かわいいひと
「この子英生君と同い年やから仲良くしてあげてね」
はにかんだようにお母さんの後ろからこっちを見ているその子を紹介されて彼は胸をときめかせた。
場所は東京晴海のガメラの前。
ふわふわのエプロンドレスで濃紺のベルベット地のリボンをカチューシャみたいに結んだ『女の子らしい恰好』がよく似合っている瞳の大きなその子に火村英生君──当時四歳 は恋をした。
可憐で可愛い少女はあまりにも火村の理想そのもので、このスナップが残っていなければ夢か幻かと疑ってしまいそうだ。
だが、それが現実であった証拠に思い出の少女の大人しやかな面影はこうして印画紙の上に焼き付いている。
「まあ何て言うかね。青かったよ俺も」
火村は独りごちた。台詞の割には後悔していないあたりかなり寒い。
「なにニヤついてるんだ」
締まりのない顔を赤星に見咎められた火村はその表情を隠すどころかかえってニヤリと笑ってみせた。
「俺の初恋の相手」
ヒラヒラと手に持っていた写真を赤星に見せびらかす。
「可愛いだろ」
唯一の例外を除いてはめったに笑顔すら見せない火村の妙な上機嫌を訝しく──というか不気味に──思いながらも赤星はその写真を覗き込んだ。
真っ直ぐで茶色がかった髪をリボンで押さえてよそいきっぽいパフスリーブのワンピースで可愛らしくポーズを取って少女──というより幼児──のスナップ写真だ。
「……むちゃくちゃチビっ子じゃねえか。犯罪者」
「馬鹿野郎、出会った当時の写真だよ。同い年だ」
火村に言われて彼女の成長した姿を思い浮かべた赤星はサラサラで茶色の髪とふわふわの笑顔が可愛い少女に既視感を覚える。
「なあ、これ……」
「ぎゃーっ! なんでそんなもん持ってくるんやっ!!」
割り込んできた声に赤星が驚く間もなく登校してきたアリスが慌てて火村の手の中から写真を奪い取った。
「家ん中片付けてたら出てきたんだ」
言うと火村は手品のようにどこからともなくもう一枚取り出した。
「だぁー、まだ持ってるんか?」
わたわたと取り返そうとするアリスを上手くかわして火村が手をヒラリと翻す。はっききっぱり遊ばれている。その火村の表情ときたら呆れるほど幸せそうだ。
彼の真っ赤な顔と動揺振りに赤星の疑惑は決定的な確信へと変わってしまう。
「アリスなのになんでスカートはいてんだ」
「あのな、それはやなぁ……」
言い訳しようとモゴモゴ呟いてみたものの、どう言い訳したらいいのか判らずにアリスは火村を睨んだ。
「俺に会うからとっておきのおめかししたんだよな」
「ちゃうわっ!」
アリスが真っ赤になって言い返すのを上から見下ろしながら火村はデレッと表情を緩める。
「照れるなよ。お前らがラブラブなのなんか今に始まったことじゃねえだろ」
赤星は半ば呆れたように言った。
「あのなぁ……」
更にもう一コント始まりそうな気配にどこからともなくぐしゃぐしゃに丸めたレポート用紙が飛んでくる。
「早朝からいちゃついてんじゃねえ」
猫の子みたいにじゃれ合っている彼等に周囲からブーイングが上がる。
その声にアリスは首を竦めた。
「な〜に余裕かましてんだ。この殺気だった空気が見えねえのかよ」
ポコンと消しゴムを投げられてアリスはきょとんと回りを見回す。
「アリス一限目小テスト……」
赤星がフォローするように囁く。
「げっ」
余裕かますだけの実績のある火村や赤星とは違うアリスは慌てて自分の机に向かった。
数学の小テストは一定の点を取らないと放課後居残りなのだ。
「ったく、しょうがねえな」
机の奥から教科書を引っ張り出した──数学の予習復習宿題を家で行なっていない証拠──アリスの頭にぽんぽんと手を置いた。
「なに?」
アリスは無防備にその手の主を見上げて首を傾げた。
「ヤマかけてやるよ」
焦ってむやみやたらに教科書とノートをひっくり返しているアリスに溜め息を一つついて火村は言った。
「ほんまに? やった、火村大好き!」
「その代わりちゃんと覚えろよ」
キラキラと瞳を輝かせうんうんと頷くアリスに火村は微笑みかける。不幸にして夏コミに持ち込まれてしまったチョコレートくらい蕩けきった笑顔だ。──ついでにベタベタ具合もいい勝負。
「なんで俺は朝っぱらからアリスに怒られなきゃなんなかったんだ?」
赤星は火村とアリスの様子を眺めながら呟いた。
お子様は朝からテンション高いからねぇ。下手にからかうと噛み付かれるんだってば。
──いや、別に可愛いからいいけど。
赤星は『火村に知られたら殺される』感想を賢く胸の内にしまい込む。
本当にアリスってば火村に愛されてるのだ。
相手がアリスであるというだけで、火村は『大好き』一つで釣れる安い男に成り下がる。主従関係とは別の意味で飼い慣らされている。──火村君、鬼畜だけど家畜。
「ラブラブ……」
きっとアリスは火村の対外的評価が『クールでストイック』だなんていうのは知らないんだろうなぁ。なんて考えながら、赤星は半ば感心して火村の溺愛っぷりを眺める。
──男子クラスに密やかに咲いた恋の花。いや、全っ然密やかじゃないけど。
いっくら流行りだからってこの場合洒落にならないんだってば。なんていうかこう小指に運命の赤い糸って感じで。
「俺もテスト勉強しちゃおっかな〜」
いたたまれなくなったふりをして赤星は『愛の熱帯性高気圧圏内』からの脱出をはかった。
「へえー、確かに可愛いなぁ」
「これならいかがわしい雑誌にも売れるで、有栖川」
人だかりの外側であっぷあっぷしているアリスにからかうような声が飛ぶ。
「ひーむーらーっ! 見せびらかすなそんなもんっ」
いくらテスト直前とは言え、誰も──火村と赤星は除く──興味を示さなかったので油断していたのは認めよう。
だがそれが終わった途端その人だかりはあんまりだろう。なあ、そうじゃないか。アリスはちょっとグレたくなった。
紙に数字を書いてそれが修正不可能になってしまった時点でテストは遥か過去のものになる。そうなってしまえば、近い未来に起こる──かもしれない──悪夢を忘れるために学生は目の前の快楽に走る。
例えばからかいがいのあるクラスメイトの恥ずかしい写真とか。
昔の人は言いました。喉元過ぎれば熱さ忘るる。
果敢に──幾度目かの──人の海へのダイブを試みたアリスはそれまでと同様に、まあまあと宥めすかされながら一番外郭の何人かに教室の隅まで運ばれてしまう。そして猛ダッシュで戻る頃には新たな海に阻まれて中心は見えなくなっているのだ。人海戦術っておおいに正しい。
浮輪を三つくらい付けた子供のようにふよふよと砂浜に辿りついてしまったアリスは懲りずに──はしゃいでいる子供の勢いで──波間にネクストアタックかける寸前にヒョイっと襟首を掴まれる。
振り返ったアリスの目の前にはたしなめる保護者の表情の赤星が立っていた。
唇が紫になってるから少し休みなさいってなもんだ。
「少しは学習しろよ。アリス」
「だって……」
アリスが何か言い返そうとする前に赤星がこそこそっと耳打ちする。その提案にアリスの目がいたずらっぽくキラリと光った。
赤星はちょいっとアリスの頭を肩口に押し付けた。そしてわざとらしく声を張り上げる。
「そうだよな。アリスは火村なんか大っ嫌いだよな」
ガタン。派手な音がして火村がこけそうな勢いで立ち上がった。
「アリス」
火村が慌てて人波をかき分け二人に近付く。
波が荒くて島に近付けないのなら、島がこっちに迎えに来ればいいだけのことだ。
あっさりと策略にはまるあたり火村がアリスに傾ける情熱は今もって青い。
普段はハワイの一千倍はどっしりと腰を落ち着けているくせに、アリスに関してはひょうたん島の一万倍の浮力と推進力だ。
「嫌いじゃないよな? アリス」
そう言って振り向かせようとした火村の手を振り払ってアリスは赤星にしがみつく。
「意地悪するから嫌いやもん」
アリスは──かなり見え見えの演技で──ツンとそっぽを向いた。
「アリス、アリス」
情けない声で呼ぶ火村に赤星が これまたわざとらしく 追い払うように手を振った。
「ほらほら、振られ野郎はさっさと退場。俺がモーションかけるんだから」
その台詞にとうとう火村は我慢できずアリスをひっぺがして、ギュッと抱き締めた。
「お前は口説くな」
独占欲丸出しでアリスを抱き締める姿はなかなかに笑える。──騙されてるのが教室中見渡しても火村だけなところが特に。
「……写真」
「え?」
アリスはうるるんとした瞳で火村を見上げた。それだけで火村が赤くなる。
「写真返してくれたら火村のこと好きになるかも……」
──いや、それは絶対無い。大体『好きになるかも』が怪しいだろうが、『かも』が。
みんな──もちろん火村は除外──が心の中で断定したときにはもう、アリスの手に写真が渡っていた。
ああ、火村騙されすぎ。
「これで俺のこと好きになった?」
取っておきの声で言いながら火村はアリスの腰のあたりを撫でた。──うすら寒いからやめなさいって。
「あ、次教室移動や」
火村の台詞など無視して、アリスの呟いた台詞に教室中が騒然となる。
「え?」
アリスは火村の腕の中でクルンと反転して叫んだ。
「今日の化学、実験室なー」
「なにぃー!!」
「そういう事は早く言えっ」
「あと一分でどうやって一番端の教室に辿り着けっていうんや」
本日の日直その一のほよんとした台詞に悲鳴のような声が上がる。
化学の小城野先生は時間に厳しいのだ。──因みに日直その二こと赤星君は黒板に小さく『次の化学は実験室』と書いて移動済。
「火村? サボるんか?」
バタバタと駆け出していくクラスメイト達を尻目にアリスをギュッとつかまえて離さない火村にアリスが訊いた。
「ごまかしただろ」
「写真さえ奪えば火村には用はないもん」
拗ねた顔の火村を見上げてアリスは思いっきりあかんべをしてみせた。
「ったくだらしないわね。もう十二年よ。いまだに幼馴染みのお友達じゃあ望みないわね」
火村によく似た顔の彼の母親は昨夜の残りの肉ジャガを口の中に放り込む合間に簡単に火村をどん底に突き落としてくれる。──どんなに傷心でも身内の攻撃は容赦がないものと相場が決まっている。
「ちっちゃい頃は俺の俺のお嫁さんになるって言ってたのに……」
あったその日のプロポーズにちっちゃなアリスちゃんはとびきりの笑顔で「ええよ」って言ってくれたものだ。
それなのにそれなのに……。
おっきくなってみたらアリスちゃんは火村のクラスメイトになっていた。男子クラスで。
それでも火村にとっては死ぬほど可愛いんだけど。
「人間心身共に成長するからね。まあアリスちゃんがウチにきてくれれば僕も嬉しいけど」
時間不足性の寂寥に喘ぐ食卓にカップ麺を並べながら父親が言う。
「だめだめ。この子こう見えて押し弱いもの」
押しも強く自分の好きなネギミソラーメンをさっさと取った母親が笑い飛ばす。
「そう言えばそうだねぇ。英生君タラシなのにね。アリスちゃんだけは騙されないもんな」
ヤキソバのカヤクの小袋を逆さにしながら父親も平気で言う。
──それが親の言い種か。
心の中で呟いて火村は明けてすぐお湯の注げるカップヌードルに湯を注いだ。そこにすかさず二つのカップ麺が差し出される。火村は無言でそれを受け取り内側の線を睨みながらポットを押した。
「大体ねぇ、あれだけ面食いのアリスちゃんにそれだけつれなくされるってのは要領が悪いのよ、要領が」
箸を指揮棒のように振り回しながら言う母親に火村は肩を竦める。
「アリスは俺のこと好きだよ。ちょっと恥ずかしがり屋さんだけど俺にメロメロなの」
多少ドリーム入った息子の台詞に両親は呆れた視線を向ける。
「そんなの判ってるわよ」
「アリスちゃん見てれば一目瞭然だろ」
騙されざかりの子供の頃からそろそろ学習機能が働いてもよさそうな高校生の現在までうっとりと蕩けそうな瞳で息子を見るアリスの表情は変わらない。
「それなのにいまだに落とせないところに問題がね〜」
「そうそう。甲斐性がね……」
母親はスープを啜り、父親はソースと麺をかき混ぜながら更に息子に容赦のない攻撃を加える。
息子はすっかりグレて少しのびてしまったラーメンを黙って食べ始めた。
「あ、そうだ。今週末私達東京だから」
「アリスんとこのおじさんとおばさんも一緒だっけ?」
「そう。土曜日泊まりよ。久し振りの有明ね〜」
そう言うと慌ただしく自分の部屋に戻ってしまった母親の背中を眺めながら火村は父親に訊いた。
「まだ原稿? 印刷間に合わねえだろ」
「ペーパー。原稿なら僕がここでのんびりしてるわけないだろ」
「ふーん」
──あいかわらずおたくな夫婦だ。
他人事のように考えながら火村は二つ目のラーメンに手を伸ばした。
そして土曜日。
「なー、アリス」
「なんや? 火村」
後ろから抱き締められてアリスが小説から顔を上げ、甘ったるい声で返事する。
「今日放課後暇か?」
「古本屋で本買うて、それから図書館で本借りてー」
指折り数えるアリスの手をギュッと握り締める。
「そんなの今度にしてデートしようぜ、デート」
「えー、何するんや?」
──怖いこと訊くな! アホ!!
心の中で突っ込みつつも怖いもの見たさ──いや、聞きたさにクラスメイトのみなさんは聞き耳を立てた。
「そうだな、映画でも見て……あ、おばさん達いないんだろ? 一緒に飯食おうぜ」
握ったついでとばかりにアリスの手のひらをいじり回しながらやにさがった口調で言う。
それを見ながら外野が呟く。
「よかった。『ナニするんだ』とかベタな台詞言われなくて」
「シュールなギャグ飛ばすな」
「ギャグで済まんところが怖いんやないか」
「いや、火村は無駄に手順踏みたがるタイプやろ」
「その順番が『そろそろベッドイン』とか『倦怠期突入、目新しくSMプレイに挑戦』とかの段階まで来てないって誰が保証できる?」
「……」
いつもの光景、いつものタダレ具合。もう今更すぎて誰も動揺しやしねえ。男同士はホモっていうんだとかそういうことは、もはや関係ない。もう既に「あ、あれは新種の『ラブラブ』って生物ですから」って次元だ。
そんなクラスメイトなど目にも入らない様子で──なにしろ外野ですから──結界の向こうの二人の世界の中ではアリスが火村に小さく首を傾げてみせている。
「映画はまた今度にしようや。江神先輩が頼んでた本見つけてくれたって電話くれたんや」
ピキーンと火村の笑顔が凍り付く。
江神は火村とは別口のアリスの幼馴染みだ。正確に言うならば、世間一般でいう近所の幼友達という意味での幼馴染みは江神である。
大体火村は転勤族の父親──アレでいて結構エリートなのだ──について北へ南へと渡り歩いていたのだ。関西弁使用圏内から一週間と離れたことがないアリスと幼馴染みな方がおかしい。
本当は火村とアリスは親の知り合いの子供同士なのだ。ただ、どうして親同士が知り合いなのかを追及されるとなんとも答えようがない──というより答えたくない──ので二人は互いを幼馴染みという呼称で呼びあっていた。
まあ、二、三ヶ月に一度は会っていたのだからそれも満更嘘ではない。
アリスんちのお向かいさんで毎日アリスと手をつないで小学校に通った『本物の幼馴染み』は火村に危機感を抱かせるに充分な存在だ。
そんなふうにアリスと親しい相手だというだけで火村には許し難い存在だというのに、江神はついでにすごく恰好いい。
背が高くて足が長い。顔もただ綺麗に整っているというだけではなく、大袈裟に恰好つけているわけでもない仕種や表情がいちいち魅力的だ。
おまけに非常に穏やかで優しくて火村のように『好きな子をついつい苛めちゃう』攻撃とは無縁なものだからアリスの信頼度は火村なんかより数段ランクが上。
「──な? あかんか?」
嫉妬心に我を忘れている火村の袖をつんつんと引っ張ってアリスが話しかける。
「え? すまん、訊いてなかった」
アリスはちょっとむくれて唇を尖らせた。
「だから、先輩のところに先に本取りに行って、ビデオ借りて火村んちで見ようや?」
甘ったれた声でアリスが繰り返す。
「夕食は?」
「カレー作る」
「泊まってく?」
「うん」
アリスは素直にこくんと頷き、にこっと笑う。さっきまでの嫉妬の嵐はどこへやら火村はすぐに上機嫌に戻った。
「しかし有栖川の生存本能に欠ける小動物っぷりはあいかわらずみごとやな……」
「インプリンティング」
火村にいい子いい子されているアリスを見ながらみんな呆れたような溜め息を付いた。
「アリス遅〜い」
「あれ? マリア」
腰に手をあててアリスの前に立ちはだかった少女をアリスが見下ろす。
「江神さん待ってるわよ」
「わっ!」
火村のことを無視してアリスの腕をグイグイ引っ張る。焦って助けを求めるような視線を向けたアリスに一つ肩を竦めてみせて火村はその後をついていった。
「江神先輩アリス来ましたよ」
ガラス張りのドアが開かれ、カランと軽やかなカウベルが音を立てる。
マリアの明るい声にカウンターの向こうでグラスを磨いていた青年が顔を上げた。
現在、江神は大学生兼古本屋と喫茶店がくっついている、変わった店のオーナーである。趣味と実益の両方を取ろうとしたら結果こんな店になってしまったそうだ。
「よお。早速来たな」
「はい。休みのうちに読もうかと思って」
「そうか。みんな座ってちょお待っててな」
江神は言いながら手を拭いてカウンターを出る。アリスはカウンター席にちょこんと座った。火村は当たり前のようにアリスの隣に座る。すると対抗するように反対側の席にマリアが座る。
「マリアどうしたんや?」
「江神さんにアリスが来るって聞いたから待ってたのよ」
「学校で声かけてくれればええのに」
マリアはヒラヒラと手を振った。
「いいのよ。暇だから遊びにきただけで別に用があったわけじゃないし。大体ねぇ、学校で声かけろっていったってアリスは部活とき以外の学校生活ってダーリンと乳くりあってるじゃない?」
火村とアリスを見比べてマリアが言う。
「乳くり……あのなぁ」
「恥ずかしいから頬染めながら否定するのやめてよね。うちのクラスの子達が何て言ってるか知ってる?」
アリスは首を振った。
「『学校一のラブラブカップル』よ」
二人の会話を黙って聞いていた火村がとうとう吹き出す。
「女子高生かお前ら」
少なくともマリアはそうなのだがそれを忘れた火村は大笑いしている。
「なんや、賑やかやなぁ」
江神が奥から出てくるとアリスが立ち上がって江神の持ってきた本を受け取る。
「ありがとうございます、江神先輩。お金は……?」
「食べてくんやろ? その会計と一緒でええわ」
カウンターに戻りながら江神が言う。
「あ、じゃあスパゲティランチください。ドリンクはブレンドで」
アリスが言った。
「火村君は?」
「アリスと同じでいいです」
「あ、江神さん私、カフェ・オレ追加して下さい」
江神は頷いて調理に取り掛かった。
すぐに二人の前にサラダが置かれる。
「そういえば、火村君この間の話考えてくれたかな」
コーヒーの粉の上にゆっくりと湯を注ぎながら江神が訊いた。
「悪いですけど……」
サラダのトマトをアリスの皿にのっけながら火村は首を振った。
「そう。残念やな」
「縁故でバイト探すなら直接の後輩に当たればいいじゃないですか」
カウンターに座っている二人を見やって火村が言う。二人はミステリ研究会で江神の後輩にあたる。
「それは無理や。本屋の方に入り浸って喫茶の方の戦力にならんから」
江神は苦笑いする。その間にも江神はあちこちに動いて器用にスパゲティとカフェ・オレを同時進行で作っている。
「火村君なら料理上手いしハンサムで看板になるし、名案だと思ったんやけどな……。こりゃとうぶん趣味の店の方に入り浸るのは無理か」
本当に残念そうに江神は溜め息を付いた。
「えー、本当に帰っちゃうの」
「うん、火村のところでビデオ見るねん」
レジのところでマリアに引き止められてアリスは言った。
「いくぞ、アリス」
江神から釣を受け取った火村がくるっと振り向いてアリスに言った。
「ごちそうさまでした。先輩」
アリスは行儀良くペコンと頭を下げる。
「ああ、またおいで。それと……」江神は火村のほうをチラッと見てアリスの頭をぽんぽんと叩いた。「その『先輩』言うんはやめてくれ」
アリスは戸惑ったように首を傾げる。
「でも先輩は先輩やないですか」
「昔みたいに『お兄ちゃん』て呼んで欲しいんやけど」
しれっと江神が言い、火村が眉をつり上げる。
「また、冗談言うて……」
アリスは薄く頬を染める。
「でもまあマリアくらいがええな」
「じゃあ江神さん?」
そうそうと頷いて再びアリスの頭をなでた江神とアリスの間に割り込むように火村が入ってくる。
「そろそろ行くぞ」
「う、うん」
その勢いにアリスは押されぎみに返事をした。
「またどうぞ」
カランカランというカウベルの音に重なるように言い手を振っている江神をマリアが見上げる。
「どうした?」
マリアはじっと江神の目を覗き込んで訊いた。
「江神さん、本当は火村君も気に入ってるでしょう?」
マリアの指摘に涼やかな笑みが江神の顔を支配する。
「確かに。セットで可愛い」
夫婦茶碗かなんかのように江神は評した。そしてこっそりと内緒話でもするようにマリアに耳打ちした。
「けどな、可愛いから苛めてるわけやないぞ」
「そうなんですか。じゃあなんで火村君の気に入らなそうなことばっかりしてるんです?」
エプロンをして再びカウンターの内側に戻ってしまった江神にマリアはしつこく食い下がって訊く。
「そうやなぁ……意趣返しってところやな」
カップを水の中に沈めながら江神は言った。
「ちっちゃい頃から『英生君が来るから今日は遊べない』ってのを何度もやられてる」
「今だって変わってないじゃないですか、アリス」
「あいつら昔っからラブラブや。寂しい独り者が意地悪を仕掛けるのは使命みたいなもんやろう」
「納税より重要な義務ですね」
二人は頷きあった。
「なあ、アリス」
「ん〜」
早々に夕食を食べて風呂に入った後、ビデオをセットした火村は当たり前のように火村のTシャツを着て凭れかかってくるアリスの髪を弄びながら意を決して話しかけた。
「俺達そろそろもう少し進展してもいいんじゃないか?」
「え?」
アリスは火村を見上げた。
「その、恋人同士になってもいいんじゃないかと思うんだ」
「何言ってるんや」
アリスはびっくりした顔で火村を見た。じっと見つめて火村が本気だと知る呆然としたように呟いた。
「信じられへん」
アリスはドカドカと居間へ戻ると制服と鞄を引っ掴んだ。
「アリス?」
慌ててアリスを引き止めようとした手を払いのけた。
「帰るっ」
アリスは怒っていた。怒り狂って居間の入り口に立ち尽くしている火村の頬をバシッと叩いた。
「お前なんか大嫌いや、アホ」
半泣きの顔で捨て台詞を残してアリスは火村の家から出ていこうとする。
「そんな恰好で外に出るな馬鹿」
上はダブダブのシャツに下は下着だけなのだ。アリスは腕を掴んだ火村にビクッと身体を強張らせる。
「そんなに警戒しなくても何もしないから」
アリスは火村が腕を離した途端本当に泣き出してしまった。
「アリス? 泣くなよ……」
しゃくり上げながら泣いているアリスを宥めるように火村はアリスを緩く抱き締めた。
「ひっ、火村が……悪い、んやからな」
嫌がると思っていた火村の予想とは反対にアリスはギュッと火村に抱き付いてきた。
「お、俺ずっと火村は恋人やって思うてたのに」
今度は火村の方が驚いてアリスの顔自分の方に向けさせた。
「何て言った」
「四歳のときのプロポーズにOKしてから別れたことなかったやないか」
そうだけど普通それを本気にしてるとは思わない。
「だってラブラブとか言われると怒るじゃないか」
アリスの頬を挟んでじっと見つめる。
「あんなんちっともラブラブやないもん。火村ちっちゃい頃みたくキスしなくなったし……あ、飽きられたんかなぁってずっと気にしてたのに火村は恋人やとも思うてくれてなかったんや」
それだけ言うとアリスはまたわあわあ泣き出した。
「アリスごめん。あんな小さいときのこと本気にしてるとは思わなかったんだ」
「ど…どうせ……馬鹿にしてっ……るんやろ」
火村はアリスの震える肩を押さえて頬に口付ける。
「してない。恋人だと思ってなかったけどずっと好きで恋人になりたいと思ってたんだ」
「ほんまに?」
アリスはやっと涙を引っ込めて火村に訊いた。
「ああ、でもアリスは嫌がってるんだと思ってた」
「なんで? 一目惚れやもん。それからずっと大好きやったもん」
「本当に?」
今度は火村が訊く。
「うん。大好き」
火村を抱き締めて言うのがとても可愛いくて改めてアリスに大好きのキスをした。
しばらくの間、久しぶりのキスを堪能した火村はアリスにこっそり囁いた。
「やっぱり俺達もう少し進展してもいいんじゃないかな? ベッドの上で」
「調子に乗るな」
アリスは真っ赤になって火村を睨んだが結局笑い出して大好きな恋人に抱き付いた。
《終》