写真家 栗谷川 功
アメリカ大陸 放浪記

その後の日々?

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タイトルは『夢を追いかけて!』ひゃ〜〜ハズカシイ〜鼻血出そう  











最近ハマッて居る事

                                                                                           



家宝の写真








はじめに
1964年 青森県は三戸町に ライト写真館 の次男として生まれる。
山に囲まれた小さな町で幼年期をすごし、小学校6年の時ヨーロッパで開かれた世界青少年音楽祭マーチング部門で第2位に輝く。
この頃より"カッコつけマン"の父親がアメリカやオーストラリアからの交換留学生のホームステイを引き受けるようになる。
町立のような県立三戸高校を普通の優秀な成績で卒業後東京工芸大学の短期大学部写真技術科...(長いので写大)に入学。
写真について真剣?に勉強、2年間の楽しい学園生活をすごす。
写大卒業後、写真家小林 健氏の下、写真とは何か??社会とは何ぞや??? と 勉強させられた3年間を過ごす。と同時に講談社のビジネスマガジン"NEXT"の取材同行カメラマンとして政財界の著名人、げーのー人等、情報の最先端を撮影するというチャンスを先輩である(育ての親 、兼仲人)写真家 長谷川治憲先生より与えられる。
この約3年間の修行により「今僕は何かをしなければ!」(加藤たいぞうセンセイの影響か?)とアメリカ行きを思い立つ。
誰でもこんな夢は見られるだろうけど僕はどうしても行きたかった。
退職後日雇のバイトなどあまり人には言いたくないようなお仕事をして貯金と合わせて約150万円の軍資金を調達、とにかく安く長くアメリカに滞在したかったのでイロイロ イロイロ勉強研究しました。


 
 
そしてアメリカへ
 
 
I-80を西へ、サンフランシスコへ向かう車の中マフム−の様子が変だ、
一生懸命明るくしようとしていたマフム−。泣いている。
30才を過ぎた、頭のはげた 今も戦争をしている国イランからたった一人で来ている男が、大きな目から涙をボロボロこぼして泣いている。
この一瞬に僕のアメリカでの半年の全てが集まっていたと思う。
「アメリカ来て良かった、男で良かった」いろんな事が頭の中を駆巡った。



 

 

僕は1988年3月21日から10月4日までの197日間、アメリカ合衆国及びカナダ、メキシコで過ごしました。
小さい頃からの憧れのアメリカへ行ってみたい、世界の良い事、悪い事なんだかんだと言っても全ての国の中心で生活してみたい。
講談社の人間に言わせれば、「ソ連はぺレストロイカ、アメリカは大統領選こんな時期だから面白いだろう、何かあったらコレクトコールでもしてくれ」 と心強い言葉を送ってくれました。
どうすればアメリカに長く、安く滞在出来るのか考え、とりあえず語学学校(F1ビサ)に入るのがベストだと決めました、その後は以前仕事で取っていた(B1.B2ビサ)に切替て何とか成るだろうと特に目的も無くただ行ってアメリカを感じてみたいと軽く考えていました。
3月21日、チケットオンリー中国民航と言う格安チケットでサンフランシスコに上陸しました。
言葉が通じないなど全然気にしてなかったのですが、やはりショックでいきなりホームシックにかかってしまい「なんでこんなとこ来たんだろう」と情けない毎日。最初の3ヶ月はサクラメント郊外のカリフォルニア大デイビス校で英語を勉強しました。学生時代こんなに勉強した事無い位勉強しました。
そこで同じクラスのマフムーと知り合い励ましあったのでした。
ちなみにマフムーは"シャアーの時代"大金持ちでしたが革命により全てを失った人です。手をこすり合わせ"自分は毎日毎日こうして仕事を頑張った、だから結婚も出来なかった・・・"
考え方がどこか日本人に理解出来そうだった。日本人が80%という英語クラス 半分以上が大学生、いつもつるんで何しにアメリカ来てんのか特にパーティーの時など他の国の人達からは、白い目で見られてたのですが僕にはそれがたまらなくいやでした。
日本人は本当に国際的にはなれないと思いました。
ヨーロッパなどの国々から来ているいる人達は、観光するためにお金を貯めてぎりぎりでもやって来て楽しんでいる。
日本人は金持ち、何見たって何処行ったって解からないと思う。
皆 買物にだけ来ている・・・そんな気がした。

        

英語クラスを終了し、ルームメイトのエドワードより車を500ドルで買い、それで大陸を旅しようと思いました。
しかしそれがとんだボロ!!修理の毎日。車検や名義変更、保険、ライセンスの問題など つたない英語で良く出来たと思います。
修理に2000ドル掛けて いざ出発。
その日の朝タイヤをいたずらパンクさせられ、走っては山の中まだ初日のカリフォルニアなのにラジエターとホースに穴があき、煙がモウモウキャブはカブリぎみエンジンブロックにはひび割れが・・・なんとか直しこの先が不安ながら山の中でキャンプをする事になりました。
アメリカの田舎では本当に車が通らないんです。フリーウェイでは牛がひかれていたり、車ほどのタンスが落ちていたり結構興奮出来るのですが・・・
そして二日目の夕方、オレゴン州グランツパスで追突を受けました。
車はまったく動かず、ポリス 保険 修理、相手はハイスクール、私の英語では通じない、システムが解らない "ジョン&パンチ"欠かさず見てたのに「どうなるんだあーやっぱり厄年かなあ」と真剣に日本に帰ろうと思いました。
私の人生の中で不安で眠れなかった中の一日でした。
三日間の事故処理で保険屋と相手と交渉して、車はメチャメチャだけどとにかく動くようにしてもらいました。
アメリカ人の中には確かにいろんな人(悪い意味で)がいるけどきちんと教育を受けた人はちゃんと対応してくれた、それと私の英語はテキトウだけど所詮は言葉、私の話したいと思う意志で通じるものでした。
例えばティシュペーパーを伝えたい時、白く−薄い−紙−そして鼻でも触ればわかってくれた。
ビサの切替えでカナダまで行かなければならず、3日間で約4000km走り続けました。
そして とりあえずデイビスに戻り、車を売ることにしました。カーウオシュで働く、英語を僕と同じくらい話せないメキシカンに350ドルで売りつけ、その金でグレイハウンドと言うアメリカのバスネットワーク30日間の周遊券を買いました。そこからはひたすら貧乏旅行の毎日。










夜はバスか安ホテルで泊り、1日平均 52ドルで過ごしこれが1日の全て。
2日間バスに乗りっぱなしとかイロイロありました。
長距離バスに乗ってる客は何かと"訳アリ風"の人が多いんです。
僕の周った場所は西のサンフランシスコから東西南北、カナダ、メキシコの一部と アメリカで行ってない都市はほとんど無い旅でした。
そんな中のある1日を紹介します。
7月11日、CNN本社のあるアトランタに午後5時30分に着いた。
3時間安ホテルを探し回り、辺りは真っ暗でなんとなく恐い、"もうどこでもいいや"と飛び込んだ汚らしいホテル。
入口の回りには、浮浪者があふれている、黒人、プエルトリコ系、メキシカン目だけが異様に白くギラついている。手に力が入っていた。
料金は800円位、部屋は狭く暗い、カギも無い、もちろんシーツは汚い。
トイレやシャワールームにはドアもカーテンも1枚も無い。
そして酒とションベン、汗の臭い、自分で言うのもなんだけど神経質で虫の大嫌いな僕の体の上や床をゴキブリや蚊が走り回りじっとり。
汽車、音楽 けんか そしてパトカー、眠れなかった。
明方  チュンチュンと鳴き声が、鳥かと思えば大きなドブねずみと目が合った。
まさにこれがアメリカかと思い、朝1番で逃げ出した。
旅行中の僕は1日が非常に長く感じられ、いろんな事を考えさせられた毎日でした。 (それが目的の一つでもあった。)
写真なんてやめよう 僕にはこの先写真でメシなんて食っていけない、所詮 自己満足の世界、もうやめよう と何度思ったことか…。
情けない話ですが、その証拠に旅行中ほとんど写真を撮れなかったと言うか、そんな気がおこらなかった。










そんな旅の中、ニューヨークとの出会いはショッキングだった。
渡米以来5ヶ月目に着いたニューヨーク、一言で言えばすばらしい。
アメリカのほとんど全域を旅して、はっきり言ってほとんど面白くなかった。
つらかった そして巨大な田舎を実感した。のどかで、広くて、いいかげん。 これがアメリカなのかなあと思った。
でもニューヨークは違っていた。 ある人の言葉を借りるならアメリカで1番アメリカらしくない そんなニューヨーク、どこか東京に似ていて、でも東京にはいない人達がいた。生きた人間がいっぱいいた。それまで写真を撮ってなかった僕が、毎日、カメラを持ち歩きまわり、そして人間の写真を撮りまくった。写真が撮りたかった。
写真て本当にすばらしいと思いました。
ニューヨークではいろんな人達と知合いました。みんな変な人達?ガッツがある人達ばかりだった。
ニューヨークは僕をワクワクさせた。
スパニッシュハーレムを歩き、ハーレムのバーではドラッグを売りつけられかけ、夜道で黒人達と言い争い。 極めつけは、カラーラボ、コダクロームを16本現像に出すとナント、ネガ現像され真っ白の仕上がり。目の前も真っ白、店の中で怒り、どうしてくれんだ、ワタシハ知らない、ワタシノせいじゃないとアメリカ人。
仕事の写真だ裁判起こすと脅してもフィルム16本で、片をつけられた。
あー24歳、厄年だなあ と笑うしかなかった。
そんな僕の旅もサンフランシスコに戻り、終わったのでした。
 










日本へ向かうオンボロ飛行機の中で、いったい僕の青春の全てをかけたアメリカは何だったのかを考えました。
でも、日本へ帰るんだと、はやる気持ちに負け、結局厄払いに来たのかと軽く流してしまいました。
 



その後
 
生きた人間を写すため超一流の写真館で、丁稚からでも修行をしようとニューヨークで誓い FROM Aを見て老舗の五十嵐写真店で3年間お世話になりました。回りの人に本当に恵まれ充実した修行ができました。
僕は短大を卒業する時、一人のセンセイにどんな事があっても3年間は何事もガマンだよと 酔っ払いながら説教されその事を肝に銘じたつもりですが、悪いことに3年するとあきちゃうんです。
センセイどーするんですか?
読売新聞の求人広告を見て目に止まってしまいました。青森帰る前にもう一花咲かせようと血が騒いでしまったのです。
海外でモータースポーツ(主にF1とパリダカ)取材やコマーシャル制作をしている超―かっこいい?ムービーの会社でした。
いっぱい受けて、2人だけ一次試験を通り、社長、重役との面接の最後に人を育てたいとの一言で帰るべき所が有る僕ははっ、としてその場を失礼しました。
放浪後、アメリカへの撮影旅行(新婚旅行)とヨーロッパ5カ国の撮影旅行を経てやっと三戸に落ち着いて早8年。
子供2人と愛妻に恵まれ、写真屋さんを営んでいます。
が どーも最近血が騒ぐ…今日このごろ

 

マフム〜の近況?

ロスで数年生活後、混乱のイランに戻り自動車部品ビジナスを展開

タマに部品カタログを探し送ってあげた。

無事に美人の奥さまをメトリ、子供も生まれたらしい!

お祝いに着物を送ったら、いつものように真夜中に

「ムシムシ私の名前はマフム〜」

と電話をよこし泣いて喜んでいたマフム〜。

アメリカでグリーンカードを取得して、一家でロスへ移住してしまった!

国を捨てる?!ん〜〜〜???良くワカンネ〜よ。

頑張ってね、おっさん!

 撮影 YOSHI&MIWAKO



 

まったく酷い文章をこの場に開設以来 五年以上の月日が経ちました。

途中?12チャンネルのプロデューサーから目に留めて頂き、徳さんの情報番組に

面白いから出演してよ!と言われ喜びましたが、企画内容が遠い南国から

嫁いだ奥さまの何年かぶりの帰郷!の同行取材でした。

毎年帰ってるし、つい先日も行って来ましたけど・・・。(ガクッ

没!

2年後、10チャンネルの久さんの番組に出演して下さい!

ハア?

初めて東京に出てくる、老人と一緒に・・・?

何でオラが???(青森馬鹿にしてない!)

没!

等など反応がありチョット楽しいかな?

 

2003年秋取引先?で母校でもある三戸高校より、職業講和の依頼が有りました!

多分予算の関係だとは思いましたが、今回の趣向地元に残る(活躍する!)                                若い!卒業生普通の話? と勝手に理解し、大変名誉な事ですので

快諾いたしました。でも先生、ホントに俺で大丈夫?

知りませんよぉ〜!?

一応無事?に終えましたが、半分位の生徒は寝てましたね。

読みにくいけど一応原稿UPしときます。(75分の予定時間でした!)

 

なんと講演料(謝礼)頂いちゃいました!

『こんなの頂けません』、と一応言ってみましたが、校長先生も困るだろうと思い素直にその場で収めました。

翌日改めて学校に出向き、学校に役立てて下さいと寄付しちゃいました!

(太っ腹、人間が出来ている!外ヅラがイイとも言う)

 

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タイトルは『夢を追いかけて!』ひゃ〜〜ハズカシイ〜鼻血出そう

奥さまの名づけです!

 


大変お恥ずかしい事に、私が遊びに行ったカリフォルニアの学校は

カリフォルニア大デイビス校でした。(UC系)

何でもカリフォルニア大は公立で日本で言う国立みたいな感じ?!

カリフォルニア州立大は県立みたいな感じだそうです!?

私は遊びに行ったのでどうでも良いし、政治家になるわけでもないので・・・!!!

どもスミマセン

m(__)m

長いのに最後までお付合いくださりありがとうございました。
感想をお聞かせください
もしかしたら、良いことが有るかもしれません (^^ゞ



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