刑法 第二十六章 殺人ノ罪

第一九九条[殺人]人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期
若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス
 
 

火村助教授の完全犯罪講座
 
 

 Lesson1 動機の検証
 
「一口に完全犯罪と言っても、犯罪の種類は沢山ある。詐欺や強盗や空き巣狙い放火など、その罪が暴かれなければ完全犯罪は成立したと見做していいだろう。これを定義とするならば、スリやスピード違反などは、現行犯逮捕が基本であるから、日々幾多の完全犯罪が成立しているか、知れたものではない。だから最初に確認しておかなければならないのは、ここで問題にするのは、あくまでも犯罪の種類を[殺人]に限定して話を進めていくということだ」
 火村は、そこまで一気に喋ると、聴衆をひとわたり見回した。
 そこは、府内某所の薄汚れた雑居ビルの一室。表のドアに掛かった安っぽいプラスチックのプレートには〈クリエイティヴ虚夢〉などといううさん臭い社名が書いてある。そして、火村の話に熱心に耳を傾けているのは、その部屋に似合い過ぎるような社名よりももっとうさん臭い連中だった。
 聴衆、と呼ぶには少々人数が少ないかもしれない。全部で五名。
 火村の座っているソファは、一応来客用らしいが、破れ目につぎあてがしてある。
 その向かい側に、顎鬚をたくわえた年齢不詳の男。細く長い指の間には、外国煙草。
 その隣にも座れるスペースがあるのに、わざわざ肘掛けに半尻をのせているカーリーヘアーに丸眼鏡をかけた男。こちらも年齢が解りにくいようすだが、体型から推して、まだ二十歳前後といったところだろう。
 書類や本、雑誌などが未整理のまま積み上げてある事務机の前に腰掛けているのは、髪を赤く染めて耳にはピアスをしている若い男だ。
 その隣の席には、綺麗な長髪に黒いロングタイトスカート、一見して美人だが大口を開けて笑ったりしたら、頬がひび割れて地肌が見えるのではと心配になるほど厚化粧の女性がいる。
 その反対側、やや大きめの机の前には髪を整髪料できっちりと後ろになでつけている黒いサングラスの男。そんななりをしていても、借り物のような大きな上着のなかで上体が泳いでいるように見えるせいで、いまひとつ迫力に欠ける。
 火村の前のテーブルには大衆食堂でよく見かけるような銀色のアルミの灰皿と、小さなカセットテープレコーダーが置かれている。レコーダーには録音中を示す赤いランプが点っている。
「まずは、動機の検証から始めよう。殺人という犯罪の動機」
 火村は目を輝かせる。語る内容の物騒さとは不釣合な、楽しげな口調だ。
「ごく大雑把に分けて、三つあると考えられる。財産目当て。怨恨。口封じ」
「ちょっと待ってください」
 そこで口をはさんだのは、赤い髪の青年だった。
「衝動殺人。無差別の通り魔殺人や、麻薬による幻覚や被害妄想から起きる殺人はどうなります?」 
「刑法第三十九条で、心神喪失者の行為はこれを罰せず、心神耗弱者の行為は刑を減刑するという条項がある。ついでに酔っ払いの犯罪については、異常酩酊と、普通酩酊に分類され、前者の中でも病的な酩酊については心神喪失とされ、複雑酩酊は心神耗弱とされる。単に殺人事件の形態分類としてなら、当然あげておくべきだろうが、いずれにしても、動機云々の見地からは外れるものだろう。あくまで前提は、殺人の完全犯罪ということなので、こうした殺人事件には驚くべき偶然の重なりあいでもない限り、完全犯罪など考え難い。そこで、これらと職業的殺人者は除外して話を進めたいと思うが?」 
 火村がさきほど質問した青年に問うように顔を向けると、青年は納得したように黙って頷いた。
「勿論、推理小説や映画、ドラマなどの世界では、もっと突拍子もない動機がいくらでも描かれている。本当に殺したいのはたった一人なのだが、その一人だけでは犯人がすぐに自分一人に特定されてしまうので、それを免れるためのカムフラージュ殺人だとか、完璧な殺人計画を思い付き、それをゲームのように実行してしまっただけだとか、被害者の名前をシリトリしながら、ただその名前だけを理由に連続殺人を続けてしまうとか、美しいままいてもらいたいから若いうちに殺すとか。だが、これらも除外させてもらおう。でないと、時間がいくらあっても足りやしない」
 いかがか? というように、また全員を見渡す。
 発言者は、なし。誰にも異論はないようだ。
「大別した三つが複雑に重なり合って動機になっている場合も多いだろうが、取り敢えずは財産目当て、というところから話そう。よく耳にするのは保険金殺人。保険というのは、保険契約者と被保険者がまったく無関係の人間ということは通常なら有り得ないわけだから、怨恨が絡んでいる場合もある。事業に失敗した会社経営者が社員に保険をかけており、会社を立て直すために殺してしまった場合などは、怨恨のセンは薄いかもしれないが」
 そこで、含み笑いを浮かべて顎鬚の男を見やる。他の四人の視線もその年齢不詳の男に集中した。
「経営者は社員に保険をかけたり出来るわけか。いいことを聞いたかな」
 注目された男は唇の端でニヤリと笑った。
「保険料を支出する余裕なんかうちにはありませんよ」
 ピシャリと言ったのは、紅一点の厚化粧女史である。眉墨でくっきり書かれた眉を大袈裟に吊り上げて見せているが、口許は笑みを浮かべている。
「いやぁ、ちょっと言ってみただけだよ。みんなでぼくにみとれるもんだから何か言わなきゃいけないかと思って。それより、火村先生、先をどうぞ」
「遺産相続を目的とした場合。これもまぁ財産目当てってことになる。遺産っていうのは血縁者に相続されるものだから、怨恨が絡むケースも多いだろう。恨む気持ちもないのに金欲しさに血縁者を殺す場合もあるだろうが、多くは遺産を得るためには殺してもかまわないと思えるくらいには恨み憎む気持ちがあってこそ、殺人に至ると考えられる。あとは、借地権をふりかざしてなかなか立ち退かない店子をそのアパートを取り壊してマンションを建てようと計画している大屋が殺してしまう。なんてのも自己の財産の回復のため、拡大解釈すれば、財産目当てと呼べるだろうが、たいていは、前述の二種類くらいと考える」
 そこでまた赤い髪の青年が手を挙げた。
「強盗殺人。空き巣狙いの居直り殺人。というのは入らないのですか?」 
 火村は満足そうに頷いた。その質問を待っていた、とばかりだ。
「ああ、それは財産目当てで犯したのは強盗でありコソ泥であって、殺人の動機は口封じの方に分類したい」
「なるほど」
 声を出して感心してみせたのは、顎鬚の男だ。他の面々も、めいめいに頷いている。
「では次に、怨恨について。これは、かなり沢山のケースが考えられる。解りやすいところから話すと、まずはかたき討ちというやつだろうな。刑法から死刑は消えていないが、殺人者が必ずしも死刑となるわけではない。また、裁判に時間がかかりすぎる。死刑判決を待てない場合。状況証拠は揃っていて、犯人だと確信すべき理由も持ちながら、決定的な証拠があがらないために、犯罪を立証できない場合。大切な人間を殺害されて、自らの手で殺さねば気がすまないというケース。 それから、痴情のもつれ。妻が夫の愛人を、自分を捨てた恋人を、恋人を奪った男を、配偶者に浮気され、離婚話がこじれて、などなど。よくある図式だろう。あとは、嫁姑の憎み合い、隣人のピアノの音やペットの鳴き声に悩まされた揚げ句だとか、ごく親しい人間の突然の成功に対する嫉妬が引き金になってしまうとか、ああそう、上司に対して、無理ばかり言われ続けて堪忍袋の緒が切れる、なんてのもあるかな」
 聴衆は互いの顔を見回し合う。
「悪くすりゃ死刑になるってリスクをしょってまで、殺そうと恨むほど会社の人間に深く関わるなんてあんまりピンとこないな」
 見掛けに似合わないソフトな声でそう言ったのは、顎鬚の男だった。
「関わりがあるなし、じゃなくて、一方的に仕事でいじめられてたら、それが殺意に発展することもあるかも知れないっすよ」
 答えたのは、カーリーヘア氏である。
「あれぇ、誰かにいじめられてたの? 誰? おしりぺんぺんしてあげようか?」 
 顎鬚の男が楽しげに訊いた。
「こっちの睡眠時間も考慮せずに、無茶なスケジュールばっかり組まれるというのは、立派にいじめられてるってことになんないっすか?」 
 カーリーヘア氏は丸眼鏡の奥から、チロリと長髪の女性を見上げる。
「この不景気な時代に、寸暇を惜しんで働けるほど仕事に恵まれてるっていう幸福をひけらかしたいだけよね」
 彼女は平然と言ってのけた。
「ああ、そりゃいじめじゃないよね。もし、いじめでも前言撤回。おしりぺんぺんしたら、セクハラで訴えられちゃうから」
 顎鬚の男は飄々としている。
 コホン、と咳払いをしたのは、サングラスの男だ。
 それで一同が静まったところで、火村は続ける。
「と、こういう具合に、物ごとに対する感じ方、価値観は千差万別だ。怨恨と一口に言っても、被害者には想像もつかないような理由で殺される場合も有り得る。バリエーションは限りないと言えるだろうな。ところで、三つ目の口封じにうつろう。これも解りやすいところから話すと、まずは何らかの犯罪の目撃者。殺してまでその口を塞ぐ必要があるとしたら、まず殺人が考えられるが、ここにさっき言った強盗や空き巣狙いなんかも含まれる。それから、目撃者というよりは、当事者と呼ぶべきなのが誘拐。誘拐されたのが大人の場合は、ほとんどが殺害されてしまう。犯人の顔を見られ、声を聞かれているし、連れていかれた場所がどこなのかも、知られている場合があるからだろう。あとは、何らかの公表されてはまずい秘密を知られた場合。その上、脅迫などしていたら、殺人の動機としては充分と考えられる」
 そこで火村は「ちょっと失礼」と断って、煙草に火をつけた。
 大学の教壇に立っているわけではないので、口調は講義でも、いつもよりもずっと寛いだようすで喋っている。
火村の話に一区切りついたと見てとった赤い髪の青年がもらす。
「口封じが動機の場合、人を殺しても、絶対に他人に知られてはならない事情があるわけで、そうなるとそれがどのような事情だったのか、という方に興味をひかれてしまうな。でも、そんな設定に凝ってしまうと、焦点がぼやけちまうだろうし」 
「イントロ部分から、そんなに選択肢が沢山あるなんて、楽しそうだけど大変だ。最初くらいは、誰にでも解りやすい方がいいんじゃない?」 
 というのは顎鬚氏の弁。
「だけどね、犯人像から考えると、真っ先に除外したいのは怨恨じゃありませんか? 恨みつらみ、憎悪なんかの感情に流されて発作的に犯行に及ぶというイメージがあります。それでは、緻密な計算のもとに行われる完全犯罪の動機としては向いてないでしょう?」 
 これは黒いロングタイトの美人の発言。
「向いてるって言えば、やっぱり保険金殺人だろう? ただ、ありがち過ぎてどうかと思うんだけどね」
 と、サングラス氏。
「ただ、財産が欲しかったんです。てぇのはどうかしら? あんまりドラマにならなくて、つまんないんじゃないかな?」 
「ドラマ性を重視するなら、やっぱり怨恨の方が色々な状況を想定出来ると思いますね。怨恨ったって、発作的なものばかりでもないでしょう。すまし顔でつくすフリしてる嫁が、日々深まる姑への殺意を、入念な殺人計画を練ることでなんとか堪えている。けれど、計画が完璧に出来たところで犯行に及ぶ」
「わー怖い。そおいう陰険なのって、似合いそうじゃない?」 
 カーリーヘアの男が美人を見上げる。彼女は机にあったチラシを丸めて投げつけた。
 その仕種は陰険というよりは、無邪気という感じだった。
「しかし、今時嫁姑の確執なんてぇのは、ドラマでデフォルメされちまって、CMでも遊ばれて、すっかりギャグみたいになってるもんなぁ」
 カチャリ。と、そこでテーブルの上のカセットレコーダーから音がした。
 どうやらカセットテープが切れたらしい。
 幾分、ふざけた調子で始まった皆の議論を楽しげに聞いていた火村が、その音で煙草を消して、立ち上がった。
「それでは皆さん。動機については以上です。あとは皆さんでよく検討しておいてください。次回は……」
 と、壁にかかったカレンダーに目をやる。
「三日後の金曜日のお約束です」
 火村より先に美人が言った。
「ああ、そうでしたね。では、皆さん、次は金曜日に」
「さようなら」「お気を付けて」「バイバイ」等々、五人五様の挨拶に見送られ、火村はその部屋を辞した。
 
 
Off Time 1
 
 アリスは、非常に不愉快だった。
 原稿執筆は順調に進んでいる。次の締切りまでには余裕であがるだろう。
 かと言って、決して仕事量が減っているというわけでもない。小説雑誌掲載用の短編の注文も多く、なかなかの人気作家ぶりなのだ。
 だが、それでも彼は不愉快だった。
 先ほどから何度も壁の時計を、射抜くような目で睨んでいる。
 午前零時をまわってしまった。
 火村が帰ってこない。出がけに、遅くなるとは言っていたが、まさか午前様になるとは思っていなかった。子供じゃあるまいし、遅くまで帰ってこないことを咎め立てする気持ちがあるわけではない。
 アリスが気を揉んでいるのは、昼間かかってきた電話のせいだった。
「『完全犯罪講座』のお約束、お忘れじゃありませんよね?」 
 といきなり尋ねられた。
 完全犯罪講座ってなんや? と、絶句して考えこんでいると、いかにも若い女性らしい電話の声が、慌てたように言ったのだ。
「すみません。この時間は大学のほうでしたね」
 無言のアリスに、女性は勝手に納得して電話を切ってしまったのだ。そう言われるまで、アリスはそれが火村宛の電話だということに気がつかなかった。作家であるアリスも、ときたま講演などの予定があったりするからだ。
 アリスは、火村が帰って来たらこの件に関して、問い詰めようと決めていた。
 お互いに隠し事はしないと誓い合った新婚夫婦では、勿論ない。
 自分達の関係をなんと呼ぶべきなのか? そんなことを真剣に考えたこともないアリスだ。だが、単純に火村のことなら誰よりも自分がよく知っていて当然だと信じている。その彼にとって今日のような電話を受けることはえらく理不尽に思われることなのだ。
 犯罪社会学者、となれば、完全犯罪についてだって、いくらでも講義出来るだろう。だが、それは実際の犯罪を喚起しないものだろうか? 
 大学での講義でそんなものを取り上げるとは思えない。
 だとすればそれは、大学とは無関係なサイドビジネスだろうと想像出来る。
 しかし、大学の助教授が、本を書いたりテレビに出たり、なんていうサイドビジネスを片手間にすることはあっても、犯罪の片棒を担ぐなど、考え難い。
 完全犯罪講座などというものを開講しているとしたら、それは彼の立場を危うくするものではないのか? 
 そこまで考えて、アリスは不愉快というより不安になってきた。
 もう一度、時計を睨む。午前一時を過ぎた。
 ガチャガチャッ。玄関で鍵を開ける音がする。
 アリスは玄関まで飛んで迎えに出たい気持ちを意地で押さえた。ずっと待っていたと悟られまいと、居間のソファにだらしなく寝そべる。それからテレビのリモコンを引き寄せて、深夜番組にチャンネルを合わせる。
「ただいま、あれ? そんなとこでテレビつけたまま寝るなよ」
 火村はいつもと変わらぬ様子でそう言った。
「ふわぁ? はぁ、おかえり。いつの間にか寝てしもたようやな」
 アリスは、わざとらしい演技で答えて、火村をソファから見上げた。
 朝剃ったきりの鬚が、少々伸びている以外はいつもと変わりないようだ。
 と、視線が正面からぶつかって、火村がクスリと笑った。
 アリスの半身を起こしたソファに近寄ると、片膝をついて視線の高さを合わせる。それから顎に手をあてて、そっと唇を寄せた。
「待っていたなら、そう言えばいいだろ。なんで寝たフリなんかしてたんだ?」 
 狸寝入りがバレたわけが解らない推理作家は、目を丸くした。
 火村は黙ってテレビを指差した。
 テレビ画面に映し出されているのは、一昨年ロードショーで公開されたフランス映画だった。ろくに見てなかったのに見覚えのある俳優と女優だ。
「お前、これつい十日くらい前にレンタルビデオ屋から借りてきて観た時、映倫なのにちっとも色気がないし、結末が納得いかないとか言って、けちょんけちょんにけなしてたじゃないか。それをまさか、もう一度観たかったわけでもないだろう?」
  そう。見覚えがあったのはそういうわけだ。
 ここはもう、笑ってごまかすしかないか、と考えた後、それどころではないことを思い出した。
「そんなことよりなぁ、完全犯罪講座ってなんや?」 
 今度は火村が目を丸くした。だが、一瞬のことですぐに平静を取り戻す。
「なんだそれは?」 
「とぼけなきゃならないようなことか? 完全犯罪を、崩していく方の専門やったんやないんか?」 
 アリスの真剣な目に、火村は穏やかな笑みを返す。そっと手を伸ばし、アリスのやわらかい髪を撫でる。
「何を必死になってるんだ? そんな可愛い目でじっと見詰めて、もしかしたら新しい誘い方?」 
「アホ!」
 アリスは真剣に心配していたことを深く後悔し、スタスタと自室に入ると御丁寧に鍵までかけて、ベッドにもぐりこんだ。
 かたく目を閉じて、睡魔がおとずれるのを待ってみる。
 しかし、眠ろうと思えば思うほど目は冴えてしまい、なかなか寝つかれない。
 火村のふざけた態度にカッとなって、結局『完全犯罪講座』なるものが何なのか、聞き出すことが出来ないままになってしまった。
 アリスは、何度目かの寝返りをうった後、溜め息をついてベッドから出た。
 やはり、このままでは眠れない。
 居間に戻ってみたが、火村の姿はそこにはなかった。
 火村の部屋には鍵はかかっていなかった。そっとドアを開けて中を除き見ると、助教授はもう眠っている様子だ。
 アリスはそっと火村のベッドの脇まで行って、寝顔を見下ろした。
「先生。あんまりヤバイことには、手ぇ出さんでくれよな」
 そっと呟いて踵を返した。
 寝たフリがアリスよりもずっと上手い火村は、いつベッドから手を出してアリスの腕を掴んでやろうかとタイミングをはかっていたのだが、彼のあまりにも真摯な視線に包まれて、結局寝たフリを通すことになってしまった。
「おやすみのキスの忘れ物か?」
 そう言ってやるつもりだったのに。
 
 
 Lesson2 ターゲットの肖像
 
「さて、動機の検証に続いて、殺害方法の選択、といきたいところだが、やはりその前に、動機が決まればおのずから被害者の肖像も浮かびあがってくるだろう。住所、年齢、職業、性別。なんだか、懸賞の応募のきまり、みたいだが、これが限定されなければ、殺害方法についても、想定出来ない。先日は議論が白熱してきたところで帰ってしまったのだが、その後、動機についての結論は出ているだろうか?」 
 火村は、三日前と同じソファに腰掛けて、二回目の講義を始めたところだ。
 前回と同様に、テーブルの上ではカセットテープレコーダーが回っている。
「はい。クールに金だけ手に入れるための殺人ならば、いかにも完全犯罪には相応しい気はしますが、やはりここは怨恨、でいこうと思います」
 サングラス氏が宣言した。
「世の中金だけってんじゃ、あまりにも殺伐としちゃうでしょ? まぁ、殺人なんて題材自体がもう殺伐としてんだけどね。怨恨が一番ヴァリエーションも豊富だと火村センセも言ってらしたしね」
 赤毛の青年は相変わらずくだけた調子だった。
「解りました。それで、その沢山のヴァリエーションの中から、どんなシチュエーションを選ぶわけですか?」 
「唯一の正解というのではなく、最初の部分では幾つかの正解と、沢山の不正解を混ぜて提示したいと考えます」
「つまり、動機については複数正解のどれかを選び、途中の状況をうまく渡り切ればラストシーンでは完全犯罪を成立し得るような作りにしたい、と?」 
 夜の室内でもサングラスを外そうとしない男が火村に連絡して来たのは、二週間ほど前のことだった。
 彼は、〈クリエイティブ虚夢〉というゲームソフト開発会社の経営者だと名乗った上で、この度、完全犯罪をテーマにしたRPGを制作するにあたって、犯罪社会学者である火村助教授に、是非御講義をお願いしたい、と言った。
 提示された報酬は交通費を差し引いても充分破格と言える額だった。
 それにつられたというより興味をひかれて応じた助教授は、週に二度も、府内ではあるが勤務先である英都大学からは少々離れたこの事務所まで直行しているのだった。
「だが、ターゲットは絞らなければならない。いくらブラウン管の上だけでの話と言えども、どんな相手にでも共通する完全犯罪の方法なんて非現実的過ぎる」
 そこで、カーリーヘアの男がポンと手を打った。丸眼鏡の奥から人の良さそうな視線を火村にむけてくる。
「そう言えば先生のお友達に、推理作家の先生がいらっしゃるそうっすね。被害者は、沢山の人間から恨みを買っている悪人。そいつが殺されて得をしたり、喜ぶ人間が大勢いすぎて、容疑者だらけで警察が混乱する人物。なんていうのがフーダニットのお約束なんじゃないっすか?」 
 フーダニット。誰がそいつを殺したか? だが、ゲームはミステリの犯人当てクイズではなかったはずだ。容疑者がいくら大勢いたとしても、犯人自身もまたその中に入ってしまっていたら、完全犯罪は成立しにくいのではないか? 
 だが、火村はその時、何故推理作家の話題が出るのか、を訝しんでいた。
「勧善懲悪なんて今時流行らない気がするけど、子供がこのソフトで遊ぶなら、被害者はあんまりいい人じゃない方が、悩まずにゲームを楽しめるでしょう」
 火村が黙っていると、サングラス氏が補足説明を始めた。
「悪役美形キャラ、なんて言葉も今更なのかも知れませんが。被害者は若くして成功した美形の実業家。彼は、事業を広げるために、色々と後ろ暗いことをしてきた。無力な人間から詐欺まがいのやり方で土地を取り上げたりね。それで大勢の人間から恨まれている」
「ということは、動機は何種類か用意されているが、被害者になるのはその若い男に限定されているというわけだ。それも、社会的地位があって、沢山の人間から恨まれている悪人ということで。そこまで皆さんが話をつめているなら、殺害方法の検討に入ります。画面を華やかにする気なら、日本刀かジャックナイフ等の刃物で切り刻む。これは、もう真っ赤になる。美形だというならその顔を血で染めていくのは、なかなか耽美な映像になるかな」
 助教授は、映像を思い浮かべてか、なかなか楽しそうだ。
「あんまり血腥いのは勘弁してくださいよ。おれ、そういうのちょっと苦手っすよ」
 直接の制作担当者であると紹介されているカーリーヘアの男が気弱そうに主張した。
「だけど、人を隠すなら人の中。容疑者を隠すなら容疑者の中。ってことで、警察の混乱を誘おうっていうのなら、出来るだけ派手に恨みを晴らしたってアピールするような殺害方法をとった方がより効果的だと思うが」
 そこへ唐突に電話の音が響いた。火村は咄嗟に腕時計に目をおとした。
 午後九時十五分。カセットテープはまだ回り続けている。
 だが、部屋の温度が一瞬下がった気がした。社員達が息を飲み、気まづい視線を交わし合った後で、紅一点の女性が受話器を上げた。
「はい」
 少々遅い時刻ではあるが、会社の事務所に電話が鳴って、それほど不自然というほど遅くもない。それなのに、社員達は不自然に見えるほど緊張している。
「違います」
 彼女は短く答えて、受話器を置いた。
 顎鬚の男にチラリと目配せしたのは、どういう意味だったのか解らないが、火村は気がつかぬフリをした。
「間違い電話でした」
 その一言で、一同はなんとなくほっとしたような空気になった。
 だが、火村はもう一度わざとらしく腕時計を見ると、立ち上がった。
「すみませんが、ちょっと用があるので今日はこの辺で失礼させてください。まだ、お約束した時間ではありませんので、その分は報酬から差し引いていただいて結構ですから」
 サングラス氏は、微笑んだ。
「いいえ。どうせもうあと三十分もありませんから、気になさらないで結構です」
 火村は、頷いて事務所の皆を見回した。
「では、皆さん。今度は来週の火曜日に、次のテーマは『共犯者は是か非か? 』です。今日のところはまた皆さんでよく話し合っておいてください」
 
 
 Off Time 2
 
 コーヒーの芳香がたちこめる、いつもの平和な朝食の時間。
 アリスは、昨夜もまた帰りが遅かった助教授を、今度こそ問い詰めてやろうと意気込んでいた。
「完全犯罪講座ってのは、一体どっから聞いてきたんだ?」 
 だが、そう質問したのは、火村の方だった。
「なんや、この前聞いた時は、アホなこと言ってごまかしたくせに」
「状況が変わったんだ。頼む、教えてくれ」
 ここで焦らしては怒らせてしまいそうな切迫した口調だった。
「お前が『完全犯罪講座』を忘れてないかって確認する電話があった。若い女の声やった」
 特に若い女、というところに力を入れて答えた。
 だが、そんな皮肉はあっさり無視して、助教授は腕組みして考えこんだ。
 アリスは、仕方なく無言でロールパンをかじった。こんな時でも、火村のいれてくれたカフェ・オ・レはいつも通り美味しかった。
「で、何て答えたんだ?」 
 そう聞かれたのは、随分経ってからだった。
「何か答えられることがあったと思うか?」 
 火村は自分の分のパンを半分も残したまま、皿を向こうにおしやって、代わりに灰皿を引き寄せた。キャメルの箱から一本ぬいたまま火をつけずに弄ぶ。
 若い女、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、例の厚化粧の美人。
「そういうことか。なぁ、アリス。仕事たまってるか?」 
「いいや。お陰さんで順調や」
「それは良かった。それじゃぁ、来週の火曜日。ちょっとつき合ってくれ」
「なんで、そういう話になる?」 
「火村助教授の完全犯罪講座の最終回が受講出来る。これですべての謎が解ける。クライマックスの美味しいとこだけ招待してやるんだ。有り難く拝聴しろよ」
「まぁ、そんなに聞いて欲しいんやったら、つきおうてやってもええよ」
 アリスは上機嫌で、火村に向かってライターを差し出した。
「ところで、さっきのあの、お陰さんで仕事が順調だってのは、もっと構って欲しいという遠まわしな要求かな?」 
 アホ、と言いかけたアリスだったが、今回は火村の唇に遮られてしまった。
「俺にだって、学習能力はあるんだぜ」
 
 
 Lesson3 共犯者は是か非か? 
 
「こいつは、この前来た時に話題になってた推理作家だけど、おとなしく座って聞いてるだけから、気にしないでください」
 一同は、アリスを見るなり、不自然に周囲の人間を見回した。なにか言いたいのに、声を出すことが出来ないでいるようすだったが、火村は気がつかぬふりで、さっさと講義に入った。
「単刀直入に言って、共犯者は非としたい。女性はお喋りだから秘密が守れないと主張するむきもあるようだが、私は、女性だろうが男性だろうが、非だ。単独犯でなければ完全犯罪は成立しない。いや、一時は成立したかに見えようとも、必ずいつか露見する。共犯者の人数が多ければ多いほどその危険性も高くなる」
 赤い髪で今日はまた一段と大きなピアスをぶらさげている青年が挙手した。
「けど、人数が多ければ多いほど、犯罪が完璧になるとは考えられませんか?」 
「そこに推理作家がいるから話すわけじゃないが、いわゆる嵐の山荘という外部の人間が介在できない状況下でなら、確かに被害者以外がすべて共犯だったら、そいつらに口裏合わされたら、もしかしたらその時は完全犯罪となるかもしれない。だが、殺人などという秘密を共有しても信じられる人間複数と、その複数の人間の殺意の対象となるような人物が共に行動し、嵐の山荘に迷い込む、なんて状況を不自然だと疑われないだろうか?」 
「いえ、そんなに極端な状況を想定してうかがったわけではなくて……」
 火村は晴れやか、と呼べるような笑顔を見せた。
「失礼。話が飛躍しすぎていると聞こえたのだろう。だが、今私が言ったことは、どんな些細な失敗でも、そこから糸がほつれてしまうことがあるということだ。ところが、人間は完璧じゃない。色々なところで間違える。共犯者が多いということは、間違える確率もそれだけ上がるということだ」
 言って、アリス以外の聴衆の表情をうかがった。皆いつもと変わらない熱心さで、耳を傾けているようだ。
「随分と甘くみられたものだ。それとも大枚をちらつかされて、犯罪と知りながらでも片棒を担ぐ人間と見られたのかな?」 
 意味が解らずキョトンとしてしまった者が約一名いたが、他の者達は青褪めた。
「どういう意味だか説明していただきたい」
 内心はどうだか知れないが、表面上は落ち着き払って顎鬚氏が尋ねた。
「最初から、妙な話だと思っていたんだ。犯罪社会学は、日本じゃまだまだポピュラーな学問とは言えないが、私のほかにだっていくらでもその道の権威はいるだろう。そういった人の中じゃ、まだまだ若造である私に対して、常識外れと思われる報酬の額。そして、この事務所に来てみて疑惑は深まった。まず、不思議に感じたことは、この事務所にはあなたが称した会社名を示すものが、そこのドアにかかっている、すぐに取り外しがきくプラスチックのプレート一枚きりしかないということだ」
 火村は雑然と書類が山になっている赤毛の青年の前の机を指差した。
「そこまで散らかしてあったら、普通なら自社の名入り封筒が置いてあったり、逆にここ宛てに届いた郵便物があってしかるべきだろう? 封筒がなくてもファイルの背表紙に表示してあったり、請求書や領収書の類いがあったりする。だが、ここには当然社名が記載されてあるべきもなが無い。それを不審に思っていたところへ持ってきて、先週私が帰る前にかかってきた電話だ。会社にかかってきた電話に『はい』としか答えなかった」
 そう指摘され厚化粧の美人が火村を睨んだ。
「あれは、このところ悪戯電話が多かったせいです」
「自宅の電話だったらそれも解りますがね。ここには女性はあなたしかいない。他に男性がいくらでもいたんですよ。本当に悪戯電話が多いのなら、他の誰かに出てもらえばいい」
「はぁ、そうですね。迂闊だったな。俺が出てあげれば良かった」
 顎鬚氏が先程の同様を取り繕うようにのんびりと答えた。
「調べたんですよ。〈クリエイティブ虚夢〉って会社は、もうないってことも、ここはバブル崩壊のあおりで倒産した会社が借りていた部屋だったってことも。ビルのオーナーが、たまたま知り合いだったんだろう? 倒産した会社の社長が夜逃げちまって、荷物の整理には誰もこない。だが、この不況の最中に新しいテナントも決まりそうもないんで、オーナーも片付ける気もせず、放置されていた。私一人をペテンにかけるには充分な条件の事務所ってわけだ」
 サングラス氏が、大袈裟な溜め息をついた。
「せっかく、あれほど多額の報酬をお約束したのに……」
「動機、そしてターゲットを聞いたところで、誰を殺したいのか、見当がついた。〈クリエイティブ虚夢〉という会社を倒産に追い込んだ張本人。若き実業家だ。あなた方は、彼の殺害計画を立てるのに私を利用しようとした。もし万一、計画が露見するようなことがあっても、そのテープを証拠に私を主犯に仕立て上げる算段になっていたのかもしれない。だが、ゲームソフトとしてではなく現実の世界での完全犯罪計画なんて、私に立案出来るとしてもそんなものを他人に漏らすわけがない。今ならまだ、私は皆さんの本名も知らない。素顔だって知らない。倒産した広告代理店の下請け業者になど興味もない。私も忘れるから、あなた方も忘れることだ。ついでにお教えしておこう。刑法第二二二条。生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加えることをもって人を脅迫した者は二年以下の懲役又は、五百円以下の罰金だ。額が低いからってなめない方がいいぜ。前科者にはなりたくねぇよな。さぁアリス、帰るぞ」
 助教授は上着を手に腰を上げた。
「待てって。これは、どういうことや?」
 アリスは目を見開いて、火村と、そしてこの部屋にいる五人を見比べている。
 ほとんど事情を説明されないままに連れてこられ、話を聞いていてもなお、なにがどうなったのだか、解らない。
 そのうえ、どうもこの部屋にいる連中は、どこかで見たような者たちなのだ。
「なんだ。やっぱりこれじゃあ、納得いかないか? このままジ・エンドになりゃ、ちょっとした推理小説の短編になったのにな」
 火村は、苦笑いしながら、近くの事務用椅子にどさりと腰掛けた。
 そして、一同を見回して言う。
「どうせ学園祭のネタにでもする気だったんだろう? でも、ちょっとみんな変装が派手すぎるし、標準語を喋ってるつもりでも、そこの彼女以外のイントネーションは、残らず関西系だったぜ」
「やっぱり知ってはったんですか?」
 言いながら、顎鬚の男はそのつけ鬚を取り去った。そして、ほっとしたような顔でキャビンを取り出した。
 厚化粧の美人は、さすがに一瞬で化粧を落とすわけにはいかなかったが、ストレートロングのかつらをとると、なかからは赤茶のウェーブヘアがあらわれた。
 カーリーヘア氏もそのかつらをとれば短髪だったし、赤毛の男のピアスは本当は穴などあいておらず、ただ貼り付けているだけのものだった。彼は、苦笑しつつ立ち上がって伸びをした。座っているときには気がつかなかったが、かなりの長身だと解る。
そして、経営者と名乗った男がサングラスを外すと、驚くほど若い顔があらわれた。
 その顔を見て、火村は驚いてアリスを振り返る。
 アリスも呆然と、その青年を見ている。
「なんかややこしいことになってるみたいだな。こいつら、みんな英都大学の学生か。でも、名前は聞かないほうが無難みたいだ。アリス、こんどこそ帰るぞ」
さすがに、アリスももう立ち止まったりはしなかった。火村に促され、黙ってそのあとから出ていった。
挨拶もなく立ち去る二人に、誰も何も言えないまま、事務所内は異様に静まりかえっていた。
 

◇◇◇

 

 二人で暮らす家にたどり着き、まだどこか釈然としないままのアリスに火村が言った。
「最初から妙な話だとは思っていたんだ。でも、もしも本当にゲームソフトの開発の参考にってことなら、なかなか楽しいサイドビジネスかもしれんしな」
「なぁ、あいつら英都大学なんやろ? いったい何者やったんや?」 
 アリスはずっと考えていて、自分では答えの出なかったことを尋ねた。
「EMCとかいうんじゃねぇのか? おまえだって、あの顔を見ただろう?」 
 そう言われて、アリスは学生時代の自分そっくりの顔と対面する羽目になったことを思い出し、小さく身震いした。
「あれは、架空の話のはずなんやけどな。それで、あいつらはなにがしたかったんやろう?」 
 アリスはもうひとつ、気にかかっていたことを尋く。
「詳しいことは解らない。でも、火村助教授の完全犯罪講座なんてただのテープだってダビングすりゃ、俺のファンクラブの女子学生たちがこぞって欲しがっただろう。だから、学園祭のネタあたりだろって話だよ」
「それで、大枚入ってきたら、いったい何に使う気ぃやった?」 
 すっかり質問攻めである。
「海外旅行。ハワイはありふれてるから、ヨーロッパあたりかな」
「ヨーロッパくらい、何度も行ったことあるやろ?」 
 アリスは不思議そうに、火村の顔を見た。火村は不敵な笑みを浮かべた。
「新婚旅行は、やっぱり海外じゃなきゃな」

 《了》
 

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