカップに注ぎながらシーラが言った言葉を、男は即座に否定した。

「なぜなら、私は今日限りでこの街を去るからだ。そしてもう二度と戻ってこない」

シーラは唾を飲みこんだ。また冷気を感じて彼女は入り口に目を遣った。扉はしっかりと

閉じられていた。シーラはそっと、足元のふいごを踏んだ。

「借りたものを返しにいくんだ」

男は初めて笑った、かすかにだが。

「どうして、それで二度と戻って来れないんですか」

「どう説明したらいいかな」

男はカップの持ち手に指を添えて回した。ホット・ラムの小波が金鍍金の絶壁に優しく打

ち寄せた。

「そう、あの頃、私の名はまだ“リー”だった」





 いつものように、彼女はくたびれた家の軒先で針仕事をしていた。

「こんにちは、リー」

「やあ、こんにちは。メリッサ」

リーは分かっていても口元が緩むのを抑えられなかった。

「今日はどうしたの?」

小首を傾げて少し見上げるようにするメリッサの姿は、リーにとってたまらなく可愛らし

かった。

「天気が良いから出てきたんだ」

リーは溶け落ちそうな頬と顎を引き上げると笑顔を作って見せた。

「そうね、確かに良い天気」

メリッサは一瞬晴れ渡った初夏の空を見上げたがすぐに手元に視線を戻した。彼女の手元

には白い布に白い糸で繊細な花の刺繍が縫われていた。趣味でしているわけではない。彼

女は仕事として、今はリーの家から出された刺繍の注文をこなしていた。

「こう天気が良いとどこか野原にでも出かけたくなるな。そうは思わないかい?」

「気持ちはどうあれ、私にはやらなきゃいけない仕事がいくらもあるわ」

「ちょっと休むってわけにはいかないの?」

「難しいわね」

メリッサの言葉はつれない。しかしそれが悪意からでないことはリーには分かっていた。

事実、“難しい”のだ。彼女の父親は地主であるリーの父親から土地を借りて小作する身

分で生活には余裕がない。農作業の合間を見て針仕事でも請け負わなければ、彼女の家族

六人に十分食べさせることができない。まして彼女の弟妹は食べ盛りの年頃だった。

 リーは視線を遠くへ逸らした。山並みは深い緑の服をまとい、空は青い薄絹を雲の上に

広げていた。

「難しい、か。まあ、無理強いはできないよね」

「行きたくないわけじゃないのよ」

メリッサは手を止めて首を小さく振った。

「私だって思うのよ、こんな良く晴れた日にどうしてこんなことしてるんだろうって。一

 針縫うごとに一つ歳を取ったような気がして。でもね、放り出すわけにはいかないのよ。

 それはつまり…………」

メリッサは視線を泳がせた。しばらくそうして言葉を探したが、浮かび上がった言葉はど

れも彼女の気持ちを完全に表すものではなかった。

「とにかく、できないのよ」

首を振り、溜息混じりに言うとメリッサは止めていた手を再び動かし始めた。リーは彼女

の手元を見つめた。その動きはリーと話す前よりいくらか荒く、数針縫うとメリッサは苛

立たしげな溜息を漏らして刺繍を解き始めた。

「俺、もう行くよ」

申し訳ないような気になったリーはそそくさと立ち去った。途中、振りかえり手を振ると、

メリッサは微笑んで小さく手を振った。

 帰る道すがら、リーは松の木の根元に何かを見つけて足を止めた。小指の爪ほどの長さ

の、尖った細い金属の芽が二本、地面から僅かに突き出ていた。リーは最初、突き出た部

分をつまんで土から持ち上げようとしてみたが、芽は地にしがみついて離れなかった。そ

こで立ち去ることもできたのだが、なぜかできなかった。彼はしばらく逡巡した後、手で

土を掘り始めた。

 掘り始めると芽は実にあっけなく正体を現した。それは小指ほどの高さのガーゴイル像

だった。像は青銅製で、芽と思われたのは頭から生えた二本の角だった。像の口は耳元ま

で裂け、嘴のようになったその中程から牙を剥いていたが、全体としてどことなくユーモ

ラスな雰囲気を漂わせていた。

 リーは像を掌に乗せ顔の前にかざした。前から見ると恐ろしげに見える裂けた口は横か

ら見ると笑っているように見え、リーはつられて笑みを浮かべた。

 リーは像をポケットに収めた。彼はその像を一目で気に入っていた。彼はそう思ってい

た。本当は土から突き出た角を目にした、その瞬間から心を奪われていたのだが。しかし、

彼はそのことには気づいていなかった。

 松の木の根元からは雑木林を通して町並みがすぐ近くに見える。小さな町で彼の屋敷は

高さ、大きさともに群を抜き、彼のいる小高い丘からもすぐに見分けることができた。町

に近づくにつれ、彼の歩調はゆっくりになっていく。花を見ては香りを嗅ぎ、虫を見ては

目で追い、できるだけ時間をかけて歩く。しかしいくらそうしても、いつも最後には屋敷

は傲然と彼の前に聳えるのだった。

 屋敷に帰ったリーを、父と兄達は冷たい視線で迎えた。

「ただいま」

「昼間からどこで何をしていた」

「天気が良かったので、散歩をしていました」

息子の答えに、父は露骨に顔をしかめた。二人の兄は冷たい視線を浴びせ続けた。兄達は

妾腹の子であるリーに冷たい。二人とリーは幼い頃から殆ど言葉を交わしたことがなかっ

た。

「少しは働こうという気はないのか、毎日毎日……」

「ごめん、今ちょっと手が離せないんだ」

リーは何か言おうとする父親を無視して踵を返すと屋敷を出、離れの建物に向った。彼の

父親は地主という立場に安住することなく、実業家として成功を収めており、リーの二人

の兄は父親を手伝ってそれぞれ才能を発揮していた。

 離れはリーが十二歳のとき、兄達に遠慮があるだろうからと、彼の父親が与えたものだっ

た。それ以来、小さな離れは彼にとって世界の中心であり、安全な逃げ場であった。それ

はいわば彼の城だった。しかしそれが現在の、彼の孤独で宙に浮いた立場を作り上げたこ

とも紛れもない事実だった。

 リーは扉を開けると慌ただしく中に入った。壁には少年の頃熱中した雑誌の挿絵が切り

抜かれ、壁一面に画鋲で留められていた。そのどれもがセピア色に色褪せている。

 多くの少年がそうであるように、彼もかつては夢を見ていた。雑誌に載っていた探偵小

説や冒険小説のように、いつか自分自身にも胸踊る世界へ漕ぎ出す瞬間があると思ってい

た。今ではそれも思い出に過ぎない。もっとも思い出は彼にとって苦いばかりのものでは

ない。少なくとも夢を見ることに関しては、彼は少年の頃から一貫して自由だったからだ。

 リーは椅子に座るとポケットからガーゴイル像を取り出し、机の上に置いて眺めた。像

の目は顔の四分の一を占めるほど大きく、瞳がなかった。土の中に埋もれていたにも関わ

らず錆びてもいない。その姿形は彼の知りうる限りの文化のものではなかった。それは異

形の像だった。頭から生える二本の角はひどく頼りなく、彼は僅かに突き出ていたその先

端を見つけ出したことに運命的な出会いを感じずにはいられなかった。なぜこの像があの

松の木の根元に埋まっていたのか、そもそもこの像はどういうものなのか。尽きせぬ謎は

神秘的な魅力となって彼を惹きつけて止まなかった。

 リーは机の上で腕を組み、その上に顎を乗せて像を間近で見つめた。彼と像に窓からの

暖かい日差しが降り注ぎ、包み込む。やがて彼はその姿勢のまま眠りに落ちた。





 扉を叩く音に目を覚ましたリーは窓の外に目を遣って飛び起きた。外はもう薄暗く、彼

が寝過ごしたことを示していた。

「リー様?」

「ああ」

「夕食の時間です」

ああ、とまた曖昧な答えを返すとメイドが扉を開いた。入ってきたメイドを見てリーは訝

しげな表情を浮かべた。いつもなら三食とも盆に乗って運ばれてくるのだが、今入ってき

たメイドは何も持っていなかった。

「夕食を持ってきてくれたんじゃないの?」

「大旦那様は、今日は一緒に食事をとるように、と仰っています」

メイドは口調も表情も事務的に用件を伝えた。リーは訝しげな表情から眉を顰めた。

「一緒に?」

「はい」

「父さんがそう言ったの?」

「はい」

リーは眉間から力を抜いて考え込んだ。一体父親が自分に何の用があるのか、彼には全く

見当がつかなかった。

「どうなさいますか?」

応えず、動こうとしないリーにメイドが尋ねた。その首を少し傾げるしぐさに、リーはふ

とメリッサを思った。

「分かった、行くよ」

リーは戸惑いを残した口調のまま答えて立ち上がった。

 屋敷へ向うリーの少し前をメイドが歩く。二人の足元で芝が踏まれてざわめいた。

 リーは屋敷に入る一歩手前で足を止めた。屋敷は「H」の形に似ていて、入り口は横棒

の真中にある。三方を囲まれた玄関先に立っているだけで息が詰まりそうだった。玄関の

扉はぴったりと閉じられていて僅かな光も漏らしていなかった。ふ、と溜息をつくリーを

振りかえることもなく、メイドは扉を開いた。途端に隙間から光が溢れ始め、豪華な屋敷

がその内奥をあらわにしていく。その光景に彼は卑猥な連想をし、頬を赤らめた。

 メイドは躊躇するリーに気がつく様子もなく屋敷へ入っていく。いつまでも立ち尽くし

ているわけにはいかず、リーも遅れて中に入った。吹き抜けの頂点で輝くシャンデリアの

下を抜け、堅固なつくりの扉を開く。一つ一つが大げさでリーの好みに合わなかった。こ

の屋敷では一番質素な部分である廊下を抜けるといよいよ食堂に辿り着く。リーはいやで

も緊張が高まるのを抑えられなかった。

 食堂の天井は玄関広間同様、二階部分まで吹き抜けになっていたが、頂にあるのはシャ

ンデリアではなく普通の電灯だった。食堂はあくまでリーの家族が使うためのものだ。来

客用には別の広間が用意されていた。

 リーは電灯を見上げた目を無理やり引きずり下ろした。十二人がけ長テーブルの向こう

には父親が座っていた。長テーブルを挟むように左右に並んだ席の、最も父親に近い席に

二人の兄がそれぞれ座っていた。

 リーはどの席に座ろうか迷い、一度は父親の向い、三人から一番離れた席に座ろうかと

思った。しかしその考えはすぐに打ち消した。父親がわざわざ呼び出すからには何か用件

があるはずだからだ。そうでなければリーが呼び出されることなどあろうはずもない。だ

とすれば、あまり離れた席に座るのは賢い行為とは思えなかった。もしそうした場合、父

親によって座り直させられ、兄たちから冷笑を浴びることは目に見えている。結局リーは、

長兄側の、長兄から一つ離れた席に座ることにした。

 席についたリーは兄たちの目にかすかな失望の光を見た。リーの選択によって、二人は

愚かな末弟を嘲笑い優越感を確認するチャンスを一つ失っていた。

 席について入ってきた扉に目を遣ったが、メイドの姿は既になかった。

「リー、お前も祈りなさい」

父親の声にリーが振り向くと、二人の兄はテーブルに肘をつき手を組み目を閉じ、祈る姿

勢に入っていた。父親も同じ姿勢で、ただ目だけは開かれリーを見据えていた。リーはも

うすこしで笑いそうになったが、唇の端を引きつらせたところでどうにか持ちこたえた。

彼は、彼の父親と兄たちの、世間の評価とはかけ離れた真の姿を知っていた。だからこそ、

彼の父親が食事に感謝の祈りを捧げ、彼の兄たちもそれに習っていることに怒りとそれを

通り越した滑稽さを感じずにいられなかった。

 しかしリーがその感情を表に現すことはない。リーは白いテーブルクロスに目を落とし、

それから祈る姿勢をとった。

「天にまします我らが主よ……」

父親の低く呟く感謝の祈りの声を聞き流しながら、リーは祈った。神様でも悪魔でもいい

から、一刻も早くこの憂鬱な食事を終わらせてくれ、と。

「……アーメン」

それを合図に開いたリーの目に、ガーゴイル像の姿が飛び込んできた。

 ガーゴイル像は彼と向き合う形で置かれていた。リーはぎょっとした表情を隠しとおす

ことができなかった。ガーゴイル像は離れの机の上に置いたままにしてきたはずだった。

目を閉じる前には何もなかったその場所に、今はその像がある。リーは像が置かれる様子

はおろか、誰かが近づく気配すら感じていなかった。

「どうした」

思考の空白に落ちていたリーの意識を父親の声が引き戻した。父親は訝しげな視線で、兄

たちは冷たい視線で、リーを見ていた。

 リーは一度父親に向けた視線を正面に戻した。そこにはただ白いテーブルクロスが広が

るだけで他には何もなかった。

「何でもないよ」

最大限の努力を払い、リーは平静を装った。

「何でもない」

念を押すように言う息子に、父親は尚も疑わしげな視線を向けた。彼は些細な事柄に関し

ても曖昧なまま放っておくことをよしとしないばかりか、悪とすらみなす種類の人間だっ

た。そういう姿勢が彼の実業家としての成功に一役買っていることは間違いがなく、した

がって彼はあらゆる物事に対するその厳密な姿勢に確信を持っていた。

 リーは問い詰められるかとひそかに体を硬くしたが、彼の父親はそれ以上は何も言わず、

リーが見つめ返す怯えた視線を避けて手元に目を落とした。

 それを見てリーは、父親が自分に遠慮しているように感じられて不安に襲われた。父親

が彼に遠慮する、などということは彼の二十二年の人生に全くなかったことだからだ。

 祈りが終わるのを見計らって使用人たちが食事を運んできた。

それを眺めながら、リーは全身の毛穴から緩やかに吹き出る不安が沈殿して足に絡まるの

を感じていた。

 食事の間中、会話が交わされることはなかった。そもそも四人に共通する話題などない。

リーを除く三人なら事業の相談でもするのだろうが、三人はリーがいる場所では決してそ

ういう話をしない。食器の硬い音と、重なると野卑にも聞こえる四人分の咀嚼の音が食堂

に満ちた。

 食事が終わると二人の兄はすぐに席を立った。目を泳がせ、しばしの沈黙の後、父親は

椅子に深く腰掛けなおした。

「明日の夕方に新しい召使が来る」

父親は唐突に告げた。

「お前も知っている人だ」

リーは唾を飲みこんだ。食事の間中不安は沈殿し続け、彼の体は今や喉元の高さまで不安

に埋まり、息をするのも一苦労だった。

「メリッサ・カウンシルは知っているな」

椅子が床と擦れて耳障りな音を立てた。リーは思わず立ちあがり叫んでいた。

「だめだっ!そんなことっ、ゆ・・・」

許さないぞ、と言いかけたが言えず、リーは口を曖昧に震わせた。自分と父親の位置をリー

は身に沁みて理解していた。彼の父親は好意や善意から同意を必要とする性格ではない。

父親がこうすると言えば、もうリーにできることは何もない。リーは椅子にへたり込んだ。

「いやだ・・・あんまりだ」

「そうか」

父親の声がリーの耳にひどく虚ろに響いた。

 リーの目はテーブルの縁を滑り、父親の右半身の輪郭をなぞって長い時間をかけて父親

の顔に辿り着いた。父親もリーを見ていた。その瞳はすりガラスのようにその向こうにあ

るものを隠していた。リーは再び憤りが沸き上がってくるのを感じ、手を握り締め、息を

詰めて父親を睨みつけた。

 息苦しくなるほど睨み続け、リーは熱い鼻息を吸い、吐いた。そのとき握り締めた左手

に何か握られているのに気がついた。リーが手を開くと、それがあった。青銅製の、小指

ほどの高さのガーゴイル像が。

 そんなはずはなかった。

 彼の手に像が握られているはずはなかった。彼は像が食事前に目に触れてから手に収ま

るまでの過程を必死の思いででっち上げてみようとした。しかしそれはうまく行かなかっ

た。彼の手は震え、像が転げ落ちた。

 リーは反射的に落ちる像に手を伸ばした。しかし間に合わず、像は床に、落ちなかった。

 リーは愕然として床を見た。

 そこには何もなかった。強く目を閉じてからもう一度見てみたが結果は同じだった。像

が落ちたはずの場所には何もなかった。

 リーはその瞬間見た光景をあらゆる知識を動員して否定しようとした。そんなはずはな

い、青銅の像が傷一つない木の床に吸い込まれるはずがない、と。

 父親は呆けて床の一点を見続ける息子を尻目に席を立った。はっ、とリーは我に返った。

目に映ったのは食堂を出て行く父の姿だった。

「待って・・・」

リーはかすれた声で言った。父親は立ち止まらなかった。

「待って・・・」

リーはもう一度かすれた声で言った。召使の一人が食堂の扉を閉め、父親の姿はその向こ

うに消えた。

 そこからどうやって離れに戻ったのか、リーはよく憶えていない。気がついたときには

椅子に座って机の上に置いたガーゴイル像を眺めていた。新月のこの夜、部屋に差し込む

明かりは屋敷からのものだった。それすら忌々しく感じられてリーは窓から顔をそむけた。

 リーは明かりをつけないまま身じろぎ一つせずに像を眺めつづけた。何度か人影で明か

りが遮られたがそれを振りかえる事もしなかった。彼はずっと茫然自失していたわけでは

ない。像を見続けるうちに芽生えたある決心を胸に、彼はじっと待っていた。

 部屋に全く明かりが差しこまなくなったのを待って彼は顔を上げて屋敷を見た。明かり

は全て消えていた。皆、寝静まった。リーは像をポケットにねじ込みながら立ちあがった。





 リーは丘から町の方角に目を遣った。右手には拳銃を握っている。父親のコレクション

から持ち出したモーゼルHSCだ。

 町には指折り数えるほどしか明かりは灯っていない。リーは拳銃を握り締めた。モーゼ

ルHSCは特別に重たい種類ではないが、殆ど銃を握った事のないリーにとっては

実に頼もしい重量感を備えている。

 リーはマッチを擦り、ポケットからガーゴイル像を取り出して眺めた。最初に感じてい

た魅力はもう感じられず、薄気味悪いだけだった。それが像そのものによるものなのか、

心理的なものなのか、多分後者だろう、とリーは思った。

 闇に慣れた目で少し見つめてから、像を繁みに向けて力いっぱい投げた。

 できる限り遠くへ。

 二度と出会わないぐらい遠くへ。

 像にも、父親にも。

 これまでの自分にも。

 返ってきた乾いた音を合図にリーは走り出した。花にも、虫にも、木立にも、注意を払

わない。ただ一陣の風となって闇を駆け抜けた。明かり一つない闇を、迷うことも、倒れ

ることもなく。

 思いがけないほど早く、リーはメリッサの家の前に辿りついていた。戸惑うことなく低

い板塀を身軽に越えてメリッサの部屋の窓に近づく。その姿がいつになく身軽である事に

は気がついていなかった。

 窓を覗くと眠っているメリッサがいた。リーは銃をベルトに挟んだ。

「メリッサ」

 窓を叩いてみた。

 応えはない。

 もう一度叩いてみた。

 少し動いた。

 さらにもう一度。

 そして待った。

 メリッサが少し目を開いた。しかしすぐに目を閉じてしまった。リーはまた窓を叩いた。

メリッサは今度ははっきり目を開いた。まだ眠たそうな目が辺りをさまよった。月が出て

いればすぐにリーに気づいただろうが、闇が闇に飲みこまれる状況では無理だった。メリッ

サは再び目を閉じかけた。リーは慌てて窓を叩いた。ここでまた眠られては銃を盗み屋敷

から抜け出して闇を駆けたこれまでの苦労が水の泡になる。何としても彼女を起こさなく

てはならなかった。

「メリッサ」

リーはマッチを点した。

 メリッサはぎょっとした顔をした。暗闇にいきなり人の顔が、それも頼りない明かりに

照らされたそれが浮かび上がれば誰でもぎょっとするに違いない。リーもそれは分かって

いたので、あやうく叫び声を上げそうになったメリッサをたしなめたりはしなかった。た

だ唇に人差し指を立てて見せた。

「リー?」

開かれた窓から漏れてきたメリッサの声はまだ信じられない、といった風だった。

「そうだよ」

「どうしたの?こんな時間に」

どうしたのじゃないよ、リーは声を大にしてそう言いたかった。だが言う前に疑問が浮か

んだ。ひょっとするとメリッサは今に至っても自分の運命を知らないのではないか?と。

 それはリーにとって実に救われる考え方だった。彼がそれを確かなものにしたいと思っ

たのも無理はない。そのことで彼を責めることはできないだろう。

 リーは性急に言った。

「どうしても気になることがあって・・・。今日父さんが言ったんだ。君が明日の夕方か

 ら屋敷に来るって」

メリッサは無邪気にも思えるほど淡々と答えた。

「そうよ」

 リーは凍りついた。足元の地面が崩れるような気持ちというのはこんななのか、ぼんや

りとそう思った。

「知っているの?それがどういうことかも?」

殆ど泣きそうな声で囁いた。メリッサは頷いた。

 リーは崩れ落ちそうな膝を必死に支えた。そうしないとへたり込んで泣き出してしまい

そうだった。

「そんな、そんなことって」

「あるものよ」

柔らかく甘かった声は、今では鋭く冷たく聞こえた。

「やめてくれ」

リーは囁いた。

「後生だから・・・それだけは」

「分かって頂戴」

メリッサは髪を掻き上げた。

「弟を上の学校に遣りたいの、あの子は勉強ができるから。妹にもたまには良い服を着せ

 てやりたい。・・・お金がどうしても必要なの」

「だからって売っちゃいけないものだってあるだろうに!金に替えられないものだって!」

「あなたのお父さんがお金で買えないのはあなたの心だけ」

メリッサは微笑んで

「今のところは」と付け足した。

「よしてくれ」

リーは二本目のマッチを擦った。

「間違ってる。俺は知ってる。間違いなんだ。やっちゃいけない事なんだよ」

「じゃあ、あなたが生まれたことも間違いだったの?」

メリッサの言葉は決定的だった。他の殆どのことには彼は耐えられただろう。しかしこの

ことに関しては不可能だった。それはまさに彼の“アキレス腱”だった。

「ああ」

リーは我知らず声を上げて崩れ落ちた。

 メリッサに知られていた。その事実に彼はうちのめされずにはいられなかった。

「どうして・・・知ってるんだ?」

リーは囁いた。落とした二本目のマッチが消えた。

「あなたが生まれるまでのことはみんな知ってたのよ。誰も知らないと思っているのはあ

 なただけ」

メリッサはそれを告げるのはつらいことだ、とでも言いたげに目を伏せた。

 皆知っている。その言葉にリーは二度打ちのめされた。

 皆知っている。知ってて知らぬふりを通している。

 リーの母親が体を売ったことも。

 リーの父親が買ったことも。

 今も次々と買い続けていることも。

 二人の兄が父親に忠実に習っていることも。

 リーが望まれない生を享けたことも。

 皆知っている。

 それでいて知らぬふりを通してきた。二十二年間も。

「騙してたんだな」

リーの息は乱れていた。

「みんなして俺を・・・メリッサ、君も」

「違う、違う!みんなそうすることがリーのためだと思っているのよ」

メリッサは慌てた。これほどに激烈な反応を示すとは思っていなかったのだ。

「ねえ、分かるでしょう。あなたは良い人なんだから」

「良い人なものか!」

ついにリーは声を潜めるのをやめて叫んだ。

「俺のいいところの半分は破れたゴムから抜け出せなかった!残りの半分は母さんの腹の

 中に置き忘れちまった!俺はつまるところ、残り滓の固まりに過ぎないよ!それでも何

 とかする。君に理不尽な苦労はさせないから、頼むからあいつのところには行かないで

 くれ!俺はあんな事にはもう・・・耐えられない」

リーの叫びは最後には涙声になった。

「私の体よ」

メリッサは囁いた。

「君が必要なんだ」

リーも囁いた。

「逃げよう、誰も手の届かないところへ。はるか遠くへ」

「放り出せないものまで放り出して?」

「お願いだから」

リーはひざまずいたまま窓に摺り寄った。

「死にそうなんだ。君まで失ってしまったら、たぶんもう“こっち側”には踏みとどまれ

 ない」

「何があっても私が私であることには変わりないはずじゃない。私の体は私のものだし、

 私は私自身の意思でこうするの」

「やめてくれ」

リーは泣きそうな顔を向けた。だが、暗闇の中の顔はメリッサには見えなかった。

「どうしろと言うの?」

メリッサは溜息混じりに言った。

「一緒に逃げよう。遠くへ。誰も手のとどかない遠くへ。ハイウェイの傍まで行って、長

 距離バスに飛び乗るんだ!地平線より遠くへ!夕日よりも遠くへ!」

「私は・・・」

メリッサは下を向いて口ごもり、思いついたように顔を上げた。

「分かったわ」

「メリッサ!」

リーの顔は輝いたかもしれない。それを確かめる手段はなかった。

「でも準備ぐらいはさせて頂戴。夜明けまでには出れると思うから」

「分かった。じゃあ、夜明け前に・・・丘の端の、町を見下ろせるところに松の木が生え

 てるの、知ってる?」

「ええ」

「じゃあ、そこで待ってるよ」

リーの声は弾んでいた。

 リーは憑かれたように、来た時よりも早く駆け出した。メリッサにはその姿は見えず、

ただ走り去る足音だけが聞こえた。

 リーの足は軽かった。全てを手に入れた。それだけで十分だった。秘密を知られていた

ことはもうどうでも良かった。生きることへの後ろめたさもすべて吹き飛んだ。何しろリー

は彼にとっての全てを手に入れたのだから。

 松の木の根元に立ち町を見下ろした。いつになく町が小さく見えた。

 リーは手を広げた。風さえ吹けば空を飛ぶことだってできそうだった。リーは至福の笑

みを浮かべた。最後の喜びの笑みを。

 松の木に背を預けてリーは待った。ともすればだらしなく笑い出しそうな顔を抑えなが

ら。

 風は弱く、遠慮がちにリーの頬を撫でた。草は控えめな音で応え、無遠慮に気の早いこ

おろぎの音が割り込んだ。そのすべてが微笑ましく感じられた。

 リーは腰掛けて待つことにした。どっかと松の木の根元に腰を下ろす。だが次の瞬間、

声を上げて驚いて腰を浮かせた。

 尖った石の上に座ってしまった。リーは最初そう思った。足元の地面を探ってみた。彼

の座った辺りには小指の爪ほどの石も転がっていなかった。

 はっ、とリーは尻ポケットに手をやった。硬いものがあった。

 息を呑んだ。リーは尻ポケットの中のものを取り出し震える手で探ってみた。

 金属製。

 大きさはちょうど掌に収まるぐらい。

 二本、細く尖った何かが突き出している。

「ううっ」

リーは悪寒に体を震わせ、それを落とした。荒い息が闇をさまよう。確かめるべきか、否

か。

 これまでのリーなら確かめなかっただろう。しかしこの時のリーには喜びの余韻が残っ

ている。リーはマッチを擦った。頼りない明かりに照らされて、嘴のようになった青銅の

口が嘲笑うように浮き上がった。

「うぁぁ」

出そうにもまともな言葉が出なかった。

 町に一つ、光が灯った。リーは愕然とそれを見た。

 最初の鶏が鳴いた。リーは愕然とそれを聞いた。

 落ち着け。落ち着くんだ。何も問題はない。メリッサは俺と来てくれるって約束したじゃ

ないか。信じられないのか?と、リーは自分を問い詰めた。

「信じてるとも。疑うものか。」

リーは自分の声の弱々しさにぎくりとした。メリッサを信じる意思を確かめるつもりだっ

たのに、あらわになったのは自分の中の疑いだった。

「早く来てくれ」

また、泣きそうな声になっていた。

 また、鶏が鳴き、別の家の明かりが灯った。リーは地面にひれ伏し、祈った。神に祈っ

たことなど一度もなかった彼が、これ以上は無いというほど熱心に祈った。熱心に祈るあ

まり、頭がくらくらするほどに。

 どれぐらいそうしていたのか、リーは朦朧とする意識の中、突然後ろから光に照らされ

るのを感じた。

 リーは顔を上げた。目の前に影が長く伸びていた。夜明けだ。さらに顔を上げて曙光に

照らされる町を見た。朝日を浴びる町は、なぜか夕暮れ時のようにしなびて見えた。

 遠く光の中に小さな影が現れた。人と馬が一つになったその影は東から町に近づいたの

で、先端が町に届いても実体はまだいくらか離れていた。

「嘘だ」

リーは囁いた。

「嘘だ」

リーはもう一度囁いた。

 しかし同時に理解してもいた。影の主は、馬に乗るメリッサであることを。

「嘘だぁっ!」

リーは像を握りしめたまま叫んで走り出した。

 朝日が眩しい。空気が温く体にまとわりついた。鳥の声一つ、虫の音一つ、耳に入らな

かった。

 メリッサの家は静まり返っていた。リーは彼女の部屋の窓を覗いた。誰の姿も無い。ど

ころか、綺麗に片付けられている。主を失った部屋はただ閑散としていた。

 裏手に回り、家畜小屋を覗いてみた。牛が一匹、彼を胡乱な目で見た。隣の馬房は空だっ

た。

 リーはもう走らなかった。走れなかった。歩いて草原に出て寝転んだ。

 空が青い。

 雲は少し。

 どこかで鳥が鳴いた。

 風が草を撫でた。

 リーはただそれを眺め、聞き流していた。

 やがて太陽が真っ向から照らしつけた。無理に目を開いていると目の奥に濃緑がわだか

まる。このまま干からびさせてくれ、リーは太陽に言った。ふと、笑い声が聞こえたよう

な気がした。そこで記憶が途切れた。

 目を覚ました時、太陽の姿は地平線の向こうに落ちていた。太陽は無力だった。リーは

立ちあがって歩き出した。

 約束の松の木には誰もいなかった。町の家々の窓から、屋敷の窓から、明かりがこぼれ

ている。リーは目を凝らした。父親の寝室の窓からも明かりはこぼれている。しかしそれ

を見ても何の感慨も湧かなかった。リーはいつの間にか像をなくしてしまったことに気が

ついた。

「ほんとに独りぼっちになっちゃったな」

呟いてみた。応える者はない。ただ静寂と闇だけがあった。

 明かりは一つ消え、二つ消えし、ついには常夜灯の他には父親の寝室だけが明かりを残

すばかりとなっていた。それもやがて消えた。

 リーの顔に笑みが浮かんだ。青銅の嘴に似た引きつった笑みが。

「騙したな」

囁いた。

「騙したな」

呟いた。

「騙したなっ!」

叫んだ。

「俺を騙したなっ!俺の心を玩んで、笑いものにしたなっ!」

リーの叫びは己の骨までも震わせた。

「殺してやる!皆、一人残らず!殺してやる!おまえも!おまえも!おまえも!」

リーは呪った。父親を、長兄を、次兄を、町の人々を、町の周りに住む人々を、母親を、

メリッサを。

「おおおおおおおおおおおおおおおおお!」

リーは雄叫びを上げた。叫びは鼓膜を、骨を、空気を、大地を震わせた。それでも叫びつ

づけた。息ある限り。叫び得る限り。世界を毀たんとでもするかのように。

 息を使い切り、声を失ったリーはぐらついて膝をついた。地面が揺らいでいた。

 酸欠のせいだ。リーは最初そう思った。

 だがそうではなかった。大地は本当に揺らいでいた。リーは地面にしがみついた。そう

しないとどこまでも転げ落ちていきそうだった。

 俺がやったのか?俺がこの地震を?と、リーは信じられない思いで町を見た。町も揺ら

いでいる。リーの目の前で、家が次々と崩れていく轟音がこだました。

 程なくして揺れは収まった。リーは起きあがろうとして二度失敗して転び、それから震

える膝でどうにか立ちあがった。

「おお」

町は暗闇の中に没していた。

 月はとうに沈んでいた。出ていたとしても針よりも細い月からの光では役に立たなかっ

ただろう。リーは記憶を頼りに走った。

 町の中に入るのはためらわれた。町がどうなっているか暗闇ではまるで分からない。そ

のとき、朝日が差した。体液を思わせる薄黄色い光は、行け、とでも言うかのように崩れ

た町を浮かび上がらせた。

 リーは迷わず走り出した。土ぼこりを突き抜け、崩れた壁を蹴飛ばす。ときどきうめき

声が聞こえたが一切耳を貸さなかった。ただ一心に屋敷を目指した。

 屋敷も崩れていた。へし曲がった門を乗り越えてひときわ大きな瓦礫の山に近づいた。

皆屋敷に潰されたのか。そう思ったリーを呼ぶ声があった。

「リー!」

振り向いたリーの視線の先には、瓦礫から突き出た右手の肘から先だけがあった。リーは

近づいて覗きこんだ。声の主が、彼の父親がそこにいた。

 そういう視点から父親を見るのは初めてだった。父親のつむじはかなり薄くなっていた。

右の肩に親指の爪ほどのしみがある。締りを失った体にはうっすらと汗がにじんでいた。

「一晩中家にも帰らずにどこで何をしていた」

父親はきつい目でリーを見上げたが、リーを恐れさせることはできなかった。リーの物を

見るような目に自分の立場を思い出しのか、父親は

「まあいい」

と不機嫌な声で言った。

「それより黙って見てないで助けろ。このままじゃ出られん」

「父さん、裸なの?」

「だったらどうした。そんなこと、今はどうでもいいだろうっ」

父親は裸で寝ていた。その事実にリーは思わず唇を舐めた。

「兄さんたちは?」

父親は目を伏せて「中だ」と言った。

「使用人たちも?」

頷いた。

「・・・メリッサも?」

「ああ」父親はいらいらと頷いた。

「質問なら後にしろ!はやく出してくれ!背骨が折れそうだ!」

父親は悲鳴混じりに怒鳴った。

「動けないの?」

 リーには自分の声が楽しげに聞こえた。それは錯覚ではない。リーは自分が絶対強者で

あるこの状況を楽しんでいた。たとえそれが歪んだ快感であったとしても、快感であるこ

とに変わりはない。リーは生まれて初めて父親を見下せる立場に立ったのだ。しかも、期

せずして。

「メリッサはどうだった?」

リーはくすくす笑った。

「ふざけているのか?こんなときに?」

父親の声が明らかな怒りを帯びた。それも今のリーにとっては可笑しいことに過ぎない。

「ねえ、どうだったの?良かった?」

「いいかげんにしろ!リー!この役立たずめ!一度ぐらいは役に立つところを見せてみろ!」

「抱いたんだろ。それとも兄さんたちのどっちかかな?それぐらいは教えてよ」

「私だ」

父親の声は細く、くぐもっていた。

「私が抱いた。なあ、もういいだろう!梁を持ち上げるんだ。それだけでいい」

「どんな風に?どんな気分だった?」

「っ・・・」

父親は歯軋りをして石でも砕けそうな目でリーを睨んだ。しかしそれは一瞬のことで、次

の瞬間にはもう口を開いていた。

「震えていた。体を硬くして。平気なふりをしても嘘はつきとおせん。それを………強引

 に奪う。最高の気分だ!素晴らしかったよ!」

リーは表情を失った。目を閉じ、指の腹で唇を撫でた。

「言ったぞ」

父親は何も言わないリーに不安を覚えた。このまま去ってしまうのではないか、という焦

りにまた汗をにじませていた。

 リーは微笑を浮かべた。この上なく優しい微笑を。

「ほんとに太い梁だね。それに周りには柱がいっぱいだ。そりゃそうだよね。屋敷は木造

 だったんだから」

リーは胸に手を当て、ポケットの小さな紙箱の手ざわりを確かめた。

「マッチだ。ねぇマッチだよ。僕マッチを持ってる!」

ついに笑い出した。

 父親は本当に青ざめた。リーは恐怖で顔色を失う人間を見るのは初めてだった。それす

ら今の彼にとっては可笑しいことだった。

「ほら、見てよ、マッチだ!」

「おい、よせ、やめてくれ!」

父親は初めて人前で取り乱した。だがその屈辱などどうでも良かった。もし助けが現れる

なら犬の糞でも舐めただろう。しかし目の前にいるのはリーただ一人だった。

「よく考えるんだ。バーソロミューもクリストファーも死んだ。とすればどうだ?」

リーはまた表情を失った。ここが勝負どころだ、ここさえ抜け出せれば、と父親は必死の

思いで言葉を継ぐ。

「父さんの子供はもうお前しか残っていない。財産を引き継げるのはお前一人だぞ。それ

 を父親殺しでふいにすることはないだろう?お前はそんなに馬鹿じゃないよな?お前は

 私の息子なんだから」

「そうだよ」

リーの目は父親のほうを見ながら、しかしその視線の先はずっと遠くにあった。父親はつ

い今しがたの興奮もたちまち消え失せた。彼にできることはただ一つ、祈ることだけだっ

た。

「だからこうするんだ」

リーはマッチを擦った。父親にはマッチに照らされるリーの顔は骸骨のように見えた。

 リーは突然立ちあがった。父親からはリーが突然急に消えたようにしか見えない。

「よせ、待ってくれ。悪かった。私が悪かった。後生だから助けて!」

父親は見えない息子に向って必死で呼びかけた。

 恐怖の中でも最も恐ろしいのは見えない恐怖である。リーの父親を襲ったのもまさにそ

れであった。父親からはリーがマッチをどうしたのか全く分からない。こんな恐怖に襲わ

れるぐらいなら、自分を見捨てて去っていく息子の背中を見るほうがましだった、と歯を

鳴らした。

 リーは家の裏手にいた。ガレージも崩れていた。中には磨き上げられたメルセデス・ベ

ンツが二台あったはずだが、今は見る影もない。瓦礫の隙間から流れ出るガソリンだけが

車があったことを伝えている。

 リーはさらに裏に回った。彼が捜し求めるものがそこにあった。たっぷりガソリンが詰

まった銀色に光るブリキ缶が。

 父親の視界に再びリーの足が写った。足は行きつ戻りつ、現れては消える。水を巻くよ

うな音が父親の不安をあおった。

「おい、一体何を・・・」

強風に似た音が言葉を遮った。リーの顔が再び覗いた。

「何なんだ今の音は?」

「分かってるくせに」

リーの口調は相変わらず楽しそうだ。

「火をつけたな」

父親は目を剥いた。リーは小さく笑いを漏らした。

「おおぉっ、何て事を!この悪魔め!ああ・・・」

「もう何もできないよ。せいぜい祈るぐらいかな。好きなんだろ、祈るの」

リーは振りかえって立ち去ろうとした。

 そのとき、父親がリーの右足をつかんだ。リーはバランスをくずして倒れ、信じられな

い、と言うような目で父親を見た。それはまさに生きんとするものの執念であり、殺され

ゆくものの憎悪そのものだった。もろともに死なんとする父親の手は強烈な力でリーの足

首を締め上げ、リーに、くるぶしを握り潰される、という恐怖感すら抱かせた。

 わ、うわ、とリーは意味不明な事を口走った。父親の体の周りからはすでに煙が燻り始

めている。瓦礫の上で炎が大きく吹き上がった。巨大な炎は父親の憎悪に操られたかのよ

うに屹立して彼を睨みつけた。

 ひ、と震えあがってリーはズボンの前をまさぐった。モーゼルHSCはまだそこにあっ

た。リーは夢中で構えて引き金を引いた。軽薄な音と無感動な鉛の塊が飛んでいく。七発

の銃弾はたちまち撃ちつくされ、撃鉄が不満げな音を立てた。

 荒い息を吐いてリーは父親を見た。赤い肉塊が見えた。父親だったそれは僅かにも動か

ない。リーは右足を引いた。父親の手は引き返そうとはしなかった。死ぬか気を失うかし

たか、とリーはさらに右足を引いた。しかし、足を引き抜くことはできなかった。父親の

手は意思を失ってもなおリーの足をしっかり握って離さない。いちど薄らいだ恐怖がまた

ぶり返してきた。

 リーは震える手で父親の指に手をかけた。その感触にリーは震えあがった。熱くもなく、

冷たくもく、硬くも柔らかくもない。あらゆる形容を拒む感触にリーは心の底から震えあ

がった。 父親の指を一本一本引き剥がす。快感も優越感も勝利感も何もかもが吹き飛ん

でしまって、ただ気分が悪い。リーは吐き気に体を震わせた。父親の姿は煙に包まれても

う見えない。火が大きく吹き上がり、熱気が辺りを包む。空を見た。端まで濁り一つない

青空があった。

 気がつくと、火が周りを囲み始めていた。リーは立ちあがり、走り出した。しかしその

姿ははたから見ると、歩いているのか走っているのかよく分からない。足どりが重い。バ

ランスをうまく保てない。軽やかに走る力を失っていた。

 リーは諦めて歩き出した。火に追いつかれるのならそれでも良かった。あちらこちらか

ら耳に飛び込むうめき声を聞き流し、焼け死ぬことを望むかのようにゆっくりと歩いた。

だがどれだけ燃え盛っても火は絶対にリーに触れようとはしなかった。どれだけ火に囲ま

れていても、リーは寒かった。

 丘を上って松の木から町を見下ろした。火が喚起の声を上げていた。あらゆるものを飲

み込み、貪欲に成長を求める姿は醜く、美しい。リーはやっと、自分がしたことを理解し

た。

 家族を殺した。冷たかったとはいえ、血の繋がった家族を。

 使用人たちを殺した。形式的だったとはいえ、立派に勤めていた使用人たちを。

 愛する人を殺した。自分がそうするほどに愛してくれなかったとはいえ、愛していた人

を。

 町の人たちももうすぐ皆死ぬだろう。皆リーの出生の秘密を知りながら黙っていた。も

しかしたら彼のことを案じてそうしていたのかもしれないのに。

 しかしどんな後悔ももう遅い。そもそも間に合わないから後悔なのだ。

 リーは持ったままだったモーゼルHSCを放り捨てた。町に背を向けて歩き出す。しか

し、二歩も歩かない内に立ち竦んだ。それは道の真ん中に立って彼を見ていた。小指ほど

の高さのそれは、青銅の笑みを浮かべていた。全部見せてもらったぞ、とでも言うかのよ

うに。





「そして、これがその像だ」

初老の男は青銅のガーゴイル像をカウンターに出して見せた。シーラの目には確かに異様

には見えたが、それほどの悪意を秘めた像には見えなかった。

「こいつのおかげで私は金持ちになった。私が打ちのめされそうな時には代わって相手を

 打ちのめしてくれた。私が倒れ伏した時はいつも助け起こしてくれた。どんなひどい策

 略でも、こいつがいればうまく行った」

男はもう冷えてしまったラムを飲み干した。

「しかし寒い。こいつは私を暖めることだけはしてくれない。私が暖まることも許さない。

 当然、死ぬこともだ」

シーラも寒かった。男が入ってきてから店内からは暖かみという暖かみが全て消し飛んで

しまっていた。

 男が小さく笑った。白目は黄ばみ、充血していた。

「一度など私はこれを溶岩の中に放りこんだんだぞ、わざわざ火山の火口まで行って。ちゃ

 んとこの目で確かめた。ゆっくりと溶岩の中に沈んでいったよ、間違いなく!ところが

 ホテルに帰ってスーツケースを開いたら・・・」

彼は祈る時のように手を組んだ。

「こいつはしっかりスーツケースの中に忍びこんでいて、私を待っていたのさ。それでやっ

 と分かった。もうこいつからは逃げられない。こいつと付き合いつづけるしかない、と

 ね。気まぐれに私の魂を持ち去る日まで、ずっとだ」

 唐突に扉が開いた。シーラは驚いて外を見た。彼の言うとおり、本当に悪魔が魂を抜き

取りに来たのかと思ったからだ。

 黒いスーツに身を包んだ男が三人立っていた。悪魔的と言えば言えなくもないような、

怪しい姿だ。三人のうち二人は揃ってサングラスをかけ、三人とも黒く磨き上げられた革

靴を履いている。ただ、三人とも全く同じ容姿というわけではない。真ん中に立っている

男は彼を挟む二人とは全く印象を異にしている。二人がひどく没個性的で特徴というもの

を感じさせないのに対して、彼は同じような格好だというのに強烈な異彩を放っていた。

 サングラスをかけておらず、長い睫毛と透き通るように白い肌は女を思わせる。金髪が

ぴったりとなで付けられていなければとても男には見えないほどだ。白い手袋が華奢な印

象をより強くする。中性的な姿からは一種妖しい魅力すら感じさせる。

 彼は奇妙に澄んだ高い声で言った。

「やっと見つけましたよ。勝手な行動は慎んでください」

初老の男はガーゴイル像をポケットに突っ込み

「嫌だ…………」

と、くぐもった声で答えた。

「どうしたというんです」

「嫌だ。あそこにはもう帰りたくない。もう何処にも帰りたくない」

「あなたの身にはあなた一人だけではなく何万人もの生活がかかっているんですよ。それ

 を理解してください。さあ、戻りましょう」

「屋敷にか」

シーラは薄汚れて疲れた初老の男の横顔を訝しげに見つめた。彼女には彼の肩に何万人も

の生活がかかってるようにはとても見えなかった。

「そうです。あなたの帰るべきところです」

「あれはお前の城だ」

彼は黒服の男を睨みつけた。目のふちが赤い。

「そして私の牢獄だ」

灰色の顔が歪んだ。泣き出しそうな顔が引きつり、緩み、暗い笑いとなった。

「知っているぞ」

重金属的な彼の声はひずんでいた。

「お前はどうして私をつけまわす?分からないだろう?だが私は知ってるぞ!」

「私は・・・」

黒服の声が震えた。シーラはそっと首を傾げた。彼の声は奇妙なほど澄んでいた。

「お前は私を見張るために生まれてきたんだ。あいつの使いとしてな。あいつがお前を送

 り込んだんだ。私がちゃんと借りを返すか、逃げ出そうとしないか、お前はずっと見張っ

 ていた!生まれた時からずっと!気づいてないとでも思っていたか?」

「お父さん!」

俯き加減だった黒服はついに顔を上げた。長い睫毛に縁取られた目には涙がにじんでいた。

 シーラは思わず口を開けた。黒服の若者に見えたのは男装の娘だった。そう気づいて改

めて見ると実に美しい娘だ。今にも泣き出しそうな表情がその可憐さに一層花を添えてい

る。男なら誰でもぐらりと来そうな光景だった。

「お父さん、か」

笑みはさらに影を濃くした。

「お前の母親を汚(けが)したのは誰だ?」

男装の娘は悲しい目をして答えた。

「お父さん、あなたです」

「お前の母親をいつも殴っていたのは誰だ?」

「お父さん、あなたです」

「お前の母親を絶望させ、死に追い遣ったのは誰だ?」

「お父さん、あなたです」

娘の左目から涙が一滴、こぼれた。

「それなのにお前は私を“お父さん”と呼んでいる。何故だ?」

「私のお父さんが他にどこにいるというの?お父さん以外に誰が私のお父さんだというの?」

「お前は私の子じゃない」

シーラは深く隈が浮き赤く縁取られた彼の目元を見てぞっとした。冷気は中の空気を捉え、

すべてのぬくもりを拒んだ。シーラがいくらふいごを踏んでも暖かくならない。

「お前はあいつのところから、地面の下深くに潜んでいる悪魔のところから来たんだ」

「お父さん!」

娘は手で顔を覆って叫んだ。その布を裂くような響きにシーラは竦みあがった。

「分かっている」

男の顔から力が抜けた。乗り出していた体も今は椅子の上にただ乗っかっている。

「お前には逆らえない。好きなところへ連れて行けば良い。どこへでも」

娘はこの上なく悲しい目で左右の男に目配せした。男たちは左右から脱力した体を抱え上

げた。彼は逆らわなかった。二人の男に連れ出される間、彼はだらりと首を下げ、シーラ

を一瞥もしなかった。

 三人が姿を消すと中にはシーラと娘だけが残った。

「どうもお見苦しいところをお見せしました」

娘は気丈にも微笑んで言った。その微笑みはあまりにも痛々しく見えた。

「お代を払わなければ行けませんね。いかほどでしょう?」

シーラは戸惑った。目の前の光景に圧倒されるあまり代金のことなどとうに頭から吹き飛

んでいた。 娘は何か勘違いしたのか、

「これで足りるでしょうか」

と言って小切手に手早く書きこんで差し出した。小切手に書かれた金額を見てシーラは目

を丸くした。およそ下町の酒場で払う金額の範疇から懸け離れた額だった。

「ちょっと・・・桁が多すぎません?この十分の一でも一週間はここに入りび……過ごせ

 ますよ?」

入り浸れる、と言いかけてシーラは慌てて言いなおした。シーラは正直なところ、気味が

悪かった。金持ちが、それも富豪が彼女の店に来たことなど当然一度もない。どう断ろう

か、とそればかりが頭を駆け巡り、目を回しかけていた。

「構いません」

娘は相変わらず微笑んでいた。

「ただ、今夜のことは人には………」

「もちろん、それは。こういう商売なら当然のことです」

シーラは娘の目つきをすぐに読み取った。

 他言無用。

 当然のことだ。特にこういう出来事は彼女一人の胸にしまっておかなければならない。

それは酒場を営むなら当然のルールであるし、あらゆる場においての彼女自身の信条でも

ある。

 娘は悲しい目で微笑んだまま踵を返し、やはり一瞥も返さずに店から去った。いままで

隅に押し遣られていた熱気が一気に満ち、あちこちで叫びを上げた。ストーブがが吐く熱

い息はあらゆる場所から冷気を追い出し、我が世の春を謳歌する。シーラの喉にも鼻にも

入り込み、その手が髪を梳いた。途端に疲れが体中にまとわりついた。シーラは壁に背を

凭せ掛けて呆然とした。

 空気を入れ替えないと・・・。

 どのぐらいそうしていただろうか。シーラは熱気にあてられた頭でそう考えると、壁か

ら背を離した。その動きはぜんまい仕掛けのからくり人形よりもゆっくりとしていた。同

時に扉が開いた。

「こんばんは・・・おぉ、なんだこれは?」

店を埋め尽くす強烈な熱気がはけ口を求めて押し寄せた。ラスコーは顔をしかめた。いく

ら冬だと言ってもやり過ぎとしか思えなかった。

「………いらっしゃい」

シーラはふぬけた顔で言うと床にへたり込んだ。

「おい、しっかりしろ、シーラさん!何がどうしたんだ?」

駆けつけるラスコーの声は、シーラにはずっと遠くに聞こえた。





 翌日の昼過ぎ、ラスコーは町で配られたゴシップ紙の号外に目を通していた。

『………金融界の富豪、ハンフリー・クリスピアン氏死去。早朝、メイドが息絶えた彼を

 発見。死因は心臓発作。遺言は一切残されていない。と、ここまでが警察発表。しかし

 我々は独自調査から興味深い証言を得ることができた。以下はクリスピアン家のメイド、

 アン・ブラウン(仮名)のインタヴューである。

 Q:どのようにして彼の死を発見したんですか。

 A:昨日の夜は、旦那様は随分遅くまで起きてらっしゃいました。私がドア越しに「お

  先に休ませていただきます」と申し上げたら「お疲れ様、おやすみ」とおっしゃいま

  した。私もうびっくりしてしまって・・・。旦那様がそんなこと言うなんて後にも先

  にもなかったことですから。それに、声もいつになく穏やかでしたよ。あるいは何か

  感じてらっしゃったのかもしれません。

 Q:つまり死の予感を?

 A:今から思えば、ですけどね。

 Q:それで、その日は他に何も起きなかったんですか?

 A:ええ、それっきりでした。

 Q:つまり彼がいつ寝たのか、そもそも寝たのかどうかも分からないわけですね。

 A:ええ、あの日は私が一番遅くまで起きていたはずですから、………まあ、後で誰か

   起き出していれば分かりませんけど。

 Q:それでは、当日の朝のことを教えてください。

 A:(体を震わせて)ああ、恐ろしい!もう、思い出すだけで身の毛もよだちますよ。

   朝起きて、顔を洗っていたんです。それで、顔を上げたら旦那様の姿が鏡に写って

   たんですよ。なんだかぼうっとしたご様子で………

 Q:ちょっと待ってください。あなたが朝起きた時点ではクリスピアン氏はご存命だっ

  たんですか?警察発表では死亡推定時刻は午前三時半になってますが。

 A:(体を乗り出して)だから身の毛もよだつんですよ!私は旦那様が早起きされるな

   んて珍しいと思ったもんだから振り返ってこう言おうとしたんです。「旦那様、お

   はようございます。今日も良い天気になりそうですね」って!ところが振り返った

   先には何も、それこそ鼠一匹いやしませんでしたよ。それで慌てて鏡を見直したら

   何にも写ってないんです。そのときの怖かったことといったら!もうちびるかと…

   ……あら失礼。

 Q:はぁ………それで、どうなさったんです?

 A:嫌な予感がしたので旦那様の寝室に・・・朝早くから失礼とは思いましたけど。

 Q:鍵は掛かっていなかったんですか?

 A:ええ、どういうわけか開いてました。あの部屋は内側からしか鍵の開け閉めはでき

   ないようになってるんです。旦那様は普段は必ず鍵を閉めていました。ああ、今思

   い出しました。

 Q:何です?

 A:旦那様はお休みになったはずですよ。部屋に入った時、一つも明かりがついていま

   せんでしたから。

 Q:じゃあ、鍵が開いていたというのはどういうわけでしょうかね。

 A:(溜息をついて)それはもう分かりません。鍵をかけなかった人に聞くしかないで

   すからね。

 Q:(苦笑して)ごもっとも。部屋の様子はどうでした?乱れていたとか、争ったよう

   な形跡とかは?

 A:いえ、綺麗なもんでしたよ。いつもと変わりありませんでした。ただ………

 Q:ただ、何です?

 A:書物机の上にメモがありました。

 Q:何と書いてありました。

 A:「彼が来る」って走り書きされてました。乱れた字で………

 Q:「彼が来る」?

 A:ええ。

 Q:その「彼」というのは誰のことか分かりませんか?

 A:いいえ、ちっとも。ねぇ、もういいでしょう。私話しているうちにまた怖くなって

   しまって………

 Q:分かりました。ご協力感謝いたします。ありがとうございました。

 インタヴューから得た情報を警察筋にぶつけてみたが“ノーコメント”との返答しか得

 られなかった。………』

「ふぅむ、まさに事実は小説より奇なり、だな。シーラさん、どう思う?これ、本当の話

 だと思うかい?」

ラスコーは脇のベッドに横になっているシーラに号外を渡した。

 前日の夜、ラスコーは倒れたシーラを店の二階、彼女の住居に抱え上げた。それからずっ

と彼女のベッド脇に座っている。シーラは渡された号外にざっと目を通した。

「本当だとしても信じない人は信じないし、嘘でも信じる人は信じる。そういうものじゃ

 ない?」

シーラはぞんざいな口調で言って外を見た。作業着の男が自転車で通りすぎるのが見えた。

「シーラさんはどう思う?」

「確かにあったことよ。それは紛れもない事実」

ラスコーは呆気に取られた顔をした。シーラの声からはいつもの、角のない口調が消えて

いた。

「怒ってるのか?」

「いいえ」

「しかし、どうも、今日のシーラさんは変だぞ」

「哀しい」

「何が」

シーラはちょっと首を傾げた。

「何というわけではないけど、ただ哀しみだけがあるの」

彼女が目で追っていた自転車は角を曲がり、見えなくなった。




    
〜完〜


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