確実に動物愛護運動を進めたいのなら
以下に守りたい動物ごとの福祉のためにできることを列記してみました。それぞれの思いに合わせてご参照下
さい。
コンパニオンアニマルを守りたいあなたへ
野生動物を守りたいあなたへ
畜産動物を守りたいあなたへ
実験動物を守りたいあなたへ
もう一回り大きく考えなければいけないこと
絶対にあってはならないこと
避妊・去勢手術は必ず行ってください。あなたが生ませた分、ところてんのように片側から押し出されて保健
所で処分される犬・猫、その辺に捨てられる動物が増えるのです。避妊・去勢手術はかわいそう?一回くらい生
ませてあげたい?もともとペットにすること自体が不自然なことです。避妊・去勢手術をしなくて発情期に悶々
イライラさせることの方がよっぽど可哀想です。犬・猫は生後半年には避妊・去勢手術をしてあげましょう。そ
うすることで雌なら乳癌や子宮蓄膿症など、雄なら前立腺肥大・癌、そして本能のままに雌を追いかけたために
遭ってしまう交通事故死などが防げます。
放し飼いの犬・猫の糞害により、あなたのペットまで悪者にされないように町内会でペットを飼う人のモラル
について積極的に話題にあげ、話し合いの場を持つようにしましょう。
無責任な飼育を助長するマスメディア・場面に際して「かわいい〜!」と言わないで下さい。無邪気なあなた
の一言で安易な動物の購入を助長してしまいます。そのような風潮を許容しない社会にしていきましょう。
なぜ、保健所による犬・猫の引き取り業務が存在するかについて考えて下さい。それは「狂犬病予防法」とい
う法律があるからです。しかし現在では、その法律を大義名分にして(その法律さえ知らず)、避妊・去勢手術
をしていない自分のペットが生んでしまった子犬・子猫たちをこれ幸いにと保健所に連れてくる飼い主に利用さ
れていることの方が多いのです。保健所を狂犬病予防の理由にしないためには、他で狂犬病予防を担保する必要
があります。狂犬病ワクチンの徹底と輸入動物の検疫の徹底・・・これらに関して意識を持ち、厚生労働省に意
見を届けて下さい。
そして何よりも、ペットとして犬や猫が欲しくなったら、保健所から譲渡を受けて下さい。あなたの力で一匹
でも多くの命が救われます。お願いです。
動物園や水族館に行くのは止めましょう。子供のための表面的な情操教育のために自然界で生き生きと生きて
いる動物を捕獲して不自由な生活を強いるのです。子供に動物を見せたいのなら、バードウォッチングやホエー
ルウォッチングなど自然観察によって生の姿を見せてあげる方が、動物園や水族館観賞よりもうんと効果的です。
もちろん、自然界での姿を見るわけですから、観察に行って遭遇できなくても怒らないようにしましょう。出会
えなかったこと、それも野生です。
輸入動物を飼うのは止めましょう。日本にはなかった感染症が持ち込まれて野生動物に伝播したり、逃がして
しまった時に日本の生態系を壊してしまいます。
毛皮・皮革製品は購入も使用も譲渡もしないようにしましょう。
自分で殺せない動物は食べないようにしましょう。鶏を殺したくないのなら卵を食べるのも止めましょう。採
卵鶏の行き着く先も食用ですから、卵を食べる人は結局は鶏を殺していることになるのです。牛を殺したくない
のなら牛乳や乳製品を飲食するのも止めましょう。乳用牛の行き着く先も食用ですから、牛乳や乳製品を飲食す
る人は結局は牛を殺していることになるのです。
馬を殺したくないのなら、競馬を見ないようにしましょう。優秀でない多くの競馬馬の行き着く先も食用です
から、競馬を見る人は結局は馬を殺していることになるのです。
動物ふれあい広場などへは行かないようにしましょう。そこで展示されている羊や山羊や馬も行き着く先は食
用ですから、これらを見に行く人は結局は羊や山羊を殺していることになるのです。
肉食獣のいる動物園に行くのは止めましょう。ライオンやトラなどの餌になるのは、言わずと知れた畜産動物
です。
肉食のペットを飼うのは止めましょう。犬や猫の餌は畜産動物たちの成れの果てですから、犬・猫を飼ってい
る人は結局は畜産動物を殺していることになるのです。
市販の薬(漢方も含む)を飲まないように、医者にかからないように、獣医にも関わらないように、化粧はし
ないように、ペットへの予防接種や投薬・ノミダニ予防はしないように、住宅・食品用化学合成洗剤・消毒薬・
殺虫剤は使用しないように、大脳生理学・神経学などに興味を持たないように努めましょう。でも、実際これら
全てを実行することはほとんど無理だろうと思います。これらの恩恵を受けざると得ないのであれば、これらの
研究に携わる研究者たちに「動物実験反対!」を訴えたとしても、「人間は魚を食べる。肉も食べる。動物の犠
牲なしでは生きていけない。それなのに動物を人間の医療(など)のために実験に使って何が悪い!」と平行線
のまま、いつまで経っても聞き入れられないだろうと思います。まずは「動物実験は人間の大罪」であるとして、
上段に構えた言い方で研究者を誹謗中傷から入ることは止めましょう。私の学生時代の友人たちを含めて、多く
の研究者は好きで動物を殺しているわけではありません。そんな末端の研究者だけを攻撃したところで何も変わ
らない。彼らの人権も尊重しましょう。そうしないと研究者が、「動物愛護団体は一方的で過激なだけで何も分
かっちゃいない。」と心を閉ざし、動物の犠牲をなくしたいという思いは永久に受け入れられないと悲嘆します。
それよりも彼らの言い分にも耳を貸す方がいいだろうと思います。実際に今すぐ動物実験を止めて医薬品の毒性
試験や感染症の研究を行うことは無理です。病気で苦しむ多くの人も本当に困ってしまいます。
私たちが生きている時代には無理でもいつか未来のために思うのは、本当に不必要な動物実験と、現在のとこ
ろは止められない動物実験とを区別できる(審査会の必要性)知識をつけ、医薬品開発などのための動物実験や
各種学校で行われる動物を用いた実習についての代替法、さまざまな病気の予防法について関心を持って情報を
集め、機会があればそれらの方法に対する研究援助資金に募金をしましょう。研究者への誹謗中傷だけでは寧ろ
実験動物の福祉を遅らせてしまうと私は考えます。
「動物実験反対!」「動物虐待なんて許せない。」「お役所仕事」…行政内部にいると、正義感に溢れた人た
ちの言葉をたくさん耳にします。時には行政内にいる私個人に対して同じ組織内にいる者であれば無条件で同罪
だと言わんばかりに非難を浴びます。その組織に在籍する者ならば、そうした非難の言葉に対しても真摯に耳を
傾けて改善していくために考えていかなければならない。ずっとそう思って仕事に取り組むよう努力してきたつ
もりです。
しかし、時にそうした正義感を以てして立ち居振る舞う人に対してとても疑問を抱くことも少なからずありま
した。「動物実験反対!」…製薬会社で毒性試験に関わっている者の多くはもともと動物が好きで大学に入った
獣医師です。しなくて済むものなら彼らだってしたくない。でも法律が動物実験をすることを義務づけている以
上、逃げるわけにはいきません。それが法治国家のルールです。「動物虐待なんて許せない。」…私も同じ気持
ちです。でも、虐待を行う人間は相手が動物であれ家族であれ、少なからず心に悩みを持っており、そんな人間
を生んでしまった社会に問題があり、ひいては画一的な価値観しか持たせられない教育に問題があります。幼い
頃、「正しいこと」を押しつける大人たちに、有無を言わせず傷つけられ、鬱陶しさを感じた経験がオーバーラ
ップしてしまいます。「お役所仕事」…狂犬病予防法で犬の係留期間は3日間と定められ、それ以上は予算が足
らず、生かしておきたくても永久に飼育しておくことが役所にはできません。勿論、興味のない者がそのポスト
に就くという役所の転勤方法が最悪であることは間違いないのですが。
社会の仕組みが分かるようになってきてから、動物だけでない、他の様々な社会問題に関心を持ち、目を向け
るようになりました。政治、法律、経済、マスコミ、犯罪心理、社会福祉、教育、戦争、歴史、宗教、貧困、ラ
イフスタイル…、全てつながっています。心に余裕のない者は、他者にまで優しくできません。人間が弱い動物
をあらゆる意味で痛めつけないようになるためには、まず他の社会問題を解決していかないといけないことに多
くの人が気付くのに、それほど時間がかからないだろうと思います。
2003年7月、日本の動物愛護運動にとってとても残念なことが起こってしまいました。動物愛護運動に関わっ
ている人たちの中から逮捕者が出てしまったのです。私はショックで絶句し、しばらく考え込んでしまいました。
その逮捕は誤認逮捕なのかも知れないし、詳しいことは知りません。が、これだけは絶対にあってはならないこ
とだった…本当に残念でなりません。
日本の動物愛護運動に先駆けて起こっている外国でのその運動が、早くから「過激だ。」とか「偏っている。」
とか言われる理由は、動物愛護運動家にとっては「敵」である人たちを無条件に大罪人と見なして「攻撃」して
くるところにあります。動物愛護団体の中には研究者の車に爆弾を仕掛けたりする者もいます。私もこのホーム
ページを開設して間もない頃、「私が獣医になるためにしてきたこと」のページを見て「犯した罪は消えないで
すよね。」とメールをいただいたことがあります。私はその時、喉に何か詰まったような、ものすごい違和感を
感じました。生きているものは皆、多かれ少なかれ何かしら罪を背負っているのではないでしょうか?それを顧
みず、その「原罪」が分かりやすい人だけを「大罪人」に仕立て上げてしまうのは、傲慢ではないでしょうか?
どんなに純粋な良心から生まれた行為でも、それが社会的に認知されない行動に移ってしまった場合、それはテ
ロ以外の何物でもなくなってしまいます。現在、世界各地で起こっている様々な過激派によるテロも元々は同一
のところから起こっているように思います。何よりも、そのような反社会的な行為を、動物愛護などに関心のな
い人たちが聞いた時、まず第一に「やはり動物愛護は過激なんだ。」と思われ、その段階で動物愛護も10年は遅
れ、殺されなくて済んだ動物さえ無駄に殺されてしまう結果を生みだしてしまう…、一部の動物愛護運動家の反
社会的な行為によって寧ろ動物愛護運動を遅らせているのが本当に悔やまれてなりません。少なくとも日本では
動物愛護運動の中で逮捕者を出してはいけなかった…。重ね重ね、言葉にできないほど残念でした。
動物愛護運動については、しばしば「偽善的」と揶揄されることがあります。「きれいごとだけで生きていけ
ない。」という気持ちがあるのだと思います。もっともなことですが、しかしだからと言って納得いかないこと、
改善していった方がいいことを考えないこととは異なると思います。反省しながらより良くしていくことは、学
習能力が備わっている人間が生きていく上で最もその存在意義を示し、幸せを感じられる大切なことだと思いま
す。
しかし、動物愛護運動に関わっている人たちの中には、偽善的と呼ばれても仕方がないほどに自分の主張のみ
を貫くために他人を攻撃し、「協調することは妥協することだ。」と言わんばかりに壁を作っている人がいます。
「動物実験の即時廃止」−代替法がない今、製薬も遺伝子実験も感染症の研究も動物実験を止められません。将
来、代替法が全ての研究に取って変わるなら別ですが、現状では即刻廃止は無理と言わざるを得ません。あるい
は、種差別承知で特定の動物種に実験を限っていくことから始めないと…。「畜産動物の福祉」−肉の値段は高
騰していきます。犬や猫の餌も例外ではありません。中には犬・猫までベジタリアン食にしようとする運動家も
いますが、それは己のエゴではないでしょうか?動物愛護運動も種差別をしていることは否めません。誰しも一
度は自分が飼ったことのある動物に対して親近感を覚え、まずそれらが痛めつけられる光景について「残酷だ!」
と非難する。でも、犬や猫に自分たちが与えているペットフードも元は生き物だったのです。「動物の権利」を
唱えたいのならば、ペットの飼育も廃止していかないと矛盾を抱えたまま進むことになります。その矛盾を敢え
て認めて謙虚に訴えていかない限り、それは自分の主張を通すためだけの運動になってしまいます。まずできる
ことは、自分たちが動物性製品を絶つこと、化粧もせず、天然植物性石けんを使い、極力薬も使わない生活を心
掛けること。それから、「かわいい。」だけで動物を飼育することを推奨するようなことはせず、動物愛護に目
覚めた後は新たに動物の飼育をしないこと。ペットフードを作るために畜産動物を人に養わせ殺させておいて、
「畜産動物にも福祉を。」と叫んでも誰も聞き入れてくれないでしょう。そして、代替法の開発に助力せずして
「動物実験の即刻廃止を!」と叫ばないこと。叫ぶならどうか少しでも動物実験代替法学会に寄付して下さい。
2004年の同学会開催時に協賛してくれた動物愛護団体はたったの一団体でした。
イラついても、これらの矛盾に真摯に向かい合い、できるところからいろいろな立場の人と協力してやってい
きたいという姿勢で取り組まない限り、かわいそうな動物たちの明るい未来は遠のいていくばかりです。まして
や愛護団体同士の誹謗中傷の仕合は愚の骨頂だと思うのです。
動物の愛護及び管理に関する法律(昭和四十八年十月一日法律第百五号) (基本原則) 第二条 動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることの ないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなけれ ばならない。
「命」とは何でしょう?
この世には3種類の人間がいます。1つは自分以外の生物を命と思わない者、もう1つは家族や特定の動物種、
身近な生物に「命」を感じて愛おしむ者、最後は自分の身近にいない生物に対しても「命」を感じ取ることがで
きる者です。
もう一度、問いかけます。「命」とは何でしょう?科学的に説明すれば、「生物」の最小単位である「細胞」
から命だということになるでしょう。しかし、独立して生命活動を営む事ができる単一細胞あるいはその集合体
であると捉えるならば、受精卵、アメーバ、ケイ藻から人間、動物、植物までが「命」ということになります。
科学的説明などという堅苦しいことはなしにして、普段何気なく使う「命」という言葉はどうでしょうか?私
たちはどこまでを「命」として認識しているでしょうか?よく考えてみると、「命」が人によってかなり違いが
あることに気が付きます。普段、「命」を捉える時、その人の感情に左右されるからです。
本当に憎くて「この人さえいなければ…。」と思ったことはありませんか?それでもその人が本当にいなくな
ってしまったとしたら、私たちはとても罪悪感を感じるのではないでしょうか?それは、憎い相手であってもそ
の相手が「命」あるものだということをどこかで認識しているから、それを奪うことはとても悪いことだという
意識があるからだと思います。しかし、実際に人を殺してしまったりする人がいます。そういう人にとっては、
その瞬間、相手が「命」であると考える余裕は全くありません。その人にとってその相手は、もはや自分の人生
にとてつもない不快感や悪影響を及ぼす「障害”物”」でしかなく、その邪魔な「物」を排除したいという思い
しかないのではないでしょうか?
ところで、動物に対しては私たちはどうでしょうか?ある動物種を飼ったことがある人にとっては、それが昆
虫、ザリガニ、ネズミ、ネコ、イヌ…何であれ、愛おしいと思い、「命」を感じ取ったなら、それを手に掛ける
ということはできないはずです。罪悪感や悲しみが伴うからです。
しかし、これが動物を商品として取り扱う者となると違ってきます。三味線業者にとってはネコは良い皮を得
る「物」でしかなく、動物実験を行う者にとってはマウス、ラット、ネコ、イヌ、ブタ、サル等は研究の対象物
でしかないでしょう。
「命」と言う時、必ずそこには「感情」が入ってきます。「感情」が入らなければ、マウスであろうが、ヒト
であろうが、それらは全て細胞の集合体でしかなく、脳、心臓、肝臓などの臓器という「物」が集まった「物」
でしかありません。「この世には3種類の人間がいる」と言いましたが、多くの人は「家族や特定の動物種、身
近な生物に『命』を感じて愛おしむ者」ではないでしょうか?そして、それぞれの「命」を感じる範囲はお互い
に異なる。
「動物愛護運動は感情的だ。」と批判する人がいますが、それは当たり前です。人の主観で異なる「命」の問
題を扱おうとしているからです。だから、「感情的だ。」という批判はナンセンスなのです。元々、「感情」か
ら発していることなのですから。その人によって異なる「命」を法律でどう線引きするか…、問題はそこだろう
と思います。人によって異なるものだからこそ、議論して多くの人が心落ち着ける社会にしていくこと、それが
できていけば良いと思います。
もし、動物愛護運動が批判を受けるのであれば、ヒステリックになる時です。それはもはや、自分の感情だけ
に重きをおいた、独善に過ぎないものになるからです。ましてや法を犯してまで行動する者は、自分自身の持ち
物でしかない「感情」を社会に押しつけようとするテロリストだと私は非難したい。「命」に対する異なる「感
情」は時には客観的な判断でもって折り合いをつけねばならないのです。
人間は神様ではありません。今すぐに全ての犠牲をなくすことは不可能で
すが、できるところから犠牲を減らしていく・・・、それが大切だと思いま
す。