色褪せない風景

 
 プロローグ
 
 誰だって、ひとつやふたつ心の中に決して色褪せることのない風景を持っているのではないだろうか。それは、きっとなにものにも替えることのできない大切な精神的財産だ。
 甘い感傷と、痺れるような痛みを伴って、その風景を想うとき、失ったものの大きさと後悔にうちのめされるかもしれない。それでも、そんな風に思い出せる風景があることが、確かに自分が生きた証だと、いつか言える日が来る。そうとでも信じなければ、時は残酷すぎる。人は哀しすぎる。

『ラスト・シーズン 金井八重子著・冒頭より抜粋』
 

***
 

 30インチの大画面テレビに映し出されているのは、もう十年近く前の学園祭でのコンサート風景だった。
 バンドの名は『ダイアナ』。月の女神の名前からとったという。中央でギターを弾きながら歌っている青年は、脱色した髪を長く伸ばし、すらりとした長身で、誰よりも目立つ。その表情はいかにも幸福そうで、彼がどれだけ歌うことを、演奏することを楽しんでいるかを、あらわしているかのようだ。その隣でベースを弾く青年は、ヴォーカルよりも幾分小柄だが、その瞳には知的な輝きを感じさせる。そのベースは、聴くものの心に直接響くようなリズムを刻んでいる。そのリズムとともにカーリーヘアが揺れる。カメラが右に移動すると、キーボードが映し出される。彫の深い日本人離れした美女だ。長くしなやかな指が踊るように鍵盤をたたく。
 テレビの前にはソファがあり、そこには男女が一人ずつ座っていた。二人共、瞬きもせずに、たった一人の姿を追っている。
 男性は、テレビの中でベースを弾いているのと同一人物だ。カーリーヘアはきちんと切り揃えられ、今ではいかにもサラリーマン然とした七三分けになっている。顔付きも鋭角的になり、頬はこけて10年で15も歳をとってしまったかのようだが、微かに昔の面影がその瞳の光に漂っている。
 女性はキーボード奏者と同一人物だ。こちらは10年の歳月を感じさせない若々しさを保っており、映像の中の美女より洗練されて、その美しさを増したようだ。
 彼女はいたわるように、傍らの男性の肩にそっと手を置いた。
 だが、彼はそれにも気がつかずに、ひたすら映像に見入っている。 ライブビデオなので、歓声も一緒に録音されている。女の子達の黄色い声がともすればヴォーカルの声をかき消してしまいそうな勢いだ。しかし、彼にはそんな声はまったく耳に入らない。彼の耳は器用にも誰よりも懐かしい歌声だけを聴いていた。
 本当はビデオなんかいらなかった。彼には目を閉じただけで、そのシーンを鮮やかに思い浮かべることができたし、その声を聴くこともできたのだから。だからそのビデオを見るのはただの確認にすぎなかった。自分の記憶の正しさの、それは哀しい確認だった。
 
 
 1994年5月 神田の路地裏
 
 サラリーマンというやつは、確かにストレスのタネにことかかない人種だ。上司にへつらい得意先に媚びて、女子社員の御機嫌とりまでしなければならない。もちろん、営業部門でなければ得意先に媚びたりはしなくていいかも知れないが、内勤なら社内にいなければならない時間が長い分だけ営業マンよりもっとストレスがたまる場合だってある。
 そうしてそういった鬱憤はたいてい、アフター5に飲みにでかけ、大量のアルコールでもって消毒し、洗いおとす。
 なかには健全にゴルフや釣り、登山等によりフラストレーションの解消をはかる人種も存在するが、これらの趣味にはかなりの時間とある程度の経済力を必要とする。会社帰りにフランス料理ならともかく、グリーンをフルコースなんてことはできないのだ。
 そしてここに、そのような健全な趣味も、経済力も持ちあわせていない二人の青年が神田の路地裏にある汚い居酒屋で安酒をあおっていた。中央の通路に垂直に長いテーブルが3本づつあり、椅子もテーブルと同じ長さである。薄汚れた壁には品書きの短冊が整然と並べて貼ってあり、つまみはどれを頼んでも一品が、五〇〇円をこえるものはない。
 客層はいかにもくたびれた中年の男性サラリーマンがほとんどで、女性の姿はない。
 安くて料理はおふくろの味で、若い女の子はよりつかないが、とても居心地がいい。青年たち、工藤稔と坂居恭則は給料日前に飲みたいときには必ずここへ来る。
 同期入社の彼等は、ことあるごとに飲み歩き、いつもは陽気にはしゃいでバカをやって楽しんでいた。しかし、ここ3か月は毎晩がお通夜のように暗くしめった酒になってしまっている。3か月前、本当に稔の友人のお通夜があり、それからずっと同じ調子なのだ。 そのお通夜の直後に、稔自身の社会的立場をかなり悪くする出来事があり、自業自得との声もあったが、彼にとって災難であったことには違いないのだった。
 もともと、かなり真面目そうに見える稔だったが、今は翳りを帯びて一種異様な迫力がある。坂居は、一見怖そうないかつい顔立ちだが笑うと目がなくなってなかなか愛嬌がある。彼は、無言で焼酎をコップでガブ飲みする友人をながめ、ひとつ溜め息をついて静かに言った。
 「いい加減にしろよ」
 稔はその言葉がまるで聞こえていないかのように無反応だ。
 「いつまでそうしているつもりだ? 婚約破棄がそんなにショックか? お前彼女のことたいして好きでもなかったんだろ? 出世が遠のいたとでも思ってるのか? 今度のことは一方的に向こうが悪いんだ。専務に貸しができて良かったって言ってなかったか?」
 「違う」
 それだけでは、何に対して、何を否定しているのやらさっぱりわからない。
 たたみかけるように坂居は問う。
 「何が違う?」
 「彼女のことは関係ない」
 この店に入って、古びた木の長テーブルの端に陣取って差し向かいでひたすら飲み続け、もうすぐ2時間が経つ。坂居の方もかなりのアルコールをその胃になげこんだ。が、言葉ははっきりしているし、本人も頭の芯が冴えざえとしていて、少しも酔っていないと自覚していた。
 彼はこの3か月ですっかり頬がそげ落ち、いちどに5歳くらい老けてしまった友人の顔を睨みつけて、なおも言いつのった。
 「死んじまった人間のことを、いつまでもうじうじ悩んでいて何になる? ちっとは、今生きてる奴のこと考えたらどうなんだ?」
 ガタン、と大きな音をたてて稔は立上がり、いきなり坂居の胸ぐらをつかんだ。
 二人の身長は1m75cm前後で、ほとんど同じくらいだったが、ひどく痩せてしまったせいで稔の方が小柄に見える。だが、彼の持つ暗い瞳の光には圧倒的な迫力があり、坂居は内心の動揺を隠すために虚勢をはらねばならなかった。
 「おうっ。やろーってーなら上等だっ!おもてへ出ろ」
 居酒屋のたてつけの悪い引き戸をガタガタ開けて、おもてへ出るなり稔は坂居の顔面を力いっぱい拳で殴りつけた。
 狭い路地でのことだ。坂居は殴られたいきおいで、ポリバケツの群れの中に倒れ込み、生ごみを頭からかぶってしまった。
 吐き気を誘う悪臭に顔をしかめつつ、坂居は、頭の中で何かがブツッとキレる音を聞いた気がした。これが堪忍袋の緒が切れる音ってヤツか、と妙に冷静に考えている自分をおかしく思いながら反撃に転じる。右手でフェイントをかけて左ストレートを見事にきめた。
 「っくしょー。おまえに何がわかる? あいつは俺にはまだ死んじまった奴なんかじゃないんだよ!」
 稔は手足をバタつかせながら叫んだ。
 その叫び声の悲痛な響きに息を飲み、坂居は慄然とした。
 そして、まだ暴れている稔を押さえて、もう一度溜め息をついて言った。
 「わからんよ。わかりたくもないね。だけどおまえ、そんなに泣くなよ。いくら裏通りだって野次馬が集まってきてるよ。おい、色男が台無しだぜ」
 その言葉が稔の頭に響き、理解するまでに数秒を要した。彼は、同僚に指摘されるまで自分が泣いているなどとまったく気がついていなかった。まばたきもせず、声をあげることもなく、ただ瞳から涙がこぼれるにまかせていた。3か月、泣きたくても泣けなかった稔は、彼の友人が逝ってからその時初めて、体中の水分をすべて目から流しつくしてしまうかのようにとめどもない激情を解き放っていた。周囲の好奇な視線をひとわたり見回して、あきらめたように坂居はつぶやいた。
 「そうだな。わかってはやれないけど、この恥ずかしい状態くらいは我慢してやってもいいよ。オレってどうしてこんなに友達思いのいい奴なんだろうな」
 集まってきた野次馬たちは、期待したほどのこともなく喧嘩がおさまってしまった様子に少々気抜けしたように散っていった。
 いつのまにか、小雨が降ってきていたが、稔はそれに気がつきもせず、坂居は気がつかぬフリで、居酒屋のおばさんが心配して出て来るまでの長い間、そこにじっと佇んでいたのだった。
 
 
 1993年 春 楽屋裏
 
 高久良章はOA機器を扱う企業の営業兼メンテナンス担当の社会人3年生だった。
 しかし、いまいちうだつのあがらない昼の顔は仮の姿で、彼の本領は週2回、夜のライブハウスで発揮されていた。
 西麻布にあるライブハウス『ベグリア』が彼のホームグラウンドだ。場所柄もあってか、日頃の客層はわりに品のいい中堅どころのサラリーマンとその連れの若いOLといった組み合わせが多いが、高久が出演する火曜と土曜の夜は若い女性客が圧倒的に多く、ひところは立ち見も出るほどだった。
 店内は客席数約百、チケットがあまりに早く売り切れて、買えなかった客から苦情が出た時には椅子席を半分取り去って立ち見のスペースを増やすと二百五十人ほど動員できた。ただし、それは一昨年の秋頃までの話で、現在は根強い固定客に支えられている感があり、ここ一年程は立ち見が出るほどのことはなくなっている。
 その日もライブのために6時に楽屋入りしていた。楽屋、といっても従業員用の8畳ほどあるロッカールームをパーティーションで半分に仕切った片側というだけのものだが、高久にとっては御馴染みの落ち着けるスペースである。
 そこへ、学生時代のバンド仲間である金井八重子が来ていた。
 ファンからのプレゼントの中から食べられそうなものを物色しながら高久は八重子に声をかける。
 「電話しなきゃ来てくれないんだもん。薄情な奴だよな。何か変わったことあったか?」
 八重子は女性にしては長身で、淡い若草色のスーツを一分の隙もなくきこなしている。整い過ぎて少々冷たい感じのするその美貌は、よく知らない人間にはお高いとか、とっつきにくいという印象をあたえることが多いようだ。黙っていれば、の話ではあるが。
 「結婚するの」
 高久は一瞬の間をおいてから、まじまじと彼女を見詰めて言った。
 「そりゃ、おめでとう」
 「あたしじゃないよ」
 「あ、やっぱり」
 と、言ってしまってから、高久は慌てて口をおさえたが、その言葉はしっかり八重子の耳に届き、不機嫌な表情が浮かんだ。
 が、それも一瞬で笑いに変わる。
 「どーせねっ。あたしじゃ貰い手ないって思ってんだよね。でも聞いて驚け、結婚すんのは稔の奴よ。来年の3月だってさ」
 ふいに高久は動きを止めた。顔からは表情がすうっと消えていく。感情の動きを他人に悟らせたくない時の彼の癖だったが、八重子には無駄なことだった。
 「ギターもあっさりあきらめちゃって、すっかり社会人らしくなっちゃったと思ったら今度は婚約だもん、先こされまくりでショックよねー高久は」
 「どんな人?」
 「稔の会社の専務のお嬢さん。T女を首席で卒業した才女で、すごく美人だって」
 「それ、稔から聞いたのか?」
 「まっさかー。あたしの後輩が稔と同じ会社なんでちょっと小耳にはさんだわけよ」
 高久はさきほどより物色していたプレゼントの山の中からとびきり甘そうなチョコレート菓子を大量に引っ張り出し、両手に抱えて見せながらつぶやいた。
 「これ、全部食ったら死ねるかな?」
 「いくらあんたが甘いもの苦手でも、そんなんで死ぬわけないでしょ」
 いかにもバカにした八重子の口調にむきになったように彼は声を大きくする。
 「わかんないぞ。こんなん食ったらきっと山ほど鼻血が出て、失血死しちまうんだ」
 八重子はひとしきりケラケラと笑い声を立てたあとで、ふいに真顔になって高久を見る。
 「いい? 今もしあんたが自殺なんてしようものなら世間の人は何て言うと思うの?」
 「何て言うんだ?」
 「仕事の成績はふるわない。ライブ活動も中途半端で客は減ってきてる。プロにもなれずトシばかりとっていくことに耐えられなくなったんだろう、ってね」
 高久は薄茶に染めた長髪をかきむしって、宙を睨んだ。そのまま八重子を見ずに言う。
 「確かにな。それじゃ高久良章の名が泣く。ヤエは相変わらず辛辣だな」
 満足そうに頷き彼女はなおも言う。
 「こういうのは辛辣ってんじゃなくてただの正直者って言うんだよ」
 他の誰かに同じことを指摘されていたら間違いなく殴りかかっていっただろう。だけど八重子にはいつも本当のことを言われてきた。学生時代から彼と稔と八重子は、そうやって本音で付き合ってきたのだ。
 「おまえ、正直者は損するって言うぞ」
 「誰かが損するとその分他の誰かが得をするようになってんだ。あたしが正直に言って高久が得すんなら結構なことじゃん。感謝しなさいよね」
 高久だとて決しておとなしい方ではないが、この下町っ子に口でかなうとははなから思っていない。
 「感謝する。しちゃうから今度またオレのバックでキーボードひいてよ」
 と、彼女の前で両手を合わせて見せる。このお願いが今日彼女をよんだ理由だった。そして、みかけに反してお人好しで頼まれると嫌と言えないのが金井八重子だった。
 「あんた、この前新しいキーボード入れてからまだ半年も経ってないじゃない。またケンカしちゃったの?」
 彼はもったいぶった仕種で腕組みすると、応える。
 「喧嘩なんて人聞きの悪い言い方はやめてくれ。音楽的志向の不一致というやつさ」
 八重子は高久の前に無造作に置いてあった週刊誌をとりあげて、まるめて彼の頭を叩く真似をして言う。
 「オフロードのリーダーのうけうり早速つかってどーすんのよ情けない」
 その週刊誌には、最近解散を発表した人気ロックグループのリーダーのコメントが載っていたのだ。
 「そんなんじゃなくても昔っからバンドが解散する時やメンバーがぬける時にはそう言うもんなの。まさか正面きってあんな下手な奴とはいっしょにやってけなくなった、なーんて言えないじゃん」
 昔からバンドが解散したりする理由がただそれだけの単純なものではないだろうことくらい彼等にだってわかってはいたが、確かに最近高久のバックについていたキーボードはお世辞にもうまいとはいえない男だった。
 「真面目な奴でさ。きっちりマニュアル通り一生懸命練習してくんのよ。でもさ、こっちがもっとこう、微妙なニュアンスとかをねギター弾いてみせたりして、こんなかんじでやりたいっても、全然通じないわけよ」
 八重子はこの大学時代から8年越しのつきあいの友人の台詞を意外に思ってきいた。
 「前はもっと感情的に大喧嘩して辞めさせちゃったりしてたじゃん。いっくら努力してても、下手な奴の努力なんてないもいっしょみたいに認めようともしなかった。あんたでも一応トシとってんのねー」
 「ったりめぇだろ。オレだって今年で25歳だぜ。それより、な、頼むよ。次のがみつかるまででいいんだ。勿論、そのままずっとヤエがやってくれた方が嬉しいけど」
 「次がみつかるまで、ならいいよ」
 これまでにも、キーボードをやめさせてしまう度、高久のバックをつないできた八重子だった。もしかして自分が甘やかすから余計高久は簡単にメンバーチェンジを繰り返すのかも知れない、と八重子は考えたりもするのだが、だからといって高久のお願いを無下に断ることもできない。
 
 それは、もしも今度ベースと喧嘩して欠員を出したら、もう一人の学生時代の仲間は、もう助っ人をしてはくれないだろうことが、わかっているからでもあった。
 
 
 1993年 夏 打ち上げ会場
 
 東京青山にある草友ホールでのコンサートは大成功だった。
 一時はこのまま消えて行くのかと噂されていたアマチュアロック界の実力派シンガー高久良章は、この春頃からパワー全開で精力的に活動しはじめ、初めてライブハウスではなくホールでのコンサートを決行したのだった。
 その日、コンサート後の打ち上げには本人以下、バンドのバックメンバーは勿論、スタッフ、古くからのファン、高久の友人等々、五十人を越す人数が集まっていた。
 こうなるともう、知った顔も見知らぬ顔もかまわず混じりあい、コンサートでの興奮をそのままひきずっての大宴会だ。
 コンサート会場から歩いて15分ほどのところにある広い居酒屋の一部を借り切っていた。
 だから、まったく無関係な外部の人間が紛れ込んでいても誰も気が付かないような状況だった。
 工藤稔は、一番後ろの席からコンサートを客のノリとともに見届けて、そのまま一緒にここまで来ていた。何社かのレコード会社の人間が高久の回りをとりまいていたので、少し離れた座敷席にあぐらをかいて、八重子と二人で談笑していた。
 「なんだか、高久の奴またいちだんとうまくなった気がするんだが、あの気合いはどっからきてるのかね?」
 「いちだんと社会人らしくなっていく誰かさんに遅れをとるまいと必死なんじゃない?」
 その時、その誰かさんの前にいきなりビール瓶を差し出した青年がいた。彼は稔たちより少し若いようだが、学校、会社のどちらにも思いあたる後輩はいないようだ。礼儀正しく両膝をそろえてつき、ラベル側を上にして両手でビールを捧げ持つ姿は、妙に場違いな雰囲気だった。
 「さぁ、もう一杯どうです」
 それでも、ひとなつこい笑顔をむけられて、稔は高久のファンの子だろうと判断して反射的に自分のグラスを手にした。
 「ありがとう」
 「僕、衣川修といいます。麻子さんの幼馴染みで、恋人です」
 衣川はことさら最後の恋人という言葉を大きな声で言って、大きな茶色の目で稔の反応をうかがった。
 稔は黙ったまま、つがれたビールをうまそうに飲み干した。はっきり態度に出して驚いたのは、むしろ隣にいた八重子の方だった。
 彼女は稔のそでを引っ張って小声で訊いた。
 「ちょっと、あの麻子さんてあんたの婚約者のことじゃないの?」
 稔はそれには答えずに、衣川の視線を真っ直ぐにうけとめて尋ねた。
 「それで、麻子の恋人の衣川君が俺に何の用だい?」
 まったく動じていないばかりか、彼女の名前を呼び捨てにされて衣川は顔を真っ赤にした。殴りかかっていきたい気持ちを拳を握りしめることで耐えているのが、その肩の震えからわかる。
 「どうしても、お聞きしたいことがあって来ました。あなたは麻子さんを幸せにできると思っていますか?」
 稔は手酌でもう一杯ビールを飲んだ。
 「彼女は、今でも僕のことを愛してくれています。でも、彼女にとって父親の命令は絶対なんです」
 八重子は話がこみいってきたのを悟ってさりげなく席を外した。この先を聞いていたい気持ちはやまやまだったが、もし話す気があれば稔自身から言ってくるだろう。稔が何も言わないなら聞く必要もない。
 「僕はそれで彼女が幸せになれるなら、諦めようと思ったんです。でも、そうじゃないなら……」
 そこまで聞いて、稔はクスクスと笑いだした。
 「ボーヤ、結婚するのは男が女を幸せにすることだって思ってるのか?」
 「もちろん、そうです」
 あまりにもきっぱりと言い切られ、稔は笑いをおさめ、今度はおおげさに頭を抱え込んでみせた。
 「じゃあ聞くが、幸せってのは何だと思っているんだ?」
 稔は、ビールをもう一杯つごうとしたが、中味が空になっていたのに気が付いて舌打ちし、ポケットから煙草を取り出した。
 衣川は、そんな態度に不快感をあらわにしながらも、再びきっぱりと言い切った。
 「幸せとは、暖かい家庭、子供の笑い声、夫婦仲良く助け合って生きていくことです」
 「うったまらんっ。ぷふぁっははっは……」
 
 稔の笑いは今度はクスクスなどというものではすまなかった。手足をバタバタさせて涙を流しながら笑いころげている。
 「何がそんなにおかしいんです?」
 笑われている当人は、その笑いのすさまじさに当惑し、この人は頭がおかしいのかもしれないと訝かっている。
 「い……うひゃっ……今時そんなことっわ……中学生でも言わないぜっ……」
 まだ笑いがおさえられずに、それでもなんとか答えた稔に、絶望的な視線をむけていた衣川は、いきなりその場に手をつき座敷席の畳に額をこすりつけた。
 「お願いしますっ!婚約はあなたの方から解消してください。お会いしてはっきりわかりました。あなたでは、僕は身をひけない」
 突然の奇狂な行動に、打ち上げ会場は一瞬しんと静まりかえってしまった。衣川の声はこの居酒屋の喧騒を遥かに凌ぐ大きさだった。
 そこへ本日の主役が皆の注目を自分に集めるべく立ち上がった。
 「いやぁ、盛り上がってるみたいで結構御酩酊の様子も見受けられるけど、今晩はまだまだ飲むぞ!みんな楽しんでいってくれ」
 「おーっ!」という歓声があがり、それを合図にみなまたそれぞれに騒ぎはじめた。何事だったのかと好奇心でまだ数人は稔たちの方を盗み見ていたが、高久の台詞がそれをかまわないようにと暗に仄めかしていたので、誰も干渉はしなかった。当の高久を除いては。 
「どうしたんだ?」
 稔と衣川の座っているところまで来て高久は声をかけた。
 「いやぁ、このボーヤちょっと飲みすぎちゃったみたいでな」
 高久の出現で、とりあえず顔をあげたものの、まだ座敷に手をついたままの衣川はその台詞に目をむいた。
 高久はそれを宥めるように衣川の肩をたたくと、愛想のいい笑いで言う。
 「悪いな。こいつ口が悪くてな」
 「あっ、ひでぇな。それってお前だけにゃ言われたくないぜ」
 二人がじゃれるのをかまわずに、衣川は同じ言葉を更に大きな声で繰り返すと、出て行ってしまった。
 「お願いです。麻子さんとの婚約はそちらから解消してください」
 残されたのはあっけにとられたように呆然と後姿を見送った高久と、何事もなかったかのように平然と煙草をくゆらす稔。
 「いったい何だったんだ?」
 「幸せってーのは、俺にとっては金と社会的地位を手に入れることだぜ」
 高久はその後、八重子から衣川君登場の場面を説明してもらいなんとなく事態を把握したのだった。
 
 
 
 1993年 秋 Birthday
 
 9月3日は高久の25回目の誕生日だった。
 互いの誕生日には決まって稔と八重子と3人揃ってお祝いするのがいつのまにかお約束になっていた。ロックグループがお誕生会をやっているという図もなかなか面白いジョークだと始めたことだったのだが、今では3人にとって年に3回の飲み会の口実として大切なイベントになっていた。
 ところがこの日、高久の会社に八重子から電話が入った。
 「悪いけど今日は行けなくなったわ」
 「なんだデートか?」
 ちっとも悪くなんて思っていないような言い方にむっとしたように高久は尋いた。
 「だったらわざわざ今日しないわ。仕事よシ・ゴ・ト。明日の会議に必要な資料を今日中にどうしても揃えておかなきゃならなくてね。本当は先輩と半分ずつやることになってたんだけど、急に病欠されちゃって」
 「病欠は普通、急にだな。3日後は病欠しますなんて断って休む奴はいないもんな」
 「ま、そんなワケなんであとでプレゼントだけ届けに行くわ」
 高久の軽口は相手にせずにそれだけ言うと八重子はさっさと受話器を置いた。
 
 高久のアパートにピンクのリボンをかけたシーバスのボトルを抱えて稔が現れたのは、午後7時頃のことだった。高久は原宿のはずれにある年代物の木造建築の2階に住んでいた。築20年はくだるまいというそこは、気をつけてそっと上っていかないと階段を踏み抜いてしまうほどの代物だったが、収入の大半をレコードと楽器代に費やしてしまう彼は、経済的事情でここから引っ越すなんてことは検討の余地もない。
 ウイスキーのおまけにもらった商品名のロゴ入りグラスにロックアイスをなげこみ、トクトクと良い音をたててシーバスをつぐと、片方を高久に渡し、稔はグラスをあげて言う。
 
 「ハッピーバースデイ」
 「サンキュ」
 そして、二人は一気に飲み干すと、再びグラスを満たす。
 「しかし、ヤロー二人じゃ色気がなさすぎるよな。ヤエがこられないならガールフレンドでもよんでパーッとやったほうが良かったんじゃないか?」
 「うんにゃー、オレは稔君がいてくれたらそれでいーの」
 ゴロゴロと猫のように腕になつく高久に稔はさきいかを差し出す。
 「よしよし、それエサだ」
 「おいしーニャン」
 今日は彼等は猫と御主人様ごっこを永遠やる気になってしまっようだ。この場に八重子がいたら白けた口調で「ファンの子に見せてあげたいものね」と言っただろうが、二人だけなのでとめどもなく続く。
 「にゃーにゃー」
 「なんだ?」
 「オレ、プロデビューが決まったニャン」
 稔は顔面笑みくずれて、高久の手をとって乱暴にブンブン振り回す。
 「やったな!うん、よくやった。きっとお前ならプロになれると信じてたぜ」
 本当によくやった、と繰り返しながら稔は本人より嬉しそうだった。
 「で、どこのレコード会社にしたんだ?」
 「レジスタンスレコードだミャァ」
 稔は首をかしげて黙り込んでしまう。しばらく考えこんでから口を開く。
 「えらく過激そうな名前だけど、聞いたことがないようだ。そんなところで、大丈夫なのか? たしか草友ホールでのコンサートの時、もっと大手のレコード会社の人達が沢山来てたんじゃなかったか?」
 「そりゃ聞いたことはニャイだろーニャ。その会社が最初に出すレコードがオレのってわけだニャン」
 シーバスリーガルのボトルはもう半分くらいに減っていた。稔は二人分のグラスを満たし、指でかきまぜながら問う。
 「何もそんなところから出さなくても大手の方が宣伝だって大々的にやってもらえるだろうし、レコード店にも地盤がある」
 高久はグラスを受けとるとカラカラふりながら笑ってみせた。その瞳は澄んでいて、ゆるぎない決意を感じさせた。
 「それは何事も計算づくで割り切れる稔君らしい御意見だと思うけどニャ。オレは1番が好きニャの。そのレコード会社のおっさんは『日本のミュージックシーンをぬりかえるために高久良章が必要だ』って言ったんニャ」
 稔は青褪めていた。鳥肌がたつのを自覚して軽く身震いする。
 「どうしたんニャ?」
 「いや、なんでもない。それより、お祝いしなきゃな。何か欲しいものでもあるか?」
 
 高久は黙って真正面から稔をみつめた。もともと色の黒い方ではなかったが、その肌の白さは今、普段以上に感じられる。計算づくだと指摘してしまったことに後悔はないが、この友人があきらかにその台詞にうろたえていることは確かだと高久は思った。
 学生時代から彼等の役割分担ははっきりしていた。感情にまかせて暴走する高久と、冷静で合理的、計画的に行動する稔と、その二人の調停役である八重子。ギター&ヴォーカル、ベース、キーボードの他にドラムとサイドギターもいるにはいたが、個性的すぎる3人に長く付き合っていける人間はなかなかみつからず、この3人以外のメンバーは出入りが激しく半年と定着したためしがなかったので、卒業後にはまったく付き合いがなくドの他にドラムとサイドギターもいるにはいたが、個性的すぎる3人に長く付き合っていける人間はなかなかみつからず、この3人以外のメンバーは出入りが激しく半年と定着したためしがなかったので、卒業後にはまったく付き合いがなくなっていた。
 高久は腕組みして考えこむポーズをとりながら言った。
 「オレの、欲しいものニャ。正直に言ったら本当にくれるのか?」
 「あの月をとってこい。なんていうのでなけりゃなんとかしてやるぜ」
 その瞳に悪戯っぽいきらめきを見て稔は少々身構えて応えた。
 「オレは小林一茶か?」
 「そりゃー、違うだろ。とって欲しいと泣いたのは一茶じゃなくて子供だろ? それより、何が欲しいんだよ?」
 「お前が」
 「え?」
 「お前が欲しい。オレは嫌だ。利口ぶって会社の上司の言うなりになって好きでもない奴と結婚して、お前がつまらない中年オヤジになりさがっていくのなんて見たくない。そんなの許せない」
 そう言いながら、高久は稔の首に腕を巻きつけてそのまま押し倒した。
 「お前はオレのもんだ。誰にもやらない」
 「高久。自分が何を言っているか解ってるのか?」
 「そうだ。ずっと好きだった。お前だって本当は解ってたはずだ」
 稔は抵抗しなかった。
 「ただ、抱きたいと言うのなら、このまま抱かれてやってもいい。けど、それで俺がお前のものになるなんて思い上がるなよ。俺を独占したいなんてのは月どころか太陽をとってきてほしいって言ってるようなもんだ」
 高久はその抑揚を欠いた声を聞いて、動きを止めた。
 起き上がって、氷のとけてなくなったグラスにシーバスをなみなみとそそぎ、ストレートで一気に飲み干す。軽く溜め息をついてから、ぎこちない笑顔をつくる。
 「悪かった。オレ………忘れてくれ」
 稔も笑い返す。高久よりずっと自然な笑いだった。
 「発売日はいつだ?」
 「来年の2月21日」
 「よーし、それじゃそれまでに俺がとびきりのプレゼントを考えておいてやる」
 言葉通りすっかり忘れた風に、稔は言う。
高久は自分にはないその冷徹にさえ魅かれてしまうのを自覚しながら言うしかなかった。
 「うん。楽しみに待ってるよ」
 
 
 1994年 冬 深夜のスナック
 
 
 アルバム発売を1週間後に控えた高久は、また草友ホールでコンサートを開いた。彼はデビューが決まってからその一月前に会社を辞めることを決めた。下期に入って彼の営業成績は不況にもかかわらず好調で、彼の退職は上司からも同僚からも惜しまれていた。そのため、この日のコンサートには同僚も招待して納得してもらおうという目的もあった。
 「オレ、コンサートって初めてきたけど、こんなに気持ちいいもんだとは知らなかった」
 「見てるだけだってこんなに気分いいんだもん。ステージに立ったら病み付きになりそうだよな」
 コンサート終了後、例の居酒屋に集まった同僚達は、口々にそう言って彼の前途を祝福してくれた。
 高久はステージ衣装のまま、打ち上げに参加していた。白地に金ラメをちらしてビラビラした70年代のアイドル歌手みたいなスタイルだ。それを結構気に入っているようだ。彼はとても好き嫌いがはっきりしているので、気に入らない衣装は作ってくれたスタッフのために着ることは着ても、たいして汗もかかないうちに着替えてしまうのだ。
 23時をまわる頃打ち上げはお開きになった。
 高久と稔は連れだって二次会に流れた。稔は他のメンバーも来るものと思ってタクシーに乗ったのだが、高久はいつもは行かない店の名を指定した。
 赤坂のセンタービルの近くの落ち着いた感じのスナック。ソファはふかふかで、店内には小さな音でジャズピアノが流れている。
 「なんだか、めずらしいところに連れてこられたような気がするが……?」
 いかにも高そうな雰囲気に呆れたように稔は高久を見た。
 「まとまった金が入ったからさ。たまにはいいだろ」
 得意気に言うロックシンガーは、何故か先程ステージに立っていた時とは別人のように幼く見えた。
 待つほどのこともなくオールドパーのボトルとグラス、アイスが運ばれてくる。
 稔はいつものようにロックをつくろうとしたが、彼が手を出すより早く、ブルーのイブニングドレスを着たお姉さんが、テーブルのわきに膝をつき、慣れた仕種で水割りを2杯作ってしまった。
 せっかくのキレイなドレスをいくら絨毯敷きの床とは言え、わざわざ汚すようなことしなくたってよさそうなものだと、稔は考えていたが、高久は全然別の感想を述べた。
 「今の彼女、化粧と香水の匂いどっちがきつかったかってくらい強烈だったな」
 そうしてどちらからともなくグラスをあげると、薄くて味のあまりしないオールドパーはあっという間に二人の胃袋に消えた。当然商売なのだから、アルコールは沢山消費してもらった方が店にとっては助かる。だから、その水割りはかなり濃い目につくってあったのだが、氷がなければストレートでもかまわない彼等にとっては水みたいなものだった。
 当然のように2杯目からは氷とウイスキーだけを補充して、稔は周囲を気にしてか店の雰囲気に合わせてか、指ではなくマドラーでかきまわした。
 ソファに足を組んで座り、薄茶の長髪をかきあげる高久は、非現実的な存在に見える。照明をおとした店内ではその衣装もたいして目立つことはないし、どこがどういつもと違うというのか、はっきりとは解らない。でも、稔は頭の片隅に警告の鐘が鳴り響いているのを意識していた。
 「学園祭で、コンサートやった時のこと憶えてるか?」
 高久は懐かしそうに話始めた。
 「オレは今でもあの頃に戻れたら、一生あのままあの場所で生きていけたらどんなに幸せだっただろうって思うんだ」
 「じじむさいコト言うなよ」
 「オレにはギターと歌しかなかった。だけどそれだけで充分だった。あの頃は本気でそう信じてたんだ。けど、違ってた。あの頃のオレが持っていて、今のオレにはないものがある。オレにとってはそれこそが本当に大切なものだったのに。その時はわかってなかったんだ。なぁ、何だかわかるか?」
 稔は不安を覚えていた。何故急にこんな昔話を始めるのかわけがわからない。
 だから、適当に茶化してこんな話題は打ち切ろうとした。
 「若さ、とでもいうのか? でもそれは相対的なもんだ。今だって80歳のじいさんから見りゃ充分若いぜ」
 高久はロックアイスを手掴みして稔に投げつけた。稔はよけたが、その水飛沫を頬にあびてしまった。
 「冷てーなー。何考えてんだよ!」
 「オレが何考えてるかなんて、もう稔には解らない。そうだ。オレが無くしたのは、オレのことちゃんとわかってくれてた奴。一緒にステージに立って、同じ感動を共有できた奴。オレの音を本当に理解してくれてたお前と、お前のベース」
 稔は煙草に火をつけようとして、横合いから例のイヴニングドレスのお姉さんにライターを差し出され、憮然としつつもそれで火をつけた。この素早さがプロの技なんだろうか、などとちらと考えたが、それどころではなかった。傍らにいる友人の口調はどんどんヒステリックになっていく。
 「今想うと、夢の中にいたような気がするよ。あれは、本当にあったことだったのかってね。あんまりにも幸せな夢。オレにはもうあんな風に歌うことは2度とできないし、あんな音を出すこともできないだろう」
 「今の方がずっと上手いだろ。だからプロにだってなれるんだ。俺なんかよりずっといい音を出すベースだってつけてもらってる。何が不満なんだ?」
 高久は信じられないものを見た、というように目を大きく見開いて、稔を見た。
 「まさか、それ本気で言ってるんじゃないだろうな? テクの問題なんかじゃないってことくらいお前にわからないわけないだろ!ただ技術があるってだけの奴ならごまんといる。そいつらが全員プロになれるってわけじゃない。上手いってだけじゃどうにもならねー」
 当然、高久の言わんとするところは解る。ただ、コンサートを見た限りでは、彼がそこまで不満に思うほど技術だけのバックってわけでもなく、それなりの個性も感性も持った味のある音を出す連中だった、と稔は思うのだ。それなり、っていうのに満足できない性格も理解しているつもりだったが、自分のベースがそれなり以上だったはずもないという自覚もある。友人がむきになっているのは、自分への執着を、音楽へのこだわりとすり替えようとしているようにしか思えない。
 「ちょっとは落ち着けよ。俺にどうしろっていうんだ? あの学生時代に戻るなんてできないんだ。無責任で無鉄砲で、毎日新曲や次のライブのことばっかで頭がいっぱいだった。楽しかったと思うのは俺も同じだ。でも、戻りたいなんて思わない。卒業してから今までの自分を否定してしまうみたいなことしたくないよ。いつだって今が1番って思ってる」
 高久は自嘲的な笑みを浮かべた。
 「お前、誰かのために死ねるか?」
 突然の話題の転換に面食らったように稔は高久をまじまじと見た。今度は何を言い出すのか? 今日は絶対どうかしてる。
 「お前は婚約者、麻子さんって、言ったけ? 彼女のために死ねるか?」
 稔は、彼女の恋人だと名乗った衣川という青年の顔を思い出して苦笑した。
 「まさか、お前まで幸せとは、夫婦助け合って生きていくことだ、なーんて言い出すんじゃないだろうな?」
 「はぐらかすなよ。そんな話してんじゃない。尋いてることに答えろよ!」
 ゆったりと、煙草の煙りを吐き出すと、稔は少し唇の端をゆがめて見せる。
 「誰かのために死ぬなんて人間にゃできねえよ。例えそう思って死んだ奴がいたとしてもそれは、とんでもない勘違いだ。その誰かが死ぬのを見たくなかった自分のために死んだんだ。俺はそういう奴は嫌いだ。俺は俺のために生きて、俺のために死ぬ」
 高久はその解答に満足そうに頷いた。
 「そうだな。それが正解だとオレも思うよ。だから例えオレが死んだって、それは誰かのせいじゃなくオレ自身のためだ」
 その時うかべた高久の笑顔は、妖しすぎた。稔は背筋に冷たいものが走り抜けるのを意識して、言わずにはいられなかった。
 
 「バカなこと考えてないだろうな?」
 「オレは、仕事もうまくいってんのに惜しまれながら会社を辞めて、もうすぐプロとして最初のアルバムを発表する。前途洋々ってな、今のオレみたいな奴のこと言うんだぜ」
 「だったら、いい加減妙な話題でからむのは辞めてくれ!」
 オールドパーのボトルは空になっていた。午前2時。ピアノが、『グッドナイトベイビー』を静かに奏でている。閉店までねばると、意外な曲を耳にすることもある。
 店を出た二人は、センタービル前の青山通りにかかる歩道橋を上がっていった。
 
 
 1994年 冬 終焉の時
 
 真冬の午前2時。空気はピリピリと冷かったが、酔った二人には気持ちいいものだった。
 歩道橋の上からみる道路はまるで天の川のようだった。深夜だというのに車の通りは相変わらず激しく、そのヘッドライトとテールランプが美しく流れていく。
 東京の夜景の中でもここが1番美しいのではないか、と、稔は思った。かなり酔っているせいで、ぼんやり見える光の洪水が、その光景を幻想的に見せている。
 その晩の高久の饒舌さは度を越していて、彼はそれに翻弄されながらいささか悪酔い気味だった。当の高久も酔っていた。それとも、泥酔を装っていたのかもしれない。
 稔が景色にみとれているうちに、高久は歩道橋の欄干に立っていた。
 風がステージ衣装をはためかせ、金ラメが街灯を反射して輝いた。彼の人気は実力のためであるが、女性ファンの大半がその容姿にも魅かれていることは確かだ。高久は長身で均整のとれたスタイルに端正な顔立ちをしていた。しかし、その時の稔はその姿に、長い間見慣れていた筈の友人の顔とは思えない超然とした美しさを見出だして身動きがとれなくなってしまった。
 天使。
 そんな単語がふいに頭に浮かぶ。
 硬直して、瞬きさえできずに、ただ高久をみつめている友人に、彼は両手を広げて見せた。それこそ、翼を広げた天使のように、優雅な仕種だった。それからゆっくりと右手を高くあげて空の一郭を指差す。その先には、下弦の月。なにものをも拒むように冷たく、見る者の思いも凍らせるような青白い輝き。
 澄んだ瞳が稔をとらえた。その瞳は慈愛に満ちているようにも見えた。
 「オレがとってくるよ」
 天使はそう言い遺して地上の天の川に身を投じた。はばたこうとしたのか、泳ごうとしたのか、翔べると信じていたのか? 
 衣装を羽のようにはためかせて、道路に落ちて行ったその姿を目撃したのは全部で3人。運悪く彼をはねてしまうことになったタクシーの運転手と、対向車線を走っていた自家用車の運転手とその助手席にいた運転手の妻。
 急ブレーキ。甲高い悲鳴。しばらくして鳴り響いた救急車のサイレンの音。
 間に合わなかったブレーキはタクシーのもので、甲高い悲鳴は自家用車の助手席からのもの、救急車を手配したのはその運転手というわけだ。
 しかし、すべての音は稔の耳には届かなかった。彼は警察官に呼び掛けられても返事ができず、肩をゆさぶられて初めて我にかえったのだった。
 高久の死は事故として処理された。泥酔したあげく誤って歩道橋から転落。二人でオールドパーを1本空けてしまったことは店の人間も証言した。その前の居酒屋でも、かなりビールを飲んでいたことは、スタッフも会社の同僚も知っていた。そして、何より目撃者である稔がふざけているうちに足を踏み外したのだ、と警察に説明した。自殺の理由はなかった。本人が語ったように、将来を有望視されていて、もうすぐプロデビューするはずだったロックシンガーだ。誰もその可能性など考えもしなかった。
 アルバムは発売中止ということになった。会社設立後、第一弾のアルバムが発売日には既に死んじまってる奴のじゃいくらなんでも縁起が悪すぎる。その決定はしごく当然のもののように稔には思えたが、そんなことでは諦めない人間がいた。
 金井八重子がファンを煽動し、レコード会社を口説き落として、限定2万枚だけ発売されることになった。もともとレジスタンスレコードなんて会社名をつけるような経営者だ。このファンの大騒ぎに便乗するのも悪くないと考え直したのだろう。
 レコードはあっという間に2万枚を売り切った。そのうちの1枚を稔がしっかり確保できたのは、八重子のおかげだった。
 だが、案の定レコード会社はその売れ行きの良さに前言を撤回して再プレスした。高久のアルバムは、オリコンチャートを急上昇中だった。
 
 
 1994年 冬 歩道橋の上
 
 高久の死から一週間後。稔は再びセンタービル前の歩道橋に上った。昼間のそこはまるで別の場所のように雰囲気が違っていた。あれほど美しく見えたのは酔っていたせいだけだったのかと思わせるほどに。
 そこに、白い菊と百合の花束を供えている際立って美しい女性がいた。立ち尽くしている稔の気配に気が付いて顔を上げて、彼の視線を受けとめる。彼女の瞳は涙に濡れていた。
 「麻子さん」
 ファンの子は他にも何人かところどころに固まって、それぞれに花を抱えたりお線香を供えたりしていたが、稔の視界には今、婚約者の姿しか入っていなかった。
 「近いうちに父からもお詫びすることになると思います。ごめんなさい」
 そう言うと彼女は御腹に愛しそう手をあてた。そのラインは明らかに以前会った時より豊かな丸みを帯びていた。
 「これは、衣川の子です」
 結婚式まで、もう1ケ月もなかった。それなのに、この二人が会うのは3度目だった。
 不思議とショックは感じていない稔だった。ただ、何と返事をしていいのか解らずに絶句していた。ただ黙って彼女の供えた花に視線をあてていた。
 「ああ、これ。私も高久さんのファンだったんです。あのコンサートのあとの打ち上げに衣川があなたを訪ねたのは、私が教えたからなんです。私、あなたが高久さんのお友達だって知ってましたから」
 「そうでしたか」
 「彼がどこまでお話したか詳しくは知りませんが、私は父の実の娘じゃないんです。あなたの会社の専務であるあの人は私の母の兄なんです。私の母は高校生で私を産んで、すぐに他界しました。本当の父は誰だったのかわかりません。母は、裕福な家庭に生まれて、甘やかされて随分派手に遊んでいたらしくて疑わしい相手が沢山いすぎて一人に絞れなかったらしいんです。まったくお恥ずかしい話ですけど」
 歩道橋の上で風に吹かれながら話題にするには、なんだか重たい彼女の生い立ちだった。けれども、ここで聞くことで、高久も一緒に聞いてくれているようで、稔は遮ろうとしなかった。
 「そんな事情で生まれた私を父は本当の娘のように大切に育ててくれました。だから、勉強も頑張ったし、好きでない相手でも、相手の人も私のことなんか愛してくれてなくても、父の望む人と結婚しようと思ったんです」
 「衣川君さえいなかったら、ですか?」
 彼女は誇らしげに微笑んだ。
 「ええ。彼は全部知っていて、それでも私が欲しいと言ってくれました。あなたは、彼の話した幸せを笑いとばしたそうですね」
 稔はちょっと居心地悪そうに頭をかいた。
 「彼があの勢いで自分の思う幸せ論をあなたに押し付けようとしたのは、僣越すぎました。でも、彼はああいう人なんです。裏表もなく打算も計算もない。彼には私のようにちゃんと現実が見えてる人間がついてなければならないと思ったんです」
 麻子の語ったことの後半は、特に稔にとって納得のいくことだった。
 「そうですね。彼は誠実そうでした。僕なんかよりずっとね。彼に謝っておいてください。笑ったりして申し訳なかったと。僕アルコールが入ると笑い上戸になるんです」
 心にもないことだったが、婚約を破棄されても稔にとって彼女が専務の娘であることには変わりはないのだった。こんな時にでも、サラリーマンの哀しい条件反射を実践してしまう自分こそを彼は内心で嘲笑っていた。
 「気にしないでください。あれを聞いた時には私も笑ってしまったんです」
 
 どうやら彼女の方が稔より一枚も二枚も上手のようだった。
 麻子はそこに集まっている若い高久のファン達に視線を移して、悲しげに囁いた。
 「高久さんの声を聴いているのが好きでした。彼の書く詞はとても優しくて、彼のライブはとてもいい夢を見せてくれました」
 稔は自分のことを褒められたように、いやそれ以上に嬉しそうに大きく頷いた。
 「そうでしょう。あいつは特別だった。高久は、最高のシンガーだった」
 「私、本当はダイアナの頃、高久さんと一緒にステージに立っていたあなたを知っていました。だから、好きでもなくても、相手があなたなら黙って結婚してもいいかなって思ったんです。でも、社会人になったあなたはあの頃とは随分変わってしまったように私には見えました」
 高久の言葉がふいに稔の頭に蘇った。あの頃のオレが持っていたもの、と彼は言った。稔にはわからない。自分は変わってしまったのか? 大切な友人を自殺に追いやるほどに? 稔は麻子の存在を忘れて激しくかぶりを振ると叫んだ。
 「違う!俺はいつだって俺だ。何も変わってなんかいない。もし、お前がそう思ったならそれはお前が俺のこと、かいかぶってたせいなんだ!」
 稔の目の焦点があっていないことから、それが自分にむけられたものではなく、多分ここで逝ってしまったロックシンガーにむけられていることを悟った麻子はそっと彼の腕をとり、切なげな笑みを浮かべた。
 「あなたにも私にも笑いを誘った衣川の幸せ論も彼にとっては真剣そのものだったように、人間の数だけ違う形の理想や幸せがあるんですね。高久さんのこと、本当に残念ですけど、彼にとって彼の人生は素晴らしいものだったかも知れません。私はそう思うことに決めました」
 それだけ言うと、麻子はそっとその場を離れた。彼女の言葉を理解することはできてもそれで稔が救われることはなかった。
 ただ、彼女が羨ましいと、思った。何も知らなければ、自分も同じように信じることができたかも知れない。一生、高久の遺したアルバムを聴きながら、偉大なロックシンガーと友人だったことを自慢話に生きていけたのかも知れない、と、思うのだった。
 
 
 エピローグ
 
 ビデオはとうに終わって、テレビの画面は砂嵐を映し出していたが、二人は身動きひとつしなかった。
 1995年2月。高久が逝ってしまってから、丁度1年が過ぎた。だが、彼等にとってはまったく何がなんだかわからないような1年だった。レコードが予想以上に売れたおかげで、ファンを煽動してレコード発売のきっかけを作った八重子は、レコード会社の要請で細々としたことを手伝ううち、高久についての本を出すことになった。おかげで、毎日ワープロに向かって執筆に励むうちに過ぎてしまった。
 稔は必死に働いた。彼には他に気を紛らわす術がなかった。唯一の趣味だった音楽は、高久を思い出させるだけで彼を助けてはくれなかった。忘れることなどできないのは解っていた。思い出にさえできないことも。一度、同僚と殴り合いの喧嘩をして泣いてしまってからは、彼の涙腺は壊れてしまったかのように、ふとしたきっかけであっという間に涙を流して始末におえなかった。電車に乗っていても、近くに立った学生のヘッドホンステレオから高久の声が聴こえてきたりすると、もういけない。本人の意思にはおかまいなしに、涙が湯水のように沸き出してしまうのだ。
 随分長い時間が経ってから、八重子が前を向いたまま言った。
 「高久は自殺の原因をたったひとつだけにするために、会社でもライブハウスでも精一杯頑張ったの。知ってた?」
 稔は答えない。答えたくても、声を出せない。何か喋ろうとしたら、それがそのまま嗚咽に変わってしまうだろうことを自覚しているのだった。
 八重子は心中を察してか、構わずに続けて語る。
 「まったく、あいつらしい傲慢さよ。欲しいものはどんな手段を使っても手に入れる」
 喋らなくても、稔は結局泣き出してしまった。彼は開き直って、泣きながら尋く。
 「あいつの欲しかったものって何だったかヤエは知ってたのか?」
 八重子は黙って稔に指をつきつけた。
 「そうか」
 そう言ってうつむいた稔に八重子は言う。
 「稔はまだ、もしかしたら自分なら高久を止めることができたかも知れないと思ってるんだろうけどさ。そんなこといつまでも考えてたってあいつは生き返らないわよ」
 「知ってる」
 「今の稔は、抜け殻みたいね。本当に高久が全部あの世に持ってちゃったみたいだわ。あいつはさぞ本望でしょうよ」
 怒りをあらわに彼は八重子を睨んだ。だが睨まれた本人はまったく動じない。からかうように肩をすくめて見せる。
 「怒る、なんて感情がまだ稔に残ってたなんて喜ばしい限りよ」
 そしてまた、しばらくの沈黙の後、八重子は稔を真っ直ぐみつめて口ずさんだ。
 
   かわっていく季節がある
   止まっていられないから
   うつろいゆく心おさえきれず
   オレはおとなになりそこなった
   けれど男になりそこなわないために
   ラスト・シーズン 時をもどして
   ラスト・シーズン あの季節にもう一度
 
 それは、高久の最初で最後のアルバムのラストに収録されている『ラストシーズン』という彼自身が作詞作曲した歌だった。高久にしてはめずらしく、しっとりしたバラードで、ファンの間ではとても評判がいい。今頃になって、シングルカットを検討されている曲なのだった。
 八重子が出すことになった本のタイトルもこの曲からとって『ラストシーズン』だ。
 「最後の季節……か。なあ、俺は何か高久のためにできることがあると思うか?」
 「よしてよ。誰かの為に、なんて偽善だと言って、そういうの一番嫌ってたじゃない。らしくないことは考えないで」
 「そうして俺は、おとなにも男にもなりそこなうってわけか」
 彼は自分の言葉に納得したように頷く。
 「それも、いいかも知れないな」
 稔は煙草を取り出すと、一息でかなりの量を灰にかえてしまう。それから目を閉じて、脳裏に浮かぶ高久に向かって語りかける。
 「俺は後悔しているよ。バカな意地を張るんじゃなかった。でも、解ってなかったのはお前の方なんだぜ。自分の気持ちなんか犠牲にしてでも、大切なのは高久だけだった。だからこそいつまでも対等でいたかった。どんなことをしてでも、別の世界で勝負するしかないんなら、サラリーマンとしてくらい成功して、それなりの社会的地位を確保しておきたかったんだ」
 テレビは空しく砂嵐を映じ続けていた。
 しかし、稔には見えている。
 幸福そうにギターを弾きながら歌う高久がいる風景。拍手と歓声。鮮やかな色とりどりのステージライティング。華やかな衣装。それ以上に華やかな高久の笑顔。それから、あの日の歩道橋。光の洪水。翼を広げた天使。自分を真っ直ぐみつめていた澄んだ瞳。何もかもを見透かしたような、すべてを赦したような穏やかな瞳。
 それだけが、高久の遺していったもの。
 いつまでも決して、色褪せることのない風景。
 

***
 

 逝ってしまった季節の残滓を、ただ茫然と見送って、心は渇いている。こんな干涸びた心を騙し言葉を綴り続けて、大切な友人についての感傷を語りつくした。たった25年しか生きられなかった彼と約8年、前半をバンド仲間として、後半を悪友として過ごす幸運を得た私であるが、なるべく様々な出来事を脚色せず、美化することもなく客観的にとらえようと、努力したつもりだ。そのために彼を伝説の英雄にしてしまいたい一部のファンの方達には不満な内容になってしまったかも知れない。
 それでも、まだこんな内容は感傷でしかないのだと、読み返せば思う程に、ステージからおりた高久は、普通のどこにでもいる青年だった。
 しかし、彼の歌は特別だった。ステージを一度でも見たことのある人ならばどんな風に特別なのかは説明の必要もないだろう。だからこそ、そういう人達に知ってほしいと思った。彼の普通の部分。高久がどんな奴だったのか、そのひとかけらでも読みとってもらえただろうか? 
 のこされた者の激しい思い込み、自己満足だと読んでくださっても構わない。それをお断りした上で、本文中故意に触れずにいた彼の死についてコメントさせていただきたい。
 高久良章は、パッションを燃やし尽くして逝ったのではない。時に奪われたのだ。だが時は、奪い尽くすことはできなかった。彼はもうどこにもいない。二度と逢うこともできない。あの声を、あの歌を生で聴くことも、もう叶わない。けれど、高久良章が確かに存在したという証を私は沢山持っている。
 最初で最後のアルバムと、彼とともに駆け抜けた日々の記憶と。
 悲嘆に暮れる暇もなく、そのことに気がついて、あの日、彼がこの世を去ったあの日から今まで走り続けてきたのだ。
 最後に、この本を手にし、彼の死を惜しんでくれるすべての人へ、ありがとう。

『ラスト・シーズン 金井八重子著・あとがきより』
 
〈了〉
 

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