癌、人工肛門のコーナー
(58)「生きがい」ということ

「生きがい療法」
ある日、新聞の催しものの欄に目が止まった。
癌と闘うための『生きがい療法』についての講習会が五反田であるという。
『療法』ということより、“癌”と言う字が私の目を引き付けた。そこへ行けば癌にかかった人たちとも会えるだろう。 何か慰めが得られるかもしれない。同病者同士で安らぎを分かち合えるかもしれない。 講習会の趣旨とはかけ離れた、そんな期待で参加して見ることにした。

これは福山市柴田医院の医師が主催、癌治療のひとつとして提唱されているものです。

柴田医院のホームページより引用(許可済み) 

『生きがい療法』といえば、ガン治療中の患者7人がモンブランに登山(1987年)、テレビニュースやドキュメンタリ−番組等で大きく報道されて知っておられる方も多いことと思います。 この療法は、ガンや病気に伴う不安や死の恐怖を上手に対処し生きがいを持つことで前向きに生きるための理学的心理療法の一種です。 こうした心理的 訓練を行うことで、自然治癒力に良い影響を及ぼし、ガンなどの治療効果を高めることが、研究の成果として世界的に知られるようになっています。
(柴田病院のHPをご覧になる方は、左端「リンク」からどうぞ)

癌と闘っている人たち50人ほどの参加があり、最初に自己紹介がありました。
乳癌転移により余命3ヵ月と言われている女性などさまざま、まさに死と向き合い、真剣に『生』を探って一日一日を生きている人たちばかりです。
どう生きるのか、どう癌と戦うのか・・・・ 医師の講演の中で、私の耳にこびりつくように伝わってきたのは
「生きがいを持ち、前向きに生きることが癌を克服するのに大変重要であり」
そして
「そうした前向きの姿勢こそ、肉体に本来備わっている自然治癒力を高め、癌を克服、あるいは余命を延ばし、あるいは残された大切な日々を充実したものにすることになる」
と言うことでした。
癌を不治の病と落胆しているだけなく、前向きに生きてください。
毎朝自分の家の前だけでなく隣の分まで掃除するということでもいい。どんな小さなことでも良い、自分の出来る範囲のことで構わない。目標を持ち、それを生きがいにつなげてください。

講習の内容は大変説得力のある話でした。納得出来る話でした。
参加の動機とはちがって、私は講習会の内容に次第に引き込まれていった。

目を覚ます
講習会の最後に参加者全員が、目標を紙に書いて提出、それが発表されました。
「誰にもやさしくして暮したい」という人もいました。
「自分の闘病の手記を残す」という人もいました。
「歩ける間は毎日30分の散歩をする」という人もいました。
私は「いつかもう一度フルマラソンを完走したい。そしてもう一度穂高岳へ登りたい」と書きました。

講習会への参加は、この1年の間胸の奥で眠っていたものを静かに揺り動かしました。
考えてみればこれまで生きてきた50年間、いったい何をしてきたというのか。
利潤追求に血道を上げる企業の一歯車として、ときには人間性をもかなぐり捨てなければならなかった。私生活の犠牲も当たり前だった。そうしなければ企業も人も生き残れない。でもそれだけで良かったのだろうか?
焦燥感に似た疑問が突き上げて来るのを、私は強く感じ取っていた。
このまま死にたくない。 何かをしておきたい。残る時間、自分らしい生き方をしてから死にたい。

『私らしい生きがい』を持つことで、もしかすると何とかなるかもしれない。
こんな感情の昂まりは手術後初めてのことであった。

新しい職場での勤めは順調だった。
以前と違って出勤、帰宅の時間は一定していて生活のリズムも安定していた。 それに「生」への執念というか「生きたい」という意欲は、次第に本物になりつつあった。
癌、そして人工肛門のハンデイなんかには負けてはいられない。もっとやらなけれはらならないことがある筈だ。 出来ることがきっとあるはずだ。
求めることを忘れ、『生』の落伍者となりかかっていた私であったが、この講習会で這い上がるきっかけをつかみはじめていたようだ。

質の伴った生きかたを
ジョギングはつづいている。
体を動かし、汗をかくのが楽しみというだけではなく、それを生きる喜び、命の質へと繋げなくてはいけない。
正直言って後何年生きられるかはわからない。その間は充実した人生でありたい。質の伴った日々でありたい。 「生きる屍」のように無為に日を送る、もうそんなもったいないとはできない。
ようやく私は大切な何かを模索し、今までとは違った新しい道への門口に立っていた。

転移、死へのわだかまりが消えたわけではない。 しかし私は変わりつつあった。
もう「死」とか「癌」とか「闘病記」とか、そうした本を買って来ることはなくなっていた。 人の不幸に身を置き換えて、自分を慰めるような考え方の無意味さを悟っていた。 何十冊にもなったそんな本はすべて処分した。

そして山へ
リンパから先への転移等、心配する事態は起こらず順調に月日が過ぎていった。
手術から1年半、夏を前にしてある挑戦を考えていた。
山へ登れないだろうか。
北アルプス穂高岳へ・・・・・ 手術の約半年前の夏、次男と常念岳−槍ケ岳−北穂高岳と、北アルプスの核心部を縦走した時の印象が、再び脳裏に蘇った。
入院中次男からもらった手紙の一節
『きっとよくなるよ。なおったら又北穂高岳へ登って、月光に照らされる槍ケ岳を見に行こう』
その次男の言葉は今も忘れていない。そして「生きがい療法講習会」のときに、目標として書いたのも“穂高岳登頂”であった。
妻にその計画を打ち明けた。
「それは先生に相談してからにして」
というのはもっともなことだった。

考えては見たものの、山小屋で2泊しなくてはならない。
ジョギングも再開しているし、体力への心配はないとしても、日帰りならまだしも、いったい排便の処理が可能なのか。どんな方法があるのか。皆目見当がつかない。しかし何としても穂高へ登りたい。
どんなに困難でも、方法を考え、立ちはだかる“人工肛門のハンディ”という壁を一つづつクリアしていかなくては、これからだって「質の伴った生き方」は出来ない。
残された日々を充実させなければならないのだ。
ハンディを乗り越えて行くための初めての挑戦について、私は一生懸命に考えた。

もどる
  つづく 
進行ボタン
modoru 前の話「57」へ戻る  
次の話「59」へ進むtuzuku