しなやかな衝動
天羽
何ができるだろうか。
ずっと、ずっと考えていた。
限られた時間の中で、今できることはすべてしたい。
こんなにも近くに、征士がいるのだ。
その奇跡に、感謝してる。少しでも長く続くことを、祈りたくなるぐらいに。
愚かだと謗られてもかまわない。征士の評価以外に価値はない。つまらない批判などどうでもよくなるぐらいに──この空間は居心地がいい。
ただ、慣れないだけだ。泡沫の幸福に、せめて浸りたいのに。下賎な心がそれを許さない。
それでも当麻は識っている。自分が、紛れも無い『幸福』を手にしていることを。だからどんなに心が不安を訴えても、知らないふりをして笑うだけだ。
すぐそばにいる征士に、悟られたくはない。共に暮らす平穏な日常、今はそれこそが何より愛すべき時間。
だから、ごまかされていよう。どんなに焦燥感に襲われても、ふとした瞬間に胸が痛んでも、それは些細なことだから。
そうして今日もできることをしよう。できなかったことを後悔することがないように。
†††
緋紅色の葉の美しい植物が、部屋を浸食してゆく。
十二月に入った頃から、一日に一鉢ずつ増えているその植物。
「……お前、そんなに好きだったのか?」
「うーん、なんとなく」
鉢の数が五を超える頃に、征士は問いかけた。狭くはないリビングだが、鮮やかな植物は人目をひく。
その問いに、当麻ははっきりしない表情で曖昧な答えを返した。征士には、なんとなく、なんて理由で当麻が毎日一鉢ずつ買ってくるようなマメなことをするようには思えなかった。
けれどそもそも、この頭脳の弾き出す理由など、判ったためしもないのだが……。
「まぁ、別にかまわんが……」
「クリスマスだしさ〜」
「そうだな」
のらりくらりとした声から察するに、今は何も語る気がないのだろう。かつてないほど近くにいるのに、なんだか前よりも当麻のことが判らないような気がしていた。
部屋はなんだか明るい。植物のはっきりした緋色と緑が、どこを向いていても視野に入ってくる。これぐらい判りやすければいいのに、当麻も──そんな埒もないことを考えてしまっていた。
当麻は何かに慣れないでいる。
慣れないといえば、思い返せば柳生邸で皆と暮らし始めた時もそうだった。今は、共同生活の仕方はわかっている。彼の気配はとても穏やかだし、この暮らしが決して嫌なわけじゃないと思う。ただ時折、切なそうに笑うのだ。それに征士は、近づけない何かを感じる。出会った当初のように心に壁を立てているわけでもないのに。
一見したところ、何も問題ないように見える。同居はうまくいっている。それは間違いではないのだけれど。
自分でも何を恐れているのか、はっきりしない。
ただ一つずつ増えていく緋色の植物が確かに部屋を明るくするのに、心の中はどこか曇ったままなのだ。
当麻が何を思って買ってくるのか、その気持ちを知りたかった。裏にある何かを察してやれない自分が歯がゆかった。
当麻の突拍子もない行動は、決して珍しくないのに、なぜ今回に限っていつもの気紛れだろう、と笑うことができないのか。征士にはわからなかった。
†††
征士と同居をはじめて半年も経って、生活にはとっくに慣れているというのに、ただ、当麻の心だけがどこか浮ついている。
それはあまりにもあっさり当麻に与えられたから。驚くぐらいあっという間に、穏やかで暖かい征士の空間の片隅に、当麻は足を踏み入れてしまった。だから、これ以上ないくらいに幸せで、嬉しいのに──その感覚にいつまでも慣れないでいる。
あんまりにも当たり前のように目の前にあるから、本当に自分のものなのかさえも信じられない。
確かに征士は、この暖かな空間の核にいるのに。
片隅でいいんだ。身に過ぎた幸せは、受け止めきれない。だから今だけは、ほんの片隅に居させてほしいと当麻は願う。
それで充分、幸せなのだと。
だから、戸惑わないで欲しい。
当麻の様子に気付いて、どうにかしたいと思ってくれているやさしい人に、伝えられないでいるけれど。そんなつまらないことに、心を痛めないで欲しかった。
幸せであることに、それを当たり前のように抱きしめて眠ることに、なんの躊躇が必要なのか。それができないでいるのは、己の心があまりにも貧しいからだと当麻は思っている。
なかなか馴染んでいかない自身に苛立ちすら覚えながら、 それでも頑なに一つの決意だけは心に刻んで、表面上は何事もなく時間だけ過ぎていく。
夕飯の買物なんていう、おそろしく家庭的なことをやっているのも自主的なものだ。
今は、どう考えても当麻の方が暇な時間が多そうだった。より正確には、時間をもぎ取ったと云った方がよかったかもしれなかったが。いずれにせよ、すべては征士といる時間を僅かさえも逃すことなくあさましく食い尽くしたくて、していることかもしれなかった。
ただ征士には美味しい物を食べてもらいたいのだ。外食ばかりじゃ栄養が偏るだろうし。まるで水滸の誰某が云いそうなことじゃないかと、言い訳じみた行動理由に苦笑しつつ買物袋を下げてマンションへ戻る道すがら、ふいに花屋の店先に置かれた赤い植物が目に止まった。
鮮やかな緋紅色と深い緑のコントラスト。
ポインセチア。
そんな名前だっただろうか?
ちらりと値札に目をやって、当麻の指先は財布に伸びた。
深くなにかを考えていたわけではなかった。ただ、欲しいと思った。クリスマスを強く主張する色彩を見つめながら、当麻の脳裏で今後約一ヶ月の行動が決まっていく。
はたして征士は、驚いてくれるだろうか。
†††
リビングに飾られたポインセチアは、十鉢を超えていた。
どれも萎れることなく元気な様を見ると、どうやら当麻がちゃんと世話をしているのだろう。
当麻は確かに機嫌がいいように見える。嬉々として鉢を買ってくるし、きちんと世話もしている。
ただその機嫌のよさに、征士には僅かに装いがあるように思えてならない。もっと一緒にいられたならもう少し判るのだろうが、今は忙しくて家を空けることも多かった。征士は今年大学四年で、年明けに卒論提出が控えているうえに、勉学以外にも家賃分を稼げるくらいのアルバイトもしていた。
このまま当麻に、何も聞かずにいてよいのだろうか。最近はそうでなくても当麻の世話になることが多いような気がする。食事も当麻が作ることの方が多いし、他の家事も気付けばやってくれている。柳生邸にいた頃は、当番のものさえ適当だったり、朝起きないでそのままサボってしまったりした当麻が、である。同居を始めた頃は当麻なりに気を遣っているのかもと思ったし、話もしたのだが嫌々していることでもなさそうだった。
でも、どう考えてもやはり征士のために無理をしているのではないか。征士は厳しい表情のまま、目の前の派手な植物へ視線を注いだ。
「ただいま〜」
暢気な声音と共に玄関のドアが開く。
「ああ、おかえり。私も今戻ったところだったのだ」
「そっか。今日はな、おいしそうな南瓜があったんだ。南瓜尽くしでいくぞぉ」
「そ、そうか」
「あと本日のニューフェース!」
言葉とともに当麻が床に置いたのは、背の高いやたら豪華な一鉢だった。これで十二鉢目になるのだろうか。
「ん〜、なかなか豪華だなぁ」
満足げに眺めやる姿に、少しだけ気になっていたことを征士は問いかけてみた。
「当麻、ひょっとしてポインセチアはこの倍まで増えるのか?」
「ん? その予定だけど。邪魔なら俺の部屋に置こうか?」
「いや、誰か客が来るわけでもないし、かまわんが。しかし、これはずいぶん高価そうだな」
「これは、『エッケスポイントフリーダム』のツリー仕立て。品種も仕立ても結構色々あるんだ。色も赤だけじゃなくて、ピンクとか黄色とか白なんかもあるし。でも値段的には高いのばかりじゃないぜ。これは豪華だからちょっと高かったけど、例えばテレビの上の小さな『みどりちゃん』なんかは近所で五百円だったし」
さらりと説明を聞き流していた征士は、当麻の口から飛び出たなんとも似あわない可愛らしい単語に引っかかった。
「み、みどりちゃんとは?」
「ほら、テレビの上の左の小さな鉢だよ。まだ緑の葉が多いから『みどりちゃん』」
「あ、ああ、名前だな」
「お前だって盆栽に名前つけてるじゃないか」
「……たしかに」
「あっちのどことなく凛々しい子が『ひかりちゃん』」
「…………」
どこが凛々しいのだろう、と悩む間もなく当麻の紹介は続く。
「あれが『れいちゃん』で向こうのが『すみれちゃん』」
「……ポインセチアの名前が『すみれ』というのも妙だぞ」
呆れたようにしていた征士だったが、唐突におかしくなってくすくすと笑い出した。
「そうだよなぁ。でもそろそろ名前がなくなってきてさー」
「『かみなりちゃん』なんてどうだ?」
「カワイクナイ」
「そうか? いい名だと思うが」
「そうかぁ? 『りんちゃん』のがカワイイぞ」
「りんちゃん?」
「光輪の『りん』ちゃん」
「なるほど」
笑いながら、バカみたいな会話をかわす。それだけでなんだか暖かくなるような気がする。せめて積み重ねていけたらいい、暖かな記憶を。
当麻の中の哀しみがなくなりはしなくても、思い出せないくらい奥底に沈ませることはひょっとしたらできるかもしれないから。
†††
暖房のきいた部屋の中にいても、素肌が晒された部分は寒い。身体の内側から燃えるような熱が去った後、少しの間はそれも心地よかったがすぐに寒さを感じるようになった。
「うわ、やっぱさむ」
ぴたりと征士に張りつくように当麻はすりよった。平熱は征士の方が当麻より少しだけ高い。
ぬくもりは、とても単純に何かを満たしてくれる気がする。触れ合った部分から征士の体温を感じて、当麻は知らず頬が緩むのを自覚した。
けれど、征士はどこか冴えない表情のまま身動ぎすらしない。
「……」
「……征士?」
征士の何かを考え込むような表情が気になって、当麻は意識して呼びかけた。
「……なんだ?」
「いや、何か悩み事かと思って」
その言葉に、征士はらしくない溜息を一つ吐いた。
「悩み事ではない」
「じゃ、何?」
「……今日家から電話があってな、往復を入れて三日間の予定だった帰省が、五日に延びてしまった」
すまない、と征士は小さく告げた。
「そっか。お前は大変だよな、色々と」
年末年始の帰省に関して、三日ほどは帰らねばならない、とすまなそうな顔で征士が告げたのが先月末のこと。予想はしていたから、落胆はしなかった。むしろ征士の家の事情を思えば、一週間ぐらい取られるのも仕方ないかと覚悟していたから、三日と聞いて驚いたくらいだった。ただ、その分クリスマスは一緒に過ごそうと思っただけだ。
だからそれが五日になったとしても、仕方のないことかもしれなかった。三日というのも征士がなんとか短くしようと留意して計らってくれた結果であるのは、聞くまでもなく判っていた。そう思えば冗談でも騒いだりはできなくて、当麻はごくまっとうに応えを返した。
征士は何か云いかけた唇を結局閉ざしたまま、宙を睨んでいる。ふるふると僅かに首が振られて、ゆっくりと再びその唇が開いた。
「……いっしょに、来るか?」
酷く優しい声に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
当麻は固まったまま、ただ征士の顔を凝視した。冗談や社交辞令では無論なかった。尤も征士が社交辞令など言うのを聞いた覚えなんてかつて一度だってないのだが。
そんな真剣な顔で、そんなにも優しい声であっさりと云えてしまうのか? また考えるような間が憎い。本当に色々考えたうえでの、本気の誘いとしかとれないじゃないか。
「……いや、その言葉だけで充分」
不覚にも言葉が掠れた。征士の言葉の、その言いあらわせないほどの重みに、酷く動揺した。
「……遠慮しなくてもいいのだぞ?」
それにかぶりを振って、当麻はベッドから起き上がった。
「シャワー浴びてくる」
溢れ出しそうなほど、告げたい言葉はある筈だった。でも感情だけで言葉にならない。こんな状態ではとてもまともに会話できないと判断して、当麻は浴室へ向かった。
蛇口を最大に開いて、水に近いほどの温度のシャワーに頭からあたる。
まだ頭の芯がクラクラしていた。陶酔するような痺れが麻薬か何かのように心地良い。たった一言に、こんなにも振り回されている自分が滑稽で、でもそれすらもどこかで喜んでいる。
なんてザマだ。
シャワーの温度が高すぎるからいけない。もっと冷たくしないと、いつまでたってもこの頭は浮かれたままだ。冷静にならなくてはいけない。温度調節を変え、当麻は祈るように目を閉じて冷たい水に打たれた。
征士は、ずるい。たった一言で全部もっていってしまう。常々適わない、適わないと思ってはいたが、たった一言に完敗とは些か情けない。当麻がどれほど征士を想って、彼の為に力を尽くそうとしても、その一言には適わないのだ。勝ち負けの問題ではないけれども──
皮膚は、既に水の冷たさを認識しなくなっていた。慣れてしまったのだろう。人間は、すぐに環境に適応できる生物だから。
こんなことには簡単に慣れるのにと、自嘲気味に低く笑って、当麻はシャワーを止めた。
髪をおざなりにタオルで拭きながら、リビングを歩く。征士には声だけかけて自室に戻ってしまおう、と当麻が思った矢先に、征士の部屋の扉が開いた。
「征士。お先!」
顔を合わせたくなかった、と内心舌打ちしながら当麻は征士の前を通りすぎようとした。
「当麻?」
征士にしてみたら、反射的な行動だったのだろう。しっかりと手首を掴まれて、当麻は鋭く睨まれた。
「真冬の夜中に水浴びか?」
「いいから、お前も入ってこいよ」
腕を振り払って、当麻はいつになく抑揚のない声で返した。
「何を云っている。風邪を引きたいのか? そんな青い顔をして!」
「水がよかったんだよ。風邪引くほど長く浴びてない」
「……私はそんなに気に障るようなことを云ったか?」
さぞかし理不尽に思っているだろうに、それでもなお当麻を気遣うような征士の声音に、罪悪感が沸いてくる。
「お前は悪くない。さっきの言葉が気休めでも冗談でもないのも判ってるよ。俺が勝手に、動揺してるだけだ。気にしなくていい」
「……すまない。だが、決していい加減な気持ちでは、」
「だから、判ってる。でもな、本気だからかえって困る。俺は馬鹿だから、簡単にのぼせちまう」
青く冷たい瞳を眇めて、当麻はさっき振り払った腕をつかまえた。
「馬鹿な男をあんまり煽んなよ」
追い詰めるようにして唇を奪った。深くすべてを引き摺り出すように唇を求める。強い視線が至近距離から射抜くように当麻を見ている。ぞわぞわと煽られていく感覚に任せて、そのままソファーに身体を倒した。
「……わかるかと思ったのだ。少しでも多く一緒にいれば」
征士は抵抗するでもなく、ぽつりと云った。
「何を?」
「……お前が」
「どこをわかってないって? お前ほど俺を識ってる奴なんて他にいないよ。隠しておきたいことまでぜんぶ曝け出してる。みっとないことも、カッコ悪いことも、お前にはお見通しだろうが?」
吐き捨てるような強い語調に、どこか諦めたような眼差しがひどく征士の胸に突き刺さった。
「そうでもない。例えば──お前がなぜポインセチアを買ってくるのか、なんて問いにさえ私には答えられない」
すぐ近くの緋紅色の植物を見てから、征士は再び当麻へと視線を戻す。
「……そんなの俺にだって答えられない」
「では、なぜポインセチアなのだ? たとえばシクラメンも赤いし、他にも今の季節は色々あるだろう?」
「そうだな。でもオレはこの物騒な紅がいい」
唇の端を歪めた笑いが、当麻の面にどこか好戦的な表情を作り出していた。思わず見惚れそうになって、征士はさりげなく視線を逸らした。
ふいに視線を泳がせた征士の顔がかわいく見えて、当麻はふっと笑った。間近の紅の花──正確には葉の一部だが──に、初志を思い出す。
「……買ってくるのにご大層な理由なんてない。ただ一緒にクリスマスを過ごしたかっただけだって。今のも俺の一方的な我侭。悪かったって」
ぽんぽんと征士の肩を叩いて、当麻は静かに立ち上がった。征士は、まだ釈然としない顔つきのまま問いかけてきた。
「……クリスマスは家で過ごすのか?」
「そのつもりだけど」
「そうか。やけに予定を聞くからてっきりどこかへ出かけるのかと思っていたが。私は何をしたらいいだろう?」
「ん? いいよ。征士、卒論大詰めだろう? 頑張ってよ」
「だが、お前一人では大変ではないか?」
「いや、結構楽しいから大丈夫」
「そうか、なら頼む」
頷きながらも、征士の顔はまだ少し曇ったままだ。
間違えてしまっただろうか。当麻は、塞がりかけた傷口が開くような痛みがどこからか湧いてくるのを、当然の報いとして受けとめた。
しなやかな動きで浴室へ向かう征士の後ろ姿にかける言葉もなく、気分を切り替えるように頭を振る。まだまだやれることはあるのだから。
†††
土曜日、午前九時。
一本の電話に、毛利伸は珍しく絶句した。
伸が咄嗟の相槌も返せないほどの驚かされるなんて、めったにないことだったのだ。
一人きりの簡単な朝食を終えたところで、その電話は鳴った。
「おはよー、伸ちゃん、元気?」
ハイテンションな声に、伸は眉を顰める。
「……当麻? どうしたんだい? こんな時間から。もしかして徹夜明けかい?」
「うーん、ご明答! ちょっと伸ちゃんにオネガイがあるんだな〜」
「……あんまり聞きたくないなぁ」
「えー、そんなこと云わんと! お前の得意分野のことだしさ!」
なんだか上機嫌らしい当麻の声に、伸は苦笑しながら折れてやった。
「しょーがないね。聞くだけは聞いてあげるよ」
「やった、やさしー」
「おだててもダメだよ、とりあえず云うだけ云ってみなよ」
「あのな、ケーキの焼き方教えて欲しいんだけど、今日暇?」
「…………」
たっぷり三十秒の空白。
「都合悪いか?」
重ねて当麻の声。
主語が判らない。否、判りたくない。
「……誰が焼くって? キミの彼女かなんか?」
聞きながら、嫌な予感が背筋を伝い降りていた。
「俺。」
無情にも判りたくない事実を突きつける声に、伸は再び沈黙した。
「…………」
「……なんだよ、俺が焼いちゃ悪いのか? 横浜まで行くって云ってんだから、教えてくれよ、けち。あ、なんなら味見して何が足りないか教えてくれるだけでもいいからさー、どうも一味足らないんだよー。さてはお前、水滸エキスでも入れてるな! 隠してないで教えろ〜! もしくは、お前の愛用のレシピくれるとかでもいいからさ!」
沈黙の間にここぞとばかりに騒ぎたてる当麻の声と内容に、本気で頭痛がしてくる。断ったって、きっと押しかけてくるに違いない。そんな勢いだ。根負けしたように伸は承諾した。
「誰も教えないなんて云ってないだろ、今日あいてるよ。早めにおいで。夜は出かけちゃうから」
「やった、サンキュ!」
伸のイエスを聞くなり、電話は切られた。
その後伸は、きっかり一時間後にやってきた当麻が試しに焼いてみたというケーキを見て、二度目の絶句を余儀なくされた。
当麻の焼いてきたケーキは、どこからどう見ても「ブッシュ・ド・ノエル」だったのだ。若葉マークの作るケーキでは全然ない。
「小麦粉も砂糖も国産優良品だし、卵だって有精卵だし、チョコはスイス製だし、何がいけないんだろう」とまともな顔で問われて、伸は一瞬、これは当麻の皮を被った偽者に違いない、なんてことを本気で考えてしまったのだった。
結局夕方まで居座った当麻は、伸のレシピをゲットして納得したように頷いている。伸はなんだかすっかり調子を狂わされていた。まったく当麻と料理の話をするなんて今まで思ってもみなかったのだ。
けれど、「何か企んでるね?」と聞いた伸に、思いもよらないほど穏やかな笑いが返ってきたので、詳しくは聞きそびれてしまっていた。ちゃっかり他にも色々と頼みごとをして、当麻はさっさと帰り支度をしている。まったく現金な、と思った時。
「秀によろしくな〜」
と、不意打ちみたいなタイミングで当麻は振り返って、嫌味でも皮肉でもなく純粋に幸せを喜ぶように嬉しそうに笑った。伸は咄嗟に言葉が返せなくて、辛うじて頷いてみせた。夜に誰と会うなんて、一言も云っていなかったのに。なんだか判っているような顔をしている、とぼんやり伸は感じた。
「焼き加減、気をつけてね!」
「ああ、ホントありがとな〜!」
ひらひらと左手を振って、台風みたいな男が去っていく。当麻は当麻なりに、色々と成長しているらしい。伸はどこがどうとは云えないくらいに些細な変化を当麻の中に見つけて、少しだけ安堵していた。きっと、征士と一緒に暮らすようになって、良い影響を受けているのだろう。友達であれ、恋人であれ、どうせなら自分もまた良い影響を与えられる人間でありたい、そんなことを今更のように思った。
†††
12月24日。征士は、七面鳥を取りに車で横浜まで出かけていた。
秀の伝手で入手した七面鳥を伸が焼いてくれたのだと当麻に聞き、何だか追い出されるようにして家を出たのが午前の話。伸のマンションでは「たれ」をもう少し煮詰めるまで待ってくれと云われ、優雅に紅茶など頂いてしまった。
すぐに戻るつもりが、そんなこんなで家に着く頃には夕方になっていた。
「征士!」
マンションの裏手にある駐車場へ戻ってくるなり、征士は上方から呼ばれた。
「……当麻?」
視線を巡らせた先、裏口の非常階段の途中に当麻はいた。
「あー、ここで会えてよかった〜」
残り半分ほどを降りるのが面倒だったらしく、当麻の身体は一気に宙へ浮いた。ボタンの止まっていないコートを翻しながら、僅かにバランスを崩すことすらなく着地する。当麻の纏う色が、征士の瞳に焼き付くほどの残像を残す。そのとても鮮やかな紅が、男がまるで今地に降り立ったばかりのサンタクロースであるかのような淡い錯覚を起こさせた。
まっすぐに向けられる藍碧の眼差しを苦笑混じりに見つめながら、征士は他愛もない連想を打ち消す。
「トナカイもおらんしな」
「は?」
ぽつりと呟いた声が少し聞こえたようだった。駆け寄ってきた当麻は一瞬妙な顔をした。
「いや、派手なコートだと思っただけだ」
「ほらほら、クリスマスだしさ〜」
「お前、赤は似合わんな」
「なんだよ〜。サンタさんみたいでカワイイでしょ〜が! お前だって派手って云ったら派手だぞー。車でよかったなー。そんなカッコで一人で電車に乗ってたら、キレイなお姉さんに攫われちまうって」
仕返しとばかりに軽い揶揄が返る。今日は、征士も珍しく真っ白のコートを着ていたのだ。
「……五月が送りつけてきたのだ。おかしいだろうか?」
「何云ってんだ。お前のは、『似合いすぎ』」
呆れたように当麻が笑う。やっぱり家族の見る目は確かだな、などと感心したように頷かれた。
「そうか? それより随分急いでいたようだがどうかしたのか?」
「悪い、買い忘れ、酒屋つきあって、酒屋。クリスマス用に酒買ってないんだよー、俺としたことが!」
家に酒が全くないわけではない。日本酒もビールもまだ結構ある。尤もどれだけあっても二人で飲むので、あっという間なのだが。
「後でドンペリを開けよう。今日はぴったりだな」
「えっ、征士のコレクションにあったのか? 日本酒だけかと思ってた」
目を丸くする当麻に、征士は苦笑する。
「……一本貰い物がある」
「ラッキー。じゃシャンパンはそれでいいとして、ワインを何本か買っとくかなぁ」
話しながら当麻が促すままに、近くの酒屋へと歩き出す。
「そうだな。しかし、今はなんだって裏口からなど降りてきたのだ?」
「あ? そりゃ勿論、お前と擦れ違いにならないようにだよ。こっちの道から帰ってくるのは判ってるんだし」
「私に用があるわけじゃないな。朝の態度といい、部屋に入ってはいけないのか?」
「一人じゃダメ。意味が無い」
妙にきっぱりと当麻は云い切った。
「なんだ、それは」
「オレと一緒にかえろーな」
紛れもなくいつもの軽いトーンの当麻の声だったのに、征士はなぜだか少し切なくなった。きっと当麻はこんな感覚を、あまり知らない。帰った家に待っていてくれる人がいるとか、一人でできないわけじゃない些細なことを、近しい人と共にする胸がくすぐったくなるような感覚だとか。おそらく普通の子供たちが当然のように甘受しているそんな感覚を、実感したことが殆どないのだろうと思えた。
「……じゃあ、そうしよう」
知らず優しく響いた肯定の音に、当麻は驚いたように征士を見つめて、微かに笑って視線を戻した。
紅白のコートを纏った二人には、いつも以上に向けられる他人の視線が多かったような気がしたものの、目的の酒を数本買って帰途についた。
「やっぱり、その赤が目立つのだな。人寄せパンダのようだったぞ」
「お前なぁ、お前だって指差されてキャーキャー言われてたじゃないか」
「……ケーキ屋の前を通ったのがいけなかったな」
「んー、まぁどこ歩いてもお前は目立つって」
「貴様に云われたくはないぞ」
「ほらほら、俺ら背もあるからさー。仕方ないって」
「紅白で歩いていては、確かにな……。お前など信号機のようだぞ」
「な、なんだとぉ〜」
漫才のような会話を交わしながら、二人肩を並べて歩く。
一年で一番日が短いこの時期、その頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。人通りのない裏道で、当麻はそっと手をつないだ。その気配を驚きもせずに受けとめて、征士は少し冷たい指先を握り返した。
なにかが流れ込んでくるような感覚が失われるのが惜しくて、互いにしばらくそのまま歩いた。
「星が綺麗だなぁ〜」
当麻が、真上を見上げながら呟く声がする。夜空にひろがる淡い光の群。
「ほんとうだな」
歩みの速度に合わせてついてくる星々は、まるで当麻を追いかけているようにも見える。
星も連れて、いっしょに帰ろう。
同じ何かを共有しているようなこの気持ちは、征士だけの思いではないはずだから。
「征士、目隠ししていい?」
マンションの自室の前にくるなり、当麻は云った。
「……なんだというのだ。まったく。隠さんでも目を閉じていればいいのだろう?」
「そうだけど。薄目で覗くなよ」
「貴様と一緒にするな、失敬な」
部屋の扉の前でせがまれて、征士は渋々目を閉じた。
「そうそう。ちょっとだけだからさ。あ、荷物持つよ」
「いいから早くしてくれ」
「もうちょっとだって」
鍵を開けて、室内へと促される。
僅かな物音の後、当麻の声が静かに響いた。
「いいよ」
わくわくするような緊張が胸を走っていた。すっかり当麻に踊らされている。それに気づいて、征士は小さく笑った。
そうして目を開けた先にひろがっている光景に、征士は刹那そこが己の部屋であるということさえ忘れて立ち尽くした。
室内を満たす暖かな光。
目に優しい色の数多のライトから小さな光が灯り、溢れる紅の植物と一際目立つクリスマスツリーを飾っていた。
テーブルの上には、写真で見るようなご馳走が乗っている。
「メリークリスマス!」
ぽんっと一つクラッカーを鳴らして、当麻が今日何度目かの言葉を投げかけてきた。優しい眼差しが、征士の挙動を見守っている。
ああ、そうなのか──
唐突に征士はわかった気がした。当麻が本当に欲しかったものを。ポインセチアを何故買ってくるのか、などと、なんて愚かな質問をしたのだろう。
すべて、このためだったのだ。
ふいにすとんとそれを納得して、とても胸が熱くなる。
動悸が激しい。今頃やっと気付くなんて。
きっと、当麻はこの部屋すべてが欲しかったのだ。中にいる人間ごと。
それで征士と二人で過ごす空間を、作ってくれたのだ。
こんなにもあたたかな────
「なに、ぼーっとしちゃって。借景こみでぜ〜んぶ、プレゼント! ついでにオレもつけちゃえ〜なーんてな!」
ふざけるような台詞とともに、窺うような瞳が立ち尽くす征士をどこか不安そうに見ている。
「当麻、わかった」
なんて、愚かだったのだろう。
「ありがとう」
知らず言葉が掠れていた。脳が命令を下すよりも早く、征士の腕は当麻の身体を抱きしめていた。
「それから、すまない。気づいてやれなくて」
人は同じものを同じように感じられるわけではない。そんなことは当たり前のことなのに。
涙が出そうなほど、感情を揺さぶられていた。心臓の鼓動が、当麻には聞こえてしまうかもしれない。
「お前は、悪くないだろ」
征士の衝動を驚いたように受けとめていた当麻が、その掌でゆっくりと背をさする。
「征士は気前よすぎるくらいだ。俺の欲しいものをなんでもくれるから、勘違いしそうになっちゃうくらい。俺はさ、今の俺が幸せだってことを誰よりもよく識ってる。もうそれでいいと思うんだ」
「……本当に、そうか?」
「ああ。たしかにさ、貧乏人が不相応な宝石を手にしたみたいな気分だったんだけど。ふっと思ったんだ。そうだとしても、そばに居ることが当たり前になりすぎて、何も感じられなくなっちまうよりは、全然いい気がするってな」
「……それはそうかもしれんな」
「永遠に一緒にいることの確証なんて、誰との間でも得られない。それは普遍的なことだ。だったら大きさは違えど、失われるかもしれない不安は誰もが持ってるわけだよな。それならば、俺は心の中で例えどんなにみっともなく怯えていようと、お前の存在に感謝したままでいたいと思う。そんな気持ちがなくなることの方がよほど恐ろしいと気付いたから」
気づけば互いに真摯に見つめ合っていた。話し終えた当麻が緩やかに唇を寄せてくる。触れるだけの口づけに、どこか誓いを交わすような重みが感じられた。
征士の胸の中は、あたたかい青い炎が燃えているようだった。
とても、言葉にならない。沸き起こるこのしなやかな衝動を、簡単な言の葉には置きかえられない。
「気前がいいのは、お前のほうだ」
どれほどのものを当麻に与えてこられたのかなんて、征士には他と比較することさえできない。でも、いまは思う。
それがどれだけのものであったとしても、今のこの感情を超えるほどではないに違いないと。
「え?」
「ぜんぶ、もっていけ。それでもとても、足りないと思う」
「征士?」
「お前はずっとからっぽだったから、慣れないだけだ。大丈夫だから。だから、私にやれるものなら全部やる。ぜんぶ、もっていけ」
笑ってみせたかったのに、視界が僅かに霞んでしまう。紅いポインセチアの影が揺れている。
駄目だ。意識して瞳を見開いて、征士は天を仰いだ。
「なに云ってんだよ。いつだって、どんなときだって、俺はお前に与えられてばかりだ。今日くらい、全面的にお前に何かしてやりたいと思ってたのに。結局俺に返ってくるんだから。だから、──お前に適わないのは、もう諦めたよ」
切なそうな当麻の声が、胸に強く響いた。
「……私が、なにをしたというのだ」
責めるような響きを持ってしまった問いに、当麻は愉快そうに笑った。
「お前はいつだって、おれにいろんなものをくれるんだ。数え切れないくらいだ。だから、そう思って納得してよ」
なんだか幸せそうに笑う当麻に、それ以上聞けなくなってしまっていた。でも、当麻が笑うなら、それでいいのかもしれない。征士一人が、満たされた気分でいるわけでないのなら。
今日は同じ幸福を、あたためていよう。きっと、そう思っていいのだろう。
「さ、話はこの辺にして、食おうぜ! 俺、昼間から何も食ってないんだよ。ターキーも来たし!」
「一人で準備していたらそうだろう。私が手伝ったってよかったのではないか?」
「駄目だって。サンタのプレゼントは、ギリギリまで内緒なもんだぜ?」
「このツリーはどうしたんだ? 二メートルはあるだろう?」
ツリーに近付いてみたら身長180の征士の背丈よりもまだ高い。
「ん、通販」
「……なるほどな」
秘蔵のドンペリを探し出し、征士は昨日までなかったツリーを見やった。天井に届きそうな高さのツリーは、暫く見た覚えがないくらいに立派なものだったのだ。
その後、テーブルに並ぶ料理の殆どが当麻の手作りであったことに征士は再び驚かされ、デザートの「ブッシュ・ド・ノエル」を見た時には、思わずまじまじと顔を見つめてしまった。
「これも、お前が?」
「そう。なかなか力作だろー。水滸さんの指導が入ってるから味は保証するぞ」
「どうも伸が訳知り顔をしていると思ったらそういうことか」
「いやー、おかげで面白いもん見ちゃったよ」
「なんだ?」
「毛利伸の絶句に二度も立ち会っちゃったもんな。一度は電話だったけど」
「……そうか」
まぁ、今までの当麻を知っていて絶句しない者はいないだろう、と征士も思う。
「ま、半分以上自己満足だけどさ」
照れたように当麻が笑う。
「いや、ありがとう。とても、おいしい。チョコレートはビターにしてくれたのだな」
「あんまり甘いと駄目だろ、お前」
緋紅色の彩りに囲まれて、暖かな料理を食べる。
たぶんこんな幸せは、そうないだろう。
こんなふうに、当麻と共にすごすクリスマスを、あと何度迎えることができるのだろうか。当麻もきっとそれを考えたのだろう。互いにクリスチャンでもなんでもないけれど、この聖なる日に共に居られたならば、それは嬉しい。純粋にそう感じた。
後片付けの後、二人はソファーに座っていた。
征士は改めてリビングを見渡す。24鉢のポインセチアと2メートルのツリーが、リビングの半分近くを占拠している。
「当麻、一応聞いておきたいのだが、植物はこのままか?」
「ん? 考えてなかったなー」
「……そうか」
「たまにはさ、先のことを考えないで動いてみてもいいだろ」
意味有り気に、強い視線が向けられる。
先のことを考えていたら懐けない思いもある。当麻の云いたいことは判っていた。
「……その云い方では日頃はずいぶんと先のことまで考えているようだな、中央突破の智将殿」
だが、つい口を滑りでた皮肉に、当麻はなんとも嫌そうに眉をしかめた。
「……わかったって。ある程度俺の部屋に引き取るよ」
「捨てるぐらいならば、このままでいいからな」
「ハイハイ、判ってますって」
当麻はぼやくように生返事をする。
「……なぁ、重くなったら云えよ」
その延長でぽつりと呟かれた言葉に、征士はさすがにその意味を掴みかねて一呼吸間をおいた。当麻の瞳は、酔ったように揺らぐふりをしていた。でも、その奥の光が鈍っていないことまでは隠しきれていない。
「……生憎だが、重いものはかつぎ慣れている。今更びくともしない
そうして勝手に唇は、言葉を紡ぎ出していた。
すべて、当麻に引き出されていく。知らなかった感情、知らなかった衝動。それでも征士は揺らがずに、しなやかに強くあれたらいいと願う。
「お前はどうなのだ?」
「俺は全然余裕。お前と違って要領いいからね。必要のないものは一時捨ててでも、持っていたいものはかついでく。支えてやる。俺らしくていいだろう?」
冗談めいた口調から、本音がこぼれる。征士は、今日になってようやく、当麻の心を垣間見ることができたような気がしていた。
「そうだな」
「じゃ、もう一度乾杯しよう」
まだ半分以上残っていた一本のワインの瓶を片手に、当麻がグラスを差し出してくる。
「今日このひとときを、共に居られることに感謝をこめて」
「メリークリスマス!」
軽く触れ合わせたグラスから、心に染み入るような音色が響いて、暖かな部屋へと溶けていった。
ENDE
初出 2001.12発行「緑の行方」
無駄に長い話でしたね(^^;)。見返すとやっぱり粗がいっぱいでお恥ずかしい限りですが、手入れしてるとアップできなくなるので、ひとまずあげておきます。これを書いたときは、非常に珍しく文章化作業が楽しかったことだけ覚えています。あ、終わり際の二人のコートの色は、表紙のイラストを見てから書きました(笑)。バカップル会話も大好き(笑)
色々な影響が入ってきている頃だったんですが、まぁこの話も「青の行方」に続いていくのに必要だったかなぁと漠然と思っています。年表みたいにどこにどの話がくると計算してあるわけじゃないんですけれども、とりあえず同じ二人かな、という感じです。
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