紅い落日

 

また、冬がきてしまった。

どんなに厚着をしても避けられない寒さを腹立たしく思えるのは、この季節さえも憎む気持ちのせいだ。 随分と長い月日を無感動に冷えた心でやり過ごしてきたようだ。

そうしようと自分に課してきたわけではなく、そうあらねばならないと意識したこともなく、ただひたすら何も見ず何も感じずたったひとつのこと以外何も考えずにいることによってのみ、正気を保つことができた。いや、こんな状態が正気などと呼べるものではないのかもしれない。ただ、それ以前の生活をそのまま続けてこられたと、それだけのことだったのだ。

 それでも自分は、そんな生活の一切合切を捨て去ることはできなかった。それが、いったい自分にとって、どれほど意味のあることだったのか、もうよくわからないというのに。

 高久良章のこと。

 それがこの3年間ずっと考え続けたこと。

 あいつは俺にとって何だったのか?

 俺達に共通の悪友である金井八重子はこともなげに言ってのけた。

 「最愛の人、でしょ?」

 何を今更わかりきったことを言うのかと、その瞳は語っていたものだ。

 だが、俺は『最愛』なんて言葉では納得できない。そんな甘いもんじゃなかったんだ。本当にそれだけのことだったのなら、何故あいつは死ななければならなかった?

 高久は俺を何だと思っていたんだ?

 俺達どこで間違えたのか? どっかで間違えてたとしても、それは修正不可能なほどに絶望的な関係だったのか?

そして、高久は何故死ななければならなかったのか?

死ぬ以外にどうすることもできなかったというのか?

と、堂々巡りを繰り返す。 

俺に止めることができなかったのを悔やむ気持ちがないとは言えない。だけど、止められたかもしれないなんて、自惚れているわけじゃないんだ。

 あいつが決めたことを、俺が覆すことなんて、一度もできやしなかったのだから。

 

 ずっとこんな調子だったから、俺の心を動かすことができるのは、高久に関係のあることだけだった。最悪の気分にも浸りこんでい続ければいい加減馴れてしまう。

 そんな時だったから、高久のことで話がある、という未知の人間からの誘いにも二つ返事で応じてしまったんだ。

 約束は日曜日の午後、広尾の駅の近くの喫茶店だった。暖房のききすぎた店内で、巨大なチョコレートパフェを消費しながら彼女は俺を待っていた。

 俺のことは知っていると電話で言っていた通り、入っていくとすぐに立ち上がって名刺を差し出しながら言った。

 「山脇菜穂といいます。一応、フリーライターやってます」

 やわらかなブラウンのスーツ姿の彼女は、小柄でポッチャリしていて、シャープなボブヘアーでも隠しきれないふっくらとした頬が印象的だった。まわりの空気までがなんだかホンワカしている感じで、職業から受けるイメージとはかけ離れた雰囲気を持っている。 しかし、人間見た目で判断してはいけない。

 俺はウエイトレスの差し出すメニューに手を振ってコーヒーを頼むと彼女の向い側に腰掛けた。

 

 「あなたが、高久さんの想い人だったということをつきとめるのに、3年もかかってしまいました」

 何の前置きもなしにそうきりつけてきた。

 俺は、ちょっと箱を持ち上げて「失礼」と断ってから煙草の火をつけた。

 「最初は金井さん、あの『ラスト・シーズン』書かれた彼女かと思ったんですけれど、まさか男性だとは思わなかったから」

 俺は無言だった。何が言いたいのかわからない。いったいこの女、何者なんだ?

 「そんなこわい目で睨まないでください。お話ししづらいじゃありませんか」

 ふっと微笑んだ彼女は余裕ありげで、少しも俺のことなど怖がっているようには見えない。なんだか、からかわれているような気がしてきた。このまま席をたってしまおうか?

 まだ長い煙草の火を揉み消す。

 「ああ、待ってください。ちょっと長くなるかもしれないんですけど、ちゃんと順をおってお話しますから」

 帰ろうかという俺の気配を、意外に鋭く感じとった彼女は慌てて引き止める台詞をはいた。

 それから彼女が語ったことをそのままここに記すことはやめておく。まったくものを書くことが商売のくせに、その話はあっちへとんだり繰り返したり、俺がところどころで質問したり促したりしなければちっとも話が進まないのだ。

 で、取捨選択のうえ、話をまとめてみることにする。

 まず、彼女は4年前音楽雑誌を発行している出版社に就職した。その出版社は、大手出版社であるK書房の子会社で、彼女の父はK書房の重役であったそうだ。

 それがまた何故直接K書房に入らずにその子会社に就職を希望したかと言えば、彼女はその音楽雑誌の編集に加わりたかったからだ。まったくミーハーな理由、つまり高久良章の記事を自分が書きたいという、それだけのために。

 俺達の大学の後輩にあたるらしい山脇は、学園祭でダイアナのステージを見てから、高久のファンになって、だけどファンというのではない出会いをなんとしてでも手に入れたいと、心に決めていたんだそうだ。彼女には、ミュージシャンと雑誌記者なんていうのは、なかなか洒落た出会いだろうという思い込みがあったようだ。

そして、それは半ば叶えられた。本来なら入社1年目の新人にそんなチャンスはなかっただろう。

だが、当時彼女の父は、親会社の重役でかなり強い立場にあったらしい。山脇の名を駆使して彼女は巻頭グラビア4頁のインタヴュー記事を任されることになった。

 ところが、雑誌発売前に高久が自殺してしまった。

 その上、親会社のK書房では派閥争いの末、会長派だった山脇の父はその会長の急死によって失脚し、彼女の立場は非常に弱いものになってしまった。

 彼女が記者として在籍していた音楽雑誌はその記事を掲載しなかった。インタヴュー自体は行われたのだが、まだ印刷にまわってはいなかったのだ。

 彼女は、高久に近付くためには手段を選ばないと決めていたのだが、実力以外のものに頼れば、結局は自分の責任外のところでどういう目にあうか思い知らされたのだと言う。

 彼女はそのインタヴューの時のテープを大切にとっていた。それは、高久がその中で、好きな人がいるとはっきり言いきったせいだ。その相手にこのテープを渡したいし、自分が好きだった高久がどんな人に惚れていたのか、是非会ってみたいとも思ったからだと言う。

 「で、会ってみて満足したのか?」

 俺は意地の悪い皮肉な笑みを浮かべていただろう。高久のテープは欲しいけれど、どうにもこのミーハー根性まるだしのお嬢ちゃんが我慢できない存在に思えてきたのだ。

 俺も似たようなものだ。専務の娘と結婚しようとしたのは、コネを利用しようと考えたからだ。そんな俺が彼女の行動をどうこう言える立場じゃない。でも、だからこそ俺は、山脇が疎ましく思えるのだろう。近親憎悪という言葉が頭に浮かぶ。

 「よくわかりません。すごく素敵な人だったらすっかり諦めがつくかと思ったんですけどね」

 「すみませんね、普通のありきたりなサラリーマンで」

 「あら、そんなこと言っているんじゃありません。ただ、あなたの死んだような目が哀しいんです。今の工藤さんはまったくどこにも魅力がないわ。ダイアナの頃は私、高久さんしか見てなかったからあまりよく憶えていないんですけど、でも今とは全然違っていたように思います」

 この率直さ、というかずけずけと言ってのける度胸のよさはヤエといい勝負だな。だけど、言葉の鋭さとは裏腹にこの子に言われてもあまりこたえないのは、雰囲気がソフトでふんわりしているからだろうか?

 我慢できないと思う反面、そんな風に思ってしまう自分に苦笑いして答えた。

 「山脇君、初対面の人間にそれだけものをはっきり言えるのは、なかなか御立派だと思うよ。しかしね、君が諦めがつかなかったとしても、高久はもう死んでしまったんだ。俺に何の魅力も感じられなくても、そんなことはもうどうでもいいことじゃないのかな?」

彼女は俺の顔をじっと見詰めていた。それから少し唇をかんで俯いた。何かを言おうかどうか決めかねているような様子だった。あんなに普通は言いにくいようなことを平気で口にする人間が一体何を躊躇するのだろう?

 だが、しばらく黙って待つと、彼女は決心したように毅然と顔をあげた。

 「私、知っているんです。高久さんは、事故死なんかじゃなかったってことを」

 俺の中で何かが崩れ落ちた。

 頭の中が真空状態になった気がした。

 「高久さんは自殺したんです。原因はあなた、ですね」

―――ゲンイン ハ アナタ デスネ―――

 追い討ちをかけるように続けられたその言葉が、俺の頭のなかでぐるぐるぐるぐる回っていた。愕然として、山脇の依然として緊張感のないほんわかした顔を見詰めていた。

 3年分の月日は俺に何ももたらさなかった。それだけの時が流れたことなどまったく感じられないほどに、俺は高久が逝ってしまったあの時のことを鮮明に憶えている。

 俺の頭のなかには、またあの時のシーンが回転しはじめた。歩道橋のうえ。ゆきかう車のヘッドライトとテールランプが織りあげた地上の天の川。この世のものではないような美しすぎる天使。

 驚愕に硬直して為す術もなく見送った、大間抜けな工藤稔。

 世界中で誰よりも許し難い、大馬鹿野郎の工藤稔。

 先ほど火をつけた何本目かの煙草が指のすぐ近くまで燃えているのにも気がつかず、あやうく火傷するところだった。

 「誤解しないで聞いてください。それを公表しようとか、その件で強請ろうとか、そんなことで会いにきたんじゃないんです」

 何も答えられない俺にむかって、彼女はなおも言いつのる。

 「命懸けの愛だったと思うんです。だけど高久さんの選んだ愛情表現には、とても共感できないから、真実のことが知りたかったんです。ああ、なんかまた言ってること支離滅裂ですね。これでも私あがってるんですよ。工藤さんにお会いしたら話そうと決めていたことの半分も言えやしない」

―――アイジョウヒョウゲン ? ―――

 唐突に俺は、笑いの発作につかまった。もう、たまらなくヒステリックで耳障りな狂笑とでも呼ぶべき笑い。涙を流し腹筋の痛みにこらえながら、それでも止めることができない。

 「あの、私、何かおかしいことを言いましたか?」

 心細そうにおずおずと山脇は俺の様子をうかがった。本気で心配しているような真剣なまなざしと出会って、俺はようやく笑いをおさめることに成功した。

 「君は何か勘違いしているらしいね」

 「勘違いなんかじゃありません!」

 あまりにもきっぱりと言いきられて、俺はまた絶句した。

 山脇は、テーブルにカセットテープを音をたてて置くと、椅子を蹴った。

 あまりの剣幕に殴りかかかってくるのかと身構えたほどだった。 

「これ聴いたら工藤さんにもわかると思います」

 そう言い捨てて彼女は店を出て行った。

 

 その夜、俺はカセットテープと不毛なにらめっこをしていた。山脇菜穂と名乗った、おせっかいなフリーライターがもたらした高久のインタヴューの時のカセットテープだ。

聴きたい。でも、聴くのは怖い。何かとんでもないことを耳にしてしまったらどうする?

だが、高久を失う以上に辛いことなどありはしないのだ。今更何を知ることになったって、かまわないじゃないか。

 それでも、ずっと目をそむけ続けてきた決定的な事実と対面させられることになるのだとしたら?

 そろそろケリをつけなきゃいけない。忘れることなどできないのはわかりきったことだ。だけど、このまま俺がこんな状態で立ち止まっていれば今日みたいなああいう手合いにつけこまれるだけだ。あの女は、公表するつもりはないと言っていたが、他にも嗅ぎ付ける奴がでてくるかもしれない。もしも、自殺の確証を山脇が握っているのだとしたら、俺はそれを抹消しなければならない。

 キッチンからグラスとシーバスリーガルのボトルを運んできた。琥珀色の液体をグラスになみなみと注ぎ入れる。ストレートで半分ほど飲んでから、カセットデッキにテープをセットする。それから煙草をひとくち吸って、スイッチを入れた。

 『1994年2月10日Kサウンド出版応接室にデビューを目前に控えた高久良章さんをお迎えしています』

 これは昼間聴いた山脇菜穂の声だった。人間2年くらいじゃ声なんてそうトシをとるものでもないらしいな。この期に及んでまだ、故意に別のことを考えようとしている滑稽な自分に半ばあきれる。 

『お忙しいところをすみません。お時間があまりないそうですので、早速Q&A形式で進めさせていただきます』

 高久は返事をせず、ただ頷くだけだろう。なんとなく目に浮かぶ。奴はこういう時少し照れているのだ。居心地悪そうに何度も椅子をずらしたりしただろう。

 前半の質問はごくありきたりでくだらないものだ。まあ、生年月日や血液型、出身地だとかは全部山脇は暗唱できるほどだったらしく確認、という形で尋ねられていたのだが。好きな食べ物は? と問われて「食料はどれも差別せずになんでも好きです」と答えているのには思わず笑ってしまった。あいつは、甘いものはかなり迫害していたし、他にも人参だのセロリだの偏食は激しい方だった。よくもぬけぬけとこんな返事ができたものだ。だが、どうでもいいような質問攻撃にいい加減疲れてなげやりになっているのも奴らしい。

 『好みのタイプは?』

 「綺麗でちょっと冷たくて、だけどオレだけをいつも見ててくれる人」

 これで、ヤエのことかと思う気持ちはわかる。後半の部分は、あまりにも高久らしい言い種だ。

 『バラードはとても甘くて切ない曲が多いように思うのですが、誰か想う人がいてかかれているわけですか?』

 「そうです、あ、こういう時は本当のこと言っちゃいけないんでしたっけ? でも別に、アイドルバリアーの必要はないよね。オレ、アイドルじゃないし。でも、これ書かないでくれる?」

 『もう少しその話詳しくしてくれたら書かないって約束します』 

あ、こいつすっかり仕事を忘れてる。ったく、高久もなんでこう軽いんだ?

 「え、じゃあ言っちゃおうかなぁ。そうだね、もうあんまり時間がないし。少しくらいヒントをのこしていってあげてもいいな。オレにはもう随分長い間たった一人の人間しか目に入ってないんだ。だからラブソングはどれもみんなその人のこと想って歌ってるよ」 

『ええーっ。そこまで言うんですか? ごちそうさまぁ。その方、そんなに高久さんに愛されててすっごく幸せですね。羨ましいなぁ』 その台詞に高久の渇いた笑い声がかぶさる。

 「そうかなぁ。迷惑してるかもよ。一方的にオレが好きなだけだから」

 山脇の息をのむ音がかすかに入る。

 『え?高久さんが片想いなんて信じられない。冗談でしょう?』

 「残念ながらマジよ。去年ね、告白したけど完膚無きまでに拒絶されて玉砕しちまったの。でもさ、オレってあきらめが悪くてね、それでもやっぱり相変わらずその人のことを想いながら歌ったりしちゃうんだ」

 奴の25歳の誕生日のことを思い出す。あの時の話をこんな風にしているのか?

『では、最後の質問にします。好きな人のために死ねますか?』 

「その人のために死ぬことはできないです。だけど、その想いのために、その人に忘れさられていくみじめな自分を見ないためになら死ぬのもいいかもしれませんね」

 テープはそこで終わっていた。

 これで山脇の自信ありげに断言してくれた理由はわかった。当時俺の結婚が決まっていたことは、調べればすぐにわかることだろう。それでも、ヤエではなく俺だってどうしてわかったのか?

このテープを聴いた限りでは、相手が俺だなんてわかりそうもない。

 テープは恐れていたほどの内容ではなかった。高久は半分も本心を語ってはいなかったように思える。あいつが本気で俺に忘れさられることを心配していたとは思えない。いくら俺が結婚したり、そのままサラリーマンとしての道で大成したとしても、高久を忘れてしまうわけがないことはわかっていたはずだ。

 それとも、本気でそんな心配をしていたというのか?

 

 「山脇って子なら高久が死んだすぐあとに私にも会いにきたわよ」 

翌日の月曜日の夜のことだ。

 混乱しきった頭ではなにも解決できそうもなく、俺は金井八重子に助けをもとめることにした。ヤエの会社の近くのショットバーに並んで腰掛けて、山脇菜穂なる人物について、そして彼女のもたらしたテープについて話すとヤエは言ったのだ。

 「稔には教えてやらないつもりでいたんだけどね、もう時効だと思うから白状するけど、私は高久が可愛くて仕方なかったわ。恋愛感情とはほど遠いものだと思うんだけど、それでももし高久が私に告白したんだとしたら、私はそんなにきっぱり拒絶することはできなかったと思うのよ」

 「それを、山脇って子にも言ったのか?」

 「そう。『ラスト・シーズン』を読んでわからないの? って言ってやったわ。相手が私だったらあんなもの書けるはずがないって。彼女もプロのライターですからね、それで納得してたみたいよ」

 「まぁ、そういう訳で高久の好きな人がヤエではないとわかったとしても、それからどうしてそれが俺だとわかったのだろう?」

 ヤエは迫力の美貌で微笑んだ。

 「まったく、稔は相変わらずだわ。鋭いようで肝心なとこでどっかぬけてんのよ」

 「どういうことだ?」

 「学生時代、高久の視線はずっと稔ばかりを追いかけていたわ。ちょっと目端のきくものなら誰でもそれと知れるほどに露骨だったわ。だけどみんなそこは仁義をわきまえてたから誰も口には出さなかっただけよ。卒業後は高久も随分と大人になってそれなりに演技できるようになってたから、自然にまわりの連中にも気取られることはなくなったようね。だいたいあなたが学生時代ほど高久のそばにいる機会がなくなったからね。そのうちあの頃の仲間たちも忘れてしまったり、記憶している人がいたとしても、あれは当時だけのものだと思うようになったんじゃないかしら。それでも高久は在学中もその後も特定の彼女がいたことがなかったから、過去をたどっていけば中には、当時のことを思い出して喋る人間がでてきたってちっとも不思議じゃないわ」

 俺は眩暈を感じて額に手をあてた。

 「まったく誰も気がついてないとでも思っていたの?」

 「そりゃあ、ヤエは鋭いから多分知っているだろうとは思ったけどさ。他にもそんなに周囲にバレてるなんて思ってなかったよ」

 俺はそんなに鈍いんだろうか? なぁ、高久、俺がもっと早く気がついていたら事態は別の展開を見せていたと思うか?

 「それで、高久が自殺だったなんていうのを自信ありげに断言してたっていうけど、まさか肯定したりはしなかったでしょうね?」

 「ああ、勿論そんなことはしてないよ」

 「なら、放っておいて大丈夫よ。その子は多分稔にかまかけただけよ。あの状況から高久が自殺だったなんて確証があがるはずがないわ。ただ、高久がインタヴューの時に思わせ振りなことを言ったものだからそこから勝手に想像しただけだわ」

 そうだ。遺書さえのこさずに逝ったあいつ。自殺の事実を知るのはこの世でただ二人。俺と今目の前にいる金井八重子だけだ。

 「ある意味じゃ、その山脇菜穂って子は、稔の御同類なんじゃない?」

 俺が安心しかけたところへ、ヤエはまたとんでもないことを言い出す。

 「その子もこの3年間、高久のことばかり考えて過ごしてきたんじゃないかしら。私としては、あいつのことをそうやっていつまでも好きできてくれる人がいるっていうのはとても嬉しいわ。自分と稔以外にも高久を忘れずにいてくれる人が沢山いてくれたらいいと思うもの」

 「それで、俺はそういう奴等の恨みの対象にでもなるわけか?」

 「山脇さんはあんたを恨む気持ちなんてないわよ。ただ、失望はしたかもしれないけどね」

 俺は思わず深い溜め息をはいた。

 「目が死んでるなんて言われちまったよ」

 ヤエは大爆笑している。

 「なかなか鋭いことを言うお嬢さんじゃない。だけど、もしまた会う機会があったら、言ってやりなさい。高久の気持ちは今もって自分にさえ理解できない。俺が高久ではないように君も高久ではないのだから、共感できなかろうが彼の死の真実なんて考えていても完全正答なんてない。それより早く気持ちにケリをつけて新しい恋をした方がいいって」

 俺はしばし言葉を無くしてヤエの言ったことを頭の中で反芻してみた。そして氷の溶けかけたバーボンを一息に飲み干す。

 「なぁ、それはもしかして俺に対する皮肉だったりするわけか?」

 ヤエは目尻をつりさげて髪をかきあげた。

 「まぁ、そう聞こえたの? それは少しは進歩したってことかしら」

 と、グラスをあげて、ひとり勝手に乾杯のポーズをとってみせる。

「そう。忘れずにいるってことと、世の中の何もかもから目をつぶって耳をふさいでしまうってこととは全然違うことだって、本当はもうわかっているんでしょう?」

 「おまえ、高久が逝っちまってからこっち、俺に説教ばっかしてるぞ」

 「稔がいつまでもうじうじ悩んでるからよ」

 結局俺達はこの3年間こんな同じような会話を繰り返してきたんだ。もう、高久のこと以外、俺には話すことがなくなってしまっているから。それでも嫌な顔ひとつせず、つき合ってくれるヤエには本当に感謝してるよ。

 「完全正答は、なくたっていいんだよ。そんなものが欲しいわけじゃないんだ。ただ、俺が俺を許せるような、俺にとって都合のいい答えを探しているだけなんだ」

 ヤエはもう何も言わなかった。俺も、言わなくていいことまで口走ってしまったと気がついたが、ヤエの無言の理解に甘えてしまうことにした。

 

 それから1週間は何ごともなく過ぎた。

 そしてまた月曜日。夕方俺の会社に山脇から電話が入った。

 「工藤さんの会社って、そこ自社ビルですか?」

 「え? そうだけどそれが何?」

 「それで何階建てですか?」

 なんだかまたすごい勢いにおされている。

 「えっと、37階まであるけど」

 「それはいいわ。すぐ屋上にあがってください」

 「なんなのそれ?」

 呆れて問い返す俺に彼女は大真面目に言う。

 「もう、涙が出そうなくらい綺麗なんです。とにかく早く屋上に行ってください、あんまり時間ないはずですから!」

 これだけで、電話は一方的に切れてしまった。まったくわけのわからない子だ。

 だが、なんとなく無視することもできず、仕方なく俺は屋上にあがってみることにした。

 そこで俺が見たものは、信じられないくらい鮮やかに紅い落日だった。

 涙が出そうなくらい綺麗なのだと言ったのは、このことだったのか。確かにそれは、東京で見る景色の中では俺の知る限り2番目に美しいと思えるものだった。夕暮れ時の陽の光がこれほどまでに紅く見えることがあるなんて今まで気がつかなかった。

 この3年というもの、俺には本当に何も見えてなかったから、こんな風に空を眺めること自体、ものすごく久し振りな気がする。

 俺はそこに時間を忘れて立ち尽くした。事務所からコートも着ないで、ちょっと席を外すだけのつもりできていたから、ふと我にかえってみると身体が冷えきっていた。

 もう空はすっかり暗くなってしまっていた。

 そして、ふと手を目元にあてると、濡れた感触が伝わってきて驚いた。俺はどうやら本当に泣いていたらしい。もう、涙などとっくに涸れ果ててしまったと思っていたのに。

 俺は自席に戻ると、この前会った時に渡された名刺を取り出すと受話器を持ち上げた。

 

 もう関わりあいにならない方がいい。そう思う反面、どうしてももう一度会って話してみたいと思った。だいたい、今日の電話のわけを知りたい。どうしてあの、夕日を俺に見せたいと思ったのか知りたかった。

 

 彼女の指定してきたのは、西麻布にある落ちついた雰囲気のパブレストランだった。

 テーブルや椅子は、アンティークでチョコレート色に統一されている。BGMは静かなクラッシックだ。いかにもレコードらしいアナログサウンドがやけに切なさを誘う。

 今日の彼女は、薄いピンクのジャケットに同系色のフレーヤースカートといった出で立ちだ。童顔にはこの方が似合う。ほんわかした雰囲気がぐっと引き立つ。

 「自分でもよくわからないんですよ。ただ、あの夕陽を見た時に何故か工藤さんを思い出して、そうしたらどうしても見て欲しくなっちゃって……でも、本当に綺麗だったでしょう?」

 「ああ」

 他に答えようがなかった。それにしても、はっきりした理由がないってのは、困った。今日、彼女を呼び出したのは、ただその話があったからだけだったというのに、間がもたないじゃないか。

 ところが、彼女は極上の微笑みをうかべて言うのだった。

 「嬉しいな、工藤さんの方から連絡をいただけるとは思ってませんでした」

 そして、照明をおとした店の中、俺の顔をじっとのぞきこむようにしてから、

 「工藤さんの目、今日はちゃんと生きてるように見えるなあ」

 俺はすっかり居心地を悪くして、煙草に火をつけた。いつまでも彼女のペースにひきずられてばかりいるようだ。

 「君は、随分はっきりと高久が自殺したと言い切ってくれたけれど、何か証拠でもあるのかな?」

 ヤエがはったりに違いないと言ってくれたおかげで、尋ねる気になったことだった。

 「状況証拠は完璧なんですけどね、物的証拠となると正直言ってあのテープしかありません。でも、あれだけあれば充分だと、私は判断しました」

 俺は内心で胸をなでおろした。どう考えてもあのテープだけで自殺の証明になると考える人間はこの子の他にはいないとだろう。

 「嫌だなあ、そんなことはどうでもいいんですよ。言ったじゃないですか、私は別に高久さんの自殺を暴きたてたくてあのテープを持ち出したんじゃないし、工藤さんとお会いしたんでもないんですから」

 俺の内心を見透かすようなことを、彼女はまた言いはじめた。

 「ついでに言いますけど、私が状況証拠と思っているのは、別に当時工藤さんが結婚を決めていらっしゃったことじゃないんですよ。高久さんが恐れていたのは、お互いが変わっていくことだったんだと思います。結婚は、きっかけにはなったかもしれませんけれど、もっと先のことも色々考えていたんだと思うんですよね」

 山脇は何か、今までずっと俺が欲しがっていた解答を口にしようとしているように思えた。

 「高久さんが欲しかったのは、永遠だったんだと思います。工藤さんの深い理解を得た自分と、その工藤さんを誰よりもよくわかっている自分。そんな二人の関係を永遠に壊さずにいたかった。だけど、人は年をとる。時は誰のうえにも流れていってしまう。生きている限り、止めることはできないんです」

 永遠が欲しかった? そう言われてみれば何か、ひどく昔を懐かしむようなことを言っていた気がする。

 「3年がかりで、高久さんが書いた歌詞を、アルバム未収録のものまですべて集めて分析して、導き出した答えです。彼が欲しいものを手に入れるためには、自らの時を止めるしか他に方法がなかったんだと思うんです」

 俺は、高久の書いた歌詞なら全部そらで歌えるほどだっていうのに、そんなことちっともわからなかった。

 「先日お会いした時、高久さんの好きだった人があなただとつきとめるのに3年かかったと言いましたけれど、あれはちょっと正確じゃありません。本当は、1年くらいで多分工藤さんだろうという見当はついていたんです。だけど、その当時はまだ歌詞が半分くらいしか手に入っていませんでしたし、確信がもてなかったんです」

 俺よりも彼女の方が片想いだった分だけ燃やした執念が違うということだろうか? ヤエは同類なんて言ったけど、とんでもない。この子の方がずっと前向きだし、強い、よな。

 相変わらず話は、またバラけてとっちらかってるいるようだけど、今回は聴いたまま記しておく。

 「それで、高久さんはありもしない永遠をもとめてあの日、歩道橋から飛び降りたんです。そこまでは、まず間違いないと思うんですよね。だけど、私が共感できないのは、まさにそこのところなんです」

 「君が言う通り高久が自殺だったとしたら、何故それほどまでに好きだった人間の目の前で、死ななければならなかったのか?」

 山脇は目をみひらいて俺に大きく頷いた。

 「そう。彼は自分の欲しかった永遠を手にするために、自ら命を絶つことにした。けれど、そのことによって工藤さんが精神的に窮地に追い込まれるのは容易に想像がついたはずなんです。ラブソングを捧げ続けた相手に、そんな負債を背負わすことが彼の本意だったとは思えない」

 俺はそこで、初めて心からの笑顔を彼女にむけることができた。 そして、なるべく優しく響くように静かに言った。

 「事故だったんだよ。君がそこまで高久を想ってくれることは、本当に嬉しいけれど、あれは事故だったんだ。それとも、君の推理が正しいとするなら、高久は俺のことなんて本当は好きじゃなかったってことにならないかい? あいつはもういないのに、そんな残酷な現実を俺につきつけたいのか?」

 彼女は傍目にも可哀相なくらいうろたえて、口をパクつかせたが言葉が出てこない様子だ。

 「いいんだ。君に悪意がないことはよくわかったから。あいつが本当は何を想い、何を考えていたのか、今となっては誰にもわからないことだ。だけど、君の話を聴いていて、はっきりとわかったことがある。俺の気持ちは変わらないってことだ。高久がどう思っていたとしても、俺は本当にあいつが大好きだよ。もうそれだけで充分だ。他にはいらない。今ごろになってはっきり言える。俺は高久良章を愛してる」

 あいつが逝ってしまった直後から今まで、いろいろと理屈をつけてはごまかそうとしてきた。いつまでも対等でいたかったというのも嘘ではない。けれど、本当はそんなことにこだわることさえ虚しいくらい、愛していた。

 それをすっかり認めてしまうのが怖かった。無念の想いが残っているのが辛かった。でももう、みんな認めてしまおう。伝えることのできなかった想い。それさえも、あいつはきっと知っていたんだ。知っていたからこそ、最期の瞬間まで俺のそばにいたいと思ってくれたんだろう? そして、知っていたからこそ、それがどう変わっていくかわからない、時の流れを恐れた。

 泣き笑いの表情で山脇は赤面していた。

 まるで自分が愛を告白されたかのように。

 この子の持ってる雰囲気は実に不思議だ。何故だか心が暖まり、素直になれる。

 「ありがとう。もう俺は自分を許せるよ。完全正答なんてないってヤエが言ってた。だけど、それももういいんだ。真実なんて俺には必要ないから」

 それからしばらく、俺達は無言のまま酒をあおった。あまりよく知らない人間と一緒にいて会話がないというのは普通、とても気詰まりなのだが、お互いにそれをまったく感じていなかったと思う。 随分経ってから、俺は言った。

 「今度の土曜日、高久の墓参りにつきあってくれないかな?」

 彼女は、頬をますます上気させて嬉しそうに頷いた。

 「勿論、よろこんで」

 

 冬晴れの土曜日、俺はヤエにセリカを借りて西荻の山脇家まで迎えに行った。

 この車は『ラスト・シーズン』という本が売れたために手に入れたもので、以前から高久の遺産みたいなもんだから使いたい時にはいつでも貸してくれるとヤエが言っていたものだ。

 さすが父上が現役ではないとはいえ大手出版社の重役であっただけあって、このあたりは高級住宅街だ。なんとなく緊張する。

 彼女は黒いワンピースに黒の皮のコートで出てきた。俺の方は黒い綿シャツの上から黒いセーターを着込み、黒の皮ジャン、ブラックジーンズ。まさかペアルックには見えないだろうが、お互いの服装を見てちょっと目を見合わせて笑ってしまった。

 高久の眠る墓は、横浜のはずれにある。セリカは土曜日の昼過ぎという時間帯のせいで、なかなか快調にとばすことができた。

 霊園近くの花屋で白い百合と菊の花束を買う。薔薇なんかに比べると驚くほど安いため、つい高い金額を提示しすぎて巨大な花束になる。俺はもう何度も同じ失敗をしたかわからない。でも、そのうちに供えるのに苦労するほどの大きな花束でないと、物足りなく思えてきそうだ。

 小柄な山脇が持つと一層大きく見える花束を見詰めて、俺はとっても満足してニコニコしていた。

 しかし、それを見た彼女はちょっと口をとがらせた。

 「笑ってないで持ってくれてもいいんじゃありません? これすっごく重いんですよ!」

 「いやぁ、綺麗な花束がよく似合うと思ってみとれていたんだ。せっかく似合うんだから君がお墓まで持っていくといい。高久もその方がきっと喜ぶ」

 深く考えもせずに言ったのに、彼女はそれを聴いてしばし考えこんでしまった。

 「本当に? もしかして高久さん、私になんて来てほしくないかもしれない。私なんかお邪魔かもしれない」

 久々の運転を楽しんでいたせいで、ここまでの道程、彼女が無口だったことをあまり気にもとめずに来てしまったけれど、もしかしたらそのことをずっと気に病んでいたのかもしれない。そう思い至ると、自分の迂闊さに舌打ちしたい気分だ。俺ってこんなに無神経だったのか。

 「大丈夫、あいつは淋しがりだったから、一人でも多くの人間が墓参りしてくれた方が嬉しいよ。それに、高久は妬いたりしないよ」 

「え?」

 きょとんとした彼女にわざとゆっくり言ってやる。

 「俺と君のこと、誤解したりしないってこと。だって俺、面食いだって知ってるもん」

 一瞬の沈黙、そして彼女は花束を俺に押し付けるといきなり両手で俺の顔面にビンタをくらわせてくれた。

 踵を返し、ガシガシと玉砂利を踏みしめて墓の方へ歩き出す。

 「痛ってーなぁ。高久も口が達者なくせにそれにも増して手が先に出る奴だったけど、山脇君も随分過激な反応を見せる」

 彼女は振り向きもせず歩調を速める。

 「ったく、ガキ。怒ったのか? おい待てよ。いいだろう、君だって高久が好きでここまで来たんだから」

 山脇が突然立ち止まったので、俺はあやうく彼女にぶつかりそうになった。と、そこはもう高久の墓の前だった。俺、今日はどうかしてる。なんか調子狂いっぱなしだよ。せっかく、高久にちゃんと本当の気持ち告白しにきたっていうのに。

 ふと目をむけると、高久の墓にむかった山脇の瞳に、涙がみるみる盛り上がるところだった。まばたきもせず、墓を凝視している。 ああ、俺達こんなところで喧嘩なんかしてる場合じゃないぜ。この子だって、どれだけ高久が好きだったかしれないんだ。

 花束を墓前に供えて、水の入った柄杓を墓石のうえでかたむける。それから線香に火をつけ、手を合わせる。

 「山脇君、そのままそこで君も聴いていてくれ」

 じっとそのままの姿勢で、そう前置きして俺は語りはじめる。

 「高久。おまえに言うべきことを言ってなかった。随分遅くなってしまったけれど、この芸能記者さんという証人の前で正直に告白するよ。俺はおまえが好きだ。愛してる。おまえはもう何も答えてはくれないけれど、俺の想いは過去形じゃない。今でも変わらず俺はおまえを愛してる。おまえはその気持ちが変わってゆくことを恐れていたようだけど、俺はただそれを認めてしまうことが怖かったんだ。言葉にしてしまったら最後、もうひとりきりでは戦えなくなる。おまえだけがすべて、なんて俺はきっとおまえに飽きられる。なあ高久、それさえおまえには、わかっていたんだろう?」

 結局俺達は、お互いを失うことだけを恐れていた。なんて臆病で意気地の無い俺達。

 俺はいつのまにか高久の墓の前で膝をつき、そのまま固まっていたらしい。

 それでも山脇は声をかけることをはばかって、随分長いこと側で見守っていてくれた。

 まったくこの子は不思議な子だ。まわりの空気さえ和ませるようなふわふわした雰囲気なのに、高久に対する気持ちは力強く真っ直ぐで、鋭い洞察力を発揮する。

 そして、ごまかし続けて苦しかった俺の心。あの日以来、無意識のうちに凍結してしまったこの心のまわりの厚い氷を溶かしたのは、山脇菜穂その人に間違いない。

 気がつくともう、夕暮れに近い時間になってしまっていた。

 そっと視線を山脇にうつし、その様子をうかがいながら尋いてみる。

 「まだ、怒ってる?」

 「怒ってますよ。けど、高久さんが許してやってくれって言ってるからもういいです」

 本当かよ。ま、いいならいいけどさ。

 「湘南の海岸まで、せっかくだからドライブしていかない?」

 彼女は空を見上げて、ちょっと考えてから頷いた。

 

 真冬の湘南海岸の夕暮れ時には、人影はまばらだ。そして、俺の期待を裏切らずに、その日の落日は美しかった。

 「この前、君が見せてくれた夕陽よりは、ちょっと落ちるかもしれないけどさ、今日もなかなかいい眺めだね」

 山脇はこくりと首を縦にふるのみだ。

n-bottom:0;"> 「あれ、屋上から見た時にね、すごく久々に風景なんてものに目をむけた気がしたんだ。高久のこと以外には、もうなにものも俺の心を動かすことなんてできっこないって、決めてかかってたからさ。あの落日の目に染みるような紅い色をね、こんな紅さがあるんだなあなんて、思う自分がちょっと驚きだったわけ。感動したって言うのかな」

 山脇は頬を夕陽に染めて俺を見た。

 「あのテープには丁度B面にひっくり返すところだったんで、入りそこねてしまったのですが、高久さんは言ってました。『例えばあれがすごく綺麗なのを口でどう言っても、伝えられることには限界があるでしょ。だからライブで、生の声で、俺にどれだけのものを伝えられるかってことに、とても興味がある』その時、応接室の窓から丁度、すごく綺麗な夕陽が見えていたんです。それで先日、あの夕焼けを、工藤さんにも見せたいと思ったのかもしれません。今、もう一度見るまで忘れていたんですけど」

 「そうか、高久そんな風に言ってたのか」

 俺も思い出していた。学生時代、よくそういう類いの話で盛り上がっていた。ライブに限界があるのか?

俺達の歌や演奏を聴きにきてくれるみんなに、どれだけのことを伝えることができるだろう?

そういったことを、下手すりゃ一晩費やして語り明かしたこともある。貧乏でも、夢と理想で満たされていたから、心は今よりもずっとずっと豊かだったあの頃。

 俺のそんな物思いを破って山脇はあらたまった口調になった。

 「工藤さん、私、謝らなきゃならないことがあります。最初に会った日に、いきなり今のあなたにはまったくどこにも魅力がないだなんて言ってしまった。ごめんなさい。よくわかりました。高久さんがあなたを好きだったことも。それで、あなたが拒絶した理由も」

うう、何もそこまでわかってくれなくてもいいんだけどね。でもまあ、あの告白を聴かれているんだから無理もないか。

 「謝ってもらうほどのことじゃないよ」

 俺は笑顔で彼女にむきなおった。

 「高久への想いはいつまでも現在進行形のまま残ってゆくと思うけれど、それは別に、他には誰のことも愛さないと言ったわけではないし……」

 彼女の目が俺の目を真っ直ぐ見据えた。なんだか非難するようなまなざし。それで俺は次の台詞を舌のうえで凍らせてしまった。

 もしかしたら、面食いも返上しなきゃならない事態になりそうな予感がするんだ。そう続けようと思ったんだけど、これは場合によっては、とても失礼な告白かもしれない。何故なら彼女のことを好きになるかもしれないと言いたいわけだけど、それが面食い返上になるとしたら彼女っていったい……?

 うわっ、気がついて良かった。言ってたらまた両頬に平手打ちがとんでくるところだったかもしれない。

 しかし、俺はその安堵の気持ちを面にあらわしてしまっていたらしい。

 「何か、今言おうとして途中でやめてません?」

 彼女は本当にみかけによらず鋭い。

 「あー、えーと、だからあの俺はずっと、高久に言わなければならないことを言えないまま3年間、辛かったんだ。それをちゃんと言えたのは君のおかげだから、感謝してるよ」

 苦しい台詞だった。でも、彼女はそれ以上追及する気はないようだった。

 もう、太陽は沈みきってしまっていた。

 「じゃあ、感謝の気持ちはちゃんと形であらわしてくださいませんか?」

 「え?」

 「私、御腹すいちゃいました。高久さんのことは、今日でやっときっちり消化できました。それでね、消化しちゃったらもう空腹なんです」

 そうだね。この子ならきっとなんでもとても美味しそうに食べるんだろうな。初対面のあの日、チョコレートパフェを豪快に制覇してくれたようにね。

 海辺の洒落たレストランは、季節外れのために休業中だった。仕方なく横浜まで戻って、俺達が夕食にありついたのは8時をかなりまわった頃だった。

 中華街のちょっと雑然としたお店。外観が少々汚いくらいの店の方が何故か美味しいことが多い。彼女は、予想通り旺盛な食欲を発揮している。俺はなんだか見ているだけで御腹がいっぱいになりそうな気がする。

 あんまり幸せそうに食べているので、少し意地の悪いことを言いたくなってしまった。

 「ねぇ、もう少し痩せたら?」

 「何故です?」

 彼女は食事の手を休めずに問い返す。

 「うん、そのままじゃちょっとベッドに抱き上げるのに重そうだから」

 山脇選手憮然として箸を置きました。おーっとまずい。工藤は身構えて、両頬を両手でガードだ。ロープを横目で探すがみつからない。大ピーンチ。山脇、湯のみに手を伸ばす。凶器か? 凶器を持ち出すつもりなのか? 否、山脇それをゆっくり口に持っていった。

 ほっと安堵の吐息を洩らす工藤。その時、工藤の弁慶の泣き所に強烈な一撃が炸裂した。痛ってぇ〜。

 彼女は手ばかりじゃなく足が出るのも速いのだった。

 お茶で口の中をきれいにしてから、ゆっくりとした口調で宣告した。

 「すけべ」

 「男はみんなすけべなのっ!」

 「高久さんはそんなことなかったわ」

 きっぱり断言した彼女に、だけどあいつは俺を押し倒したことがあるぞ、って言ってやりたい誘惑にかられたが、次の攻撃が怖いのでやめた。

 「生憎、俺は高久じゃないんでね」

 「当然です。今、目の前で食事してるのが高久さんだったら、私胸がいっぱいで、こんなに料理にパクついたりできませんでした。ああ、工藤さんで良かった。何の気兼ねなく、美味しく食べられます」

 くっそー。スポンサーに向かってなんたる言い種。そのくせ俺の他愛のない冗談にはいちいち怒って暴力に訴えるし。

 俺の憤慨などなんのその、山脇はまた新しい料理に挑みはじめている。それにしても、本当になんて幸せそうに食事をする子だろう。 高久に死なれてから、この3年間俺は食事を美味しいと思ったこともなかった。何を食べても味なんてよくわからなかった。それで、もともと太ってなかったのに、体重は減る一方で、頬もこそげおちて、実際の年齢より随分と老けて見えるようになってしまった。

 だけど、この子のペースに付き合って食べてたら、もとに戻れるかもしれない。

 そんな俺の考えを、またしても感じとったものか、知らずに口に出したものか、山脇は言った。

 「また電話してもいいですか?」

 さっきの憎まれ口を少し後悔してるのか?

 「かまわないよ」

 「じゃあ、またあの紅い落日が見たくなったら、お電話します」

 彼女は嬉しそうだ。なのに俺は、またそこで何故だか黙って頷けない。

 「うん、また中華料理食べたくなったらね」

 今度はさすがに苦笑しただけでビンタも蹴りもなかった。

 そうだね。俺の方から電話してもいい。そうだよな高久。おまえが俺をおいてゆくから、俺がこの子に魅かれていっても、おまえにはもう文句も言えない。ふん。ざまあみろ。

 

 あの紅い落日は、おまえのところからも見えるかい? おまえが遺した、おまえのいる風景が、いつまでも色褪せず、鮮やかに輝いているから、俺は実際に目に見えるはずの現実の風景が、ちっとも目に入らずにきたけれど、俺はまだ、あの紅い落日を見て泣けるくらいには、ちゃんとこの世に心をつなぎとめておけたらしいよ。

 おまえはそれを、よろこんでくれるよな?

 高久、もう俺はおまえのことだけ考えて、後ろ向きに生きるのはやめるよ。

 もうわかったから。そんなことしなくても変わらない気持ちに、気がついたから。

 何に感謝したらいい? 出会えたこと。おまえがいてくれたこと。その存在自体に。俺は何度だって言える。

 高久、今でも大好きだよ。

 

〈了〉

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