98年2月8日付けの「自己決定・自己責任原則を確立せよ(※1)」をベースにした実効性のあるプログラムを考える事としたい。「基本計画」として、考え方の柱を明らかにして、時限プログラムを作成することとする。
※1では、「自明でない事を子供に押しつける事の愚」を明らかにしたが、中学生にも分かる言葉で、納得できる論理を構築し、今から着実に積み上げていく必要がある。今は、日常の中で、どう「しつけるか」という具体的プログラムを記述する段階であろう。
父は、98年の後半、子育てに関して、父と母の理解のズレが拡大しており、危機的状況にあると感じられた。そこで、子育て計画の検討の出発点として、気になる事を断片的に記すことから始めることにする。
(1)父の理想の子育ては、「10人兄弟の中で育つ事」である。
対して、現状は、一人っ子であるから、環境的に、構造的に、「過保護&過干渉になりがちである」という問題を内包しているとの認識を出発点とすべきである。もし、加藤家が10人兄弟であったとすると、今抱えている問題の多くが、解消するような気がしてならない。
(2)生きる活力(エネルギー) .vs. よい子
我が息子には、「生きる力」を感じる。この「元気」を大事に育てたいのだ。生きる力が減退し、夢を持たない今の自分と比べると、格段に、人間としての価値は高いと言えるだろう。子供らしい生きる活力を減退させない方向での、子育てプログラムを考えよう。
素直でマナーのよいが、元気のない子よりも、少々わがままでもマナーが悪くても、「生きる活力」に満ちている方が、よい。
(3)「ちびっこエンジニア」の遊び方指導について
98年12月30日の事である。父が、電動ドライバの使い方をひとしきり指導した後、自由に任せていた。試行錯誤や失敗の中から、自分で体験的に学び取る時間を与えるつもりであった。息子は、電動ドライバでネジ締め以外に使っていた。花壇の手入れから戻った母は、その後半部分のみを見て、「正しい遊び方をしなさい」と怒った。
父は、「遊び方に口出しをする」ことは、成長を阻害するものであると思う。遊びから学ぶ為には、一定の時間が必要である。この場合、母が注意をする前に、状況を父に確認すべきであったのではないか。
(4)注意する回数が多いと、その価値が希薄になり、感覚が麻痺する。
注意を受ける息子側で考えると、もし、10人兄弟だったら、注意を受ける回数は、格段に少なくなるであろう。注意される回数が少ないほど、1回の注意に対する緊張感が高まる。注意を受ける回数がある程度以上になると、感覚が麻痺し、「何を言われても、聞き流す」状態になり、さらに注意を続けると「表面的に、注意を聞いたフリをしながら、その場を過ごす」癖がつく。
親が注意をする回数をコントロールするよう意識していないと、「親や教師の顔色をうかがいながら、世渡りをする」ような子に育ててしまう危険性が大きい。
また、「ねえ、ちゃんと話を聞いているの?」と子供を責めるのは、お門違い。子供に理解する言葉で話す能力がないのか、タイミングが悪いのか、介入の仕方を親が学ばなければならない。例えば、ビデオを見てもいいと許可を与えたら、視聴30分間は、ビデオに釘付けとなっているのは、致し方ないし、集中している事自体は良いことである。その途中で、用事をいいつけて、上の空の返事をするのを戒めるのは、矛盾している。
(5)感情的に怒るのは、百害在って一理なし
感情的に怒る時に、「○○をしなさいよー」とか「××をやりなさいよー」という癖がある。この場合のよーは余分。「○○をしなさい」や「××をやりなさい」と言うよう努力する事で、感情的に怒ることを抑制することができる。
自分がいい子でいたい。第一に世間体を気にしてしまう。それで子育てするのは、よくないのとは思っていても、他のやり方が分からない。
父の問題提起を出発点として、父と母で話し合って、とりあえず、次の結論を得た。
●参考文献
デジタル下町宣言/1999年(平成11年)1月2日