私が獣医になるためにしてきたこと
大学に在学中、実習や卒論制作のために数多くの動物実験を行ってきました。私が最初に犠牲にしたのは、そ
れまで飼育実習で自ら面倒を見てきたホルスタイン牛でした。獣医系大学は、将来、「動物のお医者さん」を目
指している学生に「必要だから・・・。」と言って実習用・実験用動物を殺させて命の区別をさせるのです。何
が「必要」だったのでしょうか?現在、日本の獣医系大学で行われている動物実験は、欧米諸国の多くでは代替
法が取り入れられ、また、生きた動物を使うことを倫理的に望まない学生にはその希望を受け入れる選択肢が用
意されているところもあります(http://amanakuni.net/maki/soturon.html)。日本の大学ではなぜそうい
ったことがなされてこなかったのでしょうか?それはまさに、論文数を上げることしか考えられておらず、倫理
観など二の次三の次な大学の体制に原因があったのだろうと思います。
家畜外科学実習で子犬の頃から自分が餌を与えてきた犬たちに対して私が行ったのは、健康な骨を骨ノコでわ
ざわざ切って再びそれを修復する骨折の整復術や健康な犬たちの目をえぐり出して縫合する眼球摘出術など、人
間の医者なら研修医の時に学べると思われることばかりでした。しかも、それらの実習に使った犬たちは、不用
あるいは迷い犬として保健所に引き取られた人慣れして扱いやすい犬たち、しかも手軽に手に入るいわゆる「払
い下げ」の動物でした。動物愛護運動に押されて現在ではそういった保健所からの払い下げ実験動物は少なくな
り、現在では大学ではそのような「払い下げ動物の使用」が行われていないはずです。最高学府がなぜ倫理観も
考えず、そのような実習を学生に強いてきたのでしょう?私はその犬
たちの術後治療を行いながら、どうしようもない憤りを抑え、苦痛に悶える犬たちの表情を見てきました。将来、
臨床獣医になるべく所属していた外科の研究室で、卒論を書くために保健所から払い下げられた犬を何匹も犠
牲にしていた後輩は、お酒を飲む機会毎に「しっぽを振って疑いもしていないのに、(自分は)無理やり病気
にして殺すんだよお!」と泣いていました。このような学生の痛みなど当時の教官の何割が知っていたのでしょ
う。こうして若き多くの獣医師は自分の中の矛盾に苦しみ、悩み、中には己の命を絶ってしまう者さえいます。
「俺たちも同じことをしてここまで成長してきた。」と言うのが教える側の理由でしょう。しかし、仮にも獣医
師たる者ができるだけ動物の犠牲を減らす代替法を考えずして生命の神秘をどれだけ若い世代に伝えられるとい
うのでしょう。学生や学外の人からも尊敬され慕われていた優秀な助教授を脅威に感じ、ただ自分の立場を守
るためだけに追い出してしまうような教授さえいる大学に、小さな倫理観さえ求めることが無駄なのでしょうか。
代替法の導入を推進していくことを獣医系大学には是非とも率先して検討していただきたいと心から思います。
※私が関わることになった動物実験−6.安楽死方法を知らない獣医の教官も参照して下さい。